当事者以外が語る「ニ・ニ六事件」

 まずは、清水俊二(1906-88)の回想を引こう。当時は数えで三十一歳であった。

 昭和十一年二月二十六日、前の晩につもった雪の中を荻窪駅まで歩いて行く途中、陸軍教育総監渡辺錠太郎の邸の前を通った。父に教えられて、その家が渡辺邸であることを知っていた。市ヶ谷から黄バスに乗り換え、いまの日本テレビの前を通って、麹町の大通りを横切り、いつもは永田町から内幸町の大阪商船ビルの前に出るのだが、その朝はバスが赤坂から田村町に迂回、いまの日比谷シティのあたりで降ろされた。

 バスを降りると、雪がまっ白に降りつもっていて、帝国ホテルのあたりまで人通りがなく、武装した兵士が銃剣をかまえて立っていた。機関銃座がいくつも組まれていて、あたりの空気がよけい冷たく感じられた。

 すぐそこの大阪商船ビルに会社があるのだが、というと、緊張した表情の兵士が一言もものをいわずに顔を横に向けて指図をして、通らせてくれた。ビルのなかはべつに変わったこともなく、エレベーターも動いていた。(略)

 いまとちがい、なかなか情報が入らない。ラジオも、新聞も、報道の自由を持っていなかった時代だ。東京の陸軍部隊がクーデターを起こしたのだとわかるまでにだいぶ時間がかかった。(『映画字幕五十年』ハヤカワ文庫NF1987:194-95)

 村上一郎(1920-75)は清水よりもずっと夭く、当時はまだ血気盛んな十七歳だったが、「親戚にあたるある人物が(略)内閣の末に列していた」という自身の「人脈」、住んでいた「宇都宮はなによりも"軍都"であった」(以上、「私抄“ニ・ニ六事件”」『北一輝論』角川文庫1976所収:157)という「地の利」を活かして、関係者から早くも事件の内容を聞き出している。

 わたしが中学二年から三年になろうとする年の二月、あの誰でもが覚えている大雪の日、宇都宮の歩兵第五十九連隊を基幹とする第十四師団は、ガラガラと砲車を曳きながら、見送る群衆もなしに、出勤して行った。ニ・二六事件である。

 わたしは友人と二人、裁判所前で、頬をひきつらせた兵たちの行軍の有様を見た。それらの兵たちは、かつて満洲事変や上海事変に出征して行った時に見送った兵たち以上に緊張して見えた。下手をすれば内戦になる――と誰しもが直感していたのであったろう。

 わたしの家にはラジオがなく、新聞は二十七日の昼近くまで配達されなかったから、すぐに軍人の子弟や警官の子弟の間を駆けめぐって情報を集めにかかった。桜少年団以来の後輩である水野が一番よいアンテナであった。まず、彼の家の電話を借り、内田の叔父の邸に長距離電話を入れた。むろんダイヤル式なんぞではない時代で、かつ電話は入り乱れているから、なかなか通じない。わたしは水野と寒い玄関に対座して、一時間たっても通じない電話にいらいらしながら、水野の知っている限りの事件内容を聞き出した。水野のいうところでは、蹶起したのは、歩兵第一連隊および第三連隊らしく、いまの天皇陛下は軟弱で親欧米の重臣のいうがままだから、弘前の連隊にいる秩父宮さまを天皇にするのだ、という。(略)これは大したことになったと、水野の話を聴いてみると第十四師団内にも、蹶起部隊に同情的な軍人がおり、某参謀は昨夜から所在が不明で、おそらく蹶起部隊に連絡すべく独断で上京したのではないか、と見られており、師団長も困っているらしいのだという。(略)

 電話は、やっと通じた。雑音が入って、とぎれとぎれではあったが、内田の叔父は早朝に首相官邸が襲撃を受けているとの電話連絡を受け、寝衣のまま自家用車で窪田の伯父の邸まで逃げ、歩兵第一連隊が近いから、検問は受けたがどうやら突破し、窪田の邸で礼服を借り、参内したとのことであった。(略)叔父は財閥にもかかわり深く、かつかつては犬養毅翁を政友会総裁ひいては総理大臣にかつぎ出し、近くは岡田啓介大将を総理大臣にした企図にも関わっている。それに陸軍とはあまり仲よくなくて、海軍びいきである。殺られる要因は充分にある。(略)

 翌日であったか、他のアンテナから情報が入り、第十四師団は戒厳司令部の掌握下に入り、赤坂だか四谷だかの警備に就いた、ということであった。そしてもっとも恐れられた、蹶起部隊の宮城占領も、放送局占領もなされなかった。秩父宮も、上京・参内はされたが、蹶起部隊には接触せしめられずに終った、と聞いた。もっとも一説では、宮が、蹶起部隊をはじめから叛逆者扱いしていた天皇と激論に及んだ、という話もあったが、確かめようもなかった。(『振りさけ見れば』而立書房1975:88-90)

 辻邦生(1925-99)は村上よりもさらに夭くて十二歳だったが、間近で事件を目撃している。

 子供の頃の雪で忘れられないのは、二・ニ六事件の日の雪だ。その当時、東京郊外だった東中野に住んでいて、そこから省線(JR)で赤坂小学校に通っていた。四ッ谷から雪の紀伊国坂を下りてくると、御所の前に土嚢が積まれ、剣付き鉄砲で武装した兵隊たちが興奮した様子で警備していた。

 小学校の校舎は、叛乱軍の占拠した山王ホテルと料亭幸楽に近く、当時家並みが低かったので、窓から、雪に覆われた屋根越しに直接その建物が見えた。

 廊下の窓際にも土嚢が積まれ、鉄砲を持った兵隊たちが血走った目で山王ホテルのほうを睨んでいた。その日は学校が午前中で休みになり、私は雪の道を暗い重い気持で四ッ谷駅まで帰ったことを覚えている。翌日は電車も停まったはずである。(「記憶のなかにつもる雪」『生きて愛するために』中公文庫2009改版:31-32)

 辻が「暗い重い気持で」帰途に就いたのとは逆に、事件の発生翌日、それを明るい心持ちで眺めていたのが、後に転向する林健太郎(1913-2004)である。当時二十四歳。

  明けて昭十一年、この日は特に雪の多い冬であった。二月の初めに記録的な大雪が降って、多くのサラリーマンが家に帰れなくなりまた職場に泊まったなどという珍しいことがあった。ところがこの同じ二月にまた大雪が降って、その雪の中の払暁に起こったのがニ・ニ六事件である。(略)

 この日は朝からのラジオ放送で何か異常な出来事の起こったことがわかり、やがてその事実も逐次報道された。私はいよいよファッショ革命(当時の言い方では反革命)が起こったかと興味津々たるものがあり、翌日弥次馬根性で見物に出かけた。どこをどう歩いたか、今では記憶があまり明確ではないが、ともかく叛乱軍の兵士らしきものが警備についている有り様を少し離れたところから観察して引き返した。積雪の街の上にどんよりとした曇り空が広がって寒かったが、私の心は妙に明るかった。当時の私の考え方からすれば、こういう「ブルジョアジー」内部の抗争は資本主義体制を弱化するものであるから歓迎すべきことだったのである。(『昭和史と私』文春学藝ライブラリー2018:103-04)

映画字幕(スーパー)五十年 (ハヤカワ文庫NF)

映画字幕(スーパー)五十年 (ハヤカワ文庫NF)

 
振りさけ見れば

振りさけ見れば

 
生きて愛するために (中公文庫)

生きて愛するために (中公文庫)

 
昭和史と私 (文春学藝ライブラリー)

昭和史と私 (文春学藝ライブラリー)

 

和田芳恵『一葉の日記』

 和田芳恵『一葉の日記』(福武文庫1986)を購ってから、すでに持っていた和田芳恵樋口一葉伝』(新潮文庫1960)*1と同内容であることを知り*2、ちょっとがっかりしたが、福武文庫版には野口碩氏による「補注」が附いていて、これによって原著の過誤が訂されており、やはり買っておいてよかったとも思った。

 たとえば、新潮文庫版に「樋口(則義一家―引用者)が住んでいた本郷六丁目五番地の突きあたりに法泉寺という寺があった」(p.27)とあるところ、福武文庫版の当該箇所は「…法真寺という寺があった」(p.28)となっているのだが、ここに注釈が附き、 

  原文は「法泉寺」。馬場孤蝶が「一葉全集の末に」の中で、「ゆく雲」のモデルに言及して「法泉寺」と書き、「樋口一葉君略伝」でも「九年家を本郷六丁目(大学前)法泉寺の南隣に移す」と記したため、和田氏も「法泉寺」としたが、講談社現代新書の『樋口一葉』で訂正された。一葉達は本郷六丁目五番地に住んだが、法真寺は六番地であった。浄土宗で松浦松月和尚が住職。講談社現代新書では、その息子(養子)を「たけくらべ」の信如のモデルと想定している。(p.345)

と野口氏が巻末の補注で記している。この他にも、たとえば「この頃(明治二十三年頃―引用者)、旧東京美術学校の構内の位置に、上野図書館があった」(福武文庫版p.75)の「上野図書館」に注釈が附いており、 

 正確には東京図書館といい、現・東京芸術大学美術学部の構内にあった。木造二階建ての閲覧室一棟と煉瓦造りの書庫二棟から成り、一回二銭の入場料を支払った。当時の蔵書は大部分現在の国立国会図書館に移管されている。婦人閲覧席は、一般閲覧席とは別に二階に設けられていた。(p.350)

 と説いていたりするし、あるいはまた、和田の誤解や臆断などもきちんと指摘してくれているので、しろうとにとっては有難いことである。

 常盤新平は、新潮文庫版によってこの『一葉の日記』に親しんだようで、1995年9月5日付朝日新聞夕刊の「心の書」というコーナーで、次のように書いている(そこでは書誌に《和田芳恵著(福武文庫)》とあるが、これは、当時新本で入手できたのが福武文庫版のみだったからだろう)。 

  『一葉の日記』の初版は昭和三十一年である。これが文庫になったとき、はじめて読んで感動した。昭和三十六年のことだから、三十四年前だ。樋口一葉の日記を読まずして、和田芳恵のこの一葉伝で「いつも庶民のなかにゐた」一葉の世界を知った。一葉に肉薄した和田芳恵の作品を愛読するようにもなった。

 『一葉の日記』を二年おきに、あるいは三年おきに読むのは、ほかに類をみない迫力にみちた伝記であるからだ。一葉の日記を通して和田さんは一葉が生きた日々を再現している。一葉と、彼女が生きた明治という時代がはっきりと見えてくる。この伝記に二十年の歳月をかけた、その重みがなんどでも読ませる。

 『一葉の日記』はたまたま書店の文庫の棚で目にはいって読んでみたのだった。これはじつに幸運なことだったと思う。きれいごとなど一つもないが、優しい伝記だ。ときどき和田芳恵の告白と吐息が聞えてきくるようで、そこがまた凄い。 

 ちなみに和田は、『一葉の日記』を書くのに約1年かけたらしい。『和田芳惠 自伝抄』(非売品1977)*3によると、次のようである。  

 土井一正(筑摩書房の当時の編集長―引用者)の言葉に感動して、私は、半年で終わるはずの『一葉全集』(塩田良平と共編、全七巻)を終えるまでに足掛け五年かかり、昭和三十一年の六月に完了した。私は、この五年間、山梨県の大菩薩の山麓に近い中萩原村を中心に、一葉の祖先のあとを調べていた。書きおろしで書けば、五千部は出版してくれるという約束であった。私は、この四百字七百枚ほどの原稿『一葉の日記』を書くのに、一年かかった。編集費が安いので、その少しの穴埋めだと土井編集長が言ったのに、内容がむずかしいので、二千部しか出せないという。私は、はげしい怒りがこみあげてきて、「そんなら、五百部でいい」と言い、編集長は「五百部では、ページあたりの組み賃がたかすぎて……」、「限定版なら、全国で五百部は、はけるというが……」

 これが五年間、いっしょに苦労をわかちあった二人の最後か、と私は思ったが、土井編集長も同じことを考えたにちがいない。三千部ということで、妥協したが、この『一葉の日記』で芸術院賞を受けた。(pp.49-50)

  なお『一葉の日記』には、戦中版、戦後版の二つの版があるらしい。 

  私は『樋口一葉』という単行本を、五冊だしていた。題名が、みな『樋口一葉』なので、最初に書いた一冊の増補改訂版と受けとられがちだが、それぞれ新しい研究や調査資料を使って、新しい観点から書きおろしたものである。この本のなかで、自分のあやまりを直したり、また、相手の論敵と一戦をまじえて、たがいに刺しちがえたこともあった。一葉の日記をもとに伝記ふうにまとめた仕事も、戦中、戦後の二度にわたって書きおろしたものだった。(『自伝抄』p.4)

 戦中版のほうは、福武文庫版のカバ袖に「1943年、本書の前身となった「樋口一葉の日記」を刊行」とあるその「樋口一葉の日記」を指す。こちらは「今日の問題社」から出ている。野口氏の補注には、 

  今日の問題社版『樋口一葉の日記』が書き下ろされた時は、これら(樋口家に蔵されていた「日記」の一部と、「厖大な詠草資料」のこと―引用者)の知識を欠く、新世社版全集の水準で「日記」が論じられたため、「十六歳から十九歳まで」はなく、「二十際の日記」から始められた。久保木家の周辺や松岡徳善等も当時は全く着手されていなかった。「身のふる衣まきのいち」の稿本を和田氏は見ていない(p.344)

 云々、とある。 

一葉の日記 (福武文庫)

一葉の日記 (福武文庫)

  
樋口一葉伝―一葉の日記 (1960年) (新潮文庫)

樋口一葉伝―一葉の日記 (1960年) (新潮文庫)

 

*1:手許にあるのは1972年刊の第十一刷。

*2:そう云えば後者には、扉の副題として、「一葉の日記」とあったのだ。

*3:讀賣新聞」昭和五十二(1977)年8月9~31日付掲載記事をまとめたもの。

「春寒」と渡辺温のこと

 東雅夫氏は、これまで学研M文庫やちくま文庫創元推理文庫等で、作家別のあるいはテーマ別のアンソロジーを多数編んでいる。
 今夏は、東氏編の「怪異小品集」という作家別のシリーズ(2012年刊行開始)に、第7冊として『変身綺譚集成―谷崎潤一郎怪異小品集』(平凡社ライブラリー)なるアンソロジーが加わった。
 鏡花をめぐる随筆や、中絶した「アッシャア家の覆滅」などが一冊で読めるのも嬉しいが、わけても随筆「春寒」が手軽な形で読めるようになったのは喜ばしいことである。
 まずタイトルの「春寒」を何と読むか。例えば『日本国語大辞典【第二版】』には「はる‐さむ【春寒】立春後の寒さ。春になってぶり返す寒さ。「春寒し」のようにも用いる。しゅんかん」、『広辞苑【第七版】』には「はる‐さむ【春寒】立春の後の寒さ」と立項されており、小谷野敦『このミステリーがひどい!』(飛鳥新社2015)でも「はるさむ」と訓まれていたから、「はるさむ」で間違いなかろうと思われる。但し、後に述べる小林信彦氏の作中のルビは、「はるざむ」と連濁形になっている。
 この随筆の初出は「新青年」(昭和五〈1930〉年四月号)で、もともと探偵小説論として書かれる予定だったが、後半は、不慮の事故で急逝した「新青年」の編集者・渡辺温*1への回想・追悼文になっている。すなわち谷崎は、これを書き継いでいたまさにそのとき、渡辺の訃に接したのである。
 渡辺の遭難は、森見登美彦夜は短し歩けよ乙女』などで比較的よく知られていることかもしれないが、『アンドロギュノスの裔(ちすじ)―渡辺温全集』(創元推理文庫2011)所載の「渡辺温年譜」に拠ると、次のようである。

一九三〇年(昭和五年) 二月 九日、原稿依頼のため、後に推理翻訳の分野で華々しい業績を残した長谷川修二とともに谷崎潤一郎宅に赴く。その帰路、西宮市外夙川踏切で二人の乗ったタクシーが貨物列車に衝突。重傷を負った温は西宮回生病院で逝去した。通夜は横溝正史宅、告別式は森下雨村宅にて営まれた。享年二十七。(p.630)

 文中の長谷川修二は、ワーナー・ブラザーズにいた楢原茂二のペンネーム。清水俊二『映画字幕(スーパー)五十年』(ハヤカワ文庫NF1987)に、「楢原宣伝部長が長谷川修二のペンネームで「新青年」グループの作家であることを記者たちは知っていて、そのことがつき合う態度にも現れていた」(p.51)とある。
 さらに清水著は、事故当時のことについて以下のように記している。

 私がワーナー・ブラザーズの宣伝部に入社した翌年、昭和五年二月十日のことである。
 私が神戸滝道の会社に出社すると、谷崎潤一郎先生から私のところに電話があって、西宮の回生病院にすぐ来てくれという伝言があったという。(略)
 私はさっそく、回生病院に電話をかけた。しばらく待っていると、谷崎先生が電話に出た。
「先生ですか。何かあったのですか」
「楢原君がけがをして、ここに入院している。渡辺君は死んだ」
「渡辺さんが?」
「『新青年』の渡辺君だ。僕一人なので困ってる。すぐ来てくれませんか」
新青年」の渡辺温が谷崎先生の原稿をとりに東京から来ているということは聞いていた。どんな事故があったのだろうか。
 私は阪神電車で芦屋まで行き、芦屋川にそって海岸まで歩いて行った。西宮の親類の家の関西学院に行っている息子が看護婦の一人と仲がよかったので、私は回生病院をよく知っていた。
 どんよりと曇った日だった。
 前日の二月九日は日曜で、午後おそく谷崎邸を辞した渡辺温と楢原茂二は神戸に出て飲み歩き、午前一時ごろ、タクシーを拾って夙川荘に向かった。国道を西宮市の手前で左に折れ、阪急電鉄の夙川に出るところに国鉄の踏切がある。ここで上りの貨物列車にぶつけられたのだ。最初の一撃で運転手が跳ねとばされ、次に助手が跳ねとばされ、客席にいた渡辺は意識を失い、病院に運ばれて死亡、傷を負った楢原が谷崎先生に電報を打ったのだった。
 私が谷崎先生が待っているという空室の病室に入って行くと、先生はがらんとした病室のすみにうずくまっていた。火のない箱火鉢の前でタバコを吸っていた。和服の上に黒いトンビを羽織っていた。
「先生、どうも申しわけありません」
「いや、君が来てくれて助かった。あとを頼みます」
 私は病院の玄関まで、谷崎先生を送って行った。玄関から一直線につづいている砂利道を背中をまるくしてゆっくり歩いて行く谷崎潤一郎の姿をいまでも目に浮かべることができる。(pp.53-54)

 渡辺と楢原とがその日遅くまで呑んでいたという話は、「春寒」も触れている。

…思うに九日は日曜でもあり、僕の家から真っ直ぐ帰らずに、あれからあの足で神戸へ廻り、二人とも行ける口であるから何処かで飲んだ戻り道で、恐らく酔っていたのであろう。(あとで聞くと、楢原君は十時迄に帰ろうと云ったのを、渡辺君が、いつもそんなことに剛情を張る人ではないのに、あの晩は妙に執拗に、是非もう少し附き合えと云って肯(き)かないので、「今夜は渡辺君は変だなあ」と思ったそうである。)(「春寒」『変身綺譚集成』p.216)

楢原君の経験では、踏み切りへかかったことも、衝突したことも、何も覚えがない。病院へ来て始めて事態を悟ったくらいで、全く恐怖を知らずに済んだ。それほどぐっすり寝込んでいたのだそうである。だから勿論渡辺君も寝ながら汽車に横腹を打たれて、夢中で死んで行ったであろう。その光景の凄惨さに比べて、案外苦しまなかったであろう。そう思うことがせめてもの慰めである。(同前p.222)

 のちに清水俊二は谷崎と再会し、当時のことを振り返っている。

 私は戦時中、思いがけぬ用件で、来宮の谷崎邸に招かれたとき、渡辺温の話をすると、
「そうだったね。君に来てもらったね。あの時は寒かった」
 といわれた。あの日のことを谷崎先生はよく覚えていた。
 楢原茂二はそれから三週間ほど入院していた。交通事故でかつぎこまれた患者なので、最初待遇がよくなかった。前にしるしたように、私が下宿していた親類の息子が看護婦の一人と親しかったので、その看護婦に頼み、やっと病室を変えてもらった。世の中のことはどんなところでどんなことが役に立つかわからない。(『映画字幕五十年』p.56)

 ところで小林信彦氏は、「隅の老人」*2(初出:「海」1977.11月号)で、狩野道平という「宝石社」嘱託の老人と主人公・今野との交流を描いており、狩野の話のなかに渡辺温のことが出て来る。
 「隅の老人」は小林信彦『袋小路の休日』(講談社文芸文庫2004など)に入っていたが、小林信彦『四重奏 カルテット』(幻戯書房2012)に再録されている。この『四重奏 カルテット』の劈頭を飾るのが「夙川事件―谷崎潤一郎余聞―」(初出:「文學界」2009.7月号)で、作中で狩野道平は真野律太だと明かされている(小林氏によれば、「(「隅の老人」では―引用者)名前は仮のものにしたのだが、色川武大氏に見抜かれてしまった」〈p.17〉、「この小説だけは登場人物がすべて実名である」〈「あとがき」p.261〉という)。
 真野は、「大正の終りから昭和にかけて、当時の大出版社、博文館で鳴らした編集者」(「夙川事件」p.18)だったが、語り手の「私」と知り合った頃は、「朱墨を含ませた筆で原稿を校正してい」て、「擦り切れたコールテンの上着と膝の抜けそうなズボン」姿で、「昼間から酒を飲んで出社する小柄の(略)むすっとした老人」(以上p.17)であった。
 その真野が、「私」とのやり取りのなかで、渡辺について次のように述べていたのが心に残っている。

「まあ、世間では『新青年』のカラーを作ったのは、二代目の横溝正史(よこせい)ってことになっているが、私たちは助手だった温(おん)ちゃん――本名・渡辺温(あつし)の力が大きかったと見ている。ショートショートの元祖、渡辺啓助さんの弟だ。変った男だったが、大変な才人だったと思うよ。博文館としても、温ちゃんはホープだったんだ。あんたがやろうとしているのは、温ちゃんの線だと私は見ているよ」
「いや……」
 老人の目から見ると、そういうことになるか、と思った。
「温ちゃんを知らないかね」
「お名前を耳にしたことはあります。事故で亡くなった方でしょう」
「そう。谷崎潤一郎の原稿をとりに行く途中でね(ママ)」
「電車にぶつかったとか……」
「原稿はとれていなかったんだ。しつこく依頼に通ってね。たしか夙川(しゅくがわ)といったと思うが、そこの踏切で阪神電車にぶつかった」(「夙川事件」pp.20-21)

 なお「隅の老人」は以下のようになっていて、若干やり取りが異なっている。

「始めた以上は、これで押し通すよりねえな。オンちゃんと同じ遣り方だが」
 オンちゃんのンにアクセントがあった。
「オンちゃんて、だれですか?」
渡辺温(あつし)のこった」
 老人は今野の眼を見た。
「知らないかね」
「名前は知ってます。『新青年』の編集者で、谷崎潤一郎の原稿をとりに行く途中、自動車事故で亡くなった方でしょう」
「まだ、とれていなかったんだ。依頼に通っているときに、夙川(しゅくがわ)の踏切で阪神電車にぶつかった」老人は早口になった。「だから、谷崎さんは『新青年』に『武州公秘話』を書かざるをえなくなったんだ」(p.146)

アンドロギュノスの裔 (渡辺温全集) (創元推理文庫)

アンドロギュノスの裔 (渡辺温全集) (創元推理文庫)

映画字幕(スーパー)五十年 (ハヤカワ文庫NF)

映画字幕(スーパー)五十年 (ハヤカワ文庫NF)

四重奏 カルテット

四重奏 カルテット

*1:康煕字典考異正誤』などの著作がある英学者の渡部温(わたなべおん)という人物がかつていて、そちらも「渡辺温」と表記されることがあるからややこしい。

*2:『紅はこべ』シリーズでも知られるバロネス・オルツィの生み出したアームチェア・ディテクティブの「隅の老人」に基づく。平山雄一氏個人全訳の「完全版」が出た(作品社、2014年)のは記憶に新しいところである。

福永武彦の「深夜の散歩」

 福永武彦中村真一郎丸谷才一『深夜の散歩―ミステリの愉しみ―』(講談社文庫1981)を篋底に見出して、約十三年ぶりに読み返している。この間に、丸谷氏も故人となってしまった。
 同書は、福永「深夜の散歩」、中村「バック・シート」、丸谷「マイ・スィン」の三部から成る。解説は小泉喜美子が書いている。後にハヤカワ文庫にも入った(が、同文庫版は未見である)。
 昨年から今年にかけて、福永武彦加田伶太郎作品集』(小学館P+DBOOKS)、福永武彦『完全犯罪 加田伶太郎全集』(創元推理文庫)、と立て続けに福永(加田伶太郎名義)の推理小説集が新装復刊され、なつかしく読み返していたところだったので、とりわけ福永のパートを重点的に読んでいる。因みに、今年は福永の生誕百年に当る。
 この講談社文庫版は、日本版「EQMM」連載記事のほか、たとえば福永のパートだと、「毎日新聞」「東京新聞」に掲載された記事も収めるなど、少なからぬ増補がある。
 「東京新聞」掲載(1956.5.9-10付夕刊)の方は、「探偵小説の愉しみ」と題されており、これは『完全犯罪 加田伶太郎全集』の法月綸太郎「解説」で、次のように引用・言及されている。

 第一作「完全犯罪」を発表した直後、福永名義で「東京新聞」に寄稿した「探偵小説の愉しみ」には、「イギリスには、フィルポッツやメイスンや、ミルンのように、専門は文学で趣味は探偵小説作家というのが多い。アメリカのヴァン・ダインや、エラリイ・クイーンのように匿名で書いた連中は、きっと書きながらぞくぞくするほど嬉しかったろうと思う」という一節がある。これはまさに加田伶太郎の犯行自白だ。そしらぬ顔で楽屋落ちめいた文章を書きながら、福永自身、ぞくぞくするほど嬉しかったにちがいない。(pp.441-42)

 その「探偵小説の愉しみ」の引用部の直前の文章を、『深夜の散歩』であらためて読んでみると、「これは冗談で、僕は長篇探偵小説を書くだけの勇気はないが、もし探偵小説がひとりだけの、秘密の愉しみだとしたなら、作者たることがその愉しみの絶頂だろう」(p.94)となっている。裏を返せば、「短篇探偵小説を書く勇気ならある」わけで、法月氏の言葉をかりるなら、これもやはり「犯行自白」だということになろう。
 ところで『深夜の散歩』には、福永武彦「『深夜の散歩』の頃」(初出:「ミステリ・マガジン」1976.8)も収めてあって、そこで福永は、

 私の記憶が間違っていなければ、初めのうち「EQMM」は完全な翻訳物ばかりで、オリジナルなものは殆ど載っていなかったようである。そこへ都筑君が日本人の手によるコラムの欄をつくり、私は一度、「探偵小説と批評」という文章を書いたことがある(これも講談社版『深夜の散歩』に収めてある―引用者)が、その後暫くして連載のエッセイを頼まれることになった。私はちょうどその頃、加田伶太郎ペンネームで探偵小説をぼつぼつと書いていて、この名前の蔭にいる本名の方は絶対にばれないようにしていたから、都筑道夫がそれを見破って、私をからかうつもりで連載を依頼したのかどうかは確かでない。(p.105)

と書いている。しかし、当の都筑の回想によれば、「からかうつもり」は毛頭なかったようだ。
 都筑道夫『推理作家の出来るまで 下巻』(フリースタイル2000)には、

 私の仕事場は、あいかわらず、ごった返していて、資料をさがしだすことが出来ない。だから、間違っているかも知れないが、まだ福永さんはそのとき、加田伶太郎の匿名で、推理小説を書いては、いなかったと思う。(福永のように日本版「EQMM」の編集方針を―引用者)ちゃんと見てくれるひとがある、という印象がさきにあって、加田伶太郎は福永さんだ、という知識が、あとにつづいたように、記憶している。
 とにかく、いつか福永さんに、エッセーを書いてもらいたい、と思っていた。(p.267)

とある。「まだ福永さんはそのとき、加田伶太郎の匿名で、推理小説を書いては、いなかった」というのは、都筑の記憶違いで、少くともデビュー作の「完全犯罪」は「週刊新潮」誌上ですでに発表されていたし、第二作の「幽霊事件」も「小説新潮」誌上に出ていたのだが、都筑が「いつか福永さんに、エッセーを書いてもらいたい」と思った理由は、福永が「EQMM」(特に第三号以降)の編集方針を褒めてくれたから*1、ということにあるようだ。

    • -

 創元推理文庫の『完全犯罪 加田伶太郎全集』と小学館のペイパーバック版『加田伶太郎作品集』とは互いに補い合うような関係にある。
 まず前者には、都筑道夫福永武彦結城昌治「『加田伶太郎全集』を語る」(「新刊ニュース」1970.3.1号)という鼎談が収めてある。これは確か、先行する新潮文庫版や扶桑社文庫版にも収められていなかったと記憶する。この鼎談で都筑が、「(福永が船田学名義で書いた―引用者)『地球を遠く離れて』、あれは続編を読みたいですね」(p.432)と語っていて、このSF*2創元推理文庫版では読めないが、桃源社版『加田伶太郎全集』(1970刊)を底本とした小学館版では読める*3
 「地球を遠く離れて」については、福永が「推理小説とSF」(初出:「毎日新聞」1962.10.18付夕刊)で、

 ここで少し脱線すれば、実は私は、五年ばかり前に、SFを一つだけペンネームで書いたことがある。私のSFは、恒星プロクシマ(ママ)を探検に行く宇宙船の話だった。一人称で書くことにしたので、なぜ主人公が日本語を用いるのかという点に、大いにこだわった。その結果、こういう手を用いた。その頃(幾世紀か後の話である)地球人はすっかり混血して国家意識はなく、新しい世界語を用いているが、彼らの間に最も流行している趣味は、すたれてしまった過去の言語の研究である。中でも一番むずかしいと言われる日本語を、主人公が勉強中なのだから、それを用いて日記をつけたとしても不思議ではない、という設定である。(『深夜の散歩』講談社文庫p.103)

と書き*4、「船田学」が自分であることを早々に明かしている。
 一方で、「加田伶太郎」であることは自分では明かさず「ひた隠しに隠して」いたが、いつの間にか、「ジャーナリズムでは周知のこととなった」。それについて福永は、「存外わが友中村真一郎などがその元兇であるのかもしれない」(以上、「『深夜の散歩』の頃」p.107)と書いている。
 また福永は、「『EQMM』という雑誌は、読んでいると自分もやりたくなるような奇妙な魅力を持っていたらし」い(p.106)とも書いており、日本版「EQMM」の編集長だった都筑、その次の編集長の小泉太郎、そして結城昌治を引き合いに出している。彼らはこの雑誌の影響もあって実作に転じたようだ。
 小泉太郎は小泉喜美子の元夫で、筆名だと生島治郎、むしろ後者の方で知られるが、その名づけ親は結城である。福永が「誰(たれ)だろーか」(taredaro:ka)のアナグラムで「加田伶太郎」を名乗り、作中のアームチェア・ディテクティヴを「名探偵」(meitantei)のアナグラムで「伊丹英典」と名づけたように、「生島治郎」も一種の言葉遊びで生まれたものだと思う。
 即ち「小泉太郎(コイズミタロウ)」の「コイ(来い)」に対して「イク(行く)=生」、「ズ(ス)ミ」の母音を替えて「シマ=島」、「太郎」といえば「次郎」、ちょっとひねって「治郎」と、そういう発想だったのではないか。「別冊文藝春秋」(1968.6)に見える生島の「ペンネーム由来記」には書いてあるだろうか。

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 偶ま先日、古書市でフレイドン・ホヴェイダ/福永武彦訳『推理小説の歴史』(東京創元社1960)500円を拾った。原著では英語の題名が仏語に置き換えられるなどしていたようで、「訳者のあとがき」(福永)は、「薄いけれどなかなか苦労をした本である」(p.146)と結んでいる。
 後に別の訳者による新版(1981刊)が出たことは知らなかったが、この本に関しては、福永が「深夜の散歩」の追記部分で次のように書いている。

 ホヴェイダの本は『推理小説の歴史』という題名で、僕が創元社から頼まれて翻訳を出した。ところが高尚すぎて、さっぱり売れなかった。いくら推理小説がはやっても、学問とは縁遠いものなのだから、「歴史」まで覗いてみようなどと奇特な考えを起す読者が、そうそういる筈もない。とんだ誤算だった。(「封をした結末の方へ」p.60)

加田伶太郎 作品集 (P+D BOOKS)

加田伶太郎 作品集 (P+D BOOKS)

推理作家の出来るまで (下巻)

推理作家の出来るまで (下巻)

推理小説の歴史 (1960年)

推理小説の歴史 (1960年)

*1:福永が、中村真一郎との対談で「EQMM」(第三号以降)の編集方針を褒めたというエピソードをさす。これは都筑前掲書に再三紹介されるから、よほど嬉しかったのだろう。

*2:福永は当時、「あの続篇がちゃんと頭の中にある」(p.432)と話しているが、その後それが書かれることはなかった。

*3:小学館版にはリドル・ストーリーの「女か西瓜か」なども収めてある。

*4:ここでは言及されていないが、「地球を遠く離れて」の主人公は「日本人」という設定である。

円城塔『文字渦』

 中島敦の名篇「文字禍」を一字だけ変えた、円城塔『文字渦』(新潮社)が出た。表題作は第43回川端康成文学賞を受賞しており、この作品集はそれ以外に、「緑字」「闘字」「梅枝」「新字」「微字」「種字」「誤字」「天書」「金字」「幻字」「かな」の十一篇を収める。それら計十二篇すべてがことごとく文字に関するものであるから、出版元は「文字小説」といい、作者自身は「文字ファンタジー」と表現する(2018.8.1付「朝日新聞 夕刊」)。文字好きとしては見逃せないではないか。
 最後まで読み通してみて、この作品集に一貫するのは、「文字で『世界』を記述できるか」という問いかけに対する回答であり、そのひとつの試みだろうと思った。またそれは、日本語の複雑な表記体系を最大限に活用したいわゆる実験小説でもあり、やや大仰にいえば、「文字言語」復権の試みでもあるように感じた。
 「言語」というものは、音声が文字に先立つわけだから、我々はふだん「文字は音(おん)を表すもの」と思っている*1。しかしこの本を読んでいると、その前提さえ疑わしく思えてくる。現に『文字渦』は、常用漢字表外の漢字を多数用いていながら、単に「音」を表示するものとしてのルビは極力抑えており、「どう読むか」を読者に委ねる、というか、むしろ音声を完全に無視しているところが多々ある。
 以前わたしは横山悠太『吾輩ハ猫ニナル』(講談社2014)を読み、その自在なルビの使い方を新鮮に感じて、バイリンガル、あるいはトリリンガルとしてのルビの可能性ということに思いを致したことがあるが*2、円城氏の「誤字」「金字」におけるルビ(これらをルビと捉えるとすればの話だが)、特にその前者は*3HAL9000よろしく制御不能となったルビがルビそれ自体について自己言及的に語り始め、遂には本文を侵蝕してゆくというおそるべき作品である。気の利いた表現ではないけれど、「ルビの叛逆」「ルビの叛乱」とでもいうべきか。
 ところで、ルビに関して述べたものといえば、印象に残っているものとして柳瀬尚紀『日本語は天才である』(新潮文庫2009←新潮社2007)の「第五章 かん字のよこにはひらがなを!」(pp.133-56)があり、個別的には、幸田露伴のエセー『論語』を材にとった長田弘露伴のルビのこと」(『本に語らせよ』幻戯書房2015所収←『自分の時間へ』講談社1996)があるし、小杉天外『紫系図』の独特な(戯作由来のもありそうだが)ルビについて語った出久根達郎小杉天外の見どころ」(『本と暮らせば』草思社文庫2018←草思社2014*4)などがある。さらに高島俊男「わたしのフリカナ論」(『寝言も本のはなし』大和書房1999)は、主として実用的なルビの振り方や自身の好悪を述べた文章だが、本居宣長『玉勝間』から「すべてもじといふは、文字の字の音にて、御国言にはあらざれども」云々*5という文章を引き、当該文の「文字」にフリカナをつけるのは不可能である、と言っているのが面白い。「ここの『文字』は、『この文字という支那字』ということで、字をさしている」からだ(p.212)。さきに述べたように、『文字渦』にも、「どう読むか」を読者に委ねたところ、つまり予めルビを拒絶しているところがあるし、「微字」「天書」*6などは、漢字の「形」に遊戯性を見出した作品であるから、そもそも「読み」自体を問題としていないのだ。
 そしてルビといえば、先日も触れた由良君美「《ルビ》の美学」(『言語文化のフロンティア』講談社学術文庫1986)がある。由良は、「(ルビは)原理なら簡単だが、運用は無限に複雑」であり、「ルビの修辞的究明こそ、恐らく日本語の秘密に深くかかわる」はずだ(pp.107-08)という。そして、「ルビの面白さは、漢文脈と和文*7との間に平行して作りだされる緊張関係にあるから、音訓の当て方の妙をめぐる即妙さと意表を衝く意外なズレとの最大限の開発が中心になってくる」(p.111)とも述べる。さらに、「日本語のシンタクス自体が〈ルビ的〉に出来てしまっている事情を変更することはできない」「日本文の理解に際しては、ルビの付けられていない場合にも、なお眼にみえないルビを頭のなかでふり付けながら読解されねばならない」(p.120)とも記している。由良がもし存命で、「誤字」を目にすることがあったなら、きっと面白がっただろうなと思う。
 「誤字」にはまた、CJK(V)統合漢字の問題点に言及しつつ、いわゆる「漢字の正しさ」を相対化するくだり*8もある。

 原則的には、楷書は可読性を、草書は毛筆での書きやすさを優先する。可読性のためには書きやすさが損なわれても構わないし、書きやすさのためには可読性が落ちてもよい。楷書と草書では書き順が異なることも珍しくなく、止めやハネも同様である。記録を書き込むための文字と、記録を読みだすための文字はそれぞれ別のもののままでもよかったのだが、これが性急に統合された。(p.183)

 筆順や筆画の長短の「正しさ」という問題に関して、かつてわたしは「『筆順のはなし』」「「天」の字形/(承前)「必」の筆順」で書いたことがあるが、手書き字の衰退が、俗字や異体字を駆逐したばかりでなく、漢字に本来備わっていたはずの「いいかげんさ」を見失わせてしまったように思う。そのくせ、固有名では微妙な筆画の差異にすぎない「字形」差がやかましくいわれるようになった。かてて加えて、「書体」の違いによる「デザイン」差に対する誤解も生じたため、ますます錯綜してしまっている。
 このあたりについては、小林龍生『ユニコード戦記―文字符号の国際標準化バトル』(電機大出版局2011)の「人名漢字のアポリア」(pp.206-19)などを参照されたい。そう云えば「誤字」は、「『骨』字のモノアイの向き」(p.184)に触れていて、これはCJK(V)統合漢字の話柄でしばしば例に挙がる、中国の字形が日台韓越のそれと異なる問題*9を指しているのだが、前掲小林著にもこの話が見える(pp.36-37,pp.39-40)。
 そのほか、上下反転字・左右反転字がごろごろ出て来る「幻字」も面白い。『犬神家の一族』の「見立て殺人」にオマージュを捧げた(?)「大量殺字事件」が起こるこの作品(金田一を意識したらしい名前も登場する)には、「予」を上下反転させた字が現れる。「曉に死す」の「常識を打ち破るさかさ漢字」にもあるように、これは「幻」の異体字*10異体字字典の記述も参照のこと。この字は確か、柳瀬尚紀氏が『フィネガンズ・ウェイク』の訳文中に用いていて、『辞書はジョイスフル』(新潮文庫1996)でそのことに触れていたと思う。
 当該字に関して、「幻字」には「まずたいていの人は、逆立ちした『予』を思い浮かべるはずだと思う」(p.264)とあるが、それで思い出したのが次の話である。

□八月十七日(金)*11、竜龕手鑑(八巻)の朝鮮古版以上はさる事ながら、慶長活字版とうたはるゝ古版本も、伝本罕なるよし世の人はもてはやすめれど、折々に見いでたるを数ふれば、はや十二本にも及べり。図書寮(二本)・神宮文庫・帝国図書館(二本、一は白河文庫旧蔵、一は鵜飼徹定旧蔵)・東洋文庫・久原文庫・高木文庫・大谷大学内藤湖南博士の諸蔵本*12の他、新たに安田文庫に入れる一本あり、さき頃、秋葉義之旧蔵本も下谷の書肆に見つ。この本、慶長版と言へど、実は元和頃の刊行と推定せらる。異体字殊に多きが中に、尋常の活字を倒植せるものあるは興あり。原装を伝ふる神宮文庫蔵本に拠るに、巻八の九十六葉表二段目「予」を倒に植字して傍に本文の注と同じ活字を以て印刷添附せる張紙を附し、「此非誤以逆字為正」と注意せり。古活字版には誤植多ければ、かく張紙するもことはり*13なり。
川瀬一馬『讀書觀籍日録―日本書誌学大系21』青裳堂書店1982:41)

 古人も「たいていの人」と殆ど変わらなかった、ということだ。

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 十二篇のうちとりわけ面白く読んだものといえば、「新字」だろうか。実在の人物を、史実と虚構とを巧みに織り交ぜながら、奇想で結びつけてみせる。武則天のいわゆる「則天文字」の誕生秘話(!)ともなっている*14この作品は、さながら山田風太郎の明治もののようでもある。中島敦「文字禍」と関係が深いといえそうなのもこの短篇で、「アシュル・バニ・アパル大王の治世」下のニネヴェの図書館や「ナブ・アヘ・エリバ」のことが作中の会話に登場するし、ゲシュタルト崩壊に触れていることも両者で共通している。
 タイトルの「新字」(しんじorにひな)は、『日本書紀』巻第二十九にみえる、境部石積(さかいべのいわつみ/いわづみ)の手になる「新字一部卌四巻」のこと。しかし同書はすでに散佚しており、内容が不明である。作中には新井白石『同文通考』が引いてあり、白石説が「新字」を「万葉仮名、変体仮名の出現以前に、漢字ならざる、しかし俗字とも異なる、日本語記述用の文字を定めた」もの(p.121)としたことを紹介しているが、次のような形で当該説を否定している。

 石積が白石のいうとおり、新たな文字を日本語の表記のために定めたとして、問題となるのはやはり白石自身が指摘した、四十四巻という長さとなるのではないか。白石いうところの、八万を以て数えるべき文字たちが、日本語らしい日本語表記のために本当に必要だったのかとなるとよくわからないところが残り、千と数百年前の現在にいる境部としてもそんな無茶な体系を一から案出しようという気は今のところないのである。(p.122)

 「新字」の内容をめぐる見解としては、他にも「梵字様説」「古語辞典説」等、さまざまな説があるが、当否は措くとしても、それらを検討して「訓釈制定説」「修史のための文字整理説」が「最も穏当なところ」、すなわち「わが国最初の漢和字典だったと言ってよい」と結論したのが、嵐義人「最古の漢和字典「新字」をめぐって」(『余蘊孤抄―碩学の日本史余話』アーツアンドクラフツ2018:166-72所収*15)であった。

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 山本貴光『投壜通信』(本の雑誌社2018)に書下しとして、「『文字渦』歴史的注解付批判校訂版 「梅枝」篇断章より」(pp.299-314)が加えられた。そこで山本氏は、『文字渦』を「目下の円城塔作品のなかでも最高傑作である」(p.304)と評し、その面白さを、「読者にプログラムのデモンストレーションを見せているような状態」にしていること、つまり「そこに生じる出来事はもちろんのことながら、そこでは明記されない出来事をも感知・想像」させる(p.305)ことにあると見ている。(9.4記ス)

文字渦

文字渦

  • 作者:円城塔
  • 発売日: 2018/07/31
  • メディア: 単行本
吾輩ハ猫ニナル

吾輩ハ猫ニナル

日本語は天才である (新潮文庫)

日本語は天才である (新潮文庫)

本に語らせよ

本に語らせよ

  • 作者:長田 弘
  • 発売日: 2015/07/24
  • メディア: 単行本
寝言も本のはなし

寝言も本のはなし

ユニコード戦記 ─文字符号の国際標準化バトル

ユニコード戦記 ─文字符号の国際標準化バトル

  • 作者:小林龍生
  • 発売日: 2011/06/10
  • メディア: 単行本
余蘊孤抄―碩学の日本史余話

余蘊孤抄―碩学の日本史余話

  • 作者:義人, 嵐
  • 発売日: 2018/03/01
  • メディア: 単行本
投壜通信

投壜通信

  • 作者:山本 貴光
  • 発売日: 2018/09/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

*1:この前提はあくまで一般論である。実際には、文字は呼気や吸気の流れを強引に区分して示すものなので、「わたり音」などはあらかじめ捨象している。

*2:実例はここに挙げないので、作品に就いていただきたい。温又柔氏の作品などにも、同様のルビの多用がみられる。

*3:後者は経文解釈の補助手段としてのルビなので、特に「変な」ルビの使い方とはいえない。宛て読み風の注文のようなものである。

*4:初出は「日本古書通信」2010年10月号。

*5:一の巻「言をもじといふ事」。岩波文庫版だと上巻p.43。

*6:「天書」p.218の“インベーダーゲーム”は可笑しかった。

*7:由良は後に「和文脈」を「邦文脈」と言い換えているが(p.112,116など)、名づけ方としては、現代語も包含しうる「邦文脈」のほうが誤解を与えずにすむだろう。

*8:以下に引用した記述は、前掲夕刊に載った円城氏の発言とも重なる。すなわち;「学校教育でとめろ、はねろ、気にしなくていいと言ってきましたが、そもそも草書と行書では書き順から違う」。

*9:「闘字」p.77に、中国のこの字形が用いられている。

*10:「幻字」には、このサイトで紹介されている「チョウ」や「ホツ」も登場する。

*11:昭和九年(1934)。

*12:アルイハ「儲蔵本」ノ誤植カ。

*13:原文ママ

*14:則天文字は「闘字」p.69に30字が掲げられている(その総数についても様々な説が有る)。

*15:初出は「日本古代史「記紀風土記」総覧」(新人物往来社1998)。

ライクロフトと「夏の読書」

 著者と本と本棚との半世紀以上に亙る濃密な付き合いを描いた北脇洋子『八十五歳の読居録』(展望社2018)に、次のような印象的な一齣がある。

 わたしは開高(健―引用者)さんの一年下であるが、同じ法学部なのに、あまり口をきいたことがない。(略)
 しかし、わたしは開高さんに自分から進んで教えを受けたことがある。
 それは外書講読の時間に、予習をしていないわたしは、何となく今日は「当たる」という予感がした。
 それで誰かに、わからない箇所をきこうとキョロキョロしていると、開高さんが教室の前の廊下に立っているのを見つけた。
 開高さんが堂島の英語学校で教えているという噂をきいていたので、早速英語のプリントを持って、傍に馳せ寄ってたのんだ。
「開高さん、ここ教えて」
 開高さんは、しばらくじっとプリントを眺めていたが
「この略語の意味は何?」ときく。
「はじめは覚えていたんですけど忘れました」
「へえ。これがわからないで、よく読めるね」
「だから訳してほしいわけです」
 開高さんは苦笑いしながら、センテンスごとに一頁を五、六分で訳してくれたが、
「わからない単語があるから要約だよ」
 といった。
 わたしはお礼をいった後に尋ねた。
「どうしたら英文、スラスラ読めるようになるのですか?」
「そんなに、すぐ読めるものじゃないけど、翻訳家にでもなるの」
 わたしは凄い皮肉だ、と思いながらも神妙に否定した。
「君の好きな作家は誰?」
 わたしは咄嗟に高校の英語の時間にならったギッシングを思い出した。
「ギッシングです」
 痩せた開高さんの眼鏡の底が光ったような気がした。
「へぇ、渋いな。兎も角自分の好きな作家の本を辞書をひきながら、毎日少しづつ読むことや」
「やってみます」といってわたしは教室に入った。(pp.20-22)

 北脇氏が「高校の英語の時間にならったギッシング」と書いているのは、『ヘンリ・ライクロフトの私記』のことだと考えて、まず間違いあるまい。
 たとえば、北脇氏よりも少し(一、二歳)年下の阿部昭(1934-89)は、『エッセーの楽しみ』(岩波書店1987)で、「せいぜい私ぐらいの世代までの日本人には愛読された本で、昔はそこからよく英語の試験問題が出たジョージ・ギッシングの『ヘンリー・ライクロフトの手記』」(「草の上で」p.58*1)と書いており、また別のところで以下の如く述べている。

 往時の日本の読書界はさすがにこの本を見逃さなかった。翻訳の経緯は知らないが、大正十年(一九二一年)には市河三喜の注釈本が、同十三年には藤野滋の名訳と言われるものが出て、以来さまざまな版で親しまれてきた。『ヘンリー・ライクロフトの手記』が本国で出版されたのは一九〇三年(明治三十六年)で*2、ちょうど夏目漱石が留学から帰った年である。私は漱石がこれを読んで何か言っていないかと調べてみたが、ギッシングについては彼の小説に触れているだけである。面白さは別種だが、漱石の『永日小品』や『硝子戸の中』とも一脈通い合うものがある。(略)
 『ヘンリー・ライクロフトの手記』は、単に近代の古典であるという以上に、いつの世にもいる純粋な読書家、愛書家たちに向かって、何か彼らにしか通じない秘密の暗号を発信している本なのであろう。世間にはこの本をこっそり愛読書の一つに祀(まつ)っていながら、あまりそれを打ち明けたがらない読者も多いのではないかという気もする。
 参考までに、私とほぼ同世代で相当な「本の虫」である女性、英国で暮らした経験もありブロンテ姉妹の愛読者でもある女性にきくと、彼女は高校三年の時以来、毎年元旦にはこれを原文で読む、正月でなくてもゆっくりした時にはついこの本に手がのびる、そしていつも慰められる、と答えた。薄倖だったらしい著者の幸福な一冊である。(「『ヘンリー・ライクロフトの手記』を読む」pp.105-07*3

 このように、ある世代以上の人々にとっては、ギッシングといえば即ち『ヘンリ・ライクロフト』だったようなのだ。
 もう少し下の世代だが、たとえば奥本大三郎氏(1944-)は『本を枕に』(集英社文庫1998←集英社1985)で、「戦前、あるいは戦中、『ヘンリ・ライクロフトの私記』は学校でよく読まれたよう」だ(p.87)と述べ、自身の経験として次のように記している。

 私が平井正穂氏の訳註がついた、開文社版の対訳叢書で、『ヘンリ・ライクロフト』を買ったのは、たしか大学の二年か三年の頃だったと思う。高校の教科書に一部が掲載されていて、気に入ったので、いずれ全文を読もうと思って買ったらしい。しかし英文の方はあまり読まずに、同氏による岩波文庫版の訳本をもっぱらひろい読みしていた。とくに気に入った箇所の原文を朗読してみたりする。(「孤独な放浪者の夢想」p.94)

 さらに、『ヘンリ・ライクロフト』のたぶん最も新しい訳書、池央耿訳『ヘンリー・ライクロフトの私記』(光文社古典新訳文庫2013)の「解説」(松本朗氏)は、

 日本でも、一九〇九年という早い時期に英文学者の戸川秋骨(一八七一年〜一九三九年)によって「春」の第八章が「田園生活」と題されて「趣味」誌に訳出されて以降、『ヘンリー・ライクロフトの私記』は、二十以上の翻訳が出版されるほどの人気を誇っている(略)。たとえば、大正から昭和初期にかけてエリートを養成する場であった旧制高等学校の多くの英語教科書に『ヘンリー・ライクロフトの私記』は収録されていたらしい。この事実は、教養主義と呼ばれるものが二十世紀前半の日本で一定の影響力を揮っていたことを物語っているし、その後教養主義が過去の遺物のような扱いを受けるようになったときも、教養という言葉が、多少なりともなにか私たちを引きつけ、魅惑したり不安にさせたりする力を持ち続けていることを示しているように思われる。(p.317)

と、『ヘンリ・ライクロフト』の盛行を、いわゆる教養主義に結びつけて論じている。

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 奥本氏は、「いま持っている『ヘンリ・ライクロフトの私記』のテキストにも訳本にも共感を示すアンダーライン、傍線がいっぱいに引かれている」(前掲p.77)と書いているが、わたしが特に共感を覚えるのは、書物に関する一連の記述である。なかで次のくだりは心に残っている。

 今日庭で本をよんでいると、かすかな夏の薫が漂よってきて、――読んでいたものとなにか妙にからみあっていたのだが、――といってそれがなんであったか分からないのだが――ふっと小学校の頃の休みを私は思い出した。勉強から長い間解放されて、海岸へゆくときの、あのはずむような気分を、自分でもおかしいくらいまざまざと思いだしたのだが、ああいう気分こそ少年時代でなければ味わえないものだと思う。(平井正穂訳『ヘンリ・ライクロフトの私記』岩波文庫1961:「夏」一、p.84)

 庭で本を読んでいるところへ爽やかな風が夏の匂いを吹き寄せて、子供の頃の夏休みの記憶を呼び覚ました。読みさしの本のどこかに記憶につながる何かが隠されていたのだと思うが、それが何だったかははっきりしない。ただ、課業から解放されて海辺で過ごす長い休みの晴れやかな気分は不思議なほどありありと胸裡に蘇った。(「夏」1、池央耿訳p.92)

 また、次のようなくだり。

 私はこの本(クセノフォン『アナバシス』―引用者)を開き、これを読んだ少年時代の思い出が亡霊のように私の心にうごめくのを感じながら、読みつづけた。そして章から章へとすすみ、数日後には全部を読みあげることができた。
 これが夏のことだったのは幸いなことだと思う。子供の頃の思い出をこの頃の生活と結びつけるのが、どうも私のくせになってしまっている。それには教科書のくせに私の愛読書であったこのような本に帰ってゆくことほど適当な方法はほかにはなかったであろう。
 記憶のなにかのいたずらで、私はいつも学校時代の古典の勉強を、暖い、快晴の季節の感じと結びつけて思いだすのである。雨や陰気な天気やうそ寒い雰囲気の方が実際にははるかに多かったにちがいないのだが、そんなことは忘れてしまったのである。(「夏」九、平井正穂訳pp.102-03)

(クセノフォン『アナバシス』の)ページを開くと少年時代を思い出して心が疼き、章から章と息つく閑もなく数日で一巻を読み終えた。
 夏のことで幸いだった。少年時代と長じて後の接点を探るには教科書に立ち返るのが何よりだろう。どんなものでも学校で読まされるとつまらなくなるのは世の常だが、この本は実に楽しかった。
 ちょっとした記憶のいたずらで、子供の頃に読んだ古典はきっとからりと晴れた夏の日の連想を誘う。雨の日や陰気で薄ら寒い日の方がよほど多かったに違いないが、そんなことは思い出さない。(「夏」9、池央耿訳p.113)

 「子供の頃」に限らず、わたしの個人的な至福の読書体験は、なぜか夏の陽光とともに思い出すことが多く、これを読んだときに、まさに我が意を得たり、という気がしたものである。
 あれは中学生の時分、茹だるような暑さのなか、部屋でこっそり読んだ乱歩の『化人幻戯』や「屋根裏の散歩者」、マンの『魔の山』を感銘しつつ読了したのはたしか真冬で炬燵の中だったはずだが、なぜかよく思い出すのは主人公のハンス・カストルプが雪山を彷徨するくだりや、セテムブリーニとナフタとの息詰まる「対決」の場面で、それらもやはり夏の記憶と結び付いているし*4、近くは(といっても十四、五年前)真夏のからりと晴れた或る日、籐椅子の上で一語一語を噛み締めるように読んだ保坂和志カンバセイション・ピース*5、晩夏の午下り、縁側に腰掛けて読んだ谷沢永一『紙つぶて(全)』……。
 それどころか、夏に読んだはずではない本を夏の記憶とともに思い出したりするのだから、我ながら不思議である。そもそも年がら年中本を読んでいるので、夏以外に読んだ本が大多数なのに、これは一体どうしたことか。
 「夏の読書」は、わたしにとって、格別な意味をもつようである。
 マラマッド/阿部公彦訳「ある夏の読書」(『魔法の樽 他十二篇』岩波文庫2013所収)*6は、そんなわたしが、タイトルに惹かれて読んだ短篇である。しかしこれは、(ネタばらしにはならないと思うのであえて書くが)主人公が「秋になって読書をはじめる話」なので、初めはかなり肩透かしを食った気もした。しかし実は、そこへと至る過程が面白く、読めば読むほど味わいのある作品だと思うようになった。

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 『ヘンリ・ライクロフト』には、次のような描写も見える。これには大方の本好きが共感してくれるものと思う。

 犠牲――といっても、それはけっしてお座なりな意味での犠牲ではない。私のもっている数十冊の書物は、本来ならいわゆる生活の必需品を買うべきお金であがなわれたものなのだ。私は本の陳列台の前や本屋のショー・ウィンドーの前にたち、知的欲望と生理的欲求の板ばさみに幾度苦しんだことであろう。胃袋は食物を求めてうなっていようという食事時間に、ある一冊の本の姿に私の足はクギ付けにされたこともあったのだ。その本は長いこと探し求めていたもので、また実に手頃な値段がついていた。どんなことがあっても見のがしておくわけにはゆかなかった。しかし、それを買えばみすみす飢えに苦しむことは見えすいていた。私のハイネ校訂本ティブルルス*7はこういうときに手に入れたのである。グッヂ・ストリートの古本屋の店頭にあったものだが、この店頭には時折山のようながらくたの本の中に素晴らしい掘り出し物がでていたものであった。六ペンスの値段だった。実に六ペンス! 当時私はオックスフォド・ストリートの、ほとんど今日では姿を消してしまった本ものの古びたコーヒー店で昼飯を(もちろんこれが私の正餐というわけだが)とっていた。六ペンスという金額が私の全財産だった。そうだ、天にも地にもかけがえのない全財産だったのだ。それだけあれば、一皿の肉と野菜が食べられるはずであった。しかしティブルルスが、小銭の入る見込みのある翌日までそのままずっと待っていてくれるとは、なんぼなんでも期待することはできなかった。ポケットの銅貨を指先で数えながら、店頭を見つめながら、私の内部に争う二つの欲望に苦しみつつ鋪道の上をうろうろ歩いた。結局その本は手に入れた。そして家にもって帰った。バタつきのパンでどうにか正餐のかっこうをつけながら、私はむさぼるようにページをめくった。(「春」一二、平井正穂訳pp.47-48)

八十五歳の読居録

八十五歳の読居録

エッセーの楽しみ

エッセーの楽しみ

本を枕に (集英社文庫)

本を枕に (集英社文庫)

ヘンリー・ライクロフトの私記 (光文社古典新訳文庫)

ヘンリー・ライクロフトの私記 (光文社古典新訳文庫)

ヘンリ・ライクロフトの私記 (岩波文庫)

ヘンリ・ライクロフトの私記 (岩波文庫)

魔法の樽 他十二篇 (岩波文庫)

魔法の樽 他十二篇 (岩波文庫)

*1:初出は1986.6.14付「東京新聞(夕刊)」。

*2:これは単行本の刊行年であって、ギッシングは前年の1902年5月、「隔週評論」誌上に作品の一部を発表しているという。

*3:初出は1986.4.20付「朝日新聞」。

*4:魔の山』を読み了えるのに一年近くかかったのだ。

*5:「まるで小津映画のような」、という評言に惹かれて購ったと記憶する。

*6:原題は“A Summer’s Reading”、加島祥造訳『マラマッド短編集』(新潮文庫1971)所収の訳文では「夏の読書」。

*7:3拍めの「ル」は小書き。

再び「けいずかい」、あるいは掏摸集団の隠語について

 かつて(約6年前)、「『けいずかい』」という記事を書いたことがある。
 「けいずかい」は「故買」の義で、松本清張『神々の乱心』に「系図買い=けいずかい」なる語原説が紹介されていることもそちらで紹介した。もっとも『日本国語大辞典』(第二版)などは、それを通俗語原と見做している。
 最近、結城昌治の『白昼堂々』を再読したのだが、作中に「系図買い=けいずかい」説を否定する記述があるのを見つけた*1。ただし同作品には、「けいずかい」もしくは「けいずや」という表現ではなくて、そこは「隠語」らしく、もっぱら「ズヤ」の形で出て来る。
 因みに渡辺友左『隠語の世界―集団語へのいざない』(南雲堂1981)には「ズヤ」の項がみえ、

《ズヤ(図屋)》非行少年たちが盗んできた品物を盗品だと知りながら、買いとる商人を隠語でこういう。いわゆる故買(こばい)である。この故買をする商人のことを一般には系図屋という。ズヤ(図屋)は、この系図屋の上略語である。(「反社会集団の隠語」p.44)

とある。
 米川明彦『俗語はおもしろい! 俗語入門』(朝倉書店2017)によれば、このような「上略」は、

 上の部分を省略すると元の語がわからなくなるため、隠語になりやすく犯罪者集団に多い。(p.35)

という。
 さて以下、表記やページ数は、講談社大衆文学館版『白昼堂々』(1996.3.20第1刷)に拠った。
 まずは、「ズヤ」の作中での初出を示す。

 子分がスり取ってきた品をズヤ(故買商)に売り捌いて上前をハネるのである。(p.31)

 「系図買い=けいずかい」説を否定するくだりを次に掲げる。

 盗品を売り捌く場合、親分というのは仲介業の一種、あるいはズヤ(故買商)の片割れにすぎない。
 ズヤの語源は系図屋(けいずや)の上部二音を略した泥棒用の隠語だが、この系図屋とか系図買いというのは発音を混同した当字で、窩主屋(けいずや)、窩主買いと書くのが正しい。窩は穴ぐらの意味とともに泥棒をかくまったり盗品を隠しておく場所を意味し、窩主(かしゅ)、窩家(かか)、窩贓(かぞう)などと用いられる。(p.76)

 しかしこれでは、「窩」を「ケイ」と読むことの理由がわからない。「窩」は影母歌韻字であるから、字音としては「ワ」が相応しく思われ、「クヮ=カ」も諧声符読みとして認めることができるだろう。だが「ケイ」の由来が分らない。訛音か、似字の混同か、はたまた、そもそも別語に由来するものなのか。引き続き今後の課題としたい。
 『白昼堂々』には、このほかにも俗語・隠語の類が頻出する。初出ではそのつど簡単に意味が示されるなどしてあり興味深いので、その全てを紹介しておく(あるいは一、二の見落しがあるやも知れない)。

 むかしは一流の箱師(列車内のスリ)として名を売った男だ。(p.15)

「なんや、モサ(掏摸)を廃業したら、今度はモサを逮捕(パク)る側か」(p.19)

大阪ではスリのことをチボという。(p.23)

 スリの専門用語で、ズボンの尻ポケットをケッパー、同じく横ポケットをテッポーという。上着の内ポケットが内パーで、外ポケットなら外パーである。そしてスり取ることを買うと称し、初心者は平場(ヒラバ、交通機関以外の雑踏する場所)でこの技術をおぼえ、やがて練達して箱師となる。(p.28)

 ドジをふんで捕まっても、前科がなければたいていデキモサ(出来心によるスリ)ということで釈放される。(p.29)

「あんたみたいな人がどうしてボタかぶったん」
「ボタかぶった?」
「警察にパクられることや」(p.38)

 ベタ買いとは万引の一種である。単独で行う場合と共犯の扶けをかりる場合とがあるが、単独の場合は赤ん坊を背負って、ネンネコの袖下から盗んだ品をさしこみ、赤ん坊をあやすふりをしながら自分の背中と赤ん坊の間に品を隠して売場を離れる。(pp.42-43)

 スリ(モサ)の眼くばりを称して刑事はモサ眼(ガン)と呼ぶ。獲物に眼をつけながら獲物を直視せず、周囲を警戒しながら犯行に移ろうとする寸前の、スリとしては最も気合の充実した一分の隙もない眼だ。(p.51)

 万引用語で盗むことをノムという。彼らがノミに行く先は、決して酒場ではない。(p.71)

 店(てん)びきというのは、万引を行う真打ちから店員の注意をそらす役である。(p.72)

 吸取りとはこれもスリ用語だが、真打ちから盗んだ品をリレー式に預かり、真打ちが訊問された場合の安全を守る役である。(p.74)

 スリ用語で、捜査員のウラをかくことを『ヌケをつかう』という。(p.174)

 このうち「モサ」というのは、わりとよく知られた隠語(というのは形容矛盾か)だろう。これは上でみたように、「デキモサ」や「モサ眼」などの複合語もつくるようだ。
 ここで楳垣実編『隠語辞典』(東京堂出版1956*2)を引いてみると、「もさ」を収めており、

もさ1(1)腹。(2)懐中物。(3)食事。(4)度胸。(5)懐中物。(6)すり。(盗・香具・など)(明)
もさ2(1)たもと。(2)衣類。(すり・盗)(明)

とある*3
 「もさ」についてはほかにも、例えば現代流行語研究会編『隠語小辞典―付 新語の知識』(三一書房1966)の「警察犯罪隠語」の章に「もさ スリのこと。」(p.54)とあるし、最近の下村忠利『刑事弁護人のための隠語・俗語・実務用語辞典』(現代人文社2016)の「犯罪の種類関係の用語」の章にも「モサ スリのことをいう。」(p.49)とある。
 楳垣編『隠語辞典』の項目末尾の「(明)」というのは明治時代から使われていることを示すものだから、「もさ」は長い間使われているらしいことが知られる。ただ語原は定かでないのか、渡部善彦『語源解説 俗語と隱語』(桑文社1938)には、「モサ 掏摸(すり)犯人の隱語。如何なる理由か詳かならず。」(p.173)とある。

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 結城昌治には『仕立屋銀次隠し台帳』(中公文庫1983)という連作小説集もあるように、明治期の掏摸師・仕立屋銀次*4こと富田銀蔵に対する関心がかなりあったらしい。そもそも、『白昼堂々』の主要登場人物・富田銀三の名はここから採られているのだ。
 仕立屋銀次といえば、本田一郎『仕立屋銀次』(中公文庫1994←塩川書房1930)というノンフィクションもあって、こちらは巻末に「隠語いろいろ」(pp.142-76)という語彙集を収めるばかりでなく、本篇中にも俗語や隠語が多く出て来る。『白昼堂々』の記述と比較する上でも意義があることと思われるので、その一部を紹介してみよう。

「勝ッ、てめえは、きょうは、新橋から汽車(はこ)に乗れ」(p.12)

 後の方には、「箱師(はこし)は汽車、汽船、電車を専門に掏摸を働く群である」(p.93)ともある。
 上で見たように、『白昼堂々』にも「箱師」は出て来る。『仕立屋銀次』巻末の「隠語いろいろ」には、「 電車」「箱師 電車、乗合馬車等の掏摸」(p.166)とある。
 「棚師(たなし)」というグループもあったらしく、こちらは「汽車、電車等の中で網棚の上に乗せてある乗客の荷物を掏る一派」なのだそうだが、「東京では箱師の一部に入れ、掏摸というよりも掻払いだというものもある」(p.95)。
 このほかにも、掏摸の方法は色々とあったらしく、中公文庫版「解説」(佐藤健)には、「抜取り」「カバン師」「立ち切り(カミソリなどでカバンを切って、そこから金品を取る)」「ブランコ(帽子掛けにかけてある背広からサイフを抜き取る)」「モズク(車中の仮眠者から金品を取る)」「むなばらし(職人の腹掛けからサイフなどを抜き取る)」「おかるかい(女性の簪を抜き取る)」などが紹介されている(pp.181-82)。

 その頃、深川に花魁(おいらん)の定(さだ)という掏摸師がいた。定は勝と同じ店に働いていた鼈甲職人だが、博奕と女が好きで仕事も碌にせず、縁日やお祭りの人混みを利用して、人の袂を掠(かす)める、ぼたはたきになった。(p.66)

 「隠語いろいろ」には、「ぼた 袂」「ぼたはたき 袂を探って金や品物を掠める」(p.170)とある。「ぼたはたき」については、本篇ではこの後にも「ぼたはたきは、俗に平場(ひらば)といって、公園、縁日、祭礼、みせ物なんかの人混みの場所に出没し、袂を探って金や品物を掠(かす)める」(p.92)と出て来る。

 これが縁となって、定はその後もちょいちょい品物を持って来ては金を借りる。定の仲間でびっこの治三が、定から勝の話を聞き、素人に品の処分をさせて、どじを踏まれちゃ困ると一日(いちじつ)、勝の家を訪ね、実はこれまで定が借金の抵当に持って来た品物はありゃあ、みんな掏摸を働いた品だ。あの品物を一手に引受けて、うまく捌(さば)いてくれりゃあボロイ儲(もう)けになる。警察に尻尾をつかまれねえように、品物を捌くにゃこうするんだ。と、まア、いろいろ秘策を授けてやった。
 もともと慾に眼のない勝のこと、その頃は世間が物騒で鼈甲屋のような贅沢品商売は、思うような商売(あきない)もないので、治三のいうままに品物の取引をすることを承知した。掏摸仲間では、これを通屋(つや)という。
 鼈甲屋の職人じゃ、朝から晩まで一日、汗水流して働いても、高々二両か二両二分の稼ぎにしかならないのに、この通屋をやれば、一日に十五両、二十両の大金が遊んでいて儲かるとばかり、勝は本職の鼈甲屋の店をたたんで通屋になった。(pp.66-67)

 この「通屋(つや)」は上でみた「ズヤ」と同義のようだが、宛字であろうか。「隠語いろいろ」にはなぜか「つや」の項がなく、「ずや 贓物(ぞうぶつ)の故買屋」(p.156)、「づや 故買屋」(p.160)、「 故買者」(p.169)、「ろう 故買者」(p.175)がある(ついでながら、「けいずかい」「けいずや」はなし)。

 チボといえば大阪千日前(せんにちまえ)を聯想する。
 大阪は東京よりも一と足先きに掏摸が眼をつけて横行闊歩(おうこうかっぽ)したところである。大阪のちぼは東京の掏摸より腕が達者だというが、仲間の者にいわせると、執拗(しつよう)で、大胆なのだという。(p.77)

 上の通り、これも『白昼堂々』に出て来た。「隠語いろいろ」にはなし。

 相手はすっかり油断している。掏摸眼(すりがん)で見ると全身隙だらけだ。(p.80)

 『白昼堂々』には「モサ眼」というのが出て来て、これは捕まえる側から見た掏摸の目つきをいうのだったが、「掏摸眼」は、文字どおり掏摸の目、ということだろう。

 同じ懐中物といっても、外のポケットを掏るのは内ポケットより楽なことはいうまでもない。仲間ではポケットをモサという。だから内ポケットは内モサ、外は外モサである。帯の間の時計を掏る時でも、時計だけ掏って、鎖はそのまま返しておくのが、作法になっっている。(略)
 洋服の内モサは仲間の一番掏り易いところとされている。
 ここで、すこし、仲間の符牒を話して見る。
 紙入れがパー、掏ることを「買う」、金時計は「金マン」又は「テラ鶯(うぐいす)」、銀時計は「銀マン」又は「饅頭(まんじゅう)」、異人さんが「人唐(じんとう)
 だから「きょうは神田橋から上野の間で、じんとうの金マンを一つ買ったよ」といえば、神田、上野間で異人の金時計一個を掏ったということだ。(pp.93-94)

 『白昼堂々』にはポケットを「パー」という、とあったが、こちらは「モサ」といっている。
 しかるに「隠語いろいろ」の方をみると、「内ぱあ・内もさ 内側にある衣囊(ポケット)」(p.146)、「けつぱあ ズボンの後にある衣囊(ポケット)」(p.151)、「外ぱあ・外もさ 外側にある衣囊(ポケット)」(p.157)と、「ぱあ(パー)」「もさ」を併記した項もみえる。
 単独だと、「ぱあ 衣囊(ポケット)の総称。紙入、名刺入」(p.165)、「もさ 衣囊(ポケット)の総称」(p.173)と語釈を施している。
 なおこれも上でみた通りだが、楳垣編『隠語辞典』の「もさ」項には「たもと」「衣類」の義はあったけれども、「ポケット」の義はなかった。派生義なのか。

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 野村芳太郎『白昼堂々』(1968松竹)の感想をここで記したことがある。角川文庫版の原作を入手したのはこの22日後のことで、そのさらに約3日後から読み始めている。

隠語の世界―集団語へのいざない (叢書・ことばの世界)

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俗語入門: 俗語はおもしろい!

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隠語辞典

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隠語小辞典 (1966年) (三一新書)

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刑事弁護人のための隠語・俗語・実務用語辞典

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仕立屋銀次 (中公文庫)

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あの頃映画 「白昼堂々」 [DVD]

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*1:初読はかれこれ十年以上前、角川文庫版によってだったが、そのことはなぜか全く記憶になかった。集中して読んでいなかったのか知ら。

*2:手許にあるのは1969.4.10発行の18版。

*3:凡例には「発音が同じであって、意味や用法のちがう語の場合に、見出し語の下に(略)番号を付けた」とあるが、なぜ「もさ」をわざわざ2項に分けているのか分らない。あるいは、「もさ2」は掏摸用語として限定される用法、ということか。

*4:関川夏央作・谷口ジロー画『「坊っちゃん」の時代』(双葉文庫など、全五冊)にもその活躍が描かれていたと記憶する。