まずは、清水俊二(1906-88)の回想を引こう。当時は数えで三十一歳であった。
昭和十一年二月二十六日、前の晩につもった雪の中を荻窪駅まで歩いて行く途中、陸軍教育総監渡辺錠太郎の邸の前を通った。父に教えられて、その家が渡辺邸であることを知っていた。市ヶ谷から黄バスに乗り換え、いまの日本テレビの前を通って、麹町の大通りを横切り、いつもは永田町から内幸町の大阪商船ビルの前に出るのだが、その朝はバスが赤坂から田村町に迂回、いまの日比谷シティのあたりで降ろされた。
バスを降りると、雪がまっ白に降りつもっていて、帝国ホテルのあたりまで人通りがなく、武装した兵士が銃剣をかまえて立っていた。機関銃座がいくつも組まれていて、あたりの空気がよけい冷たく感じられた。
すぐそこの大阪商船ビルに会社があるのだが、というと、緊張した表情の兵士が一言もものをいわずに顔を横に向けて指図をして、通らせてくれた。ビルのなかはべつに変わったこともなく、エレベーターも動いていた。(略)
いまとちがい、なかなか情報が入らない。ラジオも、新聞も、報道の自由を持っていなかった時代だ。東京の陸軍部隊がクーデターを起こしたのだとわかるまでにだいぶ時間がかかった。(『映画字幕五十年』ハヤカワ文庫NF1987:194-95)
村上一郎(1920-75)は清水よりもずっと夭く、当時はまだ血気盛んな十七歳だったが、「親戚にあたるある人物が(略)内閣の末に列していた」という自身の「人脈」、住んでいた「宇都宮はなによりも"軍都"であった」(以上、「私抄“ニ・ニ六事件”」『北一輝論』角川文庫1976所収:157)という「地の利」を活かして、関係者から早くも事件の内容を聞き出している。
わたしが中学二年から三年になろうとする年の二月、あの誰でもが覚えている大雪の日、宇都宮の歩兵第五十九連隊を基幹とする第十四師団は、ガラガラと砲車を曳きながら、見送る群衆もなしに、出勤して行った。ニ・二六事件である。
わたしは友人と二人、裁判所前で、頬をひきつらせた兵たちの行軍の有様を見た。それらの兵たちは、かつて満洲事変や上海事変に出征して行った時に見送った兵たち以上に緊張して見えた。下手をすれば内戦になる――と誰しもが直感していたのであったろう。
わたしの家にはラジオがなく、新聞は二十七日の昼近くまで配達されなかったから、すぐに軍人の子弟や警官の子弟の間を駆けめぐって情報を集めにかかった。桜少年団以来の後輩である水野が一番よいアンテナであった。まず、彼の家の電話を借り、内田の叔父の邸に長距離電話を入れた。むろんダイヤル式なんぞではない時代で、かつ電話は入り乱れているから、なかなか通じない。わたしは水野と寒い玄関に対座して、一時間たっても通じない電話にいらいらしながら、水野の知っている限りの事件内容を聞き出した。水野のいうところでは、蹶起したのは、歩兵第一連隊および第三連隊らしく、いまの天皇陛下は軟弱で親欧米の重臣のいうがままだから、弘前の連隊にいる秩父宮さまを天皇にするのだ、という。(略)これは大したことになったと、水野の話を聴いてみると第十四師団内にも、蹶起部隊に同情的な軍人がおり、某参謀は昨夜から所在が不明で、おそらく蹶起部隊に連絡すべく独断で上京したのではないか、と見られており、師団長も困っているらしいのだという。(略)
電話は、やっと通じた。雑音が入って、とぎれとぎれではあったが、内田の叔父は早朝に首相官邸が襲撃を受けているとの電話連絡を受け、寝衣のまま自家用車で窪田の伯父の邸まで逃げ、歩兵第一連隊が近いから、検問は受けたがどうやら突破し、窪田の邸で礼服を借り、参内したとのことであった。(略)叔父は財閥にもかかわり深く、かつかつては犬養毅翁を政友会総裁ひいては総理大臣にかつぎ出し、近くは岡田啓介大将を総理大臣にした企図にも関わっている。それに陸軍とはあまり仲よくなくて、海軍びいきである。殺られる要因は充分にある。(略)
翌日であったか、他のアンテナから情報が入り、第十四師団は戒厳司令部の掌握下に入り、赤坂だか四谷だかの警備に就いた、ということであった。そしてもっとも恐れられた、蹶起部隊の宮城占領も、放送局占領もなされなかった。秩父宮も、上京・参内はされたが、蹶起部隊には接触せしめられずに終った、と聞いた。もっとも一説では、宮が、蹶起部隊をはじめから叛逆者扱いしていた天皇と激論に及んだ、という話もあったが、確かめようもなかった。(『振りさけ見れば』而立書房1975:88-90)
辻邦生(1925-99)は村上よりもさらに夭くて十二歳だったが、間近で事件を目撃している。
子供の頃の雪で忘れられないのは、二・ニ六事件の日の雪だ。その当時、東京郊外だった東中野に住んでいて、そこから省線(JR)で赤坂小学校に通っていた。四ッ谷から雪の紀伊国坂を下りてくると、御所の前に土嚢が積まれ、剣付き鉄砲で武装した兵隊たちが興奮した様子で警備していた。
小学校の校舎は、叛乱軍の占拠した山王ホテルと料亭幸楽に近く、当時家並みが低かったので、窓から、雪に覆われた屋根越しに直接その建物が見えた。
廊下の窓際にも土嚢が積まれ、鉄砲を持った兵隊たちが血走った目で山王ホテルのほうを睨んでいた。その日は学校が午前中で休みになり、私は雪の道を暗い重い気持で四ッ谷駅まで帰ったことを覚えている。翌日は電車も停まったはずである。(「記憶のなかにつもる雪」『生きて愛するために』中公文庫2009改版:31-32)
辻が「暗い重い気持で」帰途に就いたのとは逆に、事件の発生翌日、それを明るい心持ちで眺めていたのが、後に転向する林健太郎(1913-2004)である。当時二十四歳。
明けて昭十一年、この日は特に雪の多い冬であった。二月の初めに記録的な大雪が降って、多くのサラリーマンが家に帰れなくなりまた職場に泊まったなどという珍しいことがあった。ところがこの同じ二月にまた大雪が降って、その雪の中の払暁に起こったのがニ・ニ六事件である。(略)
この日は朝からのラジオ放送で何か異常な出来事の起こったことがわかり、やがてその事実も逐次報道された。私はいよいよファッショ革命(当時の言い方では反革命)が起こったかと興味津々たるものがあり、翌日弥次馬根性で見物に出かけた。どこをどう歩いたか、今では記憶があまり明確ではないが、ともかく叛乱軍の兵士らしきものが警備についている有り様を少し離れたところから観察して引き返した。積雪の街の上にどんよりとした曇り空が広がって寒かったが、私の心は妙に明るかった。当時の私の考え方からすれば、こういう「ブルジョアジー」内部の抗争は資本主義体制を弱化するものであるから歓迎すべきことだったのである。(『昭和史と私』文春学藝ライブラリー2018:103-04)
- 作者: 辻邦生
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