加藤典洋『日本風景論』のことから

 この五月に亡くなった加藤典洋氏の『日本風景論』(講談社文芸文庫2000)を読んでいると、というか、そこに収められた「武蔵野の消滅」なる論考に惹かれて読んでみると、国木田独歩の「忘れえぬ人々」にも言及していたので、嬉しくなった。
 加藤氏は木股知史氏の論を援用しつつ、柄谷行人氏が「風景の発見」で論じた二つの風景――「明治期以前に、見出されるまでもなくあった風景」と、「新たに見出された「風景としての風景」」――のほかに、「第三の「風景」」、すなわち「たんなる風景」というものが明治初期に見出されたのであって、「忘れえぬ人々」にはそれが表れている、と説く。そのことは「武蔵野」でも同様だとして、「国木田のような奇怪な視線の持主」を「新人」と呼んだうえで、

 とにかく、この新人は、それまで「風景」とはこのようなものだと教えこまれてきた文化コード、それに準拠する名勝地の景観にはどのような魅力も感じず、むしろ何のへんてつもない、と思われてきた景観、落葉林、雑木林の広がる平野、都市と田舎の間に横たわる境界地域に魅力を感じる。ここでは、どのようなわけからであれ、とにかくこうした新人類が現れ、「たんなる風景」として「武蔵野」を発見していることが重要なのである(因みにいえば『武蔵野』には、「忘れえぬ人々」と並んで「郊外」という小品も収められている)。(『日本風景論』p.178)

と論じている。これを前提として、「忘れえぬ人々」に登場する大津と秋山とが「別に何の肩書もない」名刺を交換するの(前回のエントリ参照)は、「確信的な無名者、「無名」という肩書き、「何者でもない」という肩書きをもつ、第三の範疇に属する新人」(p.182)であることを意味する、と述べる。そしてこの「新人」が、「彼と何のかかわりもない無関係者、彼個人に帰属するある理由から「忘れ得ぬ人」となっている、そうした人々の映像を思い浮かべる」(p.183)。それこそが、「忘れえぬ人々」の本質だという。
 続けて加藤氏は、以下のように記す。

「忘れ得ぬ人」は、「これらの人々」として語られ、「そうでない、これらの人々を見た時の周囲の光景の裡に立つこれらの人々」と言い直される。国木田の言いあてようとするのは、既知のものが未知のものとして見えはじめるというある事態であり、いわば「たんなる風景」としての「これらの人々」の発見が、ここで語られようとしている。彼は「文学」(内面)の言葉でしか語れないが、言いたいのは「風景」のほうだ。「文学」(内面=忘れてかなうまじき人)に解消されないものがある。意味に解消されない「たんなる風景」がある。自分はそれを言いたい。それがここにいう「風景」、「風景としての人」、「忘れ得ぬ人」の意味なのである。(p.183)

 「これらの人々」は、加藤氏によって「ただの人」(p.214)と言い換えられるが、この解釈も、荒木優太氏の「偶然的遭遇」論と並んで、なかなか魅力的である。
 加藤氏の論は、「人は二重人格、三重人格、スパイのような存在でなければ、いま「ただの人」でいることはできないのではないだろうか。そうでなければ、「武蔵野」のない世界に、「武蔵野」を見て生きてゆくことは、いま、たぶん不可能なのである」(p.214)といった一文で結ばれる。
―――
 さて「武蔵野」は、第二章が、独歩自身の日記の一部――明治二十九(1896)年の秋の初めから翌年の春にかけての記述の一部――を引用する形式になっている。この日記というのは、「一八九三年(明治二六)年〈ママ〉二月から一八九七年五月までの日記「欺かざるの記」」を指し、「(独歩)没後に田山花袋・田村江東・斎藤弔花の校訂により公刊された(『前篇』一九〇八年一〇月、『後篇』一九〇九年一月)」(岩波文庫版『武蔵野』の注より、p.259)。
 当時は日記の公刊を心待ちにしていた者も多かったようで、たとえば近松秋江は、明治四十一(1908)年七月七日に、

 私は(略)此度遺稿出版として上梓せられやうとしてゐる(国木田)氏の『欺かざるの記』や『病牀録』やに對して非常な渇望を抱いて居る。『欺かざるの記』既に題を聞いただけで氏が單純な藝術の人でなく、如何に精神の人、思想の人、性格の人であるかゞ分るではないか。氏は人の師たることの出來る人である。師といふのは小説の先生をいふのではない。(「性格の人國木田獨歩」『文壇無駄話』河出文庫1955:46)

と書いている。
 ただし、「武蔵野」の第二章に引かれる『欺かざるの記』は、原文そのままではないし、意図的に省かれた箇所もある。これに関して、前田愛は次のように述べる。

 『武蔵野』の第二章には、秋から春にかけての季節のうつりかわりを録した『欺かざるの記』の記事が抄録されているが(多少の異動〈ママ〉がある)、当然のことながら信子*1への想いを表白した部分は切りすてられている。たとえば、「朝、空曇り風死す、冷霧寒露、虫声しげし、天地の心なほ目さめぬが如し」という九月十九日の記事の後には、こういう記事がつづくのだ。「夢に彼の女を見たり。彼の女曰く君に帰る程に雑誌を起し給へといへり。『薄弱よ、爾の名は女なり』女性の品性に誠実を欠くは薄弱なるが故なり。吾未だ高尚なる女を見ず。女子は下劣なる者なり」。(「国木田独歩『武蔵野』―玉川上水」『幻景の街―文学の都市を歩く』岩波現代文庫2006〈小学館1986〉:66-67)

 「武蔵野」が『欺かざるの記』から最初に引用するのは、これに遡ること2週間弱の九月七日の條であり、以下の如く引用されている。

九月七日――「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ風を払ひつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌めく、――」(岩波文庫版p.6)

 この箇所も、『欺かざるの記』とはかなりの異同がある。赤坂憲雄氏は次のように記す。

 たとえば、独歩にならって、まず九月七日の記事から始めることにしよう。「武蔵野」と『欺かざるの記』を並べてみる。「武蔵野」には、以下のように日記からの抜き書きが示されている。すなわち、「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ風を払ひつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌めく」と。これに対応する『欺かざるの記』の記述は、「昨日も今日も南風強く吹き、雲霧忽ち起り、突然雨至るかと見れば日光雲間よりもれて青葉を照らすなど、気まぐれの秋の空の美はしさ」である。注意を促しておきたいのは、附加された「林影一時に煌めく」という箇所である。(『武蔵野をよむ』岩波新書2018:36)

 赤坂氏がなぜ「林影一時に煌めく」に着目しているのかは、実際に『武蔵野をよむ』の本文にあたって頂くとして、ここで注目したいのは、「降りみ降らずみ」(降ったり降らなかったり)という表現である。こちらも、上で見て分るとおり、『欺かざるの記』には出て来ていない。
「降りみ降らずみ」は、直前の「雲を送りつ風を払ひつ」に対応するものとして導き出された形式であろうが、むしろ、和歌や俳句で用いられる表現だと思う。
 散文に用いたのは、独歩がその嚆矢――とはいわないまでも、かなり夙い例だったのではなかろうか。
 後年には、たとえば山田風太郎が、昭和十九(1944)年、昭和二十(1945)年の日記でこの表現を用いている(ちなみに昭和十九年年九月十七日以降の日記には、「晴れみ曇りみ」「降りみ晴れみ」「降りみ照りみ」等といった表現も出て来る)。

二月二十四日
 ○陰気なる日。雲暗澹として雨降りみ降らずみ。昨日正木君の持って来てくれた二月分の給料袋をあけると五十円十八銭也。(山田風太郎『戦中派虫けら日記―滅失への青春』ちくま文庫1998:300)

七月一日(日) 雨
 ○終日霧雨ふりみふらずみ。午後荷物運搬作業。
山田風太郎『戦中派不戦日記』講談社文庫1985:250)

 「降りみ降らずみ」を用いた散文として、私にとってとりわけ印象深いのは、杉本秀太郎「どくだみの花」(初出は「海燕」1982年7月号)である。この随筆の冒頭に、「降りみ降らずみ」が出て来る。すなわち次のようである。

 降りみ降らずみの夕まぐれに、芍薬が雨滴を含んで三輪、五輪、うなだれている。抱き起こしてのぞき込むと、早く何とかしてください、という声が聞こえた。(「どくだみの花」『半日半夜―杉本秀太郎エッセイ集』講談社文芸文庫2005所収:188)

 この「どくだみの花」について、「数あるなかで、かねがね私がこれぞ杉本秀太郎のベストワンと思い定めている作品」だと断言するのが、杉本氏の旧い友人・山田稔氏である。山田氏は、杉本氏への追悼文ともいえる「「どくだみの花」のことなど」(『こないだ』編集工房ノア2018所収、初出は「海鳴り」28、2016年6月)で、「どくだみの花」餘話というべき挿話を披露している。杉本氏の文章中で、名前を出さずに「先生」とだけ呼んでいる人物が生島遼一であるということ、生島自身は名前を出してほしかったと云っていたこと、杉本氏から届いた葉書、そしてそこに書かれた言葉のことなど。生島が「芍薬の歌」なる随筆を書いた、というのはこの文章で知ったのだったが、ともかく、山田氏の「「どくだみの花」のことなど」も、実に秀れた作品なのである。
 「「どくだみの花」のことなど」については、『こないだ』を評した坪内祐三氏も「まさに絶品」「少し辛口の名文」と書いているし、井波律子氏も『こないだ』評(「毎日新聞」2018.8.7付)で、やはり「「どくだみの花」のことなど」を真っ先に取り上げ、「過剰な思い入れなく、淡々と綴られているにもかかわらず、今は亡き大切な友人の姿がくっきりと描きだされ、みごとである」(『書物の愉しみ―井波律子書評集』岩波書店2019:503-04)と称賛している。
 そういえば、生島遼一『春夏秋冬』(講談社文芸文庫2013)の解説「生島遼一のスティル」(山田稔)も、解説というよりは、むしろ「ポルトレの名手」(坪内氏)としての山田氏の才能がよく表れた佳品だといえる。後には、『天野さんの傘』(編集工房ノア2015)に収められた。

日本風景論 (講談社文芸文庫)

日本風景論 (講談社文芸文庫)

武蔵野 (岩波文庫)

武蔵野 (岩波文庫)

文壇無駄話 (1955年) (河出文庫)

文壇無駄話 (1955年) (河出文庫)

幻景の街―文学の都市を歩く (岩波現代文庫)

幻景の街―文学の都市を歩く (岩波現代文庫)

武蔵野をよむ (岩波新書)

武蔵野をよむ (岩波新書)

戦中派虫けら日記―滅失への青春 (ちくま文庫)

戦中派虫けら日記―滅失への青春 (ちくま文庫)

新装版 戦中派不戦日記 (講談社文庫)

新装版 戦中派不戦日記 (講談社文庫)

半日半夜 杉本秀太郎エッセイ集 (講談社文芸文庫)

半日半夜 杉本秀太郎エッセイ集 (講談社文芸文庫)

こないだ

こないだ

書物の愉しみ 井波律子書評集

書物の愉しみ 井波律子書評集

*1:独歩が不本意な形で結婚生活の破綻を迎えたその相手、すなわち元妻の佐々城信子。

国木田独歩「忘れえぬ人々」

 武蔵野の西端に少しばかり縁が出来たこともあって、このところ、国木田独歩『武蔵野』(岩波文庫2006改版)を持ち歩いて読んでいた。これは表題作のほかに十七篇を収めた短篇集で、そのうちとりわけ心に残ったのが、「忘れえぬ人々」である。
 「忘れえぬ人々」も武蔵野を舞台とする作品で、作中には、たとえば「春先とはいえ、寒い寒い霙まじりの風が広い武蔵野を荒れに荒れて終夜(よもすがら)、真闇(まっくら)な溝口の町の上を哮え狂った」(p.155)といった描写がみられる。
 山田太一氏は武蔵野の「溝の口のはずれ」に住んでいる(いた?)そうで、「武蔵溝ノ口の家」(『月日の残像』新潮文庫2016)で「忘れえぬ人々」の冒頭部分を引用しつつ、「いい短篇で全部引用したいがそうもいかない。(作中に出て来る宿屋の)亀屋は数年前まで婚礼や法事などに使われる亀屋会館となって続いていたが、ある年とりこわされてマンションになってしまった」(p.17)と書いている。
 阿部昭*1も、「忘れえぬ人々」を好きな短篇のひとつとして挙げていて、次の如く述べる。

 独歩の短編からどれか一つ、というのは無理な注文であるが、私がときどき覗いてみたくなるのは、二十七歳の年に『武蔵野』についで書かれた『忘れえぬ人々』である。覗くというのは、冒頭の堂々たる風格をもった叙景、またそれに続く宿屋の帳場の場面だけでも、私にはしばし時を忘れるに十分だからである。そこを読むと、なにか自分もそんなうらぶれた旅人姿で一夜の宿を探しているような、心もとない気持ちになる。そして、自分もそんな宿屋に一晩厄介になりたいような、人恋しい気持ちになる。懐かしいと言っても、しんみりすると言っても足りない、鷗外や漱石と同じ、日本人の血にひそむ郷愁を掻き立てずにはおかぬものが、やはりここにもある。(『短編小説礼讃』岩波新書1986:59)

 阿部は、これに続けて「忘れえぬ人々」の冒頭部を引用し、「亀屋の主人(あるじ)」の描写について高く評価する。さらに作品全体としては、

 『忘れえぬ人々』は、主人公のメッセージにそむかず、読む者に人がこの世にあることの不思議さをしみじみと感じさせる。そしてまた、その結びには若い独歩の文学への自覚と決意がうかがわれる。(同前p.64)

と評している。ここで、「忘れえぬ人々」の梗概を述べておこう。
 三月初旬の晩、武蔵野溝口の亀屋を訪れた二十七、八の無名の文学者・大津弁二郎(独歩自身がモデルかと思われる)が、隣室の客で二十五、六の画家の秋山松之助とたまたま相知ることになり、自室に来た秋山と「美術論から文学論から宗教論まで」語り合う。そのとき大津の手許にあった草稿に秋山が眼をとめる。表紙には「忘れ得ぬ人々」と書かれており、秋山はそれを見せてほしいとせがむ。大津は、草稿は見せずに詳細を語って聞かせることにする。その表題の意味するところは、「忘れ得ぬ人は必ずしも忘れて叶うまじき人にあらず」。すなわち「忘れて叶うまじき人」は、親や子・知人だけでなく、自分が世話になった教師先輩の類をさすが、「忘れ得ぬ人」は、まったくの赤の他人なのに「終(つい)に忘れてしまうことの出来ない人」のことである。大津は、旅先などで見かけたりすれちがったりした「忘れ得ぬ人」を幾人も挙げた。
 それから二年後のこと。大津と秋山との交際は全く絶えてしまっている。大津は雨の降る晩、ひとり机に向かって瞑想していた。机上には、「忘れ得ぬ人」の原稿が置いてある。だが、その最後に「忘れ得ぬ人」として書き加えてあったのは、すっかり打ち解けて深更まで語り合った秋山ではなく、「亀屋の主人」だった――。
 さて、朝刊連載記事をまとめた堀江敏幸『傍らにいた人』(日本経済新聞出版社2018)は、国内外の小説(短篇がとくに多い)についての随想集であるが、劈頭の「傍点のある風景」は「忘れえぬ人々」を端緒として叙述を始めており、その末尾の方で次のように記している。

 すべての語りが終わったあと、作者(独歩)の分身を思わせる大津の心の光景のなかで、主要な人物とは見えなかった男(亀屋の主人のこと)に印象的な傍点が振られた理由については、独歩の文学全体に、また彼の短かった生涯の出来事に照らしてみれば、それらしい説明が可能になるだろう。
 けれど私は、ひとりの読み手として、こうした解釈の誘惑からいったん離れてみたいとも思うのだ。読書をつうじて形成された記憶のなかで振られる後付けの傍点の意味を、深追いしないこと。書物のどこかで淡い影とすれちがっていた事実を、ありのままに受け入れること。その瞬間、頬をなでていたかもしれない、言葉の空気のかすかな流れを見逃していた情けなさと出会い直せた不思議を、大切にしておきたいのである。(p.13)

 「印象的な傍点が振られ」る、というのは堀江氏独特の言い回しであるが、これは次の記述を受けたものである。

 私は実際に、思い出されてはじめて、なるほどその折の景色のなかに目立たない傍点が打たれていたのだと気づかされるような影たちと、何度も遭遇してきた。ただし、現実世界ではなく、書物の頁の風景の中で。
 読み流していた言葉の右隣に、じつはあぶり出しの手法で見えない傍点が振られていて、時間の火をかけるとそれが黒い点になって浮かびあがる。濃淡は、めぐる季節によっても変化する。(p.11)

 荒木優太氏は、「亀屋の主人」が忘れ得ぬ人として選ばれた理由について、次のような解釈を与えている。「それらしい説明」どころか、得心のゆく見立てであるように思えたので、最後に紹介しておきたい。

 大津は「忘れ得ぬ人々」という題名の原稿に、「秋山」の名ではなく「亀屋の主人」と書き込んでいたことが小説の末尾で明らかになる。あたかも、「名刺の交換」を済ませたような縁故*2の外にこそ求めるべき出会いがあったかのように。(中略)
 彼らの肩書なき名刺は、実際の無名性や有名性を隠す謙虚さの表れなどではなく、単なる「ハイカラー」である可能性がある。そうであるのならば、「秋山」ではなく「亀屋の主人」が特別な対象として選ばれたことも理解できる。仮に再会せずとも「秋山」は都会のネットワークに通じており――少なくとも大津は「東京」の人間でネットワークを予感できる、〈場所性〉の問題――、純粋な偶然的遭遇は、その外部のたまたま立ち寄った「亀屋の主人」の方に認められるからだ。(『仮説的偶然文学論―〈触れ‐合うこと〉の主題系』月曜社2018:141-42)

武蔵野 (岩波文庫)

武蔵野 (岩波文庫)

月日の残像 (新潮文庫)

月日の残像 (新潮文庫)

短編小説礼讃 (岩波新書 黄版 347)

短編小説礼讃 (岩波新書 黄版 347)

傍らにいた人

傍らにいた人

仮説的偶然文学論 (哲学への扉)

仮説的偶然文学論 (哲学への扉)

*1:ことしが歿後三十年に当る。

*2:秋山が大津の部屋に押し掛けた時点で、二人は「別に何の肩書もない」名刺の交換を済ませている。

和田誠『快盗ルビイ』

 和田誠快盗ルビイ』(1988,ビクター=サンダンス・カンパニー)を観た。同年の「キネ旬」ベスト10の作品。
 同じく和田による『真夜中まで』(1999)を観たときにも思ったが、監督の「映画愛」がストレートに伝わってくる作品だ。ワイルダー風であり、また、「巻き込まれ型」という意味でヒッチコック風でもあり、なかなかしゃれている。小泉今日子の魅力がはじける正統派の「アイドル映画」だけれども、そのスタイルは一種の「肉づけ」にすぎず、根本のところでは、映画好きが自分の好きなように、あくまで愉しんで撮っているふうなところに惹かれる。
 原作はヘンリー・スレッサーの『快盗ルビイ・マーチンスン』という連作小説。語り手ボビイと、その従兄で天才的な犯罪者・ルビイとが、数々の奇想天外な犯罪を計画するも、ちょっとした綻びによってどれもこれも失敗に終るといったお話。
 スレッサーといえば、ヒッチコックがその作品の多くを映像化している。劇中、加藤留美快盗ルビイ小泉今日子)の蔵書の一部が映るのだが、そのなかに、チャンドラーの『湖中の女』や山田宏一『映画的なあまりに映画的な―美女と犯罪』(単行本)などにまじって、スレッサーの『うまい犯罪、しゃれた殺人』(ポケミス版)が見えるのは、自己言及的でおもしろい。ルビイはこういう小説を夜な夜な読んでいて、そこから犯罪のヒントを得ているのだろう、などと想像すると愉しい。
 原作は主人公が男だが、映画では加藤留美=ルビイという女の子に置き換えられている。和田の述懐によると、「うんと若い頃に「ヒッチコック・マガジン」で読んだ読切短篇シリーズの「快盗ルビイ・マーチンスン」」を「六〇年にハヤカワ・ミステリとして出版された時にすぐ買っ」たのだとかで、「短篇集だけど連作だから一本につなげることもできるなあと」考えたというが(和田誠『シネマ今昔問答・望郷篇』新書館2005:p.237)、「「快盗ルビイ」の主役を女性にしたのは(略)直接の影響は実は「虹を掴む男」なの」だ、という(同p.238)。
 ジェイムズ・サーバーの短篇集『虹をつかむ男』は、鳴海四郎訳が「ハヤカワepi文庫」に入っている(2014年刊)が、これはもともと早川書房の「異色作家短篇集」に収められていた。表題の短篇は、しがない中年男が妄想のなかでは英雄となって目覚ましい活躍をするという、古くさい言い方だが「男のロマン」を体現したような作品。ついでにいうと、『快盗ルビイ』の劇中には、ルビイの蔵書として、「異色作家短篇集」のうちの一冊、ロバート・ブロック/小笠原豊樹訳『血は冷たく流れる』も映り込んでいる。
 さて和田が、ここで「直接の影響」を受けた作品として挙げているのは、そのサーバーの原作ではなく、ノーマン・Z・マクロードの映画版(1947年製作)をさす*1。主役の中年男、ウォルター・ミティは映画では出版社の校正係ということになっており、ダニー・ケイが演じている。彼の妄想の世界=白昼夢にロザリンド(ヴァージニア・メイヨ)がいつも登場するのだが――ロザリンドはサーバーの原作には出て来ない――、その女性が現実の世界に現れることで、ウォルターは宝石の争奪戦に否応なく巻き込まれてしまう。ジェラール・フィリップ主演の名作、ルネ・クレール夜ごとの美女』(1952)には、この『虹を掴む男』を意識したと思しきところが多分にある。
 『虹を掴む男』のロザリンドは劇中では犯罪者ではないが、その小悪魔的魅力が『快盗ルビイ』の小泉の役柄に投影されている。ウォルターは母親との二人暮らし――こういう細かな設定も原作にはない――、ルビイの相棒となる林徹=真田広之も、やはり水野久美扮する母親との二人暮らしで、いわゆる「マザコン」という位置づけ。しかしラストで、それまでルビイが提案していた犯罪計画を、初めて徹の方から提案することになる。これは母親依存からの独立を意味しているのだろうが、『虹を掴む男』のウォルターも最後に母親から自立するという筋立てで、そのような点でも、『快盗ルビイ』は同作を踏襲しているといえる。
 ところで真田は、『柳生一族の陰謀』(1978)しかり『里見八犬伝』(1983)しかり、それまでは二枚目のアクション俳優としての活躍が目立っていたが、『快盗ルビイ』では三枚目を巧く演じている。それはまさに、巧く、というほかない。和田は、真田に三枚目を演じさせることを申しわけなく思っていたというが、「ぼくが「キャメラの前で(自転車ごと)転んでカラカラ回る車輪が画面いっぱいになるように」って注文すると(真田が)その通りやってくれる」(和田前掲p.241)、「ぼくが現場で思いついて「仰向きで寝ている姿勢から瞬時に正座できる?」ってきいてやって貰ったんですが、見事に決まりましたね」(同p.242)とも述べている。そもそもずば抜けた運動神経がないことには、このような藝当ができるはずもない。
 和田はさらに、キャスティングを決めた上で脚本を書き進めたとも語っており、それゆえに、めいめいが所を得た動きをしている。小泉、真田はもとより、たとえば輸入雑貨店主役の天本英世。見るからに怪しげで偏屈そうなのだが、実は善人。小泉に、「あの顔見たでしょ。悪人の顔よ。陰でだれかいじめたりしてるわ。それとも、夜中に怪しい薬を発明してるのよ」と、“楽屋落ち”めいたせりふを言わせるのだから可笑しい。ちなみに和田は、「高品格さんも出て欲しかったけど、ぴったりの役がなかった」(同p.243)とも振り返っている(高品は1994年歿)。
 小道具やセットにも注目したい。まずおもしろく思ったのが、銃を構えたハンフリー・ボガードの巨大なパネル。林母子の住むマンションの最上階にルビイが引っ越してくる。クレーンがパネルを上階に引き上げている。それが母子の部屋の窓越しにゆらゆらと見える。まるで白昼夢を見ているかのごとく、徹がポカンとそれを見詰めている。母親が、徹の様子のおかしさに気づいたころには、パネルはすっかり引き上げられてしまっている。この絶妙さ。その後、ルビイと徹とが「密談」するのをアオリで撮る場面があり、ボガードの構える銃が二人に突きつけられているように映っているのもおもしろい。ほかに、細かいけれども、冒頭で徹の枕許に置いてある角川文庫版(旧版)の星新一『ごたごた気流』。所収の「重なった情景」などは、これから徹の身の回りに起こる出来事を暗示しているようでもある。しかも旧版の装釘・挿画は、和田誠自身が手がけているのだ。この遊び心がまたおもしろい。
 セットも随所に工夫が見られて、和田は後に「星空を豆電球吊って作った」(前掲p.250)、「稲妻は照明部の助手さん担当で、アークライトを光らせ」た(p.309)、などと語っている。マンション屋上の夕景をつくり出すのにも色々と苦労があったらしいが、ルビイと徹とが屋上で語り合うシーンは、後の名作、相米慎二『東京上空いらっしゃいませ』(1990)にもつながるような美しい場面である。
 クレジットタイトルでは、二人が次の犯罪について愉しげに語りあう場面の長回しが続く。その果てないおしゃべりが、いつまでもいつまでも続いてほしい、と願わずにはいられない。

シネマ今昔問答・望郷篇

シネマ今昔問答・望郷篇

虹を掴む男 [DVD]

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*1:『虹をつかむ男』は、2013年にも『LIFE!』というタイトルで映画化されている。もっとも、こちらも原作とはかなり異なる。

本との出会い

 本というものの面白さの一つは、数カ月(ときには一年以上)かけてやっとのことで読み了える大部の作品よりも、片々たる小册の方に心を鷲づかみにされる瞬間がある、ということであろう。あるいはまた、大枚はたいて購った本ではなく、古書肆の店頭百均に転がっていた本こそが生涯の一册となり得る場合もある、ということだろう。
 そうしてそれは、読者の側では決して豫測できない。本との出会いはいつも唐突である。もっともそれには大きく二種類あって、一読ないし読後ただちに電撃に見舞われたような気持になることもあれば、後々ふりかえってみて、あの本との出会いがあったればこそだと深く感じ入ることもある。前者は即効性、後者は遅効性と取り敢えずは言えるだろうが、本質においてそれらは同じである。
 そのような本との出会いについて語ることは愉しいし、書かれた文章を読むのも実に愉しい。
 例えば吉川幸次郎は、ある本との出会いについて次のように記している。

 私が宣長を読みだしたのは、決して久しいことではない。昭和十三年の夏、関西には大水害があった。私は夙川の母の安否を案じ、食糧をもって見舞いに出かけた。家は濁水につかっていたけれども、母は無事であった。私は翌日京都に帰ることとし、阪急夙川駅前の小さな書店で、岩波文庫本「うひ山ぶみ」一冊をあがなった。水害を記念せんがためである。
 しかしこの半ば好奇心から購った小さな書物は、帰途の車中で、私を魅了した。宣長国学の方法は、すなわち私の中国研究の方法であった。そうして私が年来、私の方法の理論として考えていたものを、この書物ははっきりと説きつくしている。私は私の方法の誤っていなかったことを知り、百万の援軍を得た思いをすると共に、先きを越されたというくやしさをさえ感じたのであった。(「本居宣長―世界的日本人―」『詩文選』講談社文芸文庫1991所収:59-60*1

 ちなみに文中の「大水害」とは、谷崎潤一郎細雪』中巻(四~十)にも描かれた阪神地方の大水害をさす。とまれ、およそ本好きであれば、たれしも吉川の記述に心惹かれるところがあるのではなかろうか。
 吉川はこの後も、「私が宣長を知り、驚き、嘆服するに至ったのは、今からちょうど三十年前の昭和十三年、いわゆる関西の大水害に、夙川の母のすまいも水につかったのを見舞っての帰り、電車の中の時間をもてあましてはと、阪急駅前の小さな本屋の乏しい棚を物色して、数冊の岩波文庫の中から、「うひ山ぶみ」を、おおむねは好奇心からえらんだのを、読み、驚嘆したという、偶然の機会によること、かつて別の文章に書いたごとくである」(「鈴舎私淑言―宣長のために―」『本居宣長筑摩書房1977:p.5)と述べ、あるいはまた、「日本の十八世紀の「読書の学」に接しはじめたのは、中国のそれに接したのよりおそく、三十代になってからである。新刊が乏しい戦時中、水害にあった母を見舞っての帰り、宣長の「うひ山ふみ」を、電車の中の読書とすべく、駅前の本屋で買ったのを、さいしょのきっかけとすること、二三ど他の文章に書いた」(『読書の学』二十五、ちくま学芸文庫版2007:p.235)云々と、当時のことを幾度か振り返っているが、くりかえし言及するところをみると、当人にとってこの出会いは、それだけ深く印象に刻まれた出来事であったということに他ならない。
 歴史に「もし」を持ち出すのは無意味であることを承知の上でいうが、もしも吉川がそのとき宣長に出会っていなければ、吉川版『本居宣長』や『仁斎・徂徠・宣長』は書かれなかったであろうし、雄篇『読書の学』は、たとえ書かれていたとしても、いささかその魅力を減ずる作品となっていたであろう。かかる意味において、『うひ山ふみ』という小さな本との出会いは、吉川のその後の人生を確かに変えたのである。
 その吉川の著作に心を動かされたのが足立巻一だった。足立は次のように記している。

 わたしは『うひ山ぶみ』を学生のころから読んだといったけれど、言=事=心を説いたくだりの深い意味を悟っていたわけではなかった。それを知ったのは戦後のことで、それも吉川幸次郎先生によって教えられた。(「『うひ山ぶみ』逍遥」『人の世やちまた』編集工房ノア1985:p.250)

 わたしは吉川幸次郎先生の『本居宣長』によって、『うひ山ぶみ』ひいては宣長の世界についての理解を格段に深めることができた。それも先生が中国文学の碩学だったからこそ、それまでの宣長学者のだれもが触れなかった新しい宣長を照らし出し、それもきわめて格調の高い名文で表現されたのだと思う。余人は及ばない。(同前p.252)

 こうして本と本、人と人とが繋がってゆくこともまた、読書の醍醐味だといえる。
 さて、本との出会いを語った文章ということで、最近いたく感銘したのが、金井雄二『短編小説をひらく喜び』(港の人2019)であった。
 まずは劈頭、次のような力勁い文章に逢著して、大いに励まされた。

 「本は読まなければいけない」と断言しよう。「本は読んだほうがいい」とか「読まなくても生きていけるから読まない」とか、そうではなく、「本は読まなければいけない」のだ。ご飯も食べなくてはいけない。お風呂に入らなければいけない。排泄もしなければいけない。ならば、「本は読まなければいけない」のだ。(pp.13-14)

 著者は、主として若い人たちに向けてこの本をものしたようだが、どの章も、全世代の本好きたちを鼓舞することばに溢れている。「あとがき」には「岩波新書阿部昭の『短編小説礼讃』という名著があるが、それには遠く及ばない」(p.209)とあるけれど、これはいわば謙辞で、「読書の悦び」を自身の読書遍歴に重ね合わせつつ素直に衒いなく、なおかつ自在に語った本であるから、こちらとしても、読んでいてすこぶる気持がよい。
 それに触発されるところ多々あり、マラマッド「借金」や尾崎一雄「華燭の日」、阿部昭「自転車」などは、この本を読んだお蔭でゆっくり読む機会をえた。これらの短篇が「呼び水」となって、それからそれへと短篇集を手に取っている。
 その過程で、また心に残る出会いがあったのだが、それについて語るのは他日を期することとしたい。

本居宣長 (1977年)

本居宣長 (1977年)

読書の学 (ちくま学芸文庫)

読書の学 (ちくま学芸文庫)

人の世やちまた (1985年) (ノア叢書〈8〉)

人の世やちまた (1985年) (ノア叢書〈8〉)

短編小説をひらく喜び

短編小説をひらく喜び

*1:初出は昭和十六年十月「新風土」。

当事者以外が語る「ニ・ニ六事件」

 まずは、清水俊二(1906-88)の回想を引こう。当時は数えで三十一歳であった。

 昭和十一年二月二十六日、前の晩につもった雪の中を荻窪駅まで歩いて行く途中、陸軍教育総監渡辺錠太郎の邸の前を通った。父に教えられて、その家が渡辺邸であることを知っていた。市ヶ谷から黄バスに乗り換え、いまの日本テレビの前を通って、麹町の大通りを横切り、いつもは永田町から内幸町の大阪商船ビルの前に出るのだが、その朝はバスが赤坂から田村町に迂回、いまの日比谷シティのあたりで降ろされた。

 バスを降りると、雪がまっ白に降りつもっていて、帝国ホテルのあたりまで人通りがなく、武装した兵士が銃剣をかまえて立っていた。機関銃座がいくつも組まれていて、あたりの空気がよけい冷たく感じられた。

 すぐそこの大阪商船ビルに会社があるのだが、というと、緊張した表情の兵士が一言もものをいわずに顔を横に向けて指図をして、通らせてくれた。ビルのなかはべつに変わったこともなく、エレベーターも動いていた。(略)

 いまとちがい、なかなか情報が入らない。ラジオも、新聞も、報道の自由を持っていなかった時代だ。東京の陸軍部隊がクーデターを起こしたのだとわかるまでにだいぶ時間がかかった。(『映画字幕五十年』ハヤカワ文庫NF1987:194-95)

 村上一郎(1920-75)は清水よりもずっと夭く、当時はまだ血気盛んな十七歳だったが、「親戚にあたるある人物が(略)内閣の末に列していた」という自身の「人脈」、住んでいた「宇都宮はなによりも"軍都"であった」(以上、「私抄“ニ・ニ六事件”」『北一輝論』角川文庫1976所収:157)という「地の利」を活かして、関係者から早くも事件の内容を聞き出している。

 わたしが中学二年から三年になろうとする年の二月、あの誰でもが覚えている大雪の日、宇都宮の歩兵第五十九連隊を基幹とする第十四師団は、ガラガラと砲車を曳きながら、見送る群衆もなしに、出勤して行った。ニ・二六事件である。

 わたしは友人と二人、裁判所前で、頬をひきつらせた兵たちの行軍の有様を見た。それらの兵たちは、かつて満洲事変や上海事変に出征して行った時に見送った兵たち以上に緊張して見えた。下手をすれば内戦になる――と誰しもが直感していたのであったろう。

 わたしの家にはラジオがなく、新聞は二十七日の昼近くまで配達されなかったから、すぐに軍人の子弟や警官の子弟の間を駆けめぐって情報を集めにかかった。桜少年団以来の後輩である水野が一番よいアンテナであった。まず、彼の家の電話を借り、内田の叔父の邸に長距離電話を入れた。むろんダイヤル式なんぞではない時代で、かつ電話は入り乱れているから、なかなか通じない。わたしは水野と寒い玄関に対座して、一時間たっても通じない電話にいらいらしながら、水野の知っている限りの事件内容を聞き出した。水野のいうところでは、蹶起したのは、歩兵第一連隊および第三連隊らしく、いまの天皇陛下は軟弱で親欧米の重臣のいうがままだから、弘前の連隊にいる秩父宮さまを天皇にするのだ、という。(略)これは大したことになったと、水野の話を聴いてみると第十四師団内にも、蹶起部隊に同情的な軍人がおり、某参謀は昨夜から所在が不明で、おそらく蹶起部隊に連絡すべく独断で上京したのではないか、と見られており、師団長も困っているらしいのだという。(略)

 電話は、やっと通じた。雑音が入って、とぎれとぎれではあったが、内田の叔父は早朝に首相官邸が襲撃を受けているとの電話連絡を受け、寝衣のまま自家用車で窪田の伯父の邸まで逃げ、歩兵第一連隊が近いから、検問は受けたがどうやら突破し、窪田の邸で礼服を借り、参内したとのことであった。(略)叔父は財閥にもかかわり深く、かつかつては犬養毅翁を政友会総裁ひいては総理大臣にかつぎ出し、近くは岡田啓介大将を総理大臣にした企図にも関わっている。それに陸軍とはあまり仲よくなくて、海軍びいきである。殺られる要因は充分にある。(略)

 翌日であったか、他のアンテナから情報が入り、第十四師団は戒厳司令部の掌握下に入り、赤坂だか四谷だかの警備に就いた、ということであった。そしてもっとも恐れられた、蹶起部隊の宮城占領も、放送局占領もなされなかった。秩父宮も、上京・参内はされたが、蹶起部隊には接触せしめられずに終った、と聞いた。もっとも一説では、宮が、蹶起部隊をはじめから叛逆者扱いしていた天皇と激論に及んだ、という話もあったが、確かめようもなかった。(『振りさけ見れば』而立書房1975:88-90)

 辻邦生(1925-99)は村上よりもさらに夭くて十二歳だったが、間近で事件を目撃している。

 子供の頃の雪で忘れられないのは、二・ニ六事件の日の雪だ。その当時、東京郊外だった東中野に住んでいて、そこから省線(JR)で赤坂小学校に通っていた。四ッ谷から雪の紀伊国坂を下りてくると、御所の前に土嚢が積まれ、剣付き鉄砲で武装した兵隊たちが興奮した様子で警備していた。

 小学校の校舎は、叛乱軍の占拠した山王ホテルと料亭幸楽に近く、当時家並みが低かったので、窓から、雪に覆われた屋根越しに直接その建物が見えた。

 廊下の窓際にも土嚢が積まれ、鉄砲を持った兵隊たちが血走った目で山王ホテルのほうを睨んでいた。その日は学校が午前中で休みになり、私は雪の道を暗い重い気持で四ッ谷駅まで帰ったことを覚えている。翌日は電車も停まったはずである。(「記憶のなかにつもる雪」『生きて愛するために』中公文庫2009改版:31-32)

 辻が「暗い重い気持で」帰途に就いたのとは逆に、事件の発生翌日、それを明るい心持ちで眺めていたのが、後に転向する林健太郎(1913-2004)である。当時二十四歳。

  明けて昭十一年、この日は特に雪の多い冬であった。二月の初めに記録的な大雪が降って、多くのサラリーマンが家に帰れなくなりまた職場に泊まったなどという珍しいことがあった。ところがこの同じ二月にまた大雪が降って、その雪の中の払暁に起こったのがニ・ニ六事件である。(略)

 この日は朝からのラジオ放送で何か異常な出来事の起こったことがわかり、やがてその事実も逐次報道された。私はいよいよファッショ革命(当時の言い方では反革命)が起こったかと興味津々たるものがあり、翌日弥次馬根性で見物に出かけた。どこをどう歩いたか、今では記憶があまり明確ではないが、ともかく叛乱軍の兵士らしきものが警備についている有り様を少し離れたところから観察して引き返した。積雪の街の上にどんよりとした曇り空が広がって寒かったが、私の心は妙に明るかった。当時の私の考え方からすれば、こういう「ブルジョアジー」内部の抗争は資本主義体制を弱化するものであるから歓迎すべきことだったのである。(『昭和史と私』文春学藝ライブラリー2018:103-04)

映画字幕(スーパー)五十年 (ハヤカワ文庫NF)

映画字幕(スーパー)五十年 (ハヤカワ文庫NF)

 
振りさけ見れば

振りさけ見れば

 
生きて愛するために (中公文庫)

生きて愛するために (中公文庫)

 
昭和史と私 (文春学藝ライブラリー)

昭和史と私 (文春学藝ライブラリー)

 

和田芳恵『一葉の日記』

 和田芳恵『一葉の日記』(福武文庫1986)を購ってから、すでに持っていた和田芳恵樋口一葉伝』(新潮文庫1960)*1と同内容であることを知り*2、ちょっとがっかりしたが、福武文庫版には野口碩氏による「補注」が附いていて、これによって原著の過誤が訂されており、やはり買っておいてよかったとも思った。

 たとえば、新潮文庫版に「樋口(則義一家―引用者)が住んでいた本郷六丁目五番地の突きあたりに法泉寺という寺があった」(p.27)とあるところ、福武文庫版の当該箇所は「…法真寺という寺があった」(p.28)となっているのだが、ここに注釈が附き、 

  原文は「法泉寺」。馬場孤蝶が「一葉全集の末に」の中で、「ゆく雲」のモデルに言及して「法泉寺」と書き、「樋口一葉君略伝」でも「九年家を本郷六丁目(大学前)法泉寺の南隣に移す」と記したため、和田氏も「法泉寺」としたが、講談社現代新書の『樋口一葉』で訂正された。一葉達は本郷六丁目五番地に住んだが、法真寺は六番地であった。浄土宗で松浦松月和尚が住職。講談社現代新書では、その息子(養子)を「たけくらべ」の信如のモデルと想定している。(p.345)

と野口氏が巻末の補注で記している。この他にも、たとえば「この頃(明治二十三年頃―引用者)、旧東京美術学校の構内の位置に、上野図書館があった」(福武文庫版p.75)の「上野図書館」に注釈が附いており、 

 正確には東京図書館といい、現・東京芸術大学美術学部の構内にあった。木造二階建ての閲覧室一棟と煉瓦造りの書庫二棟から成り、一回二銭の入場料を支払った。当時の蔵書は大部分現在の国立国会図書館に移管されている。婦人閲覧席は、一般閲覧席とは別に二階に設けられていた。(p.350)

 と説いていたりするし、あるいはまた、和田の誤解や臆断などもきちんと指摘してくれているので、しろうとにとっては有難いことである。

 常盤新平は、新潮文庫版によってこの『一葉の日記』に親しんだようで、1995年9月5日付朝日新聞夕刊の「心の書」というコーナーで、次のように書いている(そこでは書誌に《和田芳恵著(福武文庫)》とあるが、これは、当時新本で入手できたのが福武文庫版のみだったからだろう)。 

  『一葉の日記』の初版は昭和三十一年である。これが文庫になったとき、はじめて読んで感動した。昭和三十六年のことだから、三十四年前だ。樋口一葉の日記を読まずして、和田芳恵のこの一葉伝で「いつも庶民のなかにゐた」一葉の世界を知った。一葉に肉薄した和田芳恵の作品を愛読するようにもなった。

 『一葉の日記』を二年おきに、あるいは三年おきに読むのは、ほかに類をみない迫力にみちた伝記であるからだ。一葉の日記を通して和田さんは一葉が生きた日々を再現している。一葉と、彼女が生きた明治という時代がはっきりと見えてくる。この伝記に二十年の歳月をかけた、その重みがなんどでも読ませる。

 『一葉の日記』はたまたま書店の文庫の棚で目にはいって読んでみたのだった。これはじつに幸運なことだったと思う。きれいごとなど一つもないが、優しい伝記だ。ときどき和田芳恵の告白と吐息が聞えてきくるようで、そこがまた凄い。 

 ちなみに和田は、『一葉の日記』を書くのに約1年かけたらしい。『和田芳惠 自伝抄』(非売品1977)*3によると、次のようである。  

 土井一正(筑摩書房の当時の編集長―引用者)の言葉に感動して、私は、半年で終わるはずの『一葉全集』(塩田良平と共編、全七巻)を終えるまでに足掛け五年かかり、昭和三十一年の六月に完了した。私は、この五年間、山梨県の大菩薩の山麓に近い中萩原村を中心に、一葉の祖先のあとを調べていた。書きおろしで書けば、五千部は出版してくれるという約束であった。私は、この四百字七百枚ほどの原稿『一葉の日記』を書くのに、一年かかった。編集費が安いので、その少しの穴埋めだと土井編集長が言ったのに、内容がむずかしいので、二千部しか出せないという。私は、はげしい怒りがこみあげてきて、「そんなら、五百部でいい」と言い、編集長は「五百部では、ページあたりの組み賃がたかすぎて……」、「限定版なら、全国で五百部は、はけるというが……」

 これが五年間、いっしょに苦労をわかちあった二人の最後か、と私は思ったが、土井編集長も同じことを考えたにちがいない。三千部ということで、妥協したが、この『一葉の日記』で芸術院賞を受けた。(pp.49-50)

  なお『一葉の日記』には、戦中版、戦後版の二つの版があるらしい。 

  私は『樋口一葉』という単行本を、五冊だしていた。題名が、みな『樋口一葉』なので、最初に書いた一冊の増補改訂版と受けとられがちだが、それぞれ新しい研究や調査資料を使って、新しい観点から書きおろしたものである。この本のなかで、自分のあやまりを直したり、また、相手の論敵と一戦をまじえて、たがいに刺しちがえたこともあった。一葉の日記をもとに伝記ふうにまとめた仕事も、戦中、戦後の二度にわたって書きおろしたものだった。(『自伝抄』p.4)

 戦中版のほうは、福武文庫版のカバ袖に「1943年、本書の前身となった「樋口一葉の日記」を刊行」とあるその「樋口一葉の日記」を指す。こちらは「今日の問題社」から出ている。野口氏の補注には、 

  今日の問題社版『樋口一葉の日記』が書き下ろされた時は、これら(樋口家に蔵されていた「日記」の一部と、「厖大な詠草資料」のこと―引用者)の知識を欠く、新世社版全集の水準で「日記」が論じられたため、「十六歳から十九歳まで」はなく、「二十際の日記」から始められた。久保木家の周辺や松岡徳善等も当時は全く着手されていなかった。「身のふる衣まきのいち」の稿本を和田氏は見ていない(p.344)

 云々、とある。 

一葉の日記 (福武文庫)

一葉の日記 (福武文庫)

  
樋口一葉伝―一葉の日記 (1960年) (新潮文庫)

樋口一葉伝―一葉の日記 (1960年) (新潮文庫)

 

*1:手許にあるのは1972年刊の第十一刷。

*2:そう云えば後者には、扉の副題として、「一葉の日記」とあったのだ。

*3:讀賣新聞」昭和五十二(1977)年8月9~31日付掲載記事をまとめたもの。

「春寒」と渡辺温のこと

 東雅夫氏は、これまで学研M文庫やちくま文庫創元推理文庫等で、作家別のあるいはテーマ別のアンソロジーを多数編んでいる。
 今夏は、東氏編の「怪異小品集」という作家別のシリーズ(2012年刊行開始)に、第7冊として『変身綺譚集成―谷崎潤一郎怪異小品集』(平凡社ライブラリー)なるアンソロジーが加わった。
 鏡花をめぐる随筆や、中絶した「アッシャア家の覆滅」などが一冊で読めるのも嬉しいが、わけても随筆「春寒」が手軽な形で読めるようになったのは喜ばしいことである。
 まずタイトルの「春寒」を何と読むか。例えば『日本国語大辞典【第二版】』には「はる‐さむ【春寒】立春後の寒さ。春になってぶり返す寒さ。「春寒し」のようにも用いる。しゅんかん」、『広辞苑【第七版】』には「はる‐さむ【春寒】立春の後の寒さ」と立項されており、小谷野敦『このミステリーがひどい!』(飛鳥新社2015)でも「はるさむ」と訓まれていたから、「はるさむ」で間違いなかろうと思われる。但し、後に述べる小林信彦氏の作中のルビは、「はるざむ」と連濁形になっている。
 この随筆の初出は「新青年」(昭和五〈1930〉年四月号)で、もともと探偵小説論として書かれる予定だったが、後半は、不慮の事故で急逝した「新青年」の編集者・渡辺温*1への回想・追悼文になっている。すなわち谷崎は、これを書き継いでいたまさにそのとき、渡辺の訃に接したのである。
 渡辺の遭難は、森見登美彦夜は短し歩けよ乙女』などで比較的よく知られていることかもしれないが、『アンドロギュノスの裔(ちすじ)―渡辺温全集』(創元推理文庫2011)所載の「渡辺温年譜」に拠ると、次のようである。

一九三〇年(昭和五年) 二月 九日、原稿依頼のため、後に推理翻訳の分野で華々しい業績を残した長谷川修二とともに谷崎潤一郎宅に赴く。その帰路、西宮市外夙川踏切で二人の乗ったタクシーが貨物列車に衝突。重傷を負った温は西宮回生病院で逝去した。通夜は横溝正史宅、告別式は森下雨村宅にて営まれた。享年二十七。(p.630)

 文中の長谷川修二は、ワーナー・ブラザーズにいた楢原茂二のペンネーム。清水俊二『映画字幕(スーパー)五十年』(ハヤカワ文庫NF1987)に、「楢原宣伝部長が長谷川修二のペンネームで「新青年」グループの作家であることを記者たちは知っていて、そのことがつき合う態度にも現れていた」(p.51)とある。
 さらに清水著は、事故当時のことについて以下のように記している。

 私がワーナー・ブラザーズの宣伝部に入社した翌年、昭和五年二月十日のことである。
 私が神戸滝道の会社に出社すると、谷崎潤一郎先生から私のところに電話があって、西宮の回生病院にすぐ来てくれという伝言があったという。(略)
 私はさっそく、回生病院に電話をかけた。しばらく待っていると、谷崎先生が電話に出た。
「先生ですか。何かあったのですか」
「楢原君がけがをして、ここに入院している。渡辺君は死んだ」
「渡辺さんが?」
「『新青年』の渡辺君だ。僕一人なので困ってる。すぐ来てくれませんか」
新青年」の渡辺温が谷崎先生の原稿をとりに東京から来ているということは聞いていた。どんな事故があったのだろうか。
 私は阪神電車で芦屋まで行き、芦屋川にそって海岸まで歩いて行った。西宮の親類の家の関西学院に行っている息子が看護婦の一人と仲がよかったので、私は回生病院をよく知っていた。
 どんよりと曇った日だった。
 前日の二月九日は日曜で、午後おそく谷崎邸を辞した渡辺温と楢原茂二は神戸に出て飲み歩き、午前一時ごろ、タクシーを拾って夙川荘に向かった。国道を西宮市の手前で左に折れ、阪急電鉄の夙川に出るところに国鉄の踏切がある。ここで上りの貨物列車にぶつけられたのだ。最初の一撃で運転手が跳ねとばされ、次に助手が跳ねとばされ、客席にいた渡辺は意識を失い、病院に運ばれて死亡、傷を負った楢原が谷崎先生に電報を打ったのだった。
 私が谷崎先生が待っているという空室の病室に入って行くと、先生はがらんとした病室のすみにうずくまっていた。火のない箱火鉢の前でタバコを吸っていた。和服の上に黒いトンビを羽織っていた。
「先生、どうも申しわけありません」
「いや、君が来てくれて助かった。あとを頼みます」
 私は病院の玄関まで、谷崎先生を送って行った。玄関から一直線につづいている砂利道を背中をまるくしてゆっくり歩いて行く谷崎潤一郎の姿をいまでも目に浮かべることができる。(pp.53-54)

 渡辺と楢原とがその日遅くまで呑んでいたという話は、「春寒」も触れている。

…思うに九日は日曜でもあり、僕の家から真っ直ぐ帰らずに、あれからあの足で神戸へ廻り、二人とも行ける口であるから何処かで飲んだ戻り道で、恐らく酔っていたのであろう。(あとで聞くと、楢原君は十時迄に帰ろうと云ったのを、渡辺君が、いつもそんなことに剛情を張る人ではないのに、あの晩は妙に執拗に、是非もう少し附き合えと云って肯(き)かないので、「今夜は渡辺君は変だなあ」と思ったそうである。)(「春寒」『変身綺譚集成』p.216)

楢原君の経験では、踏み切りへかかったことも、衝突したことも、何も覚えがない。病院へ来て始めて事態を悟ったくらいで、全く恐怖を知らずに済んだ。それほどぐっすり寝込んでいたのだそうである。だから勿論渡辺君も寝ながら汽車に横腹を打たれて、夢中で死んで行ったであろう。その光景の凄惨さに比べて、案外苦しまなかったであろう。そう思うことがせめてもの慰めである。(同前p.222)

 のちに清水俊二は谷崎と再会し、当時のことを振り返っている。

 私は戦時中、思いがけぬ用件で、来宮の谷崎邸に招かれたとき、渡辺温の話をすると、
「そうだったね。君に来てもらったね。あの時は寒かった」
 といわれた。あの日のことを谷崎先生はよく覚えていた。
 楢原茂二はそれから三週間ほど入院していた。交通事故でかつぎこまれた患者なので、最初待遇がよくなかった。前にしるしたように、私が下宿していた親類の息子が看護婦の一人と親しかったので、その看護婦に頼み、やっと病室を変えてもらった。世の中のことはどんなところでどんなことが役に立つかわからない。(『映画字幕五十年』p.56)

 ところで小林信彦氏は、「隅の老人」*2(初出:「海」1977.11月号)で、狩野道平という「宝石社」嘱託の老人と主人公・今野との交流を描いており、狩野の話のなかに渡辺温のことが出て来る。
 「隅の老人」は小林信彦『袋小路の休日』(講談社文芸文庫2004など)に入っていたが、小林信彦『四重奏 カルテット』(幻戯書房2012)に再録されている。この『四重奏 カルテット』の劈頭を飾るのが「夙川事件―谷崎潤一郎余聞―」(初出:「文學界」2009.7月号)で、作中で狩野道平は真野律太だと明かされている(小林氏によれば、「(「隅の老人」では―引用者)名前は仮のものにしたのだが、色川武大氏に見抜かれてしまった」〈p.17〉、「この小説だけは登場人物がすべて実名である」〈「あとがき」p.261〉という)。
 真野は、「大正の終りから昭和にかけて、当時の大出版社、博文館で鳴らした編集者」(「夙川事件」p.18)だったが、語り手の「私」と知り合った頃は、「朱墨を含ませた筆で原稿を校正してい」て、「擦り切れたコールテンの上着と膝の抜けそうなズボン」姿で、「昼間から酒を飲んで出社する小柄の(略)むすっとした老人」(以上p.17)であった。
 その真野が、「私」とのやり取りのなかで、渡辺について次のように述べていたのが心に残っている。

「まあ、世間では『新青年』のカラーを作ったのは、二代目の横溝正史(よこせい)ってことになっているが、私たちは助手だった温(おん)ちゃん――本名・渡辺温(あつし)の力が大きかったと見ている。ショートショートの元祖、渡辺啓助さんの弟だ。変った男だったが、大変な才人だったと思うよ。博文館としても、温ちゃんはホープだったんだ。あんたがやろうとしているのは、温ちゃんの線だと私は見ているよ」
「いや……」
 老人の目から見ると、そういうことになるか、と思った。
「温ちゃんを知らないかね」
「お名前を耳にしたことはあります。事故で亡くなった方でしょう」
「そう。谷崎潤一郎の原稿をとりに行く途中でね(ママ)」
「電車にぶつかったとか……」
「原稿はとれていなかったんだ。しつこく依頼に通ってね。たしか夙川(しゅくがわ)といったと思うが、そこの踏切で阪神電車にぶつかった」(「夙川事件」pp.20-21)

 なお「隅の老人」は以下のようになっていて、若干やり取りが異なっている。

「始めた以上は、これで押し通すよりねえな。オンちゃんと同じ遣り方だが」
 オンちゃんのンにアクセントがあった。
「オンちゃんて、だれですか?」
渡辺温(あつし)のこった」
 老人は今野の眼を見た。
「知らないかね」
「名前は知ってます。『新青年』の編集者で、谷崎潤一郎の原稿をとりに行く途中、自動車事故で亡くなった方でしょう」
「まだ、とれていなかったんだ。依頼に通っているときに、夙川(しゅくがわ)の踏切で阪神電車にぶつかった」老人は早口になった。「だから、谷崎さんは『新青年』に『武州公秘話』を書かざるをえなくなったんだ」(p.146)

アンドロギュノスの裔 (渡辺温全集) (創元推理文庫)

アンドロギュノスの裔 (渡辺温全集) (創元推理文庫)

映画字幕(スーパー)五十年 (ハヤカワ文庫NF)

映画字幕(スーパー)五十年 (ハヤカワ文庫NF)

四重奏 カルテット

四重奏 カルテット

*1:康煕字典考異正誤』などの著作がある英学者の渡部温(わたなべおん)という人物がかつていて、そちらも「渡辺温」と表記されることがあるからややこしい。

*2:『紅はこべ』シリーズでも知られるバロネス・オルツィの生み出したアームチェア・ディテクティブの「隅の老人」に基づく。平山雄一氏個人全訳の「完全版」が出た(作品社、2014年)のは記憶に新しいところである。