正宗白鳥『読書雑記』の『細雪』評

 池谷伊佐夫『書物の達人』(東京書籍2000)で紹介されている本の一冊に、正宗白鳥『読書雑記』(角川文庫1954)がある。これについて池谷氏は、「初出がはっきりしないので、元版がいつどういう形ででたのか不明だが、わずか百六十頁ほどの薄い文庫本の四分の三にあたる百二十三頁に、読書雑感が当てられている。まるで、ながながと続く古老の読書談義を拝聴しているかの思いでこれを読んだ」(p.211)云々、と書いている。
 その「元版」と思しき新書版を、二冊、所有している。ただし、発行年や装釘がたがいに異なる。
 ひとつは、正宗白鳥『讀書雜記』(三笠新書1952)。奥付をみると「昭和27年9月20日第1刷刊行」となっていて、手許のは「昭和27年10月20日第2刷刊行」。当時の定価は100円で、三笠新書の通番「4」が附いている。当初はカバー缺かとおもっていたが、どうも最初から附いていなかったようだ。大阪の古書肆にて350円で購った。
 いまひとつは、正宗白鳥『讀書雜記』(三笠新書1955)。東京の古書肆店頭にて216円で購ったものである。奥付をみると「昭和30年5月30日第1刷刊行」となっている。当時の定価は120円。こちらには、抽象画が描かれた白色のカバーが附いており、その表紙に、「現文壇最高の叡知が深い体験と独自の識見をもって、古今東西の文学を縦横に鑑賞し、そこに深い、人生批判、社会批判をも投影した絶好の読書案内」といった内容紹介が書かれている。カバーを外した本体の装釘も、前述の1952年刊のそれとは異なる。また、1952年版の本体、中扉、奥付に記されていた通番「4」の文字も消えている。
 池谷著の書誌によれば、角川文庫版は「昭和二十九年六月十五日」に刊行されたというから、刊行順としては、「カバーなし通番『4』つき三笠新書」→「角川文庫」→「カバー附き通番なし三笠新書」、ということになる。いったん他社の文庫に収まったものを、一年も経たないうちに再刊するのは珍しいことのように思うが、ともかく、二冊の新書は、本体や奥付、中扉が異なるほかは、中身の版面がそっくりそのままで、ざっと見る限り、手の加えられた形跡はない。ページ数も同じである。しかも、これらの新書版にも、初出のデータなどはまったく記されていない(そもそも「あとがき」にあたるものがない)。
 したがって、1952年刊の新書版が元版なのかどうかは、これだけでは分からないのだけれど、例えば正宗白鳥坪内祐三・選『白鳥随筆』(講談社文芸文庫2015)の巻末に収められた「著書目録」(作成・中島河太郎)をみると、「単行本」の項に「読書雑記 昭和27・9 三笠書房」とあるから(p.304)、新書版が元版だと考えて、まず間違いないとおもう。
 さてこの『讀書雜記』、池谷氏はその内容に関して、「文中さまざまな作品が登場するが、それがことごとく批判され、称賛の栄にあずかったものは数えるほどしかない。『途中まで読んでやめてしまった』という記述も多い。ことに私小説には辛辣な評が多」い(p.211)と書き、「ちなみに、数少ない絶賛をあびた作品に谷崎潤一郎の『春琴抄』」がある(p.212)と記す。また『讀書雜記』所収の「『宮本武蔵』と『細雪』」(pp.163-84)は、谷崎の『細雪』を、――『春琴抄』ほどの手放しの絶讃とまではいかないにしても――高く評価している。
 白鳥は次のように述べる。

細雪』のやうな作品は、私などの好みにはかなはない筈で、中卷下卷と讀み續けたいと熱望してはゐなかつたが、つい讀み出すと、この作者特有の匂ひのあるやうな文章に心惹かれて讀み耽るやうになるのである。大阪の女性の會話は、私にも面白く思はれ、一般の讀者の興味をそゝるのである。概して會話のうまい作家は文壇に少いのである。西洋の小説には、會話のうまい作家が、さぞ澤山あることであらうと推察されるが、悲しいかな、それは飜譯では皆目分らず、原語で讀んでも、我々の語學知識ではそこまで味ふことが出來ないのである。(略)
 谷崎は、久保田(万太郎)同樣、東京の下町生れであるから、作中人物の會話がおのづから、都會的で氣が利いてゐるのであらうが、『細雪』の會話は、意識して、努力して、研究的にそこへ寫し出したのであらうから、氣輕な自然さがない。あまりに大阪言葉であり過ぎると云つたやうな感じがする。しかし、これが、模範的大阪言葉(たとへ傳統的の純大阪言葉であるとかないとかの議論はあるにしても)でなく、他の地方語か、或は普通の東京語なんかで書かれてゐるとしたら、この小説に對する私などの興味は半減するであらう。それほどだから、この小説は外國語に飜譯されたら、肝心の會話の妙味だけでも全く失はれてしまふと云ふみじめな事になるであらう。會話に含まれてゐる意味は別として、言葉そのものから受ける藝術的快感を、『細雪』の讀者は覺えるのであるが、會話ばかりでなく、全體の文章から受ける文字の上の快感が、『細雪』鑑賞の重要な分子になつてゐるのである。雪子と妙子は一種の風韻を帶びて浮動してゐるし、縁談だの社交だのの日常生活が、實際に有る如き光景として描叙されてゐるが、三卷の長編としては、事件の印象が稀薄なのである。大小説を讀終つたと云つたやうな感じがしない。長い繪卷物を披いて、見終つたやうな感じである。作者の人物描寫は彫刻的ではなくつて繪畫的である。すべて繪のやうであり奇麗事である。上卷の、京都に於ける觀櫻の場面、中卷の阪神間の山津波の光景、下卷の大垣在の螢狩りの有樣などが、繪卷物のなかでも、色彩鮮明に描かれて、見る人を、藝術鑑賞の境地に惹入れて陶醉させるのである。作者の態度は甚だのどかである。
 私が三卷の『細雪』をとぎれ\/に讀んで、最も感心したのは、作者のこののどかな態度である。この長編は戰時中に書きはじめたもので、執筆にも發表にも支障のあつたものだが、終戰後に書き終るまで、作者の製作の上では心を亂さなかつたのであつた。周圍の時世には激しい動搖があつたのに關はらず、作者の實生活にも、世間と同樣の心配苦勞があつたであらうのに、はじめ計畫を立てた時の氣持をそのまゝに貫徹したのであつた。そこに私は敬意を寄せ、羨望もするのである。(pp.179-82)

 上記のように白鳥は、『細雪』中の会話文について、「あまりに大阪言葉であり過ぎると云つたやうな感じがする」と書いているが、大阪生まれの生島遼一は、むしろ逆の見方をする。

 でも上方の人間である私には、谷崎氏の書く上方言葉が一段と進歩してゐることに興味がもてた。大阪言葉を技巧的にもちひて世評の高かつたのは『卍』だつたが、われわれから見るとあの言葉づかひはまだ生硬でことさら上方用語が隨處にはめこんである感じだつたが、その後の作品で次第に垢ぬけして、『細雪』ではごく自然な、そのままらしい、大阪言葉の生地になつてゐる。殊に若い女性同士の一見そつけなく、裏に情をふくんだ會話にさういふ生地がたくみに生かされてゐる。かういふのはいはゆる船場中心の土地言葉で、大阪言葉に露骨なものが洗練され、まつたくほのかな、ぼんやりした上方味になつたものだ。この小説に書かれてゐるやうな中流舊家のやや大阪流に近代化した環境特有のものであらう。いはゆる大阪言葉、從來小説に書かれた上方言葉とは大分ニュアンスがちがひ、おつとりとして、しかも一種の神經があつて、案外標準言葉に近いところがあるのは意外かもしれぬがかういふのが本當である。(生島遼一谷崎潤一郎論」『日本の小説』角川文庫1953所収:135-36)

 生島氏は「『細雪』問答」でも、Aという匿名氏をして「(『細雪』は)會話の部分が面白いといふこと――大阪言葉の中でも、從來あまり人の書かなかったニュアンスの豐かな、ふつくらした特殊な大阪言葉が、さういふ點で評判をとつた『卍』などと比較にならぬほど今度はよく書けてゐるのみならず、會話において人物の性格がよくとらへてある」(同前pp.145-46)と言わしめているが、しかし作品全体としては、さほど高くは評価していないようである。というのも、同じ文中でAは、「『細雪』のやうな小説、これほど自己滿足的な小市民感情の横溢してゐる作品が日本の現代文學の第一級の作品としてどつかと位置してゐることはいろいろかんがへさせられることがある」(p.154)と言っているし、つづけて、

 僕はこの小説讀後の印象から、この作品をたとへば繪でいつたらどんな繪だらうかといふことを想像した。失禮ないひ方ながら、どうしてもこれはブルジョワ家庭の床の間にかけられる掛物の繪、四季折々に、春は花見の圖、夏はあやめ、秋は紅葉といつたやうにとりかへられるあの繪である。さういふ繪が少しも反撥を感じさせないで眺められる人たちがどういふ人たちかはいふまでもない。(p.154)

とも述べているからである。この記述は、発表年からして、白鳥の「繪畫的」云々という評を意識したものではあるまいとおもわれるが、しかし白鳥の如く、「京都に於ける觀櫻の場面」を、「少しも反撥を感じ」ずに眺められる人たちは少くない。
 例えば永井荷風は、「細雪妄評」で「細雪の篇中、神戸市水害の状況と、嵐山看花を述べた一節とは、言文一致を以てした描写の文の模範として、永遠に尊ばれべきものであろう。わたくしは鷗外先生の蘭軒伝の他に、其趣を異にした言文一致体の妙文を喜ばなければならない」(『葛飾土産』中公文庫2019*1所収p.192)と書いているし、また辰野隆も「舊友谷崎(細雪蘆刈春琴抄など)」で、「特に僕の興味を引いたのは――正宗(白鳥)氏も既に指摘してゐるが――毎年、幸子が夫貞之助を促がして、雪子、妙子、悦子と連れ立つて試みる吉例の花見である。僕はこの花見の一章に日本の傳統的花見の粹を見るやうな氣がする」(辰野隆谷崎潤一郎』イヴニング・スター社1947所収p.82)と書いている。なお辰野は、「もし、「細雪」が繪畫であり、「春琴抄」が詩であるならば、「蘆刈」は正に音樂であらう」(同前p.93)、とも書いている。
 批判するにせよ賞讃するにせよ、このように『細雪』を、なぜか絵画にたぐえる場合が多いというのは、なかなか面白いことである。

書物の達人

書物の達人

  • 作者:池谷 伊佐夫
  • 出版社/メーカー: 東京書籍
  • 発売日: 2000/08
  • メディア: 単行本
読書雑記 (1952年) (三笠新書〈第4〉)

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日本の小説 (1953年) (角川文庫〈第467〉)

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葛飾土産 (中公文庫)

葛飾土産 (中公文庫)

谷崎潤一郎 (1947年)

谷崎潤一郎 (1947年)

  • 作者:辰野 隆
  • 出版社/メーカー: イヴニング・スター社
  • 発売日: 1947
  • メディア:

*1:単行本は中央公論社(1950)刊。ちなみに「細雪妄評」の末尾には、「昭和廿二年十一月草」とある。

徳田秋声『仮装人物』のことなど

 徳田秋声『仮装人物』の梢葉子のせりふに、

別に悪い人でも乱暴な男でもなさそうだけれど、ちょっと気のおけないところがあるのよ。男前も立派だし、年も若いわ。奥さんもインテリで好い人なんだけれど、何うもあの人、私に対する態度が変なのよ。(『仮装人物』十九、講談社文芸文庫p.250、以下同)

というくだりがある。ここでは、「気 の/が おけない」が「信用できない」といったニュアンスで使われている。これが「新たな」用法であることは、しばしば言及されるのでよく知られるところだ。平成18(2006)年度の「国語に関する世論調査」では、「60歳以上を除いた全ての年代で、本来とは違う意味で使う人が多くなってい」ることが判った(文化庁国語課『文化庁国語課の勘違いしやすい日本語』幻冬舎2015:101)*1
 しかし、『仮装人物』の作中における「気 の/が おけない」が全てそのような用法なのでは決してなく、上記以外の地の文は、

庸三はこの頃仲間の人達で、こゝを気のおけない遊び場所にしている人も相当多いことを考えていたので、…(十一、p.144)

葉子の家がそれらの青年達に取って、気のおけない怡(たの)しいサルンとなることも考えられないことではなかった。(十五、p.210)

 葉子はあの時のことを想い出しもしない風だったが、いくらか気が置けるらしかった。庸三も気が弾まなかった。(二十、p.274)

大衆作家の同志が広間に陣取っていて、一晩中陽気に騒いでいることもあって、そう云う時には葉子も庸三もいくらか警戒するのだったが、不断は気のおけない場所であった。(二十七、pp.344-45)

等々、「気が置ける」も含めて「本来の」使われ方がなされている。とすると、これは、庸三=秋声の愛人だった葉子=山田順子(ゆきこ)の口吻をそのままなぞったものであったのかも知れない。
 若い頃の順子のことばづかいとして、もうひとつ特徴的なのが「フライ」である。
 川崎長太郎徳田秋声の周囲」(『抹香町・路傍』講談社文芸文庫1997所収)*2に、次のような順子の発言が見える。

「あなた、お友達になって下さいな。今、私一人で寂しいんです。一寸、世間から身を隠しているというふうなの。――お友達になって下さい。私、迚(とて)もフライよ」
 と、下唇しゃくりながら、順子さんの思わせ振りな口上です。中学も満足に行っていない私には、第一「フライ」とは如何なることを意味する言葉か、さっぱりのみ込めかねますし、…(pp.179-80)

「ね、私のこと、外へ行って、喋っちゃいや。約束して。秘密にしていてくれたら、私本当にフライになるわ。約束して頂戴、さァ!」(p.185)

 この「フライ」とは一体何か。わたしも皆目見当がつかない。まさか「フライング・パン」の略で、「(身持ちが)堅い」「(口が)堅い」ことをしゃれて言ったものでもあるまい。隠語・俗語辞典の類を幾つか見ても分らず、長岡規矩雄『新時代の尖端語辭典』(文武書院1930*3)の「戀愛用語」に「【フロイライン】Fraulein(獨) お孃さん。令孃。」(p.169)とあり、その下略語が訛ったものかと思いもしたが、確証が得られない。諸兄姉の指教を乞う次第である。
 さて『仮装人物』であるが、今年になって二度読んだ。春先に一度読んだあと、古書肆Iにて献呈署名入の山田順子『女弟子』(ゆき書房1954)を廉価で入手したこともあって(ついでに云うと、岩波文庫版の『仮装人物』も300均で拾って)触発され、秋に再読したのである。
 『仮装人物』は、秋声が矢継ぎ早に書いた「順子もの」の集大成といわれる。しっかりした筋らしい筋があるわけでもなく、出来事が時系列順に並んでいるわけでもなく、むろん読んで明るい気分にさせられる作品でもないが、秋声の文章のくせも含めて、なんとはなし味読したくなるような作品なのである。
 登場人物のモデルの同定は各所でなされているが、秋声、順子のほかに主な人物を挙げると、「若い劇作家であり、出版屋でもあった一色」(『仮装人物』一、p.13)は聚芳閣の足立欽一、「兎角多くの若い女性の憧れの的であった、画家の山路草葉」(同p.14)は竹久夢二とされる。モデル問題について小田光雄氏は、「足立欽一と山田順子*4(『古本屋散策』論創社2019:163-65)で、野口冨士男徳田秋声伝』などを参照しつつ纏めている。
 『仮装人物』のモデルは判然しないものが多いというが、『女弟子』はその点、かなりあけすけに書いている。秋声は実名だし、たとえイニシャルで表記しているとしても、「“脂粉の顔”の作者たる女流作家、U女史」(「秋声と四人の女作者」p.127)は明らかに宇野千代のことであるし*5、「断髪に洋装の怜悧な瞳をした、少女物の作家のY女史」(同p.133)も吉屋信子のことだと直ぐに判る。
 『仮装人物』は、順子のある作品について、「モデルがはっきり誰であるとも示すことも出来ないように、彼女一流の想念の花で扮飾されてあった」(三十、p.358)と書いているのだが、『女弟子』はそれとは違って、実名小説と云うかかほぼノンフィクション仕立てになっているのである。戦後という時代が、そういった「告発」を可能にさせたということは、「あとがき」を読めば判る。
 ちなみに、秋声と順子の交際がまだ順調だったころのことを、林芙美子が書き留めている。

(二月×日)
 思いあまって、夜、森川町の秋声氏のお宅に行ってみた。国へ帰るのだと嘘を言って金を借りるより仕方がない。自分の原稿なんか、頼む事はあんまりはずかしい気持ちがするし、レモンを輪切りにしたような電気ストーヴが赤く愉しく燃えていて、部屋の中の暖かさは、私の心と五百里位は離れている。犀という雑誌の同人だという、若い青年がはいって来た。名前を紹介されたけれども、秋声氏の声が小さかったので聞きとれなかった。金の話も結局駄目になって、後で這入って来た順子さんの華やかな笑い声に押されて、青年と私と秋声氏と順子さんと四人は戸外に散歩に出て行った。
「ね、先生! おしるこでも食べましょうよ。」
 順子さんが夜会巻き風な髪に手をかざして、秋声氏の細い肩に凭れて歩いている。私の心は鎖につながれた犬のような感じがしないでもなかったけれど、非常に腹がすいていたし、甘いものへの私の食慾はあさましく犬の感じにまでおちこんでしまっていたのだ。誰かに甘えて、私もおしる粉を一緒に食べる人をさがしたいものだ。四人は、燕楽軒の横の坂をおりて、梅園という待合のようなおしる粉屋へはいる。黒い卓子について、つまみのしその実を噛んでいると、ああ腹いっぱいに茶づけが食べてみたいと思った。しる粉屋を出ると、青年と別れて私たち三人は、小石川の紅梅亭という寄席に行った。賀々寿々の新内と、三好の酔っぱらいにちょっと涙ぐましくなっていい気持ちであった。少しばかりの金があれば、こんなにも楽しい思いが出来るのだ。まさか紳士と淑女に連れそって来た私が、お茶づけを腹いっぱい食いたい事にお伽噺のような空想を抱いていると、いったい誰が思っているだろう。順子さんは寄席も退屈したという。三人は細かな雨の降る肴町の裏通りを歩いていた。
「ね、先生! 私こんどの女性の小説の題をなんてつけましょう? 考えて見て頂戴な。流れるままには少しチンプだから……」
 順子さんがこんな事をいった、団子坂のエビスで紅茶を呑んでいると、順子さんは、寒いから、何か寄鍋でもつつきたいという。
「あなた、どこか美味しいところ知っていらっしゃる?」
 秋声氏は子供のように目をしばしばさせて、そうねとおっしゃったきりだった。やがて、私は、お二人に別れた。
林芙美子『放浪記』岩波文庫2014:第二部、pp.322-24*6

 「燕楽軒」など、『仮装人物』『女弟子』に散見する固有名詞も登場するが、順子の発言中の『流れるままに』は、正確には『流るるままに』であったと思しい。それを林が聞き違えたのか、あるいは誤植に因るものか。これは、順子が最初にものした本のタイトルだが、原題の『水は流れる』を、足立欽一が『流るるままに』と改題したということを、小田前掲によって知った(小田氏は野口の『徳田秋声伝』に引用された井伏鱒二の書簡を根拠にしている)。
 なお小田氏には、「山田順子『女弟子』と徳田秋声『仮装人物』」(2013.1.9)という文章もある*7。これは、ブログの記事の一部を纏めた『近代出版史探索』(論創社2019)*8にはまだ収められていないが、順子が『女弟子』を自費出版した意図についても考察しており、たいへん興味深い。

仮装人物 (講談社文芸文庫)

仮装人物 (講談社文芸文庫)

文化庁国語課の勘違いしやすい日本語

文化庁国語課の勘違いしやすい日本語

抹香町・路傍 (講談社文芸文庫)

抹香町・路傍 (講談社文芸文庫)

古本屋散策

古本屋散策

放浪記 (岩波文庫)

放浪記 (岩波文庫)

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 ちなみに小島信夫は、「順子の軌跡/徳田秋聲」(『私の作家評伝1―草平・秋聲・漱石・鴎外・武郎・藤村―』新潮選書1972)で次のように書いている。

 順子が淫蕩な女だとか、何とかいうふうに解釈することは出来ないのであって、川崎長太郎という秋聲の弟子であった作家はその頃、二十六ぐらいであったが(川崎長太郎徳田秋聲の周囲」群像、昭和三十五年五月号)、当時の思い出を小説ふうに書いている。順子が作家気取りで、袂の中へ手をひっこめて、たたむように胸の前へ合わせて、前かがみになって歩くことや、つやっぽい調子で誘いこまれるように話しかけられて、こちらの方も大人ぶって対応すると、
「今日は駄目よ」
 とか、
「私、これでも、その方はしっかりしているのよ」
 とかいうような調子のことをいわれ、一方秋聲には甘えた口調で話しかけるところを見せつけられたかと思うと、秋聲の眼をかすめて、色っぽい視線を送ってくるところが、くわしく書かれている。事実そのままではない、と但し書きがしてあるので、全部そのまま信じることが出来ないし、第一、四十三、四年も前のことである。(p.65-66)

 さらに小島は、「ほんとかうそか、川崎長太郎氏が(秋聲が順子を)探しまわっているところに出会ったと書いている」(p.66)とも述べている。
(2020.1. 10追記)

*1:その主な理由のひとつとして、「『気が許せない』という意味で使われていた『気が置ける』という言葉が、現在ではあまり使われなくなっていることが挙げられる」(同p.101)。この状況からさらに十年以上経っていることに注意。

*2:この作品には、『仮装人物』に描かれた場面も含まれていて、例えば、秋声が行方知れずの順子を捜して見つけ出すくだり(「徳田秋声の周囲」pp.215-21)は、『仮装人物』七のpp.77-79に対応している。

*3:手許にあるのは、昭和六(1931)年一月三日(発行)の七版。

*4:初出は「日本古書通信」(2006.10)。

*5:当該作は今夏、岩波文庫に入った。

*6:新潮文庫の新版では、pp.272-73。ついでにいうと、注釈は新潮文庫版の方が懇切である。

*7:http://odamitsuo.hatenablog.com/entry/20130109/1357657247

*8:巻末に、前著『古本屋探索』と併せての人名索引を附す。

『橋本多佳子全句集』

 わたしが橋本多佳子や西東三鬼に興味を抱いたのは、十二、三年前に松本清張の「月光」『強き蟻』を読んだからだが、穂村弘氏は「私の読書日記」(「週刊文春」2019.10.3号)でこれと逆のことを述べている。すなわち穂村氏は、多佳子や三鬼の句集を入りくちにして清張の「月光」や『強き蟻』に関心を持ったのだという。もっとも「月光」は、句作の困しみや厳しさなどについて述べたものというよりもむしろ、多佳子と三鬼との関係について描いたもの、つまりゴシップ的な好奇心に応えるものであったと思う(だからといって、この作品を嫌いなわけではないが)。
 今年は、多佳子の生誕120年に当る*1。そこでこの数日、穂村氏が読書日記で紹介していた『橋本多佳子全句集』(角川ソフィア文庫2018)*2にお気に入りの革カバーをかけ、何処へ行くにもそれを携え、閑さえあれば披いていた。
 ひらき癖がついたせいか、「蟇(ひき)いでゝ女あるじに見(まみ)えけり」の句ばかり目に入るのが何となく可笑しかったが*3、「ゆくもまたかへるも祇園囃子の中」「子守唄そこに狐がうづくまり」「農婦帰る青田をいでて青田中」「木犀や記憶を死まで追ひつめる」「冬の旅日当ればそこに立ちどまる」「薔薇崩る切るに躊躇の長かりき」「蜂もがく生きるためにか死ぬためにか」「プールサイドの椅子身をぬらさざる孤り」「何の躊躇独楽に紐まき投げんとして」「雪はげし書き遺すこと何ぞ多き」など、孤独感や逡巡を感じさせる句がことに好みにあった。
 穂村氏は、多佳子の句に「孤独と誇り高さ、そしてナルシシズム」を感じ取っており、それらの「すべての源には、ただ一人で自らの宿命に対峙するという意識があるようだ」(p.130)と評している。その「宿命」というのは、穂村氏が直前で「いなびかり北よりすれば北を見る」の句を取り上げて、

「いなびかり」が「北」からしたのに南を見る者はいない。だから、この反応は当たり前なのだ。にも拘わらず、どうしてこんなに恰好いいのだろう。これが南や西や東では成立しないことはわかる。「北よりすれば北を見る」という反射的行為の中に、一瞬の宿命の暗示を見ているような感覚がある。(同前)

と記したことを受けたものだ。
 なお『全句集』所収、山口誓子の「解説 附多佳子ノート」*4によると、多佳子の作風に「ナルシシズム」がみられることは、当時の批評家らによっても「指摘」されてきたというが、誓子は、それは与謝野晶子の歌にうかがえる自己陶酔とは違って「自己愛惜と言うべきもの」だ(p.530)、と記す*5
 ところで東直子氏は、「朝日新聞」(2018.9.15付)の「文庫この新刊!」で『橋本多佳子全句集』を挙げて、

「乳母車夏の怒濤によこむきに」「いなびかり北よりすれば北を見る」等、激しさと冷静さを併せ持つ橋本多佳子の独自の俳句作品に魅かれていたので、気軽に持ち運べる文庫版の全句集がとてもうれしい。

と書いており、「毎日新聞」(2018.10.14付)の「今週の本棚・新刊」も『橋本多佳子全句集』について、

 師の山口誓子が「一処一情」と評したように、対象と位置をきびしく選ぶ句が多い。「しやぼん玉窓なき廈(いへ)の壁のぼる」「いなびかり北よりすれば北を見る」「春空に鞠(まり)とゞまるは落つるとき」の視覚も鋭い。「白桃に入れし刃先の種を割る」。手元を見つめるシンプルな美しさがある。

と述べている。評者がこぞって「いなびかり」の句を択んでいるのが興味深い。これは「北を見る」の詞書をもつ一連の句のひとつであって、ほかにも「いなびかり遅れて沼の光りけり」「いなびかりひとの言葉の切れ切れて」などの佳句がそこに含まれる。
 さて藤沢桓夫に、「俳人橋本多佳子」(『大阪自叙伝』中公文庫1981*6)という文章があって、藤沢は次のように書いている。

 ここで思い出したが、その頃(「昭和十二、三年頃」―引用者、以下同)新潮社から出ていた「日の出」という大衆雑誌に私は「大阪五人娘」という長篇を連載することになり、その時の私の担当者が、後に樋口一葉の研究者として知られ、現在渋い良い短篇を書いている作家の和田芳恵氏だったが、雑誌の口絵に使う写真に、私が大阪の女学生たちと一緒にいるところを撮りたいという先方の注文で、私は当時帝塚山学院の女学生だった弥栄子(藤沢の母方の叔父石浜純太郎〈敦煌学・西夏語学者〉の娘、松本弥栄子のこと)の学友たち四五人にカメラに入ってもらったが、その一人のどこか岡田嘉子に似た少女が多佳子さんの長女の淳子さんだった。
 とにかく、そんな因縁から、いつとはなしに私は多佳子さんと知り合うようになるのだが、まだ当時は多佳子さんが兄事していた山口誓子氏も多佳子さんも水原秋桜子氏主宰の「馬酔木」に客員の形で参加していた時代だった。そして、多佳子さんは夫君と死別して間がなかったと記憶する。
 長身の多佳子さんは文字通りの容姿端麗の人だった。彼女の俳句の清楚なあでやかさ、形のよさがぴったりの才色兼備の佳人と言ってよかった。(p.279)

 『全句集』巻末の年譜によれば、一九三五(昭和10)年9月のところに「誓子に従い「馬醉木」へ同人加入、以後俳号を「多佳子」とする」(p.555)とある。ちなみにそれ以前の俳号は「多佳女」、さらにその前は「多加女」であった。また藤沢は前掲の文章で、「帝塚山の、学院から北へ二町ほどしか離れていない高野線の線路から一町東の位置に、多佳子さんの住居があった」(p.278)と書いており、さきの年譜によると、多佳子が「大阪市住吉区帝塚山へ転居」したのは一九二九(昭和4)年11月のことで、その直後に誓子と初めて面晤している。
 藤沢の文章は次のように結ばれる。

 (多佳子が)奈良県のあやめ池へ引っ越してから*7も、多佳子さんは時どき私の家へ遊びに来てくれた。色紙や短冊に気軽に自分の句を書いて行ってくれることも多かった。彼女らしい美しい字を書くひとだった。それらの句の幾つかをここにしるして故人を偲びたい。

 もの書けるひと日は紫蘇に指をそめ
 蓮散華美しきものまた壊る
 秋風にあさがほひらく紺張りて
 炉より火花ひとりの刻をさっと捨つ

(pp.281-82)

 ただしこの四句、『全句集』に収めるものとは若干の異同が有る。「蓮散華」「秋風に」の句は全同だが、「もの書ける」「炉より火花」の句は、それぞれ「もの書けるひと日は指を紫蘇にそめ」「炉より立ちひとりの刻をさつと捨つ」、となっている。

橋本多佳子全句集 (角川ソフィア文庫)

橋本多佳子全句集 (角川ソフィア文庫)

*1:三鬼はその一歳下であるから、来年生誕120年を迎えることになる。

*2:穂村氏は同誌で、「本と名のつくものの中でも文庫版の全句集は最高だ。何故なら、優れた作者が一生涯に作った作品のすべてを手の中に収めることができるから。その安心感と喜びは大きい。小説ではこうはいかない。短詩型の魅力の一つだろう。/橋本多佳子と云えば、「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」などで知られた伝説的な女流俳人だが、改めてその魅力に痺れた」(p.130)と書いている。

*3:三鬼の句に、「橋本多佳子邸にて」の詞書をもつ「ぱくと蚊を呑む蝦蟇お嬢さんの留守」というのがある。

*4:初出は『橋本多佳子句集』(角川文庫1960)。

*5:同じく誓子によれば、「多佳子の美しさのことを言うひとがあると、多佳子はいつも私には美しさはありません雰囲気があるだけですというのを常とした」(同前p.529)という。

*6:朝日新聞社1974年刊を文庫化したもの。

*7:多佳子が「奈良県生駒郡伏見村字菅原(現奈良市あやめ池)へ疎開」したのは、年譜によると一九四四(昭和19)年5月のこと。

「シバヤ」――『加藤武 芝居語り』餘話

 前回引用した市川安紀『加藤武 芝居語り』(筑摩書房2019)は、小林信彦氏の「本音を申せば」(「週刊文春」2019.8.15・22合併号)でも紹介されており、そこで小林氏は、「この〈芝居語り〉は「キネマ旬報」の連載のつもりで始めたが、加藤さんの死(二〇一五年)によって挫折し、本で出版する、という形になったのではないかと思う」(p.68)などと述べているが、その最初の方で、

 両親が清元(きよもと)好きということもあり、小さい時から芝居(しばや*1と発音してるのが下町っ子らしい、私の祖母もそう発音していた)が好きであった。特に歌舞伎が大好きで、兄たちと同じ泰明(たいめい)小学校に入った。この〈泰明小学校〉というところで、加藤武さんが芝居のエリートであることがわかる。(同前p.68)

と書いている。「しばやと発音してる」というのは加藤武のことだと読めるが、わたしが一読したかぎりでは、それをうかがわせるような記述は見当らなかった(そそっかしいわたしが見落しているだけかもしれないが)。
 ただ同書は、六代目尾上菊五郎新橋演舞場での挨拶(1945.5.25)に言及していて、その発言内容を引いた所に、

 あっしはね、東京が焼け野原になっても、筵小屋をおっ建ててでも、芝や(芝居)を続けてまいります。どうぞしとつ、お前さんたちもね、火の中くぐっても観てやってくんなさい。(『加藤武 芝居語り』p.30、「芝や」の「や」、「しとつ」の「し」に傍点)

というくだりがみえ、六代目菊五郎が「しばや」と発音していたことは確かなようだ*2
 「しばや」と言った/を耳にしたかどうかは、固有名の「諸鈍シバヤ」(旧暦九月九日に奄美で行われる)などは別にして、山の手か下町かという地域性よりもむしろ、江戸期か明治期かあるいはそれ以降かという時代の違いに依るところが大きいだろうと思う。
 例えば、岡本綺堂は次のように書いている。

 演劇を我国では一般に「芝居」という。しかし江戸時代に「シバイ」という人は少い。知識階級の人は格別、一般の江戸人はみな訛って「シバヤ」と云っていた。その習慣が東京にまで伝わって、明治の初期から中期の頃までは、矢はりシバヤという人が残っていた。殊に下町の婦人などにはそれが多かった。
 私が二十歳の時、ある宴会の席上で一人の年増芸妓に逢った。その芸妓は私の膳の前に坐って、芝居の話などをしていたが、そのうちに彼女は私の顔を眺めながら突然にこんなことを訊いた。
「あなた、お国はどちら?」
「東京。」
「そうでしょう。そんならなぜさっきからシバイなんて変なことを云うの。あれはシバヤと云うんですよ。」
 叱られて、私は恐縮した。実際、明治二十四、五年の頃までは、花明柳暗の巷でシバイなどというと、お国はどちらと訊かれるくらいであった。それがいつか消滅して、今日では一般にシバイと正しく云うようになった。今日の芸妓に向ってシバヤなどと云ったら、あべこべにお国はどちらと訊かれるであろう。思えば、今昔の感に堪えない。
(「劇の名称」『綺堂随筆 江戸のことば』河出文庫2003:26-27*3

 これによれば、昭和初頭はすでに、東京でも「シバイ」が一般的になっていたようなのだ。江戸期には「シバヤ」とよく言われたというのは、国語辞典を引いてみれば直ぐにわかることで、例えば新村出編『広辞苑【第七版】』は「しば‐や【芝屋】」を立項し、「(シバヰの訛か)芝居。また、芝居小屋。浄、本朝廿四孝「京、大坂の―で甲斐の国の女子の鬼と、狂言にしたげな」」との語釈を施している。『日本国語大辞典【第二版】』も「しば-や【芝居・芝屋】」を採録しており、「「しばい(芝居)」をいう江戸の語。明治期にも広く用いられていた」と説く。これによれば、広辞苑の引く本朝廿四孝のシバヤの表記は「芝屋」であることが知られ、また「東海道中膝栗毛」四・上から「舞台さアへ、かけだいていやるにゃア、このしばやアならないぞ」、「浮世風呂」二・下からは「芝居(シバヤ)でする忠臣蔵をお見」という用例を拾っている。
 戦後の文章にも、「シバヤ」の出て来るものはあるが、往時を回顧した文章などに限られるようである。例えば、木村荘八は次のように記している。

 時の經つたことはわからなくなることの多いものです――それにしても、或る時祖母に連れられて、「船」に乘つて行つた「道」は、何處をどう行つたものかさつぱり見當がつきません。両國から出て、四ツ目の牡丹を見に行つたのかも知れませんが、その船で途中、夕立に逢ひました。船は篠つく雨の中にとまを立てて、或る橋の下に一時しぶきをよけました(後年小猿七之助の噺を聞いたり芝居を見たりすると、きまつてこの時のことを思ひ出します)。そして結局その日は、あとで、淺草へ行きました。――淺草へ行つてから先きのことだけを一つ、おぼえてゐるのです。
 それは芝居で、天からもや\/した光つた雲のやうなものが下りて來て、その下で人の戰ふシバヤを見ました。
 これが私の見た、私のおぼえてゐる、一番古い「芝居」です。
(「芝居見」『南縁隨筆』河出市民文庫1951:7-8*4

 荘八は、このように一箇所だけ意図的に「シバヤ」と表記しているのであり、これは芝居好きの「祖母」の口吻がそうであったか、もしくは幼時に周囲から聞くかしたのを、そのまま写し取ったものであったろう。

加藤武 芝居語り (単行本)

加藤武 芝居語り (単行本)

江戸のことば (河出文庫)

江戸のことば (河出文庫)

*1:この「しばや」に傍点有り。

*2:加藤の話しぶりについては、「ひ」が「し」になってしまう、という特徴はあったようで、同書には「築地に生まれ育ち、「どうかひとつ」を「どうかしとつ」になってしまう江戸っ子(加藤のこと)の周りには、常に芸能の匂いがあった」(p.14)とある。

*3:初出は「西郷山房随筆其一」(「舞台」1933.10.1)。

*4:初出は「歌舞伎 三十年記念號」(1951.3)。

『浮雲』、そして『放浪記』のこと

 2019年は成瀬巳喜男の歿後五十年に当る*1。そこで今年は、(これまでのところ)『歌行燈』(1943)、『めし』(1951)、『浮雲』(1955)、『放浪記』(1962)の四本を再鑑賞している。『歌行燈』『放浪記』は三度目、『めし』は四度目、『浮雲』は五度目の鑑賞だ。『めし』浮雲』はスクリーンで観たこともある。
 特に『浮雲』は、成瀬の命日である「七月二日」に観ることがかなったのだった。
 『浮雲』は、「日本映画史上に残る名作」などと言われたりして、映画番付には必ずといってよいほど登場する作品なので、邦画にさほど興味のない方でもご存じかもしれない。
 もちろん、これが名作であることを認めるにやぶさかではない積りだが、それでも、わたし個人としては――あくまで「極私的」な好悪という「超論理」の基準に則るものだが――、成瀬映画のベストテンに挙げるのは、やや躊躇われる(さらにいえば、同じ浮雲でも、アキ・カウリスマキの『浮き雲』の方が好きだ)。ことに、『鶴八鶴次郎』(1938)や『銀座化粧』(1951)、『稲妻』(1952)に『流れる』(1956)、そして『乱れる』(1964)など、成瀬のほかの名作品群にいったん触れてしまうと、『浮雲』はむしろ異端に属する作品なのでは?とさえ、思えてくるのである。
 とは云い條、『浮雲』は都合五度も観てしまっているわけだが(ここには三度目の鑑賞記録を記した)、こうして何度も観ていると、細かい点に気づいてしまうものである。
 例えば、高峰秀子森雅之との温泉での入浴シーンがある。この場面で高峰は左、森は右にいる。この配置は、作品の初めの方から大体そのようになっていて、高峰と森とが肩を並べて郊外を歩くシーン、千駄ヶ谷駅から二人で歩いて来るシーンとも、高峰が左、森が右である。
 ところがその入浴シーンから約8分後、今度は森が岡田茉莉子に浮気して二人きりで入浴する展開となり、そこでは森が左、岡田が右になっている。そのすぐ後に階段を二人でおりる場面も同様。この後、高峰と岡田とが対峙する場面があり、それを経た後、高峰と森とが二人でいる場面の配置がそれまでとは逆――すなわち高峰が右、森が左となる。この配置がしばらく続き、岡田が加東大介に殺されて退場した後も逆になっている。しかし、末尾の方で、高峰と森とが二人で鹿児島へ行く場面――高峰が束の間の幸福を得るくだりで、ようやく当初の配置(高峰が左、森が右)へと戻るのである。
 ちなみに言うと、入浴シークェンスにそれぞれ脱衣場のカットが挿入されているのだが、森の著物(左にある)と高峰の著物(右にある)のカットは、それを左から(つまり森のが前に来るように)撮っている一方で、森の著物(左にある)と岡田の著物(右にある)のカットは、それを右から(つまり岡田のが前に来るように)撮っている、という違いがある。
 それがどうした、と言われればそれまでなのだが、こういった人物配置にもなんらかの拘りがあったのだとすると、そのような観方も、なかなか面白い。
 ところで、今泉容子『〔改訂増補〕映画の文法―日本映画のショット分析』(彩流社2019)*2という入門書があって、「ショット分析 タイトル」の項で『浮雲』を取上げている。そこでは、『浮雲』冒頭に、林芙美子の未発表の詩(詳しくは同書p.274の注参照)の一節「花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき」が「挿入タイトル」として引用されていることに言及したうえで、「悲劇的な要素をもつ映画であることを暗示する」(p.273)と書かれているのだが、わたしが観た『浮雲』は、確か五度とも、その挿入タイトルは作品の末尾に配されていた。
 山田宏一氏も、『映画的な、あまりに映画的な 日本映画について私が学んだ二、三の事柄1』(ワイズ出版映画文庫2015)*3で、

林芙美子の原作小説にはないこの映画のラスト(愛と憎しみの果てに、男は女の死を慟哭して悲しむ)は水木洋子の脚本にもとづくオリジナルとのこと。「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」という原作者の林芙美子の墓碑銘にもなっているせつなくも美しい引用が、エンドマークのかわりに余韻を残し、薄幸の女の人生に涙をさそうという幕切れである。(p.226*4

と書いているのだが、今泉氏の書くように、エピグラフ風に冒頭に置かれるヴァージョンもあるということなのか知らん。
 この「花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき」は、林芙美子原作の成瀬映画『放浪記』でも、作品の最後に回想シークェンス(親子三人の行商場面)があって、そこに当該の文字が被さるような形で表示されて了わる。
 せっかくなので、その『放浪記』についても述べておきたく思う。この作品も主演は高峰秀子で、これはまさに、彼女のためにあるような作品だといっていい。高峰は、林芙美子(役名は林ふみ子)を、少女時代から晩年に至るまで演じ分けながら、林に感情移入させるのではなくむしろ人間としての生々しさに目を背けさせるように仕向けているのではないかと思わせるほど、その「いやらしさ」の側面を強調してみせる。自信なげで猫背気味に歩いてみせる様子から、だんだんと自信に満ち溢れた様子になってゆく演技の妙はさることながら、何かというと悪態をつき、成り上がるためには手段を択ばないという厭らしい人間くささを刻印している。
 高峰自身も、ふみ子を演ずるに当って、「人間臭さ。美と醜は表現しても、下品と紙一重で抑えること」「初めは泥くさい少女でも「放浪記」出版からラストにかけて、きたえられた一種の人柄と品を出すこと」等を目指したといい(高峰秀子『わたしの渡世日記(下)』文春文庫1998*5:344)、それがみごとに成功しているように思われるのである。
 もっとも高峰は、この作品に対する当時の批評が、「林芙美子に似ている/似ていない」という次元の話に止まったことに批判的に言及している。高峰は、『放浪記』を自伝的作品ではなくて一個の文学作品として理解しようと努めたようである。

 ところが、である。「放浪記」完成後の私に関する批評は、成瀬巳喜男にとっても私にとっても、まさに啞然とするようなことに終始したのである。それは映画そのものの批評というより、ただ「本物の林芙美子に似ている」「似ていない」「原作者をバカにした扮装だ」「林さんはあんな人じゃなかったろう」と、あくまでも生前の林芙美子にこだわった言葉ばかりだった。(略)「高峰秀子はミスキャストでダメ」ときめつけられたほうが、いっそ諦めがつくというものである。(略)要約すれば、成瀬監督と私は、はじめから「放浪記」をひとつの文学作品として理解し、その映画化に当たって、文学少女の執念と、その生きざまを描こうとしたのに対して、観る側の人々は「林芙美子の自伝映画」を観ようと思って劇場に足を運んだということだろう。そして、映画の中の林芙美子に仰天し、かんじんの映画鑑賞がそっちのけになり、「似てる」「いや、似てない」という、私としては問題にもしていなかったところだけが、印象に残ったということなのだろう。(高峰前掲、pp.345-47)

 しかし、後世の批評でも(いな、「後世の批評だからこそ」というべきか)、等身大の「林芙美子」自身を描いたもの、という見方が主流を占めるように思う。もっとも、それは、そのような見立てをすることによって、むしろ「映画そのものの批評」となり得ているわけだが。
 例えば榎並重行氏は、高峰が演技で表現したことを林の「俗物性」と表現し、次のように書いている。

『放浪記』では、むしろ表情変化の運動性を遅くし、表情の肌理をひとつひとつ定着させるような演技様態を取る高峰が見られるだろう。その終盤には、作家として成功を収めた林の暮らし振りが付け加えられ、原稿の依頼を断ると成功していい気になっていると陰口を叩かれるからすべて引き受けているとか、母親にいかにも時代劇に出てきそうな楽隠居然とした羽織を着せて原稿待ちの編集者たちの目に触れるように坐っているよう言いつけるとか、林の俗物性と疲労を引き出した後、彼女が書きかけの原稿に突伏して眠り、映画の冒頭につながる両親と行商の旅路にある幼年時代の自らの姿を夢見るかのような場面でもって終わるように、映画『放浪記』は林の『放浪記』を、いわば林自身の夢のなかで回顧され、自己劇化された物語として、呈示していた。高峰の遅らせ気味の表情・運動には、それ故、『放浪記』に込められた林の自己劇化を印づけ、林がそこに読み取られることを望んだであろう健気さや一途さを拭い去り、むしろほとんど俗物性すれすれの図太さを、その表情の肌理のなかに観客が捉え得るようにする批評性の遅延が、混入されていよう。こうした批評性は、当然にも、演技を映像上の描写や表現の手段ではなく、観客の知覚に働きかける運動性の課題の解決の実行として、把握していない限り、起こり得ない。成瀬映画における高峰秀子という俳優の重要性は、この点においてまぎれもなく際立っている。(『異貌の成瀬巳喜男―映画における生態心理学の創発洋泉社2008:222)

 また小林信彦氏は「本音を申せば」で、「林芙美子は、写真で見る彼女は、セクシーである。(『放浪記』の)高峰秀子は滑稽なメーキャップにしていたが、これは、いくらか誇張しているように思われる」(「週刊文春」2019.7.25:51)と書いており、こちらも林との比較において評している。
 さらに市川安紀氏は、高峰が「嫌な女」としての林を演じたことについて述べている。加藤武の貴重な撮影裏話とともに紹介しよう。

 杉村(春子)がハンセン病患者を演じた豊田四郎監督『小島の春』(四〇年)は、少女時代の高峰秀子が杉村の芝居に感動し、演技開眼した作品として知られる。その高峰が、作家林芙美子の自伝的映画に主演したのが、成瀬巳喜男監督の『放浪記』(六二年)だ。
 これに先立つ菊田一夫の脚本・演出による舞台版(六一年初演)は森光子の生涯の当たり役となったが、貪欲な懸命さで観客の共感を呼ぶ芙美子像をつくり上げた森とは異なり、高峰は人間の醜さもあざとさもむき出しのまま、貧乏のどん底から流行作家にのし上がる“嫌な女”として演じた。おそらく実際の芙美子はこちらに近かったのでは、と思わせる迫力だ。森との芙美子像の違いが実に興味深い。
 加藤(武)はこの『放浪記』で成瀬映画に初出演。伊藤雄之助らと共に、芙美子を取り巻く文学仲間の一人を演じた。ちなみに(加藤と)麻布時代の同輩で知的な二枚目で鳴らした仲谷昇も映画出演が多いが、本作では芙美子が最初に惚れるインテリの優男役。芙美子と二人で暮らす部屋にぬけぬけと美女の草笛光子を連れ込むという、しょうもない二股男である。
 高峰が主演し、夫の松山善三が監督した『名もなく貧しく美しく』にも加藤は出演していたが、高峰と現場で顔を合わせるのは『放浪記』が初めてだった。

「このときは宝塚映画でね。宝塚の撮影所って、劇場と温泉と遊園地ぐらいで、周りには何もないんですよ。初めて成瀬さんのセットに大緊張で入っていって〈よろしくお願いします〉って言ったら、キャメラの横に座ってた高峰さんがじーっと俺のこと見て、〈あ、日活の悪役が来た〉って。ボソッとひと言だけ。ひゃー、参った。よく観てたんだね。あとはもう全然、口もきかない。黙ってスッと行っちゃった。余計なことは何も言わないけど、鋭くて面白い人だよね、高峰さんは。
 中村メイコから聞いたのはね、やっぱり成瀬さんの映画だったかな、撮影が長引いて、天下の二枚目の上原謙さんが、さすがにくたびれてしゃがんでたんだって。そしたら高峰さんが〈しゃがみ上原~、しゃがみ上原~〉って。ニコリともしないで小声で呟いたんだって。もう大ウケ。あと仲代達矢から聞いたのは、成瀬さんの映画で仲代が高峰さんを殴らなきゃいけないシーンがあって、高峰さんが〈ぶっていいよ〉って言うから本当にビシャーッと引っぱたいたら、ぶたれたまんま〈……芝居はヘタだけど力あるんだねぇ〉って。そのままスーッと行っちゃったんだってさ。おっかしいよねぇ。

(市川安紀『加藤武 芝居語り』筑摩書房2019:109-11)

 文中に、「芙美子が最初に惚れるインテリの優男」を仲谷昇が演じた、とあるが、芙美子が「最初に惚れ」た(そしてその後も忘れることがなかった)のは、芙美子を東京に連れて来たのに自身は因島に帰ってしまったという「香取さん」だろう。これは事実に基づいていて、岡野軍一という男である。
 仲谷の演じた伊達にもやはりモデルがいて、詩人・俳優の田辺若男がそれに当るだろう。第三の男となる宝田明=福地(春日太一氏による宝田氏へのインタヴューが興味深い*6)のモデルは詩人の野村吉哉、そして、生涯連れ添うことになる小林桂樹=藤山のモデルは画学生だった手塚緑敏だろう。
 ちなみに高峰は、この緑敏からバラの花束を贈られたことを著書で明かしている。

 ただ、「放浪記」封切り後、思いがけず、林芙美子の夫君であった林緑敏から「故人が観たらきっと喜んだことと思います。彼女に代わってお礼を申し上げます」という手紙にそえられて、美しいバラの花束が届いたことだけが、私の唯一の気慰めになった。(高峰前掲、pp.347-48)

 さきに、成瀬・高峰が、『放浪記』を林芙美子の自伝映画の積りでつくったわけではないことを見たが、劇中の原作からの引用ひとつをとってみても、それはうかがい知られるところである。例えば――、
 まずは原作と同じところを挙げると、劇中で「四月×日 水の流れのような、薄いショールを、街を歩く娘さんたちがしている。一つあんなのを欲しいものだ」、「十月×日 夜更けて(谷中の―原作にあり)墓地の方へ散歩をする。本当に死にたいなんて考えないのだけれど、死にたいと心やすく言ってみる。〔以下独白〕それでなんとなく気がすむのだ。気がすむということは、一番金のかからない楽しみだ。(「本当に」から「楽しみだ」までは原作になし)石屋の新しい石の白さが馬鹿に軽そうに見える。いつかは、私もお墓(原作は「墓石」)になるときが来る。何時かは……。私はお化けになれるものだろうか……。お化けは何も食べる必要がないし、下宿代にせめられる心配もない。肉親に対する感情。恩返しをしなければならないというつまらぬ呵責。みんな煙の如し。まだ無縁な、誰のお墓(原作は「墓石」)になるとも判らない、新しい石に囲まれて、石屋さんは平和に眠っている。朝になれば、また槌をふるって、コツコツと石を刻んで金に替えるのだ。いずれの商売も同じことだ。石に腰をかけていると、お尻がしんしんと冷い」というのは、文言も月も原作その通り(それぞれ、岩波文庫版2014の「第一部」p.34、「第三部」pp.415-16、以下同様。但し、原作の「第一部」~「第三部」は時系列に沿ったものでは全くない)で、後者では、福地(原作では野村)との結婚を決意する独白がそれに続くところまでそっくり同じである。
 しかし一方で、「九月×日 茅場町の交叉点からちょっと右へ入ったところに、イワヰという株屋がみつかった」、「十月×日 私は毎日玩具のセルロイドの色塗りに通っている。日給は七十五銭*7也の女工さんになって今日で二ケ月(原作は四ケ月)」、「七月×日 童謠をつくってみた。売れるかどうかは判らない。当てにすることは一切やめにして、ただ無茶苦茶に書く。私の思いはそれだけだ」等といった箇所は、文言はほぼ同じだが、原作ではそれぞれ「第二部」六月×日(p.200)、「第一部」十一月×日(p.43)、「第三部」十月×日(p.415)となっていて、劇中で辻褄を合わせるために月を変えている。
 さらに劇中で、高峰が仲谷(伊達)と初めて出会う場がカフェーであるが、そういった事実はないようだし、高峰は草笛光子(日夏)と仲谷を取り合った挙句、伊藤雄之助(白坂)が間をとりもつ形で「二人」という同人雑誌をつくることになるが、実際に林が友谷静栄と「二人」を出すに至るまでにそのような経緯はないようだ。また原作の「印刷工の松田さん」(「第一部」p.47)は、劇中の加東大介(安岡)がそれに当るだろうが、実際には最後まで友人として附き合った関係ではなさそうだし、改変した箇所は少なからずあるとおぼしい。ここでついでに述べておくと、岩波文庫の『放浪記』が、友谷の歿年を1950年とした(p.73)ことについて、廣畑研二『林芙美子 全文業録――未完の放浪』(論創社2019)は、「これは誤植でもなければ誤解でもない、意味不明の過ち。これでは芙美子より先に亡くなったことになってしまう」(p.245)と「苦言を呈して」いる。廣畑著によれば、友谷は1991年まで、93歳の長命を保ったようである。
 映画版『放浪記』が原作のどこを採ってどこを捨てたかという取捨選択や、どこをどのように変えたかというのを引き較べ、いちいち検べてみるのも一興かもしれない。

〔改訂増補〕 映画の文法;日本映画のショット分析

〔改訂増補〕 映画の文法;日本映画のショット分析

わたしの渡世日記 下 (文春文庫)

わたしの渡世日記 下 (文春文庫)

異貌の成瀬巳喜男

異貌の成瀬巳喜男

加藤武 芝居語り (単行本)

加藤武 芝居語り (単行本)

放浪記 (岩波文庫)

放浪記 (岩波文庫)

*1:そしてまた、市川雷蔵の歿後五十年でもある。雷蔵の方は、今夏以降、少しずつだが「眠狂四郎」シリーズを観なおしている。

*2:旧版は2003年刊。

*3:元版は『山田宏一の日本映画誌』、1997年刊。その増補改訂版。

*4:初出は「毎日新聞」日曜版、1995年とのこと(日付不詳)。

*5:単行本は朝日新聞社1976年刊。

*6:同様のことは宝田氏自身、のむみち編『銀幕に愛をこめて―ぼくはゴジラの同期生』(筑摩書房2018)でも述べていたはずである。

*7:正確には劇中の文字は「銭」は俗体で、金偏を除いた右部のみ。

加藤典洋『日本風景論』のことから

 この五月に亡くなった加藤典洋氏の『日本風景論』(講談社文芸文庫2000)を読んでいると、というか、そこに収められた「武蔵野の消滅」なる論考に惹かれて読んでみると、国木田独歩の「忘れえぬ人々」にも言及していたので、嬉しくなった。
 加藤氏は木股知史氏の論を援用しつつ、柄谷行人氏が「風景の発見」で論じた二つの風景――「明治期以前に、見出されるまでもなくあった風景」と、「新たに見出された「風景としての風景」」――のほかに、「第三の「風景」」、すなわち「たんなる風景」というものが明治初期に見出されたのであって、「忘れえぬ人々」にはそれが表れている、と説く。そのことは「武蔵野」でも同様だとして、「国木田のような奇怪な視線の持主」を「新人」と呼んだうえで、

 とにかく、この新人は、それまで「風景」とはこのようなものだと教えこまれてきた文化コード、それに準拠する名勝地の景観にはどのような魅力も感じず、むしろ何のへんてつもない、と思われてきた景観、落葉林、雑木林の広がる平野、都市と田舎の間に横たわる境界地域に魅力を感じる。ここでは、どのようなわけからであれ、とにかくこうした新人類が現れ、「たんなる風景」として「武蔵野」を発見していることが重要なのである(因みにいえば『武蔵野』には、「忘れえぬ人々」と並んで「郊外」という小品も収められている)。(『日本風景論』p.178)

と論じている。これを前提として、「忘れえぬ人々」に登場する大津と秋山とが「別に何の肩書もない」名刺を交換するの(前回のエントリ参照)は、「確信的な無名者、「無名」という肩書き、「何者でもない」という肩書きをもつ、第三の範疇に属する新人」(p.182)であることを意味する、と述べる。そしてこの「新人」が、「彼と何のかかわりもない無関係者、彼個人に帰属するある理由から「忘れ得ぬ人」となっている、そうした人々の映像を思い浮かべる」(p.183)。それこそが、「忘れえぬ人々」の本質だという。
 続けて加藤氏は、以下のように記す。

「忘れ得ぬ人」は、「これらの人々」として語られ、「そうでない、これらの人々を見た時の周囲の光景の裡に立つこれらの人々」と言い直される。国木田の言いあてようとするのは、既知のものが未知のものとして見えはじめるというある事態であり、いわば「たんなる風景」としての「これらの人々」の発見が、ここで語られようとしている。彼は「文学」(内面)の言葉でしか語れないが、言いたいのは「風景」のほうだ。「文学」(内面=忘れてかなうまじき人)に解消されないものがある。意味に解消されない「たんなる風景」がある。自分はそれを言いたい。それがここにいう「風景」、「風景としての人」、「忘れ得ぬ人」の意味なのである。(p.183)

 「これらの人々」は、加藤氏によって「ただの人」(p.214)と言い換えられるが、この解釈も、荒木優太氏の「偶然的遭遇」論と並んで、なかなか魅力的である。
 加藤氏の論は、「人は二重人格、三重人格、スパイのような存在でなければ、いま「ただの人」でいることはできないのではないだろうか。そうでなければ、「武蔵野」のない世界に、「武蔵野」を見て生きてゆくことは、いま、たぶん不可能なのである」(p.214)といった一文で結ばれる。
―――
 さて「武蔵野」は、第二章が、独歩自身の日記の一部――明治二十九(1896)年の秋の初めから翌年の春にかけての記述の一部――を引用する形式になっている。この日記というのは、「一八九三年(明治二六)年〈ママ〉二月から一八九七年五月までの日記「欺かざるの記」」を指し、「(独歩)没後に田山花袋・田村江東・斎藤弔花の校訂により公刊された(『前篇』一九〇八年一〇月、『後篇』一九〇九年一月)」(岩波文庫版『武蔵野』の注より、p.259)。
 当時は日記の公刊を心待ちにしていた者も多かったようで、たとえば近松秋江は、明治四十一(1908)年七月七日に、

 私は(略)此度遺稿出版として上梓せられやうとしてゐる(国木田)氏の『欺かざるの記』や『病牀録』やに對して非常な渇望を抱いて居る。『欺かざるの記』既に題を聞いただけで氏が單純な藝術の人でなく、如何に精神の人、思想の人、性格の人であるかゞ分るではないか。氏は人の師たることの出來る人である。師といふのは小説の先生をいふのではない。(「性格の人國木田獨歩」『文壇無駄話』河出文庫1955:46)

と書いている。
 ただし、「武蔵野」の第二章に引かれる『欺かざるの記』は、原文そのままではないし、意図的に省かれた箇所もある。これに関して、前田愛は次のように述べる。

 『武蔵野』の第二章には、秋から春にかけての季節のうつりかわりを録した『欺かざるの記』の記事が抄録されているが(多少の異動〈ママ〉がある)、当然のことながら信子*1への想いを表白した部分は切りすてられている。たとえば、「朝、空曇り風死す、冷霧寒露、虫声しげし、天地の心なほ目さめぬが如し」という九月十九日の記事の後には、こういう記事がつづくのだ。「夢に彼の女を見たり。彼の女曰く君に帰る程に雑誌を起し給へといへり。『薄弱よ、爾の名は女なり』女性の品性に誠実を欠くは薄弱なるが故なり。吾未だ高尚なる女を見ず。女子は下劣なる者なり」。(「国木田独歩『武蔵野』―玉川上水」『幻景の街―文学の都市を歩く』岩波現代文庫2006〈小学館1986〉:66-67)

 「武蔵野」が『欺かざるの記』から最初に引用するのは、これに遡ること2週間弱の九月七日の條であり、以下の如く引用されている。

九月七日――「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ風を払ひつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌めく、――」(岩波文庫版p.6)

 この箇所も、『欺かざるの記』とはかなりの異同がある。赤坂憲雄氏は次のように記す。

 たとえば、独歩にならって、まず九月七日の記事から始めることにしよう。「武蔵野」と『欺かざるの記』を並べてみる。「武蔵野」には、以下のように日記からの抜き書きが示されている。すなわち、「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ風を払ひつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌めく」と。これに対応する『欺かざるの記』の記述は、「昨日も今日も南風強く吹き、雲霧忽ち起り、突然雨至るかと見れば日光雲間よりもれて青葉を照らすなど、気まぐれの秋の空の美はしさ」である。注意を促しておきたいのは、附加された「林影一時に煌めく」という箇所である。(『武蔵野をよむ』岩波新書2018:36)

 赤坂氏がなぜ「林影一時に煌めく」に着目しているのかは、実際に『武蔵野をよむ』の本文にあたって頂くとして、ここで注目したいのは、「降りみ降らずみ」(降ったり降らなかったり)という表現である。こちらも、上で見て分るとおり、『欺かざるの記』には出て来ていない。
「降りみ降らずみ」は、直前の「雲を送りつ風を払ひつ」に対応するものとして導き出された形式であろうが、むしろ、和歌や俳句で用いられる表現だと思う。
 散文に用いたのは、独歩がその嚆矢――とはいわないまでも、かなり夙い例だったのではなかろうか。
 後年には、たとえば山田風太郎が、昭和十九(1944)年、昭和二十(1945)年の日記でこの表現を用いている(ちなみに昭和十九年年九月十七日以降の日記には、「晴れみ曇りみ」「降りみ晴れみ」「降りみ照りみ」等といった表現も出て来る)。

二月二十四日
 ○陰気なる日。雲暗澹として雨降りみ降らずみ。昨日正木君の持って来てくれた二月分の給料袋をあけると五十円十八銭也。(山田風太郎『戦中派虫けら日記―滅失への青春』ちくま文庫1998:300)

七月一日(日) 雨
 ○終日霧雨ふりみふらずみ。午後荷物運搬作業。
山田風太郎『戦中派不戦日記』講談社文庫1985:250)

 「降りみ降らずみ」を用いた散文として、私にとってとりわけ印象深いのは、杉本秀太郎「どくだみの花」(初出は「海燕」1982年7月号)である。この随筆の冒頭に、「降りみ降らずみ」が出て来る。すなわち次のようである。

 降りみ降らずみの夕まぐれに、芍薬が雨滴を含んで三輪、五輪、うなだれている。抱き起こしてのぞき込むと、早く何とかしてください、という声が聞こえた。(「どくだみの花」『半日半夜―杉本秀太郎エッセイ集』講談社文芸文庫2005所収:188)

 この「どくだみの花」について、「数あるなかで、かねがね私がこれぞ杉本秀太郎のベストワンと思い定めている作品」だと断言するのが、杉本氏の旧い友人・山田稔氏である。山田氏は、杉本氏への追悼文ともいえる「「どくだみの花」のことなど」(『こないだ』編集工房ノア2018所収、初出は「海鳴り」28、2016年6月)で、「どくだみの花」餘話というべき挿話を披露している。杉本氏の文章中で、名前を出さずに「先生」とだけ呼んでいる人物が生島遼一であるということ、生島自身は名前を出してほしかったと云っていたこと、杉本氏から届いた葉書、そしてそこに書かれた言葉のことなど。生島が「芍薬の歌」なる随筆を書いた、というのはこの文章で知ったのだったが、ともかく、山田氏の「「どくだみの花」のことなど」も、実に秀れた作品なのである。
 「「どくだみの花」のことなど」については、『こないだ』を評した坪内祐三氏も「まさに絶品」「少し辛口の名文」と書いているし、井波律子氏も『こないだ』評(「毎日新聞」2018.8.7付)で、やはり「「どくだみの花」のことなど」を真っ先に取り上げ、「過剰な思い入れなく、淡々と綴られているにもかかわらず、今は亡き大切な友人の姿がくっきりと描きだされ、みごとである」(『書物の愉しみ―井波律子書評集』岩波書店2019:503-04)と称賛している。
 そういえば、生島遼一『春夏秋冬』(講談社文芸文庫2013)の解説「生島遼一のスティル」(山田稔)も、解説というよりは、むしろ「ポルトレの名手」(坪内氏)としての山田氏の才能がよく表れた佳品だといえる。後には、『天野さんの傘』(編集工房ノア2015)に収められた。

日本風景論 (講談社文芸文庫)

日本風景論 (講談社文芸文庫)

武蔵野 (岩波文庫)

武蔵野 (岩波文庫)

文壇無駄話 (1955年) (河出文庫)

文壇無駄話 (1955年) (河出文庫)

幻景の街―文学の都市を歩く (岩波現代文庫)

幻景の街―文学の都市を歩く (岩波現代文庫)

武蔵野をよむ (岩波新書)

武蔵野をよむ (岩波新書)

戦中派虫けら日記―滅失への青春 (ちくま文庫)

戦中派虫けら日記―滅失への青春 (ちくま文庫)

新装版 戦中派不戦日記 (講談社文庫)

新装版 戦中派不戦日記 (講談社文庫)

半日半夜 杉本秀太郎エッセイ集 (講談社文芸文庫)

半日半夜 杉本秀太郎エッセイ集 (講談社文芸文庫)

こないだ

こないだ

書物の愉しみ 井波律子書評集

書物の愉しみ 井波律子書評集

*1:独歩が不本意な形で結婚生活の破綻を迎えたその相手、すなわち元妻の佐々城信子。

国木田独歩「忘れえぬ人々」

 武蔵野の西端に少しばかり縁が出来たこともあって、このところ、国木田独歩『武蔵野』(岩波文庫2006改版)を持ち歩いて読んでいた。これは表題作のほかに十七篇を収めた短篇集で、そのうちとりわけ心に残ったのが、「忘れえぬ人々」である。
 「忘れえぬ人々」も武蔵野を舞台とする作品で、作中には、たとえば「春先とはいえ、寒い寒い霙まじりの風が広い武蔵野を荒れに荒れて終夜(よもすがら)、真闇(まっくら)な溝口の町の上を哮え狂った」(p.155)といった描写がみられる。
 山田太一氏は武蔵野の「溝の口のはずれ」に住んでいる(いた?)そうで、「武蔵溝ノ口の家」(『月日の残像』新潮文庫2016)で「忘れえぬ人々」の冒頭部分を引用しつつ、「いい短篇で全部引用したいがそうもいかない。(作中に出て来る宿屋の)亀屋は数年前まで婚礼や法事などに使われる亀屋会館となって続いていたが、ある年とりこわされてマンションになってしまった」(p.17)と書いている。
 阿部昭*1も、「忘れえぬ人々」を好きな短篇のひとつとして挙げていて、次の如く述べる。

 独歩の短編からどれか一つ、というのは無理な注文であるが、私がときどき覗いてみたくなるのは、二十七歳の年に『武蔵野』についで書かれた『忘れえぬ人々』である。覗くというのは、冒頭の堂々たる風格をもった叙景、またそれに続く宿屋の帳場の場面だけでも、私にはしばし時を忘れるに十分だからである。そこを読むと、なにか自分もそんなうらぶれた旅人姿で一夜の宿を探しているような、心もとない気持ちになる。そして、自分もそんな宿屋に一晩厄介になりたいような、人恋しい気持ちになる。懐かしいと言っても、しんみりすると言っても足りない、鷗外や漱石と同じ、日本人の血にひそむ郷愁を掻き立てずにはおかぬものが、やはりここにもある。(『短編小説礼讃』岩波新書1986:59)

 阿部は、これに続けて「忘れえぬ人々」の冒頭部を引用し、「亀屋の主人(あるじ)」の描写について高く評価する。さらに作品全体としては、

 『忘れえぬ人々』は、主人公のメッセージにそむかず、読む者に人がこの世にあることの不思議さをしみじみと感じさせる。そしてまた、その結びには若い独歩の文学への自覚と決意がうかがわれる。(同前p.64)

と評している。ここで、「忘れえぬ人々」の梗概を述べておこう。
 三月初旬の晩、武蔵野溝口の亀屋を訪れた二十七、八の無名の文学者・大津弁二郎(独歩自身がモデルかと思われる)が、隣室の客で二十五、六の画家の秋山松之助とたまたま相知ることになり、自室に来た秋山と「美術論から文学論から宗教論まで」語り合う。そのとき大津の手許にあった草稿に秋山が眼をとめる。表紙には「忘れ得ぬ人々」と書かれており、秋山はそれを見せてほしいとせがむ。大津は、草稿は見せずに詳細を語って聞かせることにする。その表題の意味するところは、「忘れ得ぬ人は必ずしも忘れて叶うまじき人にあらず」。すなわち「忘れて叶うまじき人」は、親や子・知人だけでなく、自分が世話になった教師先輩の類をさすが、「忘れ得ぬ人」は、まったくの赤の他人なのに「終(つい)に忘れてしまうことの出来ない人」のことである。大津は、旅先などで見かけたりすれちがったりした「忘れ得ぬ人」を幾人も挙げた。
 それから二年後のこと。大津と秋山との交際は全く絶えてしまっている。大津は雨の降る晩、ひとり机に向かって瞑想していた。机上には、「忘れ得ぬ人」の原稿が置いてある。だが、その最後に「忘れ得ぬ人」として書き加えてあったのは、すっかり打ち解けて深更まで語り合った秋山ではなく、「亀屋の主人」だった――。
 さて、朝刊連載記事をまとめた堀江敏幸『傍らにいた人』(日本経済新聞出版社2018)は、国内外の小説(短篇がとくに多い)についての随想集であるが、劈頭の「傍点のある風景」は「忘れえぬ人々」を端緒として叙述を始めており、その末尾の方で次のように記している。

 すべての語りが終わったあと、作者(独歩)の分身を思わせる大津の心の光景のなかで、主要な人物とは見えなかった男(亀屋の主人のこと)に印象的な傍点が振られた理由については、独歩の文学全体に、また彼の短かった生涯の出来事に照らしてみれば、それらしい説明が可能になるだろう。
 けれど私は、ひとりの読み手として、こうした解釈の誘惑からいったん離れてみたいとも思うのだ。読書をつうじて形成された記憶のなかで振られる後付けの傍点の意味を、深追いしないこと。書物のどこかで淡い影とすれちがっていた事実を、ありのままに受け入れること。その瞬間、頬をなでていたかもしれない、言葉の空気のかすかな流れを見逃していた情けなさと出会い直せた不思議を、大切にしておきたいのである。(p.13)

 「印象的な傍点が振られ」る、というのは堀江氏独特の言い回しであるが、これは次の記述を受けたものである。

 私は実際に、思い出されてはじめて、なるほどその折の景色のなかに目立たない傍点が打たれていたのだと気づかされるような影たちと、何度も遭遇してきた。ただし、現実世界ではなく、書物の頁の風景の中で。
 読み流していた言葉の右隣に、じつはあぶり出しの手法で見えない傍点が振られていて、時間の火をかけるとそれが黒い点になって浮かびあがる。濃淡は、めぐる季節によっても変化する。(p.11)

 荒木優太氏は、「亀屋の主人」が忘れ得ぬ人として選ばれた理由について、次のような解釈を与えている。「それらしい説明」どころか、得心のゆく見立てであるように思えたので、最後に紹介しておきたい。

 大津は「忘れ得ぬ人々」という題名の原稿に、「秋山」の名ではなく「亀屋の主人」と書き込んでいたことが小説の末尾で明らかになる。あたかも、「名刺の交換」を済ませたような縁故*2の外にこそ求めるべき出会いがあったかのように。(中略)
 彼らの肩書なき名刺は、実際の無名性や有名性を隠す謙虚さの表れなどではなく、単なる「ハイカラー」である可能性がある。そうであるのならば、「秋山」ではなく「亀屋の主人」が特別な対象として選ばれたことも理解できる。仮に再会せずとも「秋山」は都会のネットワークに通じており――少なくとも大津は「東京」の人間でネットワークを予感できる、〈場所性〉の問題――、純粋な偶然的遭遇は、その外部のたまたま立ち寄った「亀屋の主人」の方に認められるからだ。(『仮説的偶然文学論―〈触れ‐合うこと〉の主題系』月曜社2018:141-42)

武蔵野 (岩波文庫)

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月日の残像 (新潮文庫)

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短編小説礼讃 (岩波新書 黄版 347)

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傍らにいた人

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仮説的偶然文学論 (哲学への扉)

仮説的偶然文学論 (哲学への扉)

*1:ことしが歿後三十年に当る。

*2:秋山が大津の部屋に押し掛けた時点で、二人は「別に何の肩書もない」名刺の交換を済ませている。