猪場毅と『広辞苑』

 永井荷風『来訪者』の主要登場人物2人のモデルのうち、白井巍(たかし)のモデルになった平井呈一(1902-76)はいまも読まれる翻訳作品を数多く残しているし、その弟子のひとり荒俣宏氏が語り継いでいることもあってよく知られているものの*1、木場貞(てい)のモデル・猪場毅(1908-57)の方は、これまではあまり知られていなかった。
 今年の初め、善渡爾宗衛+杉山淳 編『荷風を盗んだ男―「猪場毅」という波紋』(幻戯書房)が出て、彼にもようやく光が当るようになってきた*2。その後6月には、1980年代初めに私家版として出た花咲一男『雑魚のととまじり』が幻戯書房から刊行されていて(編集協力に『荷風を盗んだ男』の善渡爾氏、杉山氏の両者が名を連ねる)、このpp.66-70にも猪場が出て来る。花咲は彼の第一印象について、「定かに覚えていない」が、「顔色の悪い、むくんだような顔付と、さっぱりしない、汚れた服装が浮んで来る」(p.66)と書いている。
 私は、かなり以前に『来訪者』を新潮文庫版で読んでいたとは云い條(最近、岩波文庫にも入った)、実際の猪場の人となりについては、石川桂郎俳人風狂列伝』(中公文庫2017←角川選書1974)を読んで知ったのがようやく初めてのことで*3、しかもそれは、俳号の「伊庭心猿」としてであった。
 伊庭心猿を特に心に留めるようになったのは、『来訪者』のモデルになったことのほか、石川の次の記述が気になったからでもある。

 今まで書いてきた心猿の行状は事実であるが、われわれ仲間はけっして彼を軽んじていたわけではない。猪場毅の業績として『樋口一葉全集』六冊、『一葉に与へた諸家の書簡』一冊、岩波の新村出『新辞苑』の追加増補の仕事、東京堂『世界文明辞典』の西洋篇、俳人伊庭心猿として句集『やかなぐさ』、豆本仕立の随筆集『絵入東京ごよみ』『絵入墨東今昔』等のすぐれた著書がある。中でも『墨東今昔』の「木歩の生涯」*4は、心猿の傑作の一つであると高須茂が賞讃している。(石川桂郎「此君亭奇録―伊庭心猿」『俳人風狂列伝』中公文庫p.42)

 「辞書好き」として気になったのが、「岩波の新村出『新辞苑』の追加増補の仕事」という記述なのだった。この『新辞苑』というのは、実は『広辞苑』を指し、新村出の『新辞苑』は云わば幻の辞書の名前、ということになっている。
 新村は、はじめ岡書院の岡茂雄の懇請により、溝江八男太の協力を条件に『辞苑』の出版を引き受けることとなるのだが、それが博文館に移譲されてからも、岡は陰に陽に協力を惜しまなかった。『辞苑』刊行(1935年)後、百科項目を殆ど削除する形で完成した(1938年末)のが、小型国語辞典の『言苑』である。
 『辞苑』の方は、刊行直後から改訂作業が始まり、1941年に改訂版の刊行を目指したが間に合わず、戦後も岡は交渉を続けるが、博文館・博友社は改訂版の刊行を拒否した。新村の息子の猛の交渉によって、岩波書店から改訂版が出る運びにはなったが、岡は新村に「辞苑」という書名はなるべく使わぬようにと何度も「進言」したらしい。しかし結局『広辞苑』が採用されることになり、後には岡の懸念した通り、岩波と博文館との間で係争が起ってしまう。そこに至るまでの経緯については、岡の「『広辞苑』の生まれるまで」(『本屋風情』中公文庫1983←平凡社1974*5)に詳しい。ただし岡のこの文章は、『新辞苑』という書名には触れていない。
 『広辞苑』の書名は当初、新村から『辞海』『辞洋』『言洋』等がよいとの要望があり、それらのうちの『辞海』が仮称として択ばれていたという。しかし、

 昭和二七年に、新たに金田一京助編『辞海』が三省堂から刊行されるに及んで別の名称を考えなければならなくなった。岩波書店も本格的に検討を開始し、結局、「新辞苑」か「広辞苑」というところに収斂した。『辞苑』は出の命名であり、これがもとであり、版を重ねて読者を重ねて読者を獲得してきたこともあっての判断と思われる。岡の意見も聞き、彼は「辞苑」を使うと博文館との関係で係争になる危惧を表しつつ、これがベストとの判断であれば諒とするということであった。岡には、自分が生みだした『辞苑』への思い入れがあったであろう。出は「大辞苑はぎょうぎょうしからむ」と日記に書き、「広辞苑」がよいという考えであったが、岩波書店が「新辞苑」を主張し、昭和二九年三月には、いったん「新辞苑」に確定した。書名は出版社のイニシアチブが強いわけである。出の日記、三月二八日には「岩波書店の稲沼氏来談、辞書の題名につき熟議」、同四月二六日には「岩波書店布川氏、『新辞苑』の書名のことにつきて来談」とあり、岩波書店が出に説明、説得しようとした形跡がうかがえる。
 その後、時を経て昭和二九年の年末、出が「新辞苑」の序文を書き送ったあとの年明け一月一二日、岩波書店から、「新辞苑」は博文館の後継社、博友社で登録してあると電話があった。そして一月三〇日、「岩波の稲沼氏より談話あり、『新辞苑』の名を撤回して『広辞苑』として登録することにし、法律上の用意を堅固にするとのよし」と日記にある。急転直下『広辞苑』となった。(新村恭『広辞苑はなぜ生まれたか―新村出の生きた軌跡』世界思想社2017:178)

 つまり『新辞苑』は、最終的に幻となったものの、いったんは「確定」した書名なのだった。また新村恭氏によれば、岩波と博文館・博友社との係争の結末については、「詳細は不明だが、(略)岩波から博友社に一定の金が支払われたと推測される」(同書pp.178-79)という。
 さて猪場は、『辞苑』改訂作業のどの段階で加わったか。
 新村猛『「広辞苑」物語―辞典の権威の背景』(芸生新書1970)によると、それは戦後の1948年のことであるらしい。

 意外に難航した編集体制の再編がようやくでき、岩波書店内に国語辞典編集部が発足したのは昭和二十三年九月のことであります。編集主任には市村宏さん(現東洋大学教授―当時、引用者)をお迎えすることができました。辞典編纂の経験に富む方であり、書店側の紹介によって父が委嘱して引受けていただいたわけです。市村さんのほかに、編集部には関宦市、猪場毅、横地章子、長谷川八重子、藤井譲、佐藤鏡子、木村美和子の諸氏が参加され、当初はたしか五、六人で補訂作業が始まったようにおぼえています。(『「広辞苑」物語』p.170)

 猪場が編集部内で具体的に何を担当していたのかは、残念ながら今のところ不明である。現行の『広辞苑』第七版(2018)巻末の「初版から第六版までにご協力いただいた主な方々」のなかにも、市村宏の名はあるけれども、猪場の名は見当らない。

荷風を盗んだ男: 「猪場毅」という波紋

荷風を盗んだ男: 「猪場毅」という波紋

  • 発売日: 2019/12/25
  • メディア: 単行本
雑魚のととまじり

雑魚のととまじり

俳人風狂列伝 (中公文庫)

俳人風狂列伝 (中公文庫)

広辞苑はなぜ生まれたか―新村出の生きた軌跡

広辞苑はなぜ生まれたか―新村出の生きた軌跡

  • 作者:新村 恭
  • 発売日: 2017/08/04
  • メディア: 単行本

*1:ごく最近も、『幻想と怪奇3 平井呈一と西洋怪談の愉しみ』(新紀元社)が出たばかりである。荒俣氏は平井の年譜の作成を了え(近く刊行される予定とか)、同書に「平井呈一年譜の作成を終えて」(pp.73-86)を寄せている。平井を知る上では今後必読の文章となろう。

*2:ちなみに同書では、名の「毅」にほぼ「たけし」とルビを振っているが、「はじめに」では「つよし」と振っている。

*3:俳人風狂列伝』には、『荷風を盗んだ男』の編者解説「もう一人の来訪者、猪場毅」も言及している。『雑魚のととまじり』に猪場が登場することは、この解説で知ったのである。

*4:富田木歩は猪場の句作の師。『荷風を盗んだ男』はプロローグとして木歩の短文「芥子君のこと」を掲げる。芥子君とは、猪場が十四歳で得た俳号・宇田川芥子をさしてそう言っている。

*5:長らく版元品切だったが、一昨年、角川ソフィア文庫として復刊された。もっとも、新たな解説等が附されたわけではなく、中公文庫版の内容のままである。

山口剛のことなど

 尾崎一雄作/高橋英夫編『暢気眼鏡・虫のいろいろ 他十三篇』(岩波文庫1998)は、珠玉の尾崎作品をあつめた「精選集」というべき一冊で、再読三読している。編者の高橋英夫による解説も読みごたえがある。高橋氏は昨年亡くなったが、その歿後にまとめられた単行本未収録エッセイ集『五月の読書』(岩波書店2020)は、尾崎を追悼した「父祖の地に生きた『原日本人』――尾崎一雄」(pp.136-39)*1を収める。こちらは「愛書家」としての尾崎のポルトレにもなっており、併せて読むとなお面白い。
 さて、『暢気眼鏡・虫のいろいろ 他十三篇』中にある「山口剛先生」なる文章*2は、この文庫のなかでもわたしが特に好きな作品のひとつ。これは尾崎が早稲田の学生だった頃に教えを受けた山口剛を回想した一文である。昭和七(1932)年の十月八日に数えで四十九という若さで亡くなった、国語教師にして近世文学者の山口は、云わば伝説的な人物であったらしく、尾崎の二つ下の稲垣達郎が、『角鹿(つぬが)の蟹』(筑摩書房1980)で次のように描写している。

 国語担当の山口先生は、イガ栗頭で、黒の背広に蝶ネクタイ、たしか縞ズボンだった。赤堀又次郎編の教科書『校定平家物語』の角(すみ)をつまんで這入ってこられ、教壇に立つと、いきなり、「あたしやァ、ツンボでしてね」といわれる。これがひどく印象的だった。のちに、聾阿弥、不言斎聾阿弥あるいは聾不言と号されたことは知られている通りである。幅のひろい赤銅の指輪をはめておられた。ある時気が付くと、それには金の細い蛇が這っていた。
 ちょっと古武士のような風貌でいておしゃれなこの先生の講義は、訓詁注釈にこだわらぬ自在なものだった。教科書には、平家物語のほかに、それに関聯する謡曲や浄るりも這入っていた。謡曲の講義には、とりわけ熱がこもった。道成寺の乱拍子の話も出た。能にくらべると、歌舞伎の役者は腰のきまらない者が多い、という話もあった。(「山口剛先生」*3p.130)

 山口が會津八一の親友だったことはよく知られているが、稲垣は同じ文章の中ほどで次のごとく書いている。

 秋艸道人の歌集『南京新唱』が出た。いくつかの序文のなかで、(山口)先生のは逸品であった。いくらかのパラドックス調を帯びた気取がちょうどよかった。「友あり、秋艸道人といふ」にはじまり、やがて、「彼、質不覊にして気随気儘を以て性を養ふ。故に意一度動けば、百の用務を擲つて、飄然去つて遠きに遊ぶ。興尽き財尽く、すなはち帰つて肱を曲げて睡る。境涯真に羨むべし」と展開してゆく。ほとんどそらんじるくらいであった。戦後、秋艸道人が木村毅さんへ贈呈した『南京新唱』には、おびただしい添書があり、「山口のこの文は彼の畢生の最上の出来なり」とあるそうだ(古通豆本31木村氏『愛蔵本物語』)。
 これと言い、『光悦追憶』と言い、こういう文体をよくする人は、もう見当らなくなった。戦後、国文の徒のなかに、時に文語文を弄するのをみることがあるが、醜陋読むに堪えない。(pp.132-33)

 ちなみに『南京新唱』の「南京」は「なんきょう」と読み、奈良の都をさすが、この序文には、加藤郁乎も触れたことがある。

 心友会津(八一)の『南京新唱』に序をしたためたのは、三歳(二歳カ)年下の国文学者山口であった。

 友あり、秋草(ママ)道人といふ。われ彼と交ること多年、淡きものいよいよ淡きを加へて、しかも憎悪の念しきりに至る。何によりてしかく彼を憎む。瞑目多時、事由三を得たり。

と書き出してより、「彼、質不覊にして気随気儘を以て性を養ふ」「彼、客を好みて談論風発四筵を驚かす」「彼、自ら散木を以て任じ、暇日多きを楽んで悠々筆硯の間を遊ぶ」などと挙げる。さらに、みずからを信ずること篤い彼、平然としてあ(吾)が仏を无(無)みす、などと加えてほほえましい。友誼交契のよってくるあたりをそれとなく述べてあまりある戯文調の序言、割愛して伝えるに忍びない風流警抜の名文である。敬愛の情を憎むべき反語仕立てとするあたり、文友詩敵の間柄さえうれしく髣髴されてこよう。(加藤郁乎「心友」『俳林随筆 市井風流』岩波書店2004:117-18)

 ところで稲垣による「會津八一先生」*4には、山口の講義中に會津が「闖入」したという挿話がみえる。

わたくしらは、山口剛先生の黄表紙(あるいは洒落本)の講義をきいていた。と、
 「おうい、山口!」
 大声に呼んで、恰幅のいい、やや容貌魁偉な男が、ヌッと入口へあらわれた。乗馬ズボンをはいていた。和服に草履ばきで、教室のなかほどで講義をしておられた山口先生は、ふりむくと、そそくさと出てゆかれた。みな、あっけにとられたかたちだった。しばらくの立話で、その人は降りてゆき、先生は教室へ戻ってこられた。
 「ありぁ、會津といってね……、何、みみずくが手に這入ったって知らせに来たんだよ。」
 會津の何者であるかの説明はなかったが、これが、秋艸道人會津八一の風貌を瞥見した最初である。授業中にわざわざ呼出した用事が、たわいもない*5のに呆れたが、とにかく、妙に強い印象だった。
 その翌年、その人は、東洋美術史の先生としてわたくしらの前にあらわれた。全集の年譜をみると、一九二六年四月である。最初の時間に示された講義題目は、『奈良を中心とせる東洋美術史』というのだった。(略)
 講義は、たしか、金文・石文ということからはじめられた。碑と碣、陽文・陰文、そのほかからだんだん拓本の話になった。唐拓・五代拓・宋拓・明拓、そういうものがあることを知った。拓本の方法にまで及ばれた。湯島のどこそこへゆくと、釣鐘墨というものを売っている。画仙紙を当てて、それで刷るといちばん手軽だ、ということまで教そわった。(「會津八一先生」『角鹿の蟹』所収pp.136-37)

 稲垣は、會津の該博に対してのみならず、かれの手掛けた書に対する賞讃をも惜しまなかったが(「秋艸道人題簽など」*6松前の風』講談社1988所収)、当時會津の書は世間で評価が割れており、「いわゆる書家は殆ど賞めぬ」というのは浅見淵の言及するところであった(『燈火頰杖』校倉書房1970:19-20)。しかしかれの文字への造詣の深さは財前謙氏も説いているし(「題簽の中の會津八一」『字体のはなし―超「漢字論」』明治書院2010所収)、今は、その書についても再評価の機運があるようだ(財前謙『日本の金石文』芸術新聞社2015)。そのことはまた機会があれば述べたい。
 ついでながら、尾崎一雄の「山口剛先生」は次のように結ばれている。

 山口剛先生と父の享年が、同じ四十九であることを、いつも考える。戦争末期の十九年八月末、こおろぎの鳴く早朝、病気で倒れて以来、私の第一期生存計画(?)は、山口先生と父の年齢を越すことであった。私とともにそれを切願していた老母は、去年二月の亡父の命日を無事に迎え、ひどく喜んでいたが、二タ月後の四月五日、ぽっくりと逝ってしまった。
 第二期計画は、五十五を乗り越すことだ。それを完遂したいと思う。その間に、山口先生を軸とした学校物語を書きたい、と最近思いついた。早稲田入学によって自分の青春は始まり、山口先生の他界によって、それが完全に終ったと、今は見たい。それを書くことによって、私は、生き直したいのだ。今の私にとっては、それは、もはや単なる懐旧ではないだろう。(『暢気眼鏡・虫のいろいろ 他十三篇』p.206)

 ここで述べられている「第一期生存計画」のころに名作「虫のいろいろ」や「美しい墓地からの眺め」が生まれていること、下曽我に引っ越したことがそれを可能ならしめたことについては、荻原魚雷氏が書いている(「尾崎一雄の『小さな部屋』」『中年の本棚』紀伊國屋書店2020所収)。

角鹿の蟹 (1980年)

角鹿の蟹 (1980年)

俳林随筆 市井風流

俳林随筆 市井風流

自註鹿鳴集 (岩波文庫)

自註鹿鳴集 (岩波文庫)

中年の本棚

中年の本棚

  • 作者:荻原魚雷
  • 発売日: 2020/07/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

*1:初出は「朝日新聞」1983.4.4付。

*2:初出は「別冊文藝春秋」1948.11月号。

*3:1971.12.3稿、1980.5.3補訂。

*4:1972.3.31稿。

*5:稲垣の文章でふと思い出したのが、會津の次の歌であった。「八月二十三日(大正十四(1925)年―引用者)友人山口剛を誘ひて大塚に小鳥を買ふ   とりかご を て に とり さげて とも と わが とり かひ に ゆく おほつかなかまち」(会津八一『自註鹿鳴集』岩波文庫1998:177)

*6:初出は「文学界」1980年4月号。

「BOOKMAN」第15号のこと

 高崎俊夫氏が、今年亡くなった坪内祐三氏との対談*1で、

不思議といえば、トパーズプレスも変な出版社でしたよね。瀬戸川猛資さんの個人出版で「ブックマン」という雑誌も出してた。(『本の雑誌坪内祐三本の雑誌社2020:64)

と語っていて、そういえば「BOOKMAN」は一冊だけ持っていたよな、と書架から探して取り出した。第15号(1986.6刊)、その特集タイトルは「『辞書』はすばらしい―切磋琢磨の熱中ガイド」である。当ブログで何度か言っているとおり、わたしは「辞書好き」なので、かなり以前、古書市に「BOOKMAN」がまとまって出ていたうちから一冊択んで買ったのだった。
 これが出た1986年には、『大漢和辞典』(いわゆる諸橋大漢和)の修訂版が完結しており*2、それに触発された特集だったのかもしれないし、また前年には鈴木喬雄『診断・国語辞典』(日本評論社)が出ていて、辞典の「個性」が批評の対象となる風潮がそろそろ醸成されつつある頃だったので、それを受けての特集であったかもしれない。
 さてその特集号、巻頭を飾るのが「日本六大辞書列伝」、この「六大」は「東京六大学」などに引っ掛けたものだろうけれど、「BOOKMAN」のこの特集に先立つこと十四年、漢和辞典批判本として、小原三次『本邦六大、中堅『漢和字典』をこきおろす』(モノグラム社)というのが出ている。そちらの書名も意識したのかどうか――はわからないが、とまれ「日本六大辞書列伝」が挙げているのは、『大言海』、『広辞林』、『広辞苑』、『日本国語大辞典』、諸橋大漢和、『大日本地名辞書』の六つである。
 その次のコーナーが、「どんな辞書をお使いですか」という著名人へのインタヴュー。冒頭が呉智英*3。呉氏は「『新明解』がおもしろい」なるタイトルのそのインタヴュー記事で、

 で、一番愛用しているのが『新明解国語辞典』(三省堂)。もし、旅行で一冊しか持ち歩けないという時だったら、これを持っていくね。ここにあるのは第二版なんだけど、今、第三版が出ている。(p.11)

と語ったうえで、新明解の特色を述べてゆく。そこに、

 なんといっても(「読んでると笑っちゃう」語釈の)圧巻は〈おやがめ〉。「―の背中に子ガメを乗せて」「―こけたら子ガメ・孫ガメ・ひい孫ガメがこけた」と載っていて、「他社の辞書生産の際、そのまま採られる先行辞書にもたとえられる」なんて書いてある。辞書編集のかっぱらい合いに対して激しい怒りを表明しているわけよ。(p.12)

というくだりがある。「おやがめ」について「BOOKMAN」は、p.26の囲み記事「おやがめごっこはやめて欲しい」(筆者不明)でも、新明解の編集主幹・山田忠雄の著作『近代国語辞書の歩み』中の一文とともに当該の語釈を引いている。「おやがめ」項(第三版以降は削除されてしまった)の話はわりとよく知られた話で、これは国語辞典批評の嚆矢、「国語の辞書をテストする」(「暮しの手帖(10)」1971.2.1)の次の記述を下敷きにしている。

 推しはかるに、ある辞書を作るとき、なにか、べつの辞書を参考にするのではないか。もちろん参考にするのはよろしいが、ついでに文章まで、借りてくるのではないか。
 だから、もとの辞書が、まちがっていたら、そのまま、新しい辞書も、まちがってしまうのではないか。
 「親ガメこけたら子ガメも孫ガメこける」(原文ママ。2箇所の「こけ」に傍点)例をひとつ、お目にかけよう。(p.111)

 「BOOKMAN」のこの次の特集コーナーには、「ジャンル別大ガイド」というのがあって(正確にはこの前に内藤理恵子*4「辞書で小説を書いた作家の話」という記事がある)、「国語辞典」「古語辞典」「特殊国語辞典」「漢和辞典」「専門辞典」の五つに分けて様々の辞書を紹介・批評している。「専門辞典」のなかには鈴木棠三『日本俗信辞典 動・植物編』(角川書店)も紹介されている。その評は、同書が労作であることは認めつつも、

 ふつう、辞典というと引くものだが、読み物として楽しめるものも多い。この辞典もタイトルから考えると、そうした使い方ができそうだが、なんせズラズラと事柄を並べているだけなので退屈。なかに面白そうなのがあっても、すぐ次の俗信が出てくるので、興味がふくらんでいかない。
 また、動植物名は一応五十音順に並んでいるが、詳細な索引がないこと、関連語の相互参照ができないこと、他に例えば地域別の俗信分布を載せるなどの工夫が全くない、といった点で検索も不便だ。(p.34)

とかなり手厳しい。恰もよし、鈴木棠三『日本俗信辞典 動・植物編』はこの4月・6月に、『日本俗信辞典 動物編』『日本俗信辞典 植物編』(いずれも角川ソフィア文庫)として二分冊で文庫化された(文庫版解説の担当はそれぞれ常光徹氏、篠原徹氏)。
 そこで、文庫版の「動物編」でたとえば「郭公」の項をみてみるとしよう。
 二段組で約3ページにも亙ってカッコウにまつわる各地の俗信が紹介されるなかに、

カッコウの口にマメ」(青森県下北郡)、「マメマキカッコウ」(山形)とは、共にカッコウが鳴き始めたらマメを蒔く適期の意。(p.203)

とあるのだが、これらはあくまでその土地に伝わる俗信を「共通語」で紹介しているのであって、これらが実際に各土地でどのような形で言い伝えられているのかまではわからない。
 これをある程度補完してくれるのが、鈴木棠三・広田栄太郎編『故事ことわざ辞典』(東京堂出版1956*5)、鈴木棠三編『続故事ことわざ辞典』(東京堂出版1958*6)である。前者の正篇に、

郭公啼けば豆を蒔け 【意味】ほととぎす(ママ。もっとも両者はある時期は混同されていた)が鳴き始めたら、豆をまく時季であると知れ。
 【参考】郭公鳥の口さ豆植えろ(青森) ○郭公の口さ蒔き込むよう(種籾のまき方をいう)(岩手)

とっとの口さ種を蒔けかんこの口さ豆を蒔け 【意味】つつどりが鳴いたらもみをまけ、かっこうが鳴いたら豆をまけ。東北地方のことわざ。◎とっと=筒鳥。新潟県で、ふじ豆をとっと豆と呼ぶのも、このことわざから出たものであろう。◎かんこ=郭公。閑古鳥。東北以外でも、「まめまき郭公」という例がある。

とあり*7、ある程度までは実際の言習わしを「復原」できる。ちなみに「とっと」「かんこ」の語形については、『日本俗信辞典』の「郭公」の項は言及していない。
 そういった不備はあるのだけれど……とまあ、これを「不備」と言い切ってよいものかどうか。「俗信」はもとより整然とした姿で存在するものではなし、どうしたって雑然たる寄せ集めになってしまうのは已むを得ないことだと思う。「BOOKMAN」が指摘したくなる気持もわからぬでもないが、詳細な索引や地域別の俗信分布などを作成するのは(特にパソコン、いなワープロでさえも普及していなかった当時、すなわち1982年時点にあって)個人にはどだい無理な話だったろう。
 話を戻して「BOOKMAN」だが、ついでにいっておくと、次号予告には「第16号は、いよいよSF特集。BMならではのユニークな特集にするつもりです。発売は九月中旬予定です」(p.71)とある。この「SF特集」は、具体的には「SF珍本ベスト10」という特集名で、SF好きの間ではかなり話題になったらしい。
 たとえば古書山たかし氏*8は、『怪書探訪』(東洋経済新報社2016)で次のように書いている。

 純文学の世界と違い、エンターテインメント小説の世界では、オールタイムベスト10のような企画がしばしば行われ、大いに話題になる。SFも例外ではないが、一九八六年に、極めてユニークなSFベスト10が企画されたことがある。
 それは『BOOKMAN』という雑誌の第一六号で特集された「SF珍本ベストテン」だ。これは入手の困難さと内容の珍妙さをメインに、歴史的意義も加味して選ばれたもの。そこに選ばれた数々の珍書、稀書を目の当たりにした当時の若き本好き達は、自分達のちっぽけな常識では考えられないような珍無類なSFの大海原に目をむき、更なる探書の旅路に出発する決意を固めたものであった。その特集で、内容の荒唐無稽さから戦後SF珍本中、事実上ダントツに近い(ゲテモノとしての)高(?)評価を得ていたのが、栗田信の『醱酵人間』であった。(略)
 私も、同世代書痴の例に漏れず、『BOOKMAN』の特集で『醱酵人間』を知り、以来古書店で、古書即売会で、古書目録で、インターネットで、あらゆる機会に探し求め続けたが、さすがに奇書中の奇書として満天下に知れ渡ってしまったこの本を入手することはおろか、目録で見かけることさえついぞなかった。(pp.30-36)

 その後古書山氏は、自分だけのオリジナルの『醱酵人間』を作り上げ(書痴魂炸裂!)、さらには初版帯附を入手することになるのだが、詳しくは同書を参照されたい。
 またこの間(2014年)に、『醱酵人間』は戎光祥出版の「ミステリ珍本全集」という叢書で復刊されている(古書山氏もむろん言及している)。わたしは神保町の店頭ゾッキでこれを購ったものだが、ゾッキ本というと、この記事の冒頭にちらと出て来た坪内祐三氏もゾッキ本の愛好者だったと思われ、その文章や対談にしばしば出て来る(高見順の日記をゾッキ本で全部そろえた、と書いていたのは、確か『雑読系』だっけか)。
 なお「BOOKMAN」は、30号で終刊となったようだ。15、16号は、ちょうどその「折り返し地点」に位置していたことになる。

本の雑誌の坪内祐三

本の雑誌の坪内祐三

  • 作者:坪内祐三
  • 発売日: 2020/06/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
怪書探訪

怪書探訪

*1:「消えた出版社総まくり 函入り本を出すと出版社は消える?」(初出は「本の雑誌」2018年8月号)

*2:当該誌の表紙裏には修訂版の広告が出ている。

*3:呉氏は1982年に『読書家の新技術』(情報センター出版局)という本を出しており、そこで展開された辞書論をおもしろく読んだ記憶が有る(わたしが持っているのは後の朝日文庫版だが)。

*4:英文学者の内藤氏は、「BOOKMAN」で定期的に(連載?)エセーも担当していたらしく、当該号で「ブロードサイドからチャップブックへ―イギリス庶民文化の一枝」(pp.50-53)という一文もものしている。

*5:手許のは1974年の「六二版」。

*6:手許のは1976年の「三六版」。

*7:しかし、この辞書もやはり、それぞれの項目を相互参照できるようには作られていない。「とっと~」の項があることは、読んでいる途中で偶々気づいたのである。

*8:その正体は上場企業の「役員」だと奥付にあるが、新保博久『シンポ教授の生活とミステリー』(光文社文庫2020)によれば、「本名では上場企業の社長になっている」(!)(p.124)との由。

「ブンムクにむくれる」

 前回の記事で紹介したジェームズ・ケイン/蕗沢忠枝訳『殺人保険』(新潮文庫1962)には、「ぽんつく頭」(p.179)*1など、いわゆる俗語の類がしばしば登場するので、そのような点でも興味深い。次のごとく言語遊戯めいた文章もある。

どいつもこいつも、セコハンは上々の部類で、三パン、四ハン、五ハン、中には九ハンともおぼしきボロボロ自動車も置いてある。(pp.163-64)

 「セコハン」が「セカンドハンド」の略であることを知っていなければ、恐らく意味が通じにくいことだろう。
 以下の「むくれる」は、方言ないしは「世代語」として残っているが、若い世代の間ではどうだろうか(表記は原文ママ)。

彼はムクレて怒鳴りだした。(p.77)

およそ午後五時頃で、キースはむくれていた。(p.112)

 「むくれる」は、ここでは「腹を立てる」「怒る」といった義で、この意味で用いられる「むくれる」はわりと新しい。『日本国語大辞典【第二版】』は、

*がらくた博物館(1975)〈大庭みな子〉犬屋敷の女「サーカスにいた時にあたしが気に入る返事をしないっていうんでむくれていたファンの巡査がいてね」

という用例を挙げるが、『精選版 日本国語大辞典』は少し遡って、

*見るまえに跳べ(1958)〈大江健三郎〉「舞台にかまわず〈略〉称賛の熱い言葉をかわしつづけたので良重がむくれてしまった」

という用例を挙げている。
 それで思い出したが、「ぶんむくにむくれる」という用例をかつて拾ったことがある(以下も表記は原文ママ)。

それで組長(おやじ)さんは余計ブンムクにむくれてるんですよ(結城昌治『夜の終る時』中公文庫1990←中央公論社1963;90)

もちろんツネ子はぶんむくにむくれて、別れるときも、四人の位牌だけは持たされて出た。(結城昌治『終着駅』中公文庫1987←中央公論社1984;156)

 これに類する表現は、ふつう「〔接頭辞(または接頭辞的なもの)+V(いわゆる連用形)=N〕+ニ+V」という形をとるので、「ぶんむくにむくれる」といった形になることが予想される。したがって、「ぶんむくにむくれる」は、結城昌治の「個人言語(Idiolect)」というべきものなのかもしれない。
 ちなみに「ぶんむくれ」の「ぶん」は、「ぶち明ける」「ぶち当てる」「ぶっ殺す」(<「ぶち殺す」)「ぶっつぶす」(<「ぶちつぶす」)などの「ぶつ」に由来する「ぶち」が、鼻音要素(m, nなど)の前で「ぶん」となったものだろう。「ぶん殴る」「ぶん投げる」「ぶん回す」などの「ぶん」も同断である*2
 丸谷才一は、その「ぶつ」について、

「ぶつ」は近松の使ひ方*3から見ても東国語だつたと推定されます。秩父の執権、本田の二郎の台詞にあるのですから。これが西国侍なら「それ打て叩け」となるところでした。さすがに近松の藝は細かい。
 それにかういふこともある。江戸初期、江戸で旗本奴とそれに対立する町奴とが奴詞(やっこことば)なるものを使つた。六方詞(ろっぽうことば)とも言ひますね。当然これは関東語を基本としてゐるわけですが、柳亭種彦の六方詞をあつかつた文章のなかに、「『事だ』を『こんだ』、『うちかくる』を『ぶつかける』」とある。西国の「打つ」が東国の「ぶつ」。近世に入ると後者が優勢になりました。これは素人の想像ですが、おそらく古代以来ずつと東国では使はれてゐて、しかし文献には出なかつたのぢやないか。(「どこから来た『ぶん殴る』の『ぶん』」『日本語相談 五』朝日新聞社1992;120)

と書いている。
 それでは以下、その他の「〔接頭辞(または接頭辞的なもの)+V(いわゆる連用形=N)〕+ニ+V」の形をとるものの例を挙げてみよう。

ハッキリとしたことはいえないが、ウロ覚えに覚えている、記憶の底をさぐってみると、(横溝正史八つ墓村』角川文庫1996改版;310)

開廷とともに、法廷は大荒れに荒れた。(大泉康雄『あさま山荘銃撃戦の深層(上)』講談社文庫2012←小学館2003;169)

伊藤武雄大怒りに怒ったんだ。」(阪谷芳直ほか編『われらの生涯のなかの中国―六十年の回顧』みすず書房1983;18)

で――身内の衆の耳に入らぬ内と/大急ぎに急いで/明日あたり/御江戸へ御差立に/成るちう事でしたョ!(伊藤大輔『忠次旅日記』日活大将軍撮影所1927の字幕)

変り果てた恩人の姿を見て、また大泣きに泣いた。(獅子文六『大番(上)』角川文庫1960;481)

対してシンボルとは何事か、戦力放棄とは何事か、閣議大モメにモメた。(堤堯『昭和の三傑―憲法九条は「救国」のトリックだった』集英社文庫2013←2004;103)

「それに乗じた家老二人が権力の座にのし上がろうと競り合って大揺れに揺れておる」(田中徳三眠狂四郎 女地獄』大映1968)

いまのうちに、小あたりにあたっておけば、後になってから何か、役にたつような知識が得られるかも知れない(高木彬光『人形はなぜ殺される』光文社文庫2006;132)

小肥りに肥った肩の稍(やや)怒ったのは、妙齢(としごろ)には御難だけれども、(泉鏡花婦系図新潮文庫2000改版;25)

かれは赭(あか)ら顔の小ぶとりに肥った男で、(岡本綺堂三河万歳」『半七捕物帳(一) お文の魂』春陽文庫1999所収;235)

色白の小ぶとりにふとった顔は、観音様のように柔和であった。(『八つ墓村』;136)

胸でお辞儀をして、笑顔で小揺(ゆす)りにゆすりながら、(里見弴「縁談窶」『恋ごころ』講談社文芸文庫2009所収;130)

その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひた隠しに隠して、(太宰治人間失格新潮文庫1985改版;14-15)

本人は、むろん、ひたかくしに隠しているが、(松本清張『真贋の森』角川文庫;45)*4

昨日ひいておいた糸をたよりに、私たちはひた走りに走った。(『八つ墓村』;440)

 次の例は、後項が「前項のV+接辞」の形をとって受身になっているもの。

三割引とか、半額とかいうなら、まだしもだが、大ボリに、ボラれたのである。(『大番(上)』;471)

その間には戦争という大きな出来事が起り、その大波に「文学座」は大揺れにゆすぶられ、幾人かの人が来り、また去ってゆきました。(杉村春子『楽屋ゆかた』学風書院1954;36)

 次の例は、前項のVに附くものが明らかに名詞(N)であるもの。これらはみな、「NノヨウニV」と表現することができる。

大川は前にも書いたように一面に泥濁りに濁っている。(芥川龍之介「本所両国」『芥川竜之介随筆集』岩波文庫2014所収;98)

子供が生れ、妻が育児に夢中になると、おばあちゃんも孫を猫可愛がりに可愛がった。(福永武彦『愛の試み』新潮文庫1975;21)

木田も佐保子もしばらくは棒立ちに立って、この光景に気をのまれてしまった。(松本清張「青春の彷徨」『共犯者』新潮文庫1980改版所収;122)

 それらのうち、後項が接辞を伴って受身になっているもの。

美しく山盛りに盛られてきびしい匂いを漂わせていながら、(トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山(上)』新潮文庫1969;52)

 上記からは外れる例をいくつか。

お網は肩をすぼめたまま、子供のように暫くすすり泣きに泣いていた。(吉川英治鳴門秘帖(二)』吉川英治歴史時代文庫1989;34)

「ウム、それもよかろう。いずれ今宵のうちに、吉左右が知れるであろうから、心待ちに帰郷を待っておるぞ」(同上p.60)

よしんば貴方が、つきッきりにそばにくッついたって、見る目かぐ鼻の取締りまではつかないんだから、(「縁談窶」;103)

しかもこう降りどおしに降られてみると、芯まで水浸しになったようで、(山本周五郎「その木戸を通って」四、沢木耕太郎編『山本周五郎名品館1 おたふく』文春文庫2018所収;232)

私は男泣きに泣いた。(『八つ墓村』;374)

美也子はこの家風などおかまいなしに、座敷へ入ると少し横のほうへ横座りに座ると、(同上p.88)

さて、こうして理詰めに押しつめていったところで、これからただちに犯人がわかるわけのものではないが、(同上p.212)

 もう十年以上も前のことになるが、『徒然草』第八十七段の「ひた斬りに斬り落しつ」という表現を導入として、これに類する表現の分類をこころみた論文を読んだのを記憶している。それを改めて参照したいのだが、筆者も、タイトルも、すっかり忘れてしまった。記憶を頼りに検索してみたが、巧く引っかからない。

夜の終わる時 (中公文庫)

夜の終わる時 (中公文庫)

終着駅 (中公文庫)

終着駅 (中公文庫)

*1:「ぽんつく」は見たり聞いたりしたことがあるけれど、「ぽんつく頭」というのはこの本で多分初めて見た。

*2:もっとも、「ぶちまける」など、鼻音要素の前であっても「ぶん―」とならないものもある。

*3:『出世景清』(貞享二年=一六八五年)に見える「それぶて叩けと下知すれば」という台詞。

*4:松本清張『梅雨と西洋風呂』(文春文庫)に「おれにわかるとどんなイチャモンをつけられるかもしれんというので、計画をひた隠しにしとるのだ」(p.47)と、中間的な形態「ひた隠しにする」が出て来る。これがさらに「ひた隠す」となるわけである。

ワイルダー『深夜の告白』とケイン『殺人保険』

 先日、ビリー・ワイルダー『深夜の告白』(1944米,″Double Indemnity″)がBSPで放送されていたので、綺麗な映像で観直してみた。「フィルム・ノワール」の先駆的作品、「保険金殺人もの」の嚆矢、などと云われたりする作品だが、まずは配役がいい。
 後年のワイルダーアパートの鍵貸します』(1960)での抑えた演技が忘れがたいフレッド・マクマレイは、当時はB級映画にばかり出演していたらしいが、この作品で主役のウォルター・ネフに扮し、スターダムにのし上がった。ディートリクソン(トム・パワーズ)の後妻で悪女役のいわゆる″ファム・ファタール″フィリスを演ずるのはバーバラ・スタンウィックで、金髪のウィッグを着けて難しい役どころに挑んでいる。フィリスの継子役のローラはジーン・ヘザーズで、彼女もなかなかチャーミング。そしてネフの相棒バートン・キーズ役がエドワード・G・ロビンソン、彼の熱演ぶりがとりわけ印象に残る。矢継ぎ早に喋りまくる一方で、冷静な判断力も有するいわば「素人探偵」を、これ以上はないといっていいほど巧く演じている。その主役をも凌駕しそうな演技は、ワイルダー『情婦』(1957)で弁護士を演じたチャールズ・ロートンを髣髴させる。
 本作はワイルダーレイモンド・チャンドラーとの共同脚本で、チャンドラーのカメオ出演もある*1。しかしチャンドラーはかつて、本作の原作者であるジェームズ・M・ケインを「文学の屑肉(くずにく)」とまで扱き下ろしていたのだそうだ*2
 ケインの原作も、映画と同じく″Double Indemnity″(1943年に『スリーカード』の中の一篇として刊行)というタイトルで、これを直訳するならば「倍額保険」「倍額補償」などとなるのだろうが、その原作が蕗沢忠枝訳で新潮文庫に入ったとき、『殺人保険』という邦題で出ている(1962年刊)。その登場人物名も、映画とはちょっとずつ異なっており、例えば主役のネフは「ウオルター・ハフ」、ディートリクソンは「ハーバート・S・ナードリンガー」、といった具合だ。
 ストーリー展開にも違いがあって、原作ではハフがフィリスのみならず継子ローラにも恋をすることになっていて*3、これが後に活きてくることとなるし、ハフがナードリンガー殺害に手を染めた後(倒叙ものなので述べても問題なかろう)の苦悩を克明に描写しているのはむしろ原作の方で(映画版のネフはむしろ冷静)、その後にも大きな展開が待ち構えているし*4、キース(キーズ)はナードリンガーの「自殺」を初めから殺人によるものと疑っている*5。また原作では、キースが「君が好きだったんだぞ、ハフ」と言い、ハフが「僕もそうだった」と応じる場面(p.181)があるけれども、ここはやや唐突に感じられる。映画では序盤にネフがキーズに″I love you,too.″と伝える場面があって、これがクライマックスの伏線となっており、無理はないように感じられる。そして、これまでネフにばかりタバコの火を点けさせていたキーズが「初めて」ネフのタバコに火を点けてやるのだが、原作にないこの演出も秀逸だ。
 もっとも、映画とは大きく異なる原作のラストもたいへん魅力的で、そのラストについては、沢木耕太郎氏がエセーの中で紹介している。曰く、

 主人公のウオルターは、フィリスという名の金髪の、悪魔的な魅力を持つ美人と知り合うことで犯罪への道に足を踏み入れてしまう。彼女の夫に傷害保険をかけ、列車からの転落死を装った殺人によって保険金を詐取しようとするのだ。すべてがうまくいきかけるが、殺した男の実子でフィリスにとっては継子にあたる娘に、ウオルターが強く魅かれはじめることによって、事態は錯綜しはじめる。互いに裏切り裏切られ、すべてが露見し、破滅したウオルターとフィリスは、南へ行く船に乗り合わせる。このラスト・シーンは、外国の小説で描かれた「道行」の中でも、最も美しいもののひとつであると思われる。(沢木耕太郎「ポケットはからっぽ」『バーボン・ストリート』新潮文庫1989:86)

 この後に沢木氏は蕗沢訳の一節を引き、それから、「人はいつ青年でなくなるのか。それは恐らく、年齢でもなく結婚でもなく、彼が生命保険に加入した時なのではあるまいか」(p.89)云々と書いている。
 ところでケインといえば、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(″The Postman always Rings Twice″ ; 1934)が最も有名で、これが遅咲きの(当時42歳)長篇デビュー作となった。『郵便配達』も複数回映画化されており、わたしは1946年のテイ・ガーネット版(ジョン・ガーフィールドラナ・ターナー)と、1981年のボブ・ラフェルソン版(ジャック・ニコルソンジェシカ・ラング)との2本を観たことがある。特に後者は、原作とはかなり異なっていて、ヒロインのコーラ(ジェシカ・ラング)に「悪女」といった雰囲気は殆どなく、しかも中盤以降は「恋の駆け引き」の様相を呈し始め、犯罪映画というよりは上質の恋愛映画のような仕上がりを見せている。
 なお『郵便配達』の方は最近も新訳が出ていて、2014年には7月に池田真紀子訳(光文社古典新訳文庫)が、9月には田口俊樹訳(新潮文庫)が刊行されている(田口氏はケイン『カクテル・ウェイトレス』も翻訳し、『郵便配達』と同時刊行している)。
 ちなみに池田訳の「訳者あとがき」によると、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』というタイトルについて、ケイン本人が次のように記しているのだそうだ。

(ケインは)『殺人保険』のまえがきで、友人の脚本家ヴィンセント・ローレンスとの会話がヒントになったと書いている。ローレンス宅に来る郵便配達員はいつも二度ベルを鳴らすので、玄関を開ける前から出版可否の通知が届いたのかもしれないとわかるという話を聞き、自分の新しい小説にぴったりだと閃いたのだという。なぜかと言えば、『郵便配達』の重要な出来事はすべて二度ずつ起きているからだ。(pp.241-42)

 但しこの「まえがき」は、上に見た蕗沢訳の新潮文庫では訳出されていない。

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バーボン・ストリート (新潮文庫)

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*1:開始約14分にネフがキーズの事務所を出るシーンがあって、その出入口脇でタバコ片手に雑誌を読み耽っているのがチャンドラーである。

*2:田口俊樹訳『カクテル・ウェイトレス』(新潮文庫2014)の訳者あとがきなどによる。ちなみに、同書に附されたチャールズ・アルダイ「解説」によると、「彼(チャンドラー)は彼一流の雄弁さと辛辣さで次のように書いているーー″ケインは私が嫌悪する作家のあらゆる特性を備えている……彼は油じみたオーヴァーオールを着たプルーストであり、板塀のまえでチョークを持つ薄汚い小僧だ。そんなやつなど誰も見向きもしない″」(pp.504-05)。これに続けてアルダイ氏は次のように書いている。「明らかにチャンドラーはまちがっている。彼はもちろんケインを誹謗して言ったのだろうが、ケインにはチャンドラーの非難それ自体がそのまま勲章になっている。そして、ケインは誰からも″見向き″されていた」。

*3:映画版でも、ネフはローラに好意を寄せるが、それは恋愛感情とはおよそ異なるものである。

*4:さきに述べたように、ハフがローラも好きになることが、この後の展開に関わってくる。

*5:映画版でキーズは初め「事故死」だと考える。また原作のキースは「わたし自身の六感と、直感と、経験きり」(新潮文庫版p.107)を信ずるが、映画のキーズは、ーーこれは「六感」と似たようなものなのかもしれないがーー自分の胸のなかの″my littleman″に常に問いかける、という設定である。そしてキースは「大男で、でぶで、気難かしやで、おまけに理窟屋」(同p.99)と描写されるが、キーズ=エドワード・G・ロビンソンは、「気難かしやで、おまかに理窟屋」ではあるけれどもやや小男で、「でぶ」というよりは小太りである。

「~を鑑み」誤用説

 かつて、某首相が「未曾有」を「ミゾーユ」と読んで*1話題になったことがあった。当時は、「『未曾有』は『ミゾウ』と読むのが正しくて『ミゾーユー』は間違いだ」という批判に止まるのがせいぜいで、「未曾有」が歴史的にどう読まれてきたかということは殆ど耳目を集めなかった。
 飯間浩明氏によると、

ただ、私とともに『三国』(『三省堂国語辞典』)の編集委員を務める塩田雄大(しおだたけひろ)さんの調査によれば、戦前には、「未曾有」には「ミゾユー」「ミソーユー」など、少なくとも6つの読み方のあったことが確認されているそうです(『放送研究と調査』2009年2月号)。(飯間浩明三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から』新潮文庫2017:82)

といい、なるほど手持ちの内海以直『新編熟語字典』(又間精華堂1903)を引くと「ミソイウ」とあるし、大町桂月編『國語漢文 ことばの林』(立川文明堂1922)を引くと「ミソウイウ」とある。確かに明治・大正期にも、「これはミゾウと讀むので、わざ\/ミソウイウなど讀むは耳ざはりである」(大町桂月・佐伯常麿『机上寶典 誤用便覽』(春秋社書店1911:425)、「『ミソウユウ』と讀まず『ミゾウ』と讀む」(高野弦月『正續 誤りたる文字の讀方』尚榮堂1914:158)といった指摘はみられたけれども、そういう指摘があること自体、「ミソーユー」という読みがひろく行なわれた状況を示すものだし、指摘とはいえ「耳ざはりである」などと述べているだけで、それが何らかの「根拠」に基づく言葉とがめだったとも思われない。
 言葉の「正誤」を云々する際には、このように、後世になってから「誤」とされるに至ったものや言葉とがめの対象となったものが少くないことに留意しておく必要があるだろう。
 「人間(ニンゲン・ジンカン)」の読み分けなどもその最たる例かも知れない。すなわち、“「ニンゲン」と読むと「ひと」の義だが、「ジンカン」と読むと「世間、世の中」の義だ”、という言説である。
 この手の指摘がいつ頃生じたのかはわからないが、「たとえば、『人間』という字を、わたしたちは『にんげん』と読むが、漢文では『じんかん』で、俗世間の意味である」(安達忠夫『素読のすすめ』ちくま学芸文庫2017←カナリア書房2004;146)、「日本語では『人間』を今『にんげん』と読むが、古くは『人間』は『じんかん』で『世間・世界』の意である」(加藤重広『日本人も悩む日本語』朝日新書2014:43)など、最近の本からも幾つか拾える。
 しかし例えば大槻文彦言海』(吉川弘文館1904)は、

「にん-げん」(一)ヨノナカ。世間。「―萬事塞翁馬」閑看―得意人」
(二)佛経ニ、六界ノ一、即チ、此ノ世界。人間界。人界。
(三)俗ニ、誤テ、人(ヒト)。

という語釈を示し、むしろ「人間=ニンゲン」を「ひと」の意味で捉えることを俗用としており、しかも、「ジンカン」という読みを掲出しない。少し時代が下がるが、服部宇之吉ほか『修訂増補 詳解漢和大字典』(冨山房1940)でも、

【人間】ニンゲン(イ)ひとの世、この世。人世、世間。(略)(ロ)(邦)ひと、人類。「――ノ力。」

となっていて、「ニンゲン」で両義を表していたことが示される。こちらにも、「ジンカン」という読みは見えない。
 少し遡って、宇野哲人『明解漢和辞典【増訂版】』(三省堂1927)で「人間」を引いてみると、「ジンカン」「ニンゲン」の二つを挙げ、「ジンカン」は「よのなか。人世」、「ニンゲン」は「ひと。人類」として区別している。この頃から、「世間」を意味する場合には特にこれを「ジンカン」と読んで漸く区別するようになったとも考えられるが、そもそも、「ジンカン」「ニンゲン」の読み分けは、「悪(アク・オ)」「楽(ラク・ガク)」「度(ド・タク)」「易(イ・エキ)」などのごとく音の相違が意味の違いと対応しているものとは異なり、単に、漢音系か呉音系かというだけの違いであるはずだ。
 ちなみに、文化庁編『言葉に関する問答集【総集編】』(大蔵省印刷局1995)は、「人間、到る処、青山在り」の「人間」の読み方について、「『ジンカン』と読むことによって誤解を防ぐ方が好ましい読み方だ」が、「『ニンゲン』と読んで『ひと』と解釈し」てもかまわない(p.401)、と述べている。
 さて、ここ十年以上ちらほら目につく言葉とがめで、このところ特によく見聞きするようになった*2ものがある。
 「『~に』鑑み」を「正」、「『~を』鑑み」を「誤」だとする指摘である。そういった趣旨のブログの記事やツイートが、なぜか多く見られるのだ*3。しかもこれが、世代を問わず広くなされる誤用指摘なのである。
 結論からいうと、「~に鑑み」「~を鑑み」のいずれも誤りではない。しかし、なぜこのような言葉とがめが生ずるに至ったのかは、まだよくわかっていない。
 まず、手近な現行の国語辞典をいくつか参照してみると、西尾実ほか編『岩波国語辞典【第八版】は「先例に鑑みて」「時局を鑑みるに」という作例を、小野正弘編集主幹『三省堂 現代新国語辞典【第六版】』は「時局に鑑みて」という作例を、北原保雄編『明鏡国語辞典【第二版】』は「国際情勢を鑑みるに楽観は許されない」という作例を、山田忠雄ほか編『新明解国語辞典【第七版】』は「時局に鑑みて」という作例を、新村出編『広辞苑【第七版】』は「時局に鑑みて生産の増大をはかる」という作例をそれぞれ示している*4
 これらだけを見ると、「鑑みて」の場合には「『~に』鑑みて」の形が、「鑑みるに」の場合には「『~を』鑑みるに」の形が「正しい」のだ、と誤解する向きもあるだろうが、少なくとも、「~を鑑み」の形も誤用ではない、ということはわかるはずだ。
 後者の「鑑みるに」については、これを「~に鑑みるに」とすると「に」が前後で重複してしまうので、それを避けるため「~を鑑みるに」とするのが自然なのだ、という見方もできるだろう。一方で、前者「鑑みて」の場合も、松村明編『大辞林【第四版】』を引くと、

「来し方行く末をかがみて(=かんがみて)」〈謡・清経〉

という用例を拾っているし、『日本国語大辞典【第二版】』(以下『日国』)を引くと、

「臣が忠義を鑒(カンガミ)て、潮を万里の外に退け」〈太平記〔14C後〕一〇・稲村崎成干潟事〉

というのが見え、古典語の実例としてはむしろ「~を鑑みて」の方が目立っている。『日国』はその他にも、

「去(さる)天文是を鑑(カンガ)み名を改め」(浮世草子・新色五巻書〔1698〕五・三)
「此書を考(カンガミ)道をひらきふたたび帰路いたされよ」(浄瑠璃蘆屋道満大内鑑〔1734〕四)

と、「~を鑑み」の実例ばかり拾っている。
 なお『太平記』の例に関していえば、応永年間書写、大永~天文年間転写の「西源院本」(原文は漢字カタカナ交じり文)を底本にした岩波文庫本(2014-16刊)は「臣の忠誠を鑑みて、朝敵を万里の際に退け」(第十巻8「鎌倉中合戦の事」、『太平記(二)』:128)となっていて、多少の異同はあるものの、当該箇所はやはり「~を鑑みて」である。
 漢文訓読でも、「鑑+A」であれば「『Aを』かんがみる」と読み下すことが多いとおぼしい。
 まず諸橋轍次編『大漢和辞典【修訂版】』を引くと、「鑑止水 シスイニカンガミル」という読み下しにいきなりぶつかるが、典拠の『荘子』徳充符*5篇では「鑑於止水」となっているので、これは無視してよい。問題になるのは、先に述べた「鑑+A」の形で、例えば『千字文』中の「鑑貌辯*6色」を文選読した和訓*7は、「カムバウとかたちをかんがみて~」となっている(小川環樹木田章義注解『千字文岩波文庫1997:267)。
 また、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』(第四版)で「鑑」字を引くと、

(1)かんが-みる。
(ア)かがみに照らす。映す。
明鏡可鑑形 めいきょうハかたちヲかんがミルべシ〈秦嘉―詩・贈婦詩〉
(イ)教訓にする。いましめにする。
後人哀之而之不鑑之 こうじんこれヲかなシミテこれヲかんがミず〈杜牧・阿房宮賦〉
(ウ)識別する。
鑑機識変 きヲかんがミへんヲしル〈晋*8・皇甫真載記〉

などのごとく、いずれも「~をかんがみ」と読み下している。
 秦嘉の贈婦詩は、『玉臺新詠』に収められているので、念のため手近な文庫本で確認してみると、「明鏡は形を鑒(かんが)むべし」と読み下している(鈴木虎雄訳解『玉台新詠集(上)』岩波文庫1953*9:118)。
 これらによるならば、漢文脈でも、「に鑑み」ではなく「を鑑み」の方が優勢であったと思われるのである。
 しかしながら、理由はなぜかわからないのだが(これが実に不思議なところで)、近代になるとこの多寡が逆転してしまう。
 まず「青空文庫」内を検索してみると(ノイズを除くと)、

「~に鑑み」57件、「~にかんがみ」13件
「~を鑑み」4件、「~をかんがみ」3件

と、10:1で「~に鑑み」の方が圧倒している。もっとも「~を鑑み」には、「家に飼う鳥の淘汰に人の力をかんがみる」(井上円了「西航日録」四十三、1903)といった古い例もやはり見うけられる。
 次に、現代日本語書き言葉均衡コーパスの「少納言」で検索してみると、

「~に鑑み」202件、「~にかんがみ」621件
「~を鑑み」49件、「~をかんがみ」16件

となっており、やはり約12:1の割合で、「~に鑑み」の方が多くなっている。
 このように、近代以降は「~に鑑み」の使用例が「~を鑑み」のそれを圧倒しているので、「『~を鑑み』は使った(聞いた/見た)ことがないので『~に鑑み』の方が正しいのだ」、という類推が働きやすかったのだろう、と思われる。
 またこれは思いつきの域を出ないが、あるいは、「大東亜戦争終結に関する詔書」(いわゆる玉音放送)などの影響もあるのではなかろうか。その冒頭に「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ」というくだりがあるのはよく知られるところで、ある年代以上にとっては、これが、「~に鑑み」を「正しい」とする規範意識を強めるものとして機能した可能性もあるのではないか、と思われる。

千字文 (岩波文庫)

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全訳漢辞海 第四版

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玉台新詠集 上 (岩波文庫 赤 10-1)

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太平記(二) (岩波文庫)

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  • 発売日: 2014/10/17
  • メディア: 文庫

*1:報道では「ミゾユー」「ミゾーユー」と読んだなどといわれたが、実際にはこう発音していたようだ。

*2:新型コロナウイルス感染状況(に/を)鑑み延期(中止)します」などといった文脈で多用される機会が多いから、それに対する反応として多く見受けられるのではないかと思われる。

*3:一方で、「~を鑑み」を「誤」と見なすのはネット由来のデマだ、と主張する記事も僅かながら見つかる。

*4:ちなみに、「鑑みる」を「他」動詞とするか「自他」両用とするかは辞書によって揺れがある。

*5:大漢和は「府」に作る。

*6:「辨」と通用する。

*7:千字文音決』。その奥書によると「貞永・天福の比(一二三二-一二三三)の手書」を「元禄七年(一六九四)」に写したものという。

*8:『晋書』。

*9:手許のは2008年2月21日第9刷。

獅子文六「牡丹」のことなど

 「三田文学」連載の対談をまとめた、石原慎太郎・坂本忠雄『昔は面白かったな――回想の文壇交友録』(新潮新書2019)を昨年末に読んでいたところ、次のような箇所が目にとまった。

坂本 (略)文六さんって人は、「牡丹」っていう絶筆を書いてね。
石原 読んだ、読んだ。
坂本 小林秀雄が絶賛してたの。
石原 あれ面白い文章だったな。僕はね、認める人は認めるんですよ、高橋和巳なんかもいい作家だけどね、力量があって。(略)(p.30)

 これに触発されて、正月の帰省時に、実家から『牡丹の花――獅子文六追悼録』(非売品、1971)を持ち出してきたのだった。
 紺色の染和紙に纏われた瀟洒な函に入ったこの本は、阿川弘之芥川比呂志淡島千景、石川数雄、上野淳一、扇谷正造大佛次郎加東大介角川源義川口松太郎河盛好蔵岸田今日子北杜夫今日出海渋谷実、田村秋子、辻嘉一戸板康二徳川夢声永井龍男長岡輝子中野好夫中村伸郎丹羽文雄野間省一、見川泰山(鯛山)、水谷準、三津田健など、錚々たる顔ぶれの揃った追悼文集で、文六先生関連書のうちでも、わたしの特にお気に入りの一冊である。背や扉の題字は小林秀雄によるものだ。
 その冒頭に(正確にいうと、まず数ページの口絵のモノクロ写真があって、その後に)、獅子文六「牡丹」が収められている。初出は「昭和四十五年五月「諸君」」となっている。すなわちこれは、文六の死後、約五か月経ってから発表されたわけである。
 この文章について、追悼録中の小林秀雄「牡丹」は次のごとく述べている。

 文六さんの三回忌には、友人達で思ひ出話でも持寄り、本にまとめてお供へしたらといふ話が出て、編輯の人から本の題名につき、相談を受けた時、『牡丹』と題する故人の名文を思ひ、「牡丹の花」とでもしたらどうかと、口には出さなかつたが、心のうちでは直ぐ思つた。それほど『牡丹』といふ彼の文には、心を動かされてゐたのである。亡くなつて間もなく、こんなものが机の引出しにあつたと言つて、夫人(文六の三番目の妻・岩田幸子氏―引用者)から、原稿を見せられ、早速、関係のあつた雑誌に、遺稿として、載せてもらつたのであつた。(p.14)

 当の岩田幸子氏(1911-2002)は、著書で次のように書いている。

 岩田(豊雄。獅子文六のこと―引用者)の亡くなった後、大磯の書斎から、未発表の原稿が、いくつか出て来たので、小林(秀雄)先生に見ていただき、遺稿として雑誌に載せていただいたが、「牡丹」という一文を、たいへん褒めて下さった。葬儀の時、委員長をしていただき、追悼文集を作る時も、「牡丹の花」という題名を書いて下さった。思い返せば御礼を申上げることばかりである。(「獅子文六の友人たち」『笛ふき天女』*1ちくま文庫2018:242)

 これらによれば、「牡丹」が絶筆なのかどうかは判らないわけだが、しかし読んでみると、これが確かに、死の影のちらつく随想になっていて、絶筆であったとしてもさほど不自然ではないようにおもえる。文六の随筆のアンソロジーを編むとすれば、最後に配置したい名品である。
 ところで、昨年12月7日から今年の3月8日まで、横浜の県立神奈川近代文学館にて「収蔵コレクション展18 没後50年 獅子文六展」がやっている*2。「特別展」ではなくて「収蔵展」だから、専用の図録は製作されていないのだが、観覧すると、菊判サイズで観音折の簡単なパンフレットが附いてくる。
 また、これとは別に1部100円で買える館報があって、その最新第147号で、文六に関する文章をいくつか読むことができる。山崎まどか獅子文六の創作ノート」(pp.2-3)と、岩田敦夫*3「父と神奈川」(pp.3-4)と、古川左映子「展覧会場から―『獅子文六業』への転業」(p.5)との三本である*4。その岩田氏の文章も、文六の「牡丹」に触れている。

「獅子に牡丹」という訳ではないだろうが、父は牡丹の花を大変愛していた。戒名の「牡丹亭豊雄獅子文六居士」も、生前お寺の和尚さんと相談し決めていたものである。大磯の庭に数株の牡丹を植えて毎年開花を楽しみにしており、東京に移ってからもふらっと大磯を訪ね牡丹と対面していた。亡くなった後に発見された「牡丹」という作品は、医者に病状を知らされ戸惑う自分の心を牡丹の花との対話のように綴ったものである。(p.4)

 展覧会を見ていて興味深く感じたのが、文六の「物持ちのよさ」である。それについては前掲の山崎氏が、「彼は「信子」の連載が始まる一九三八年の太平洋戦争前から六〇年代直前まで、二十二年に渡ってこのノートを使っていたという計算になる。物持ちがいいぞ、獅子文六。一冊のノートに、何という情報量。作品ごとにノートを変えたりしないのだ」(p.2)云々と記し、同じような点に驚きを示しているのだが、展示物のなかに、綺麗な状態のゴルフのスコアカードが何枚もあったことには、特に吃驚させられたものだった。
 文六とゴルフ、というと、木戸幸一「ゴルフをめぐって」(『牡丹の花』pp.17-19)という追悼文が面白い。その末尾を引いておく。

 岩田サンが(大磯から―引用者)東京へ移られてからは自然御一緒にゴルフをする機会も少くなりましたし、やがて健康を害されてゴルフは出来なくなったと話されるようになったのでした。
 岩田サンが文化勲章を受けられたので、早速御祝いの手紙を出し「スポーツシャツの上に勲章をブラ下げた貴兄と相模原頭で雌雄を決することが出来ないのは誠に遺憾千万。千載の恨事です」と申送ったところ、左記のような御返事を頂戴しましたが、これが同君からの最後の手紙となってしまったので、これを引用して結びと致します。

 拝復。今回不測の光栄に浴し早速御祝詞頂戴奉感謝候。スポーツシャツの上に勲章をブラ下げゴルフ致したきもドクター・ストップにては詮方なし。尤もこの間箱根でひそかに四ホール程廻り候処、腕前少しも衰へず、尊台なぞは歯が立たざるに非ずやと愚考仕候。何れ拝眉の上御礼申上候へ共、不取敢御挨拶申上度如此御座候。     岩田拝
   十月三十日
 木戸老台
   虎皮下

(pp.18-19)

 いかにも皮肉屋の文六らしい、エスプリのきいた書簡文であるといえる。

笛ふき天女 (ちくま文庫)

笛ふき天女 (ちくま文庫)

*1:単行本は1986年12月講談社刊。同書末尾には「文六教信者に」が収められているが、これは、『牡丹の花』の末尾の文章(pp.279-88)を再録したものである。

*2:その最後のほうに、『牡丹の花』と、小林が題字を記した色紙とが展示してあった。

*3:文六の長男。三番目の妻・幸子との間に生れた。

*4:ちなみに古川氏の文章は、『牡丹の花』から中村光夫による追悼文の一部を引用している。