斎藤精輔が語る怪談

 野呂邦暢の「剃刀」を読んで、それに触発されるかたちで再読したのが石川桂郎『剃刀日記』のうち数篇(「蝶」「梅雨明け」など)であったり、また志賀直哉の「剃刀」であったりしたのだが、志賀の「剃刀」は、『焚火―志賀直哉全集 第二巻』(改造文庫1932)所収のものを読み返したのだった。
 改造文庫版『焚火』は4年前、『文章読本X』(中央公論新社)の記述に影響され、標題の「焚火」を読むため古書肆で購ったものであるが*1、以前この「焚火」を読んだときはその面白さをあまりよく理解できなかった。しかし今回「剃刀」を読むついでに「焚火」も読み直してみたところ、どういう訣か、無性に面白く感じたのだった。
 この短篇は、芥川龍之介が『文芸的な、余りに文芸的な』で「あらゆる小説中、最も詩に近い小説」「散文詩などと呼ばれるものよりも遥かに小説に近いもの」「通俗的興味のないと云う点から見れば、最も純粋な小説」の代表的な国内作品として挙げており(芥川龍之介谷崎潤一郎千葉俊二編『文芸的な、余りに文芸的な|饒舌録ほか 芥川vs.谷崎論争』(講談社文芸文庫2017:28-38)、谷崎潤一郎との論争のきっかけをつくった作品のひとつでもある。今これを手軽に読める文庫としては、『小僧の神様 他十篇』(岩波文庫2002改版)もあるが、ざっと見較べてみると、「黒檜山(くろび)」(岩波):「黒檜山(くろびざん)」(改造)、「集った」(岩波)*2:「集まつた」(改造)等々、ルビや字句の若干異なるところがある。
 ところで「焚火」は物語の末尾、作中人物の会話の内容が不思議な話、怪談めいたものになって行く。その一部を引いておく。

「ぢやあ、此山には何んにも可恐(こは)いものは居ないのね」と臆病な妻はKさんに念を押した。すると、Kさんは、
「奥さん。私大入道を見た事がありますよ」と云つて笑い出した。
「知つてますよ」と妻も得意さうに云つた。「霧に自分の影が映るんでせう?」妻はそれを朝早く、鳥居峠に雲海を見に行つた時に經驗した。
「いゝえ、あれぢやあ、ないんです」
 子供の頃、前橋へ行つた夜の歸り、小暮から二里程來た大きい松林の中で左(さ)う云ふものを見た、と云ふ話だ。一町位先でぼんやり其邊が明かるくなると、その中に一丈以上の大きな黒いものが起つたと云ふ。然し、暫くして大きな荷を背負(しよ)つた人が路傍に休んで居たので、其人が歩きながら煙草を飮む爲めに荷の向うで時々マッチを擦つたのだと云ふ事が知れたと云ふ話である。
「不思議なんて、大概そんなものだね」とSさんが云つた。
「でも不思議は矢張(やつぱ)りあるやうに思ひますわ」と妻は云つた。「左う云ふ不思議はどうか知らないけど、夢のお告げとか左う云ふ事はあるやうに思ひますわ」
「それは又別ですね」とSさんも云つた。そして急に憶ひ出したやうに、「そら、Kさん、去年君が雪で困つた時の話なんか、左う云ふ不思議だね。未だ聽きませんか?」と自分の方を顧みた。
「いゝえ」
「あれは本統に變でしたね」とKさんも云つた。
 かう云ふ話だ。(改造文庫版pp.27-28)

 この後、「本統に變」な話が始まるのだが、未読の方の愉しみを奪うことにもなるので、そのくだりを引くのはやめておく。ちなみに上で「霧に自分の影が映る」と「妻」が言っているのは、「ブロッケン現象」のことと思われ、これについてはかつて述べたとおり、ウィンパー『アルプス登攀記』幸田露伴「幻談」も言及している。なお余談にわたるが、私が「ブロッケン現象」を初めて知ったのは小学生の時分、佐藤有文監修『怪奇全(オール)百科』(小学館コロタン文庫)のカラー口絵を見たことによる。
 さて「焚火」は、上で見たように突如として怪談じみた展開となるのだが、それでふと思い出したのが開高健『夏の闇』で、こちらも作中に次のような怪異譚が唐突に出てくる。

 旅館にもどろうとして二人で裏通りを歩いていった。夕方のひとときはざわめいていたのにもうまっ暗な下水溝となっていて、人の姿がどこにもない。あちらこちらに酒場や料理店の灯が虫歯の穴のような入口を照らしているが、壁には私たちの足音が低くこだまするだけである。闇しかない路地に入っていくと汚水に浸りこんでいくような気持がする。この市ができたときに山からはこびこまれてそれ以来一度も日光を浴びたことがないのではあるまいかと思いたくなるような石が積みあげられている。冬を吸収したままで凍てついている、濡れた、かたくななその壁のよこをすぎたとき、むせるような立小便の酸っぱい腐臭のさなかに、ふいにあたたかい花の香りとすれちがった。私は闇のなかでたちどまった。
「誰か歩いていったのかな」
「どうかしら」
「靴音を聞いたかい?」
「ずっと私たちきりだわ」
「ドアのしまる音も聞かないね?」
「そう思うけど」
「だけど香水の匂いがする。君のじゃない。いますれちがった。女とすれちがったみたいだ。フレッシュで、うごいていた。誰もいないのに不思議だな。どういうわけだろう」
「幽霊と浮気したいの」
 ひくく含み笑いしてからふいに女が腕をからみあわせ、うむをいわせぬ力でひきよせると、背のびしてくちびるをよせてきた。(『夏の闇』新潮文庫1983*3:56-57)

 数年前に、これと同工の「実録怪談」をネットか何かで読んだことがあって、開高のこの小説をもとにしているのではないか、と思ったことであった。
 なぜか突然怪奇な話が挿入される、といえば、『辞書生活五十年史』という書物もそうであった。辞典編集者の斎藤精輔(1868-1937)が最晩年に自伝として書き上げたこの本にも、いきなり怪談を語り始めるくだりがあって、斎藤はあるいは相当の怪談好きだったかも知れない、とおもったことがある。
 『辞書生活五十年史』は初め少部数の謄写版として世に出たもので、森銑三が「斎藤精輔の自伝」*4小出昌洋編『新編 明治人物夜話』岩波文庫2001所収:226-37)で次のように書いている。

 かような内容のある書物が、広く知られずにいるというのは惜しいといえばやはり惜しい。他日この種の珍本を集めて、明治文化全集風の刊行事業でも起されるならば、本書の如きは、第一に推薦してよいものだということを、まず一言して置きたい。
 『辞書生活五十年史』は、菊判袋綴の一冊で、本文は百六十頁に及んでいる。二、三時間にして読了せられるほどのものであるが、その内容は実に充実しており、それを簡約して紹介するなどということは、到底なし難い。(『新編 明治人物夜話』p.228)

 森は、当該の自伝中に中井錦城や赤堀又次郎らが登場することに言及したうえで(同pp.232-36)、「『辞書生活五十年史』は、昨一年(1962年―引用者)を通じて私の読んだ書物の内でも、最も異色に富んだものの一つであったというを憚らぬ」(p.236)とこの一文を結んでいる。わたしも『辞書生活五十年史』は確かに異色の本だとおもうのだが、「異色に富」むように感じられたのは、そう大部の書物でもないのに、怪談めいた挿話がところどころに差し挟まれているという点にもある。
 『辞書生活五十年史』は、森の歿後6年を経てから図書出版社の「ビブリオフィル叢書」というシリーズに加わった。現在、新本では手に入らないが、古書ではわりと容易に入手がかなう。わたしは13年前に(今はなき)上野古書のまちで購ったのだが、その後も古書市などで何度か見かけたことがある。
 鶴ヶ谷真一氏もビブリオフィル叢書版でこれを読んで、「辞典編集 斎藤精輔」(『古人の風貌』白水社2004:36-45)という一文をものしている。その文中で鶴ヶ谷氏は次の如く述べる。

 斎藤はいわば辞典をつくるために生れてきたような人物だった。緻密と熱意。不幸や不遇にもめげぬ闊達さ、そして相手に好感をいだかせるような晴朗な人柄。若いころ三省堂辞典編集所にあって、所長の斎藤に親しく接した長田恒雄氏によると、「先生は女性的ともいえるやさしい、端正な風貌だったが、一日も酒をきらしたことがなく、そのくせ、用心に新薬ばかり買いあさって『いつも酒ののめる体にしておかなくちゃね』といっていたほど酒好きだった。酔っぱらって二階からころがりおちたときも『酒飲みは決してけがはしません』とけろりとしていた。温厚な学者であるばかりでなく、一種の豪傑でもあったのだろう」。酔って転落するのが偉いわけではないが、緻密にして豪放磊落な一面をかねそなえていたことは、多くの執筆者をたばねなければならない百科事典の編集者には必要な資質だったのかもしれない。(『古人の風貌』p.40)

 ちなみに、詩人としても知られる長田恒雄の回想部分は、「朝日新聞」1962.9.25付夕刊の「私の先生」という記事に拠るらしい。
 では、その『辞書生活五十年史』で語られる怪談を以下に紹介しておこう。まず斎藤が数えで十歳の頃、父の赴任先の三重県へ母と船で向かう場面である。

それより神戸に至る途中、播磨灘上月明の夜の事なりき、船頭たちと種々様々の話をなせる中、船頭の一人「岩」なる者、色々の怪談を語り出で、この辺には「海坊主」という者出没し、船を覆えし旅客を食い殺す事ありとて、余等を嚇したりしが、船の進行中「岩」が上甲板にて櫓を漕ぐとき、いかなる油断ありしにや、播磨灘の只中に真逆様に墜落せり。他の船頭おおいに驚き、これ「海坊主」にさらわれたるものなるべしと大騒ぎをなししが、まもなく「岩」は同輩に救われて船に帰り来り、岩国出発以来一ヶ月目にしてようやく大阪に安着することを得たり。こと六十年以前の昔なれど、今なおこの海坊主の恐しさが余の心に残りて、ときどき身の毛のよだつ思あらしむることあり。(pp.5-6)

 「(旧制中学の時分に)教師欠席の休暇を利用し、付近城山の頂上なる護館神の森に遊びぬ。この森林は城山の最高峯にして、昔より天狗が住むと称し、人々これを恐れてこれに登ることなかりしが、余等はこれを事ともせず、意気揚々とここに登り、樹を斬りて木刀とし、もって盛に剣闘を試み、天狗よ出でよと呼び叫びしも、ついに何等の事なく下山するや」云々(pp.23-24)、といった豪胆ぶりを示したさしもの斎藤でも、海坊主については、「ときどき身の毛のよだつ思あらしむることあり」というほどなのであるから、幼時のこの体験は、相当恐ろしいものとして心に刻まれたのだろう。
 次は斎藤が岩国の中学に入学してから間もない頃、母が投身自殺を遂げてしまうのだが、その後日譚を述べたくだりである。

 余はこれより四十九日の間、毎夕普済寺山の母の墓に詣り、墓側の石灯籠に油を注ぎ、火を点じて帰るを例とせしが、始めは気付かざりしも、四、五日後帰山の途中、ふと山上を回顧すれば、今直前に火を点じて帰りし灯火の消えおることを知り、すぐに後へ引き返し、さらに火を点じて山を下り、再び振返り見れば、火のまた消えおるを見る。よって再三これを繰返ししが、いつも点火してまもなく消ゆることいかにも訝しく、家に帰りて集いおる人々にその旨告げしに、その座中より一人の老僕膝を進めて、それこそ思い当る事あり、やつがれ二、三日前墓掃除に赴きしが、その墓の後に大なる狐穴あるを見、枯木を押入れ火を点け、燻し攻めにして帰りし事あれば、多分その狐共の復讐なるべし、明日はやつがれも同伴してその様子を伺うべしとて、その翌夜老僕は余を伴いて墓地に至り、いつものごとく皿に油を注し、灯心に火を点じて帰途につき、山下よりこれを見上ぐるに、いつもと違い火は煌々として輝き何等の異状なし。老僕これを怪しみそのゆえいかがならんと余に尋ねしに、余は笑って、「昨夜会合中のある人の勧めにより、油揚を三丁携え行き、その狐穴に入れ置きたれば、狐はこれを徳として灯籠には仇をなさざるものならん」と答え、老僕も「あるいは然らん」とて共々笑いながら帰家し、余はその翌日よりまたまた単身にて油揚を携え点火を勤とせしが、その後は以前のごとく灯火の消ゆる事なかりき。(pp.21-22)

 山に天狗がいるだとか、これは狐狸の仕業だとかいった話柄が、当時はごく自然に人々の口の端にのぼっていたという事実はきわめて興味ふかい。
 三つめは、斎藤が百科事典を編纂するにあたり、三省堂の創業者亀井忠一と二人で「専門語以外の本文の付訳」に従事するための場所をさがしに、湘南、大磯を経て箱根まで向かったときの話。明治二十二年頃のことである。

さらに車を飛ばして小田原に出で、鴎盟館というに投宿せり。この旅館は海岸景勝の地に在りて、眺望すこぶるよろしく、余等両人の意に適し、この夜は余と亀井氏とは室を異にして岸打つ濤声を聴きつつ静に眠につけり。しかるに、夜半物音騒がしく、亀井氏余の室に入り来りていわく、余不思議にもベルの鳴る音盛に聞えたり。風のいたずらとも見えで、怪奇の至に絶えず、君これを聞かざりしやと、余はまったくこれに気付かざりし旨を答えしも、亀井氏は今夜独寝せんこと、いかにも心寂し、君の部屋に寝ねんとて、自ら褥を余の室に移したり。その後何事もなく朝まで熟睡せしが、翌朝女中の膳部を持来りし際、亀井氏は前夜の事を女中に告げ、御前達はこれを知らざりしやと問いしに、女中もさらに心付かざりし旨を答えぬ。この音はたして何の音なりしや、いまだに判明せざれど、亀井氏はさかんに変化説を唱え、後年までしばしば当時の事を語り出で、身振いしおりたり。(pp.68-69)

 むろん同書は、辞事典の誕生秘話がメインで語られていること云うまでもなく、『日本百科大辞典』編纂の苦心談や、足助直次郎による漢和辞典編纂の話(pp.93-94,p.101)など、この本でしか知り得ない(だろう)裏話も満載だ。しかし、上記のような意外な一側面もあるということで、あくまで怪異譚についてのみ、ここで紹介した次第である。

小僧の神様 他十篇 (岩波文庫)

小僧の神様 他十篇 (岩波文庫)

夏の闇 (新潮文庫)

夏の闇 (新潮文庫)

新編 明治人物夜話 (岩波文庫)

新編 明治人物夜話 (岩波文庫)

  • 作者:森 銑三
  • 発売日: 2001/08/17
  • メディア: 文庫
古人の風貌

古人の風貌

*1:「焚火」「剃刀」のほか、「子供三題」「夢」「山形」「和解」を収める。300円で買った。

*2:「集った」にはルビ無し。これは岩波文庫の編集方針からすると、「あつまった」ではなく、「つどった」と訓ませるのだろう。

*3:手許のは1989.2.15の九刷。

*4:小出昌洋氏「編後附言」によれば、もとは「ももんが」昭和三十八年三月号に掲載された「三篇」のうちの「一つの自伝」。のちに改題のうえ、『明治人物夜話』に収録された。

『野呂邦暢ミステリ集成』のことなど

 当ブログでかつて触れたことのある本が、文庫本というあらたな形になって再び生命を吹き込まれ、世に出るのはうれしい*1
 たとえば、日夏耿之介『唐山感情集』(彌生書房1959)は2018年7月に講談社文芸文庫に入った*2。また、岩田宏『渡り歩き』(草思社2001)は2019年2月に草思社文庫に入った。
 それからこちらは、初文庫化ではなくて再々文庫化なのだが、福永武彦・中村真一郎・丸谷才一『深夜の散歩―ミステリの愉しみ』(講談社文庫1981)が、福永武彦「隠れんぼ」「ポーについての一問一答」、中村真一郎「『バック・シート』の頃」、丸谷才一「バスカーヴィル家の犬と猫」「二次的文学」「終り方が大切」等々を増補のうえ、2019年10月に東京創元社から完全版として出た。ちなみに講談社文庫版は、1978年刊の決定版(講談社*3を底本としている。講談社文庫に収められた決定版あとがきの文庫版後記によると、

 ただしこの文庫版『深夜の散歩』では、わたしの「バスカーヴィル家の犬と猫」「二次的文学」「終り方が大切」の三篇は版権の関係で収めることができなかつた。(p.285)

という。さらに当該のあとがき(創元推理文庫にも再録)の末尾には、「和田誠さんのおかげできれいな本が出来あがつて、非常にうれしい」とあるが、創元推理文庫版は和田のイラストを全て省いており、カバーのデザインも、和田からクラフト・エヴィング商會によるものへとかわっている。
 『深夜の散歩』は、これまた最近ふたたび文庫化された生島治郎の自伝的実名小説『浪漫疾風録』(中公文庫2020)にも出て来る。せっかくなので引用しておく。

 たとえば、新刊の海外ミステリを紹介するコラムに『深夜の散歩』というのがあって、はじめは中村真一郎、さらに福永武彦丸谷才一とつづいて、名コラムの誉れが高くなったが、この三人の原稿を取りに行くのはずっと越路(生島治郎本人―引用者)の仕事になった。
 その月に出た『ハヤカワ・ポケット』の新刊を持って行き、各作品のあら筋を述べ、その中からコラムに取りあげる作品を選んでもらう。
 三人とも音に聞えた評論家でもあり作家でもあったから、越路ははじめかなり緊張したものだが、純文学にかかわることでなく、しかも三人ともミステリは好きだから、このコラムを書くのは気分転換になったらしく、越路が会うときはおおむね機嫌はよろしかった。ただし、越路の方はその月に出た新刊全部に目を通し、ご進講の準備をしておかなければならない。
 中村真一郎はざっくばらんな人柄で、夏場などパンツ一枚の姿で平気で客と応対するというところがあり、しかし、平易な文章で鋭く現代ミステリの在りようを指摘してくれた。一方、福永武彦は気むずかしそうで、姿勢にゆるぎがなく、相対するたびにこっちも姿勢を正さざるを得ない。
 神経のそよぎが表にあらわれているような感じがしたが、ミステリを語りはじめると機嫌が良く、新しいミステリに対する好奇心も強かった。
 丸谷才一は三人の中では一番若く、やや童顔のせいもあって、良い意味での書生っぽさを残している気配があった。声が大きく、博識で話術に長け、しゃべり出すとその面白さに魅きこまれ、一時間ほどはあっという間だった。(pp.94-95)

 このように『深夜の散歩』は、編集者としての生島治郎がいなければ成り立ちえなかった企画なのだが、丸谷の博識ぶりと大音声ということで思い出すのが、このブログでも以前引用したことのある沢木耕太郎「ポケットはからっぽ」(『バーボン・ストリート』新潮文庫1989)である。
 沢木氏は以下のように書いている。

 ある日の午後、私は目黒の駅に近い洋菓子屋のティー・ルームで女性と待ち合わせをしていた。仕事ではなく、人並にいわゆるデートというやつをしていたのだ。(略)私は、私の背後に坐ったオッサンの大きな声に、知らないうちに気持を奪われていたらしいのだ。オッサンの声は大きく、よく響く声だった。しかし、その声が大きく響くだけならそう気にもならなかったろう。自然と耳に入ってきてしまうそのオッサンの話が、やけに面白かったのだ。プロ野球の戦績と総選挙の結果との因果関係とか、酒場の勘定の高低と文学の水準との連関とか、話題はとどまるところを知らないかのように広がっていく。(略)
 まったく、若い男女の仲を引き裂こうというこの不届きなオッサンとはいったいどんな男なのだろう。私はどうしても背後のオッサンの顔がみたくなり、一度手洗いに立ち、戻ってくる時にチラッと盗み見をすると、なんとそこに坐っていたのは、和田誠描くところの似顔絵にそっくりの顔をした、丸谷才一だった。(「ポケットはからっぽ」pp.77-79)

 話を戻そう。最近では野呂邦暢「ある殺人」(「ある殺人」はここなどで言及)が、野呂の他のミステリ作品やエセーとともに纏められて文庫オリジナルの『野呂邦暢ミステリ集成』(中公文庫)として出たこと(今年10月)も、心躍る出来事であった。もっとも、「ある殺人」は初めて文庫に入ったわけではなく、少なくとも『前代未聞の推理小説集』(双葉文庫1993、版元品切)でも読むことができる*4
 中公文庫はこの8月から3カ月連続で、中央公論新社編『事件の予兆―文芸ミステリ短篇集』、日影丈吉『女の家』、『野呂邦暢ミステリ集成』と、堀江敏幸氏による解説を附したミステリ作品集(『女の家』のみ長篇)を刊行しているが*5、『事件の予兆』に収められた野呂の「剃刀」は、再び『野呂邦暢ミステリ集成』に収録されている。この「剃刀」は、奇妙な味というかリドル・ストーリー的な展開になっており、誰しも理容室や美容院で一度は感じたことがあるだろう恐怖(この恐怖については、例えば原田宗典氏もエセーで言及していたと記憶する)を鮮やかな手際で描いてみせる。書名には「ミステリ」と銘打ってあるが、こういった作品も含まれるので、この「ミステリ」は、広義のものと云いうる。
 野呂の「敵」という短篇はこのミステリ集成で初めて読んだが、これはタイトルも同じヒュー・ウォルポール(1884-1941)の「敵」(The Enemy)に着想を得たか、あるいはそれを意識した作品ではなかろうか。ウォルポールの「敵」(倉阪鬼一郎編訳『銀の仮面』創元推理文庫2019所収←国書刊行会2001)では、チャリング・クロス街で本屋を営む主人公ハーディングが毎朝出会うトンクスに激しい憎悪を抱く。トンクスは様々のことを無神経にべらべらと喋りまくるし、ハーディングから見たトンクスの描写は、確かにいちいち生理的嫌悪を催させるものである。
 他方、野呂の「敵」は、「彼」があらゆる場所で出会う「そいつ(やつ)」に(おそらく一方的な)憎悪の念を募らせる。「彼」は「そいつ」とは一面識もなく、ひとことも話したことがないので、その憎しみの感情はきわめて理不尽なものだ。しかし作中人物の匿名性*6がかえって現実的な手ごたえを感じさせもする。ラストは、「彼は待った」のリフレイン、そしてたたみかけるような短文の効果的な多用で、結末の意外性をいっそう引き立たせることに成功しているように感じる。ウォルポール「敵」のラストとはまったく趣を異にするが、読み較べてみると面白い。
 野呂といえば、さきに紹介した沢木氏の『バーボン・ストリート』に「ぼくも散歩と古本がすき」というエセーが収められていて、野呂と山王書房店主・関口良雄との交流について書いている。
 沢木氏は、「野呂邦暢には(関口とのやり取りが―引用者)よほど鮮やかな印象として残っているらしく、この時の経験は形を変えて三度エッセイの中に登場させられている」(p.226)、「そうでなければ、野呂邦暢がどうして三度もエッセイに書くだろう」(p.231)と、「三度」というのを強調しつつ述べているのだが、その三度とは、多分、「S書房主人」(野呂邦暢『兵士の報酬―随筆コレクション1』みすず書房2014所収pp.331-32)、「花のある古本屋」(野呂邦暢『小さな町にて―随筆コレクション2』みすず書房2014所収pp.116-18)、「山王書房店主」(同前pp.315-17)を指すのだろう。
 一方の関口は遺稿集『昔日の客』を世に残した。そこでは野呂との思い出についても書いている。野呂の「花のある古本屋」は、その関口の追悼文集『関口良雄さんを憶う』に収められたものである。
 『昔日の客』『関口良雄さんを憶う』ともに、島田潤一郎氏がつくった夏葉社から復刊されているのはよく知られるところだ。『昔日の客』の方は「現在10刷りまで版を重ねている」*7という。なおその島田氏も、自著『あしたから出版社』(晶文社2014)で、「沢木さんの『バーボン・ストリート』に関口良雄さんと『昔日の客』のことが感動的に綴られている」(p.139)と、沢木氏の文章に触れている。

唐山感情集 (講談社文芸文庫)

唐山感情集 (講談社文芸文庫)

  • 発売日: 2018/07/10
  • メディア: Kindle
文庫 渡り歩き (草思社文庫)

文庫 渡り歩き (草思社文庫)

  • 作者:宏, 岩田
  • 発売日: 2019/02/05
  • メディア: 文庫
浪漫疾風録 (中公文庫)

浪漫疾風録 (中公文庫)

バーボン・ストリート (新潮文庫)

バーボン・ストリート (新潮文庫)

野呂邦暢ミステリ集成 (中公文庫)

野呂邦暢ミステリ集成 (中公文庫)

銀の仮面 (創元推理文庫)

銀の仮面 (創元推理文庫)

*1:直接その本について言及したわけではなくても、たとえば最近(今年10月)、田岡嶺雲『数奇(さっき)伝』が講談社文芸文庫に入ったこともうれしく思った。嶺雲については約8年前に、西田勝編『田岡嶺雲選集』(青木文庫1956)を入手した際に書いている(https://higonosuke.hatenablog.com/entry/20120807)。

*2:井村君江氏によるエッセイ「『唐山感情集』の思い出」と南條竹則氏による解説「日夏耿之介の訳詩と『唐山感情集』」とを附す。

*3:元版は早川書房刊、1963年。

*4:この文庫は刊行時、近所のコンビニで買った。当時はコンビニにも、光文社文庫三笠書房知的生き方文庫、双葉文庫、ワニ文庫、KKベストセラーズなどがよく置いてあった。

*5:8月には、河野龍也氏編(解説も担当)の『佐藤春夫台湾小説集 女誡扇綺譚』(中公文庫)も出ており、わたしはこれではじめて表題作を読むことを得た。作品中に漂うただならぬ気配から超自然的現象を扱ったものなのかと思いきや、ラストは合理的解決に導かれる。

*6:野呂邦暢ミステリ集成』所収作品のうち、前述の「剃刀」や、「もうひとつの絵」などでも、登場人物は「男」だったり「女」だったりして、特定の名が与えられていない。ついでながら、「もうひとつの絵」は何となく松本清張の「潜在光景」を思わせる。野呂はエッセイ「南京豆なんか要らない」で、「大ざっぱにいって、あちらのミステリには右翼の黒幕とか、不動産業者と結託した通産省の課長補佐は登場しない」(『ミステリ集成』p.295)云々と述べ、明らかに清張を念頭に置いた社会派批判を行っているのだが、清張の初期の短篇群に登場する人物は、どこにでもいるような平凡な男だったり女だったりする場合がむしろ多い。

*7:「現代の肖像―島田潤一郎」(『AERA』2020.10.19)

猪場毅と『広辞苑』

 永井荷風『来訪者』の主要登場人物2人のモデルのうち、白井巍(たかし)のモデルになった平井呈一(1902-76)はいまも読まれる翻訳作品を数多く残しているし、その弟子のひとり荒俣宏氏が語り継いでいることもあってよく知られているものの*1、木場貞(てい)のモデル・猪場毅(1908-57)の方は、これまではあまり知られていなかった。
 今年の初め、善渡爾宗衛+杉山淳 編『荷風を盗んだ男―「猪場毅」という波紋』(幻戯書房)が出て、彼にもようやく光が当るようになってきた*2。その後6月には、1980年代初めに私家版として出た花咲一男『雑魚のととまじり』が幻戯書房から刊行されていて(編集協力に『荷風を盗んだ男』の善渡爾氏、杉山氏の両者が名を連ねる)、このpp.66-70にも猪場が出て来る。花咲は彼の第一印象について、「定かに覚えていない」が、「顔色の悪い、むくんだような顔付と、さっぱりしない、汚れた服装が浮んで来る」(p.66)と書いている。
 私は、かなり以前に『来訪者』を新潮文庫版で読んでいたとは云い條(最近、岩波文庫にも入った)、実際の猪場の人となりについては、石川桂郎俳人風狂列伝』(中公文庫2017←角川選書1974)を読んで知ったのがようやく初めてのことで*3、しかもそれは、俳号の「伊庭心猿」としてであった。
 伊庭心猿を特に心に留めるようになったのは、『来訪者』のモデルになったことのほか、石川の次の記述が気になったからでもある。

 今まで書いてきた心猿の行状は事実であるが、われわれ仲間はけっして彼を軽んじていたわけではない。猪場毅の業績として『樋口一葉全集』六冊、『一葉に与へた諸家の書簡』一冊、岩波の新村出『新辞苑』の追加増補の仕事、東京堂『世界文明辞典』の西洋篇、俳人伊庭心猿として句集『やかなぐさ』、豆本仕立の随筆集『絵入東京ごよみ』『絵入墨東今昔』等のすぐれた著書がある。中でも『墨東今昔』の「木歩の生涯」*4は、心猿の傑作の一つであると高須茂が賞讃している。(石川桂郎「此君亭奇録―伊庭心猿」『俳人風狂列伝』中公文庫p.42)

 「辞書好き」として気になったのが、「岩波の新村出『新辞苑』の追加増補の仕事」という記述なのだった。この『新辞苑』というのは、実は『広辞苑』を指し、新村出の『新辞苑』は云わば幻の辞書の名前、ということになっている。
 新村は、はじめ岡書院の岡茂雄の懇請により、溝江八男太の協力を条件に『辞苑』の出版を引き受けることとなるのだが、それが博文館に移譲されてからも、岡は陰に陽に協力を惜しまなかった。『辞苑』刊行(1935年)後、百科項目を殆ど削除する形で完成した(1938年末)のが、小型国語辞典の『言苑』である。
 『辞苑』の方は、刊行直後から改訂作業が始まり、1941年に改訂版の刊行を目指したが間に合わず、戦後も岡は交渉を続けるが、博文館・博友社は改訂版の刊行を拒否した。新村の息子の猛の交渉によって、岩波書店から改訂版が出る運びにはなったが、岡は新村に「辞苑」という書名はなるべく使わぬようにと何度も「進言」したらしい。しかし結局『広辞苑』が採用されることになり、後には岡の懸念した通り、岩波と博文館との間で係争が起ってしまう。そこに至るまでの経緯については、岡の「『広辞苑』の生まれるまで」(『本屋風情』中公文庫1983←平凡社1974*5)に詳しい。ただし岡のこの文章は、『新辞苑』という書名には触れていない。
 『広辞苑』の書名は当初、新村から『辞海』『辞洋』『言洋』等がよいとの要望があり、それらのうちの『辞海』が仮称として択ばれていたという。しかし、

 昭和二七年に、新たに金田一京助編『辞海』が三省堂から刊行されるに及んで別の名称を考えなければならなくなった。岩波書店も本格的に検討を開始し、結局、「新辞苑」か「広辞苑」というところに収斂した。『辞苑』は出の命名であり、これがもとであり、版を重ねて読者を重ねて読者を獲得してきたこともあっての判断と思われる。岡の意見も聞き、彼は「辞苑」を使うと博文館との関係で係争になる危惧を表しつつ、これがベストとの判断であれば諒とするということであった。岡には、自分が生みだした『辞苑』への思い入れがあったであろう。出は「大辞苑はぎょうぎょうしからむ」と日記に書き、「広辞苑」がよいという考えであったが、岩波書店が「新辞苑」を主張し、昭和二九年三月には、いったん「新辞苑」に確定した。書名は出版社のイニシアチブが強いわけである。出の日記、三月二八日には「岩波書店の稲沼氏来談、辞書の題名につき熟議」、同四月二六日には「岩波書店布川氏、『新辞苑』の書名のことにつきて来談」とあり、岩波書店が出に説明、説得しようとした形跡がうかがえる。
 その後、時を経て昭和二九年の年末、出が「新辞苑」の序文を書き送ったあとの年明け一月一二日、岩波書店から、「新辞苑」は博文館の後継社、博友社で登録してあると電話があった。そして一月三〇日、「岩波の稲沼氏より談話あり、『新辞苑』の名を撤回して『広辞苑』として登録することにし、法律上の用意を堅固にするとのよし」と日記にある。急転直下『広辞苑』となった。(新村恭『広辞苑はなぜ生まれたか―新村出の生きた軌跡』世界思想社2017:178)

 つまり『新辞苑』は、最終的に幻となったものの、いったんは「確定」した書名なのだった。また新村恭氏によれば、岩波と博文館・博友社との係争の結末については、「詳細は不明だが、(略)岩波から博友社に一定の金が支払われたと推測される」(同書pp.178-79)という。
 さて猪場は、『辞苑』改訂作業のどの段階で加わったか。
 新村猛『「広辞苑」物語―辞典の権威の背景』(芸生新書1970)によると、それは戦後の1948年のことであるらしい。

 意外に難航した編集体制の再編がようやくでき、岩波書店内に国語辞典編集部が発足したのは昭和二十三年九月のことであります。編集主任には市村宏さん(現東洋大学教授―当時、引用者)をお迎えすることができました。辞典編纂の経験に富む方であり、書店側の紹介によって父が委嘱して引受けていただいたわけです。市村さんのほかに、編集部には関宦市、猪場毅、横地章子、長谷川八重子、藤井譲、佐藤鏡子、木村美和子の諸氏が参加され、当初はたしか五、六人で補訂作業が始まったようにおぼえています。(『「広辞苑」物語』p.170)

 猪場が編集部内で具体的に何を担当していたのかは、残念ながら今のところ不明である。現行の『広辞苑』第七版(2018)巻末の「初版から第六版までにご協力いただいた主な方々」のなかにも、市村宏の名はあるけれども、猪場の名は見当らない。

荷風を盗んだ男: 「猪場毅」という波紋

荷風を盗んだ男: 「猪場毅」という波紋

  • 発売日: 2019/12/25
  • メディア: 単行本
雑魚のととまじり

雑魚のととまじり

俳人風狂列伝 (中公文庫)

俳人風狂列伝 (中公文庫)

広辞苑はなぜ生まれたか―新村出の生きた軌跡

広辞苑はなぜ生まれたか―新村出の生きた軌跡

  • 作者:新村 恭
  • 発売日: 2017/08/04
  • メディア: 単行本

*1:ごく最近も、『幻想と怪奇3 平井呈一と西洋怪談の愉しみ』(新紀元社)が出たばかりである。荒俣氏は平井の年譜の作成を了え(近く刊行される予定とか)、同書に「平井呈一年譜の作成を終えて」(pp.73-86)を寄せている。平井を知る上では今後必読の文章となろう。

*2:ちなみに同書では、名の「毅」にほぼ「たけし」とルビを振っているが、「はじめに」では「つよし」と振っている。

*3:俳人風狂列伝』には、『荷風を盗んだ男』の編者解説「もう一人の来訪者、猪場毅」も言及している。『雑魚のととまじり』に猪場が登場することは、この解説で知ったのである。

*4:富田木歩は猪場の句作の師。『荷風を盗んだ男』はプロローグとして木歩の短文「芥子君のこと」を掲げる。芥子君とは、猪場が十四歳で得た俳号・宇田川芥子をさしてそう言っている。

*5:長らく版元品切だったが、一昨年、角川ソフィア文庫として復刊された。もっとも、新たな解説等が附されたわけではなく、中公文庫版の内容のままである。

山口剛のことなど

 尾崎一雄作/高橋英夫編『暢気眼鏡・虫のいろいろ 他十三篇』(岩波文庫1998)は、珠玉の尾崎作品をあつめた「精選集」というべき一冊で、再読三読している。編者の高橋英夫による解説も読みごたえがある。高橋氏は昨年亡くなったが、その歿後にまとめられた単行本未収録エッセイ集『五月の読書』(岩波書店2020)は、尾崎を追悼した「父祖の地に生きた『原日本人』――尾崎一雄」(pp.136-39)*1を収める。こちらは「愛書家」としての尾崎のポルトレにもなっており、併せて読むとなお面白い。
 さて、『暢気眼鏡・虫のいろいろ 他十三篇』中にある「山口剛先生」なる文章*2は、この文庫のなかでもわたしが特に好きな作品のひとつ。これは尾崎が早稲田の学生だった頃に教えを受けた山口剛を回想した一文である。昭和七(1932)年の十月八日に数えで四十九という若さで亡くなった、国語教師にして近世文学者の山口は、云わば伝説的な人物であったらしく、尾崎の二つ下の稲垣達郎が、『角鹿(つぬが)の蟹』(筑摩書房1980)で次のように描写している。

 国語担当の山口先生は、イガ栗頭で、黒の背広に蝶ネクタイ、たしか縞ズボンだった。赤堀又次郎編の教科書『校定平家物語』の角(すみ)をつまんで這入ってこられ、教壇に立つと、いきなり、「あたしやァ、ツンボでしてね」といわれる。これがひどく印象的だった。のちに、聾阿弥、不言斎聾阿弥あるいは聾不言と号されたことは知られている通りである。幅のひろい赤銅の指輪をはめておられた。ある時気が付くと、それには金の細い蛇が這っていた。
 ちょっと古武士のような風貌でいておしゃれなこの先生の講義は、訓詁注釈にこだわらぬ自在なものだった。教科書には、平家物語のほかに、それに関聯する謡曲や浄るりも這入っていた。謡曲の講義には、とりわけ熱がこもった。道成寺の乱拍子の話も出た。能にくらべると、歌舞伎の役者は腰のきまらない者が多い、という話もあった。(「山口剛先生」*3p.130)

 山口が會津八一の親友だったことはよく知られているが、稲垣は同じ文章の中ほどで次のごとく書いている。

 秋艸道人の歌集『南京新唱』が出た。いくつかの序文のなかで、(山口)先生のは逸品であった。いくらかのパラドックス調を帯びた気取がちょうどよかった。「友あり、秋艸道人といふ」にはじまり、やがて、「彼、質不覊にして気随気儘を以て性を養ふ。故に意一度動けば、百の用務を擲つて、飄然去つて遠きに遊ぶ。興尽き財尽く、すなはち帰つて肱を曲げて睡る。境涯真に羨むべし」と展開してゆく。ほとんどそらんじるくらいであった。戦後、秋艸道人が木村毅さんへ贈呈した『南京新唱』には、おびただしい添書があり、「山口のこの文は彼の畢生の最上の出来なり」とあるそうだ(古通豆本31木村氏『愛蔵本物語』)。
 これと言い、『光悦追憶』と言い、こういう文体をよくする人は、もう見当らなくなった。戦後、国文の徒のなかに、時に文語文を弄するのをみることがあるが、醜陋読むに堪えない。(pp.132-33)

 ちなみに『南京新唱』の「南京」は「なんきょう」と読み、奈良の都をさすが、この序文には、加藤郁乎も触れたことがある。

 心友会津(八一)の『南京新唱』に序をしたためたのは、三歳(二歳カ)年下の国文学者山口であった。

 友あり、秋草(ママ)道人といふ。われ彼と交ること多年、淡きものいよいよ淡きを加へて、しかも憎悪の念しきりに至る。何によりてしかく彼を憎む。瞑目多時、事由三を得たり。

と書き出してより、「彼、質不覊にして気随気儘を以て性を養ふ」「彼、客を好みて談論風発四筵を驚かす」「彼、自ら散木を以て任じ、暇日多きを楽んで悠々筆硯の間を遊ぶ」などと挙げる。さらに、みずからを信ずること篤い彼、平然としてあ(吾)が仏を无(無)みす、などと加えてほほえましい。友誼交契のよってくるあたりをそれとなく述べてあまりある戯文調の序言、割愛して伝えるに忍びない風流警抜の名文である。敬愛の情を憎むべき反語仕立てとするあたり、文友詩敵の間柄さえうれしく髣髴されてこよう。(加藤郁乎「心友」『俳林随筆 市井風流』岩波書店2004:117-18)

 ところで稲垣による「會津八一先生」*4には、山口の講義中に會津が「闖入」したという挿話がみえる。

わたくしらは、山口剛先生の黄表紙(あるいは洒落本)の講義をきいていた。と、
 「おうい、山口!」
 大声に呼んで、恰幅のいい、やや容貌魁偉な男が、ヌッと入口へあらわれた。乗馬ズボンをはいていた。和服に草履ばきで、教室のなかほどで講義をしておられた山口先生は、ふりむくと、そそくさと出てゆかれた。みな、あっけにとられたかたちだった。しばらくの立話で、その人は降りてゆき、先生は教室へ戻ってこられた。
 「ありぁ、會津といってね……、何、みみずくが手に這入ったって知らせに来たんだよ。」
 會津の何者であるかの説明はなかったが、これが、秋艸道人會津八一の風貌を瞥見した最初である。授業中にわざわざ呼出した用事が、たわいもない*5のに呆れたが、とにかく、妙に強い印象だった。
 その翌年、その人は、東洋美術史の先生としてわたくしらの前にあらわれた。全集の年譜をみると、一九二六年四月である。最初の時間に示された講義題目は、『奈良を中心とせる東洋美術史』というのだった。(略)
 講義は、たしか、金文・石文ということからはじめられた。碑と碣、陽文・陰文、そのほかからだんだん拓本の話になった。唐拓・五代拓・宋拓・明拓、そういうものがあることを知った。拓本の方法にまで及ばれた。湯島のどこそこへゆくと、釣鐘墨というものを売っている。画仙紙を当てて、それで刷るといちばん手軽だ、ということまで教そわった。(「會津八一先生」『角鹿の蟹』所収pp.136-37)

 稲垣は、會津の該博に対してのみならず、かれの手掛けた書に対する賞讃をも惜しまなかったが(「秋艸道人題簽など」*6松前の風』講談社1988所収)、当時會津の書は世間で評価が割れており、「いわゆる書家は殆ど賞めぬ」というのは浅見淵の言及するところであった(『燈火頰杖』校倉書房1970:19-20)。しかしかれの文字への造詣の深さは財前謙氏も説いているし(「題簽の中の會津八一」『字体のはなし―超「漢字論」』明治書院2010所収)、今は、その書についても再評価の機運があるようだ(財前謙『日本の金石文』芸術新聞社2015)。そのことはまた機会があれば述べたい。
 ついでながら、尾崎一雄の「山口剛先生」は次のように結ばれている。

 山口剛先生と父の享年が、同じ四十九であることを、いつも考える。戦争末期の十九年八月末、こおろぎの鳴く早朝、病気で倒れて以来、私の第一期生存計画(?)は、山口先生と父の年齢を越すことであった。私とともにそれを切願していた老母は、去年二月の亡父の命日を無事に迎え、ひどく喜んでいたが、二タ月後の四月五日、ぽっくりと逝ってしまった。
 第二期計画は、五十五を乗り越すことだ。それを完遂したいと思う。その間に、山口先生を軸とした学校物語を書きたい、と最近思いついた。早稲田入学によって自分の青春は始まり、山口先生の他界によって、それが完全に終ったと、今は見たい。それを書くことによって、私は、生き直したいのだ。今の私にとっては、それは、もはや単なる懐旧ではないだろう。(『暢気眼鏡・虫のいろいろ 他十三篇』p.206)

 ここで述べられている「第一期生存計画」のころに名作「虫のいろいろ」や「美しい墓地からの眺め」が生まれていること、下曽我に引っ越したことがそれを可能ならしめたことについては、荻原魚雷氏が書いている(「尾崎一雄の『小さな部屋』」『中年の本棚』紀伊國屋書店2020所収)。

角鹿の蟹 (1980年)

角鹿の蟹 (1980年)

俳林随筆 市井風流

俳林随筆 市井風流

自註鹿鳴集 (岩波文庫)

自註鹿鳴集 (岩波文庫)

中年の本棚

中年の本棚

  • 作者:荻原魚雷
  • 発売日: 2020/07/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

*1:初出は「朝日新聞」1983.4.4付。

*2:初出は「別冊文藝春秋」1948.11月号。

*3:1971.12.3稿、1980.5.3補訂。

*4:1972.3.31稿。

*5:稲垣の文章でふと思い出したのが、會津の次の歌であった。「八月二十三日(大正十四(1925)年―引用者)友人山口剛を誘ひて大塚に小鳥を買ふ   とりかご を て に とり さげて とも と わが とり かひ に ゆく おほつかなかまち」(会津八一『自註鹿鳴集』岩波文庫1998:177)

*6:初出は「文学界」1980年4月号。

「BOOKMAN」第15号のこと

 高崎俊夫氏が、今年亡くなった坪内祐三氏との対談*1で、

不思議といえば、トパーズプレスも変な出版社でしたよね。瀬戸川猛資さんの個人出版で「ブックマン」という雑誌も出してた。(『本の雑誌坪内祐三本の雑誌社2020:64)

と語っていて、そういえば「BOOKMAN」は一冊だけ持っていたよな、と書架から探して取り出した。第15号(1986.6刊)、その特集タイトルは「『辞書』はすばらしい―切磋琢磨の熱中ガイド」である。当ブログで何度か言っているとおり、わたしは「辞書好き」なので、かなり以前、古書市に「BOOKMAN」がまとまって出ていたうちから一冊択んで買ったのだった。
 これが出た1986年には、『大漢和辞典』(いわゆる諸橋大漢和)の修訂版が完結しており*2、それに触発された特集だったのかもしれないし、また前年には鈴木喬雄『診断・国語辞典』(日本評論社)が出ていて、辞典の「個性」が批評の対象となる風潮がそろそろ醸成されつつある頃だったので、それを受けての特集であったかもしれない。
 さてその特集号、巻頭を飾るのが「日本六大辞書列伝」、この「六大」は「東京六大学」などに引っ掛けたものだろうけれど、「BOOKMAN」のこの特集に先立つこと十四年、漢和辞典批判本として、小原三次『本邦六大、中堅『漢和字典』をこきおろす』(モノグラム社)というのが出ている。そちらの書名も意識したのかどうか――はわからないが、とまれ「日本六大辞書列伝」が挙げているのは、『大言海』、『広辞林』、『広辞苑』、『日本国語大辞典』、諸橋大漢和、『大日本地名辞書』の六つである。
 その次のコーナーが、「どんな辞書をお使いですか」という著名人へのインタヴュー。冒頭が呉智英*3。呉氏は「『新明解』がおもしろい」なるタイトルのそのインタヴュー記事で、

 で、一番愛用しているのが『新明解国語辞典』(三省堂)。もし、旅行で一冊しか持ち歩けないという時だったら、これを持っていくね。ここにあるのは第二版なんだけど、今、第三版が出ている。(p.11)

と語ったうえで、新明解の特色を述べてゆく。そこに、

 なんといっても(「読んでると笑っちゃう」語釈の)圧巻は〈おやがめ〉。「―の背中に子ガメを乗せて」「―こけたら子ガメ・孫ガメ・ひい孫ガメがこけた」と載っていて、「他社の辞書生産の際、そのまま採られる先行辞書にもたとえられる」なんて書いてある。辞書編集のかっぱらい合いに対して激しい怒りを表明しているわけよ。(p.12)

というくだりがある。「おやがめ」について「BOOKMAN」は、p.26の囲み記事「おやがめごっこはやめて欲しい」(筆者不明)でも、新明解の編集主幹・山田忠雄の著作『近代国語辞書の歩み』中の一文とともに当該の語釈を引いている。「おやがめ」項(第三版以降は削除されてしまった)の話はわりとよく知られた話で、これは国語辞典批評の嚆矢、「国語の辞書をテストする」(「暮しの手帖(10)」1971.2.1)の次の記述を下敷きにしている。

 推しはかるに、ある辞書を作るとき、なにか、べつの辞書を参考にするのではないか。もちろん参考にするのはよろしいが、ついでに文章まで、借りてくるのではないか。
 だから、もとの辞書が、まちがっていたら、そのまま、新しい辞書も、まちがってしまうのではないか。
 「親ガメこけたら子ガメも孫ガメこける」(原文ママ。2箇所の「こけ」に傍点)例をひとつ、お目にかけよう。(p.111)

 「BOOKMAN」のこの次の特集コーナーには、「ジャンル別大ガイド」というのがあって(正確にはこの前に内藤理恵子*4「辞書で小説を書いた作家の話」という記事がある)、「国語辞典」「古語辞典」「特殊国語辞典」「漢和辞典」「専門辞典」の五つに分けて様々の辞書を紹介・批評している。「専門辞典」のなかには鈴木棠三『日本俗信辞典 動・植物編』(角川書店)も紹介されている。その評は、同書が労作であることは認めつつも、

 ふつう、辞典というと引くものだが、読み物として楽しめるものも多い。この辞典もタイトルから考えると、そうした使い方ができそうだが、なんせズラズラと事柄を並べているだけなので退屈。なかに面白そうなのがあっても、すぐ次の俗信が出てくるので、興味がふくらんでいかない。
 また、動植物名は一応五十音順に並んでいるが、詳細な索引がないこと、関連語の相互参照ができないこと、他に例えば地域別の俗信分布を載せるなどの工夫が全くない、といった点で検索も不便だ。(p.34)

とかなり手厳しい。恰もよし、鈴木棠三『日本俗信辞典 動・植物編』はこの4月・6月に、『日本俗信辞典 動物編』『日本俗信辞典 植物編』(いずれも角川ソフィア文庫)として二分冊で文庫化された(文庫版解説の担当はそれぞれ常光徹氏、篠原徹氏)。
 そこで、文庫版の「動物編」でたとえば「郭公」の項をみてみるとしよう。
 二段組で約3ページにも亙ってカッコウにまつわる各地の俗信が紹介されるなかに、

カッコウの口にマメ」(青森県下北郡)、「マメマキカッコウ」(山形)とは、共にカッコウが鳴き始めたらマメを蒔く適期の意。(p.203)

とあるのだが、これらはあくまでその土地に伝わる俗信を「共通語」で紹介しているのであって、これらが実際に各土地でどのような形で言い伝えられているのかまではわからない。
 これをある程度補完してくれるのが、鈴木棠三・広田栄太郎編『故事ことわざ辞典』(東京堂出版1956*5)、鈴木棠三編『続故事ことわざ辞典』(東京堂出版1958*6)である。前者の正篇に、

郭公啼けば豆を蒔け 【意味】ほととぎす(ママ。もっとも両者はある時期は混同されていた)が鳴き始めたら、豆をまく時季であると知れ。
 【参考】郭公鳥の口さ豆植えろ(青森) ○郭公の口さ蒔き込むよう(種籾のまき方をいう)(岩手)

とっとの口さ種を蒔けかんこの口さ豆を蒔け 【意味】つつどりが鳴いたらもみをまけ、かっこうが鳴いたら豆をまけ。東北地方のことわざ。◎とっと=筒鳥。新潟県で、ふじ豆をとっと豆と呼ぶのも、このことわざから出たものであろう。◎かんこ=郭公。閑古鳥。東北以外でも、「まめまき郭公」という例がある。

とあり*7、ある程度までは実際の言習わしを「復原」できる。ちなみに「とっと」「かんこ」の語形については、『日本俗信辞典』の「郭公」の項は言及していない。
 そういった不備はあるのだけれど……とまあ、これを「不備」と言い切ってよいものかどうか。「俗信」はもとより整然とした姿で存在するものではなし、どうしたって雑然たる寄せ集めになってしまうのは已むを得ないことだと思う。「BOOKMAN」が指摘したくなる気持もわからぬでもないが、詳細な索引や地域別の俗信分布などを作成するのは(特にパソコン、いなワープロでさえも普及していなかった当時、すなわち1982年時点にあって)個人にはどだい無理な話だったろう。
 話を戻して「BOOKMAN」だが、ついでにいっておくと、次号予告には「第16号は、いよいよSF特集。BMならではのユニークな特集にするつもりです。発売は九月中旬予定です」(p.71)とある。この「SF特集」は、具体的には「SF珍本ベスト10」という特集名で、SF好きの間ではかなり話題になったらしい。
 たとえば古書山たかし氏*8は、『怪書探訪』(東洋経済新報社2016)で次のように書いている。

 純文学の世界と違い、エンターテインメント小説の世界では、オールタイムベスト10のような企画がしばしば行われ、大いに話題になる。SFも例外ではないが、一九八六年に、極めてユニークなSFベスト10が企画されたことがある。
 それは『BOOKMAN』という雑誌の第一六号で特集された「SF珍本ベストテン」だ。これは入手の困難さと内容の珍妙さをメインに、歴史的意義も加味して選ばれたもの。そこに選ばれた数々の珍書、稀書を目の当たりにした当時の若き本好き達は、自分達のちっぽけな常識では考えられないような珍無類なSFの大海原に目をむき、更なる探書の旅路に出発する決意を固めたものであった。その特集で、内容の荒唐無稽さから戦後SF珍本中、事実上ダントツに近い(ゲテモノとしての)高(?)評価を得ていたのが、栗田信の『醱酵人間』であった。(略)
 私も、同世代書痴の例に漏れず、『BOOKMAN』の特集で『醱酵人間』を知り、以来古書店で、古書即売会で、古書目録で、インターネットで、あらゆる機会に探し求め続けたが、さすがに奇書中の奇書として満天下に知れ渡ってしまったこの本を入手することはおろか、目録で見かけることさえついぞなかった。(pp.30-36)

 その後古書山氏は、自分だけのオリジナルの『醱酵人間』を作り上げ(書痴魂炸裂!)、さらには初版帯附を入手することになるのだが、詳しくは同書を参照されたい。
 またこの間(2014年)に、『醱酵人間』は戎光祥出版の「ミステリ珍本全集」という叢書で復刊されている(古書山氏もむろん言及している)。わたしは神保町の店頭ゾッキでこれを購ったものだが、ゾッキ本というと、この記事の冒頭にちらと出て来た坪内祐三氏もゾッキ本の愛好者だったと思われ、その文章や対談にしばしば出て来る(高見順の日記をゾッキ本で全部そろえた、と書いていたのは、確か『雑読系』だっけか)。
 なお「BOOKMAN」は、30号で終刊となったようだ。15、16号は、ちょうどその「折り返し地点」に位置していたことになる。

本の雑誌の坪内祐三

本の雑誌の坪内祐三

  • 作者:坪内祐三
  • 発売日: 2020/06/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
怪書探訪

怪書探訪

*1:「消えた出版社総まくり 函入り本を出すと出版社は消える?」(初出は「本の雑誌」2018年8月号)

*2:当該誌の表紙裏には修訂版の広告が出ている。

*3:呉氏は1982年に『読書家の新技術』(情報センター出版局)という本を出しており、そこで展開された辞書論をおもしろく読んだ記憶が有る(わたしが持っているのは後の朝日文庫版だが)。

*4:英文学者の内藤氏は、「BOOKMAN」で定期的に(連載?)エセーも担当していたらしく、当該号で「ブロードサイドからチャップブックへ―イギリス庶民文化の一枝」(pp.50-53)という一文もものしている。

*5:手許のは1974年の「六二版」。

*6:手許のは1976年の「三六版」。

*7:しかし、この辞書もやはり、それぞれの項目を相互参照できるようには作られていない。「とっと~」の項があることは、読んでいる途中で偶々気づいたのである。

*8:その正体は上場企業の「役員」だと奥付にあるが、新保博久『シンポ教授の生活とミステリー』(光文社文庫2020)によれば、「本名では上場企業の社長になっている」(!)(p.124)との由。

「ブンムクにむくれる」

 前回の記事で紹介したジェームズ・ケイン/蕗沢忠枝訳『殺人保険』(新潮文庫1962)には、「ぽんつく頭」(p.179)*1など、いわゆる俗語の類がしばしば登場するので、そのような点でも興味深い。次のごとく言語遊戯めいた文章もある。

どいつもこいつも、セコハンは上々の部類で、三パン、四ハン、五ハン、中には九ハンともおぼしきボロボロ自動車も置いてある。(pp.163-64)

 「セコハン」が「セカンドハンド」の略であることを知っていなければ、恐らく意味が通じにくいことだろう。
 以下の「むくれる」は、方言ないしは「世代語」として残っているが、若い世代の間ではどうだろうか(表記は原文ママ)。

彼はムクレて怒鳴りだした。(p.77)

およそ午後五時頃で、キースはむくれていた。(p.112)

 「むくれる」は、ここでは「腹を立てる」「怒る」といった義で、この意味で用いられる「むくれる」はわりと新しい。『日本国語大辞典【第二版】』は、

*がらくた博物館(1975)〈大庭みな子〉犬屋敷の女「サーカスにいた時にあたしが気に入る返事をしないっていうんでむくれていたファンの巡査がいてね」

という用例を挙げるが、『精選版 日本国語大辞典』は少し遡って、

*見るまえに跳べ(1958)〈大江健三郎〉「舞台にかまわず〈略〉称賛の熱い言葉をかわしつづけたので良重がむくれてしまった」

という用例を挙げている。
 それで思い出したが、「ぶんむくにむくれる」という用例をかつて拾ったことがある(以下も表記は原文ママ)。

それで組長(おやじ)さんは余計ブンムクにむくれてるんですよ(結城昌治『夜の終る時』中公文庫1990←中央公論社1963;90)

もちろんツネ子はぶんむくにむくれて、別れるときも、四人の位牌だけは持たされて出た。(結城昌治『終着駅』中公文庫1987←中央公論社1984;156)

 これに類する表現は、ふつう「〔接頭辞(または接頭辞的なもの)+V(いわゆる連用形)=N〕+ニ+V」という形をとるので、「ぶんむくにむくれる」といった形になることが予想される。したがって、「ぶんむくにむくれる」は、結城昌治の「個人言語(Idiolect)」というべきものなのかもしれない。
 ちなみに「ぶんむくれ」の「ぶん」は、「ぶち明ける」「ぶち当てる」「ぶっ殺す」(<「ぶち殺す」)「ぶっつぶす」(<「ぶちつぶす」)などの「ぶつ」に由来する「ぶち」が、鼻音要素(m, nなど)の前で「ぶん」となったものだろう。「ぶん殴る」「ぶん投げる」「ぶん回す」などの「ぶん」も同断である*2
 丸谷才一は、その「ぶつ」について、

「ぶつ」は近松の使ひ方*3から見ても東国語だつたと推定されます。秩父の執権、本田の二郎の台詞にあるのですから。これが西国侍なら「それ打て叩け」となるところでした。さすがに近松の藝は細かい。
 それにかういふこともある。江戸初期、江戸で旗本奴とそれに対立する町奴とが奴詞(やっこことば)なるものを使つた。六方詞(ろっぽうことば)とも言ひますね。当然これは関東語を基本としてゐるわけですが、柳亭種彦の六方詞をあつかつた文章のなかに、「『事だ』を『こんだ』、『うちかくる』を『ぶつかける』」とある。西国の「打つ」が東国の「ぶつ」。近世に入ると後者が優勢になりました。これは素人の想像ですが、おそらく古代以来ずつと東国では使はれてゐて、しかし文献には出なかつたのぢやないか。(「どこから来た『ぶん殴る』の『ぶん』」『日本語相談 五』朝日新聞社1992;120)

と書いている。
 それでは以下、その他の「〔接頭辞(または接頭辞的なもの)+V(いわゆる連用形=N)〕+ニ+V」の形をとるものの例を挙げてみよう。

ハッキリとしたことはいえないが、ウロ覚えに覚えている、記憶の底をさぐってみると、(横溝正史八つ墓村』角川文庫1996改版;310)

開廷とともに、法廷は大荒れに荒れた。(大泉康雄『あさま山荘銃撃戦の深層(上)』講談社文庫2012←小学館2003;169)

伊藤武雄大怒りに怒ったんだ。」(阪谷芳直ほか編『われらの生涯のなかの中国―六十年の回顧』みすず書房1983;18)

で――身内の衆の耳に入らぬ内と/大急ぎに急いで/明日あたり/御江戸へ御差立に/成るちう事でしたョ!(伊藤大輔『忠次旅日記』日活大将軍撮影所1927の字幕)

変り果てた恩人の姿を見て、また大泣きに泣いた。(獅子文六『大番(上)』角川文庫1960;481)

対してシンボルとは何事か、戦力放棄とは何事か、閣議大モメにモメた。(堤堯『昭和の三傑―憲法九条は「救国」のトリックだった』集英社文庫2013←2004;103)

「それに乗じた家老二人が権力の座にのし上がろうと競り合って大揺れに揺れておる」(田中徳三眠狂四郎 女地獄』大映1968)

いまのうちに、小あたりにあたっておけば、後になってから何か、役にたつような知識が得られるかも知れない(高木彬光『人形はなぜ殺される』光文社文庫2006;132)

小肥りに肥った肩の稍(やや)怒ったのは、妙齢(としごろ)には御難だけれども、(泉鏡花婦系図新潮文庫2000改版;25)

かれは赭(あか)ら顔の小ぶとりに肥った男で、(岡本綺堂三河万歳」『半七捕物帳(一) お文の魂』春陽文庫1999所収;235)

色白の小ぶとりにふとった顔は、観音様のように柔和であった。(『八つ墓村』;136)

胸でお辞儀をして、笑顔で小揺(ゆす)りにゆすりながら、(里見弴「縁談窶」『恋ごころ』講談社文芸文庫2009所収;130)

その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひた隠しに隠して、(太宰治人間失格新潮文庫1985改版;14-15)

本人は、むろん、ひたかくしに隠しているが、(松本清張『真贋の森』角川文庫;45)*4

昨日ひいておいた糸をたよりに、私たちはひた走りに走った。(『八つ墓村』;440)

 次の例は、後項が「前項のV+接辞」の形をとって受身になっているもの。

三割引とか、半額とかいうなら、まだしもだが、大ボリに、ボラれたのである。(『大番(上)』;471)

その間には戦争という大きな出来事が起り、その大波に「文学座」は大揺れにゆすぶられ、幾人かの人が来り、また去ってゆきました。(杉村春子『楽屋ゆかた』学風書院1954;36)

 次の例は、前項のVに附くものが明らかに名詞(N)であるもの。これらはみな、「NノヨウニV」と表現することができる。

大川は前にも書いたように一面に泥濁りに濁っている。(芥川龍之介「本所両国」『芥川竜之介随筆集』岩波文庫2014所収;98)

子供が生れ、妻が育児に夢中になると、おばあちゃんも孫を猫可愛がりに可愛がった。(福永武彦『愛の試み』新潮文庫1975;21)

木田も佐保子もしばらくは棒立ちに立って、この光景に気をのまれてしまった。(松本清張「青春の彷徨」『共犯者』新潮文庫1980改版所収;122)

 それらのうち、後項が接辞を伴って受身になっているもの。

美しく山盛りに盛られてきびしい匂いを漂わせていながら、(トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山(上)』新潮文庫1969;52)

 上記からは外れる例をいくつか。

お網は肩をすぼめたまま、子供のように暫くすすり泣きに泣いていた。(吉川英治鳴門秘帖(二)』吉川英治歴史時代文庫1989;34)

「ウム、それもよかろう。いずれ今宵のうちに、吉左右が知れるであろうから、心待ちに帰郷を待っておるぞ」(同上p.60)

よしんば貴方が、つきッきりにそばにくッついたって、見る目かぐ鼻の取締りまではつかないんだから、(「縁談窶」;103)

しかもこう降りどおしに降られてみると、芯まで水浸しになったようで、(山本周五郎「その木戸を通って」四、沢木耕太郎編『山本周五郎名品館1 おたふく』文春文庫2018所収;232)

私は男泣きに泣いた。(『八つ墓村』;374)

美也子はこの家風などおかまいなしに、座敷へ入ると少し横のほうへ横座りに座ると、(同上p.88)

さて、こうして理詰めに押しつめていったところで、これからただちに犯人がわかるわけのものではないが、(同上p.212)

 もう十年以上も前のことになるが、『徒然草』第八十七段の「ひた斬りに斬り落しつ」という表現を導入として、これに類する表現の分類をこころみた論文を読んだのを記憶している。それを改めて参照したいのだが、筆者も、タイトルも、すっかり忘れてしまった。記憶を頼りに検索してみたが、巧く引っかからない。

夜の終わる時 (中公文庫)

夜の終わる時 (中公文庫)

終着駅 (中公文庫)

終着駅 (中公文庫)

*1:「ぽんつく」は見たり聞いたりしたことがあるけれど、「ぽんつく頭」というのはこの本で多分初めて見た。

*2:もっとも、「ぶちまける」など、鼻音要素の前であっても「ぶん―」とならないものもある。

*3:『出世景清』(貞享二年=一六八五年)に見える「それぶて叩けと下知すれば」という台詞。

*4:松本清張『梅雨と西洋風呂』(文春文庫)に「おれにわかるとどんなイチャモンをつけられるかもしれんというので、計画をひた隠しにしとるのだ」(p.47)と、中間的な形態「ひた隠しにする」が出て来る。これがさらに「ひた隠す」となるわけである。

ワイルダー『深夜の告白』とケイン『殺人保険』

 先日、ビリー・ワイルダー『深夜の告白』(1944米,″Double Indemnity″)がBSPで放送されていたので、綺麗な映像で観直してみた。「フィルム・ノワール」の先駆的作品、「保険金殺人もの」の嚆矢、などと云われたりする作品だが、まずは配役がいい。
 後年のワイルダーアパートの鍵貸します』(1960)での抑えた演技が忘れがたいフレッド・マクマレイは、当時はB級映画にばかり出演していたらしいが、この作品で主役のウォルター・ネフに扮し、スターダムにのし上がった。ディートリクソン(トム・パワーズ)の後妻で悪女役のいわゆる″ファム・ファタール″フィリスを演ずるのはバーバラ・スタンウィックで、金髪のウィッグを着けて難しい役どころに挑んでいる。フィリスの継子役のローラはジーン・ヘザーズで、彼女もなかなかチャーミング。そしてネフの相棒バートン・キーズ役がエドワード・G・ロビンソン、彼の熱演ぶりがとりわけ印象に残る。矢継ぎ早に喋りまくる一方で、冷静な判断力も有するいわば「素人探偵」を、これ以上はないといっていいほど巧く演じている。その主役をも凌駕しそうな演技は、ワイルダー『情婦』(1957)で弁護士を演じたチャールズ・ロートンを髣髴させる。
 本作はワイルダーレイモンド・チャンドラーとの共同脚本で、チャンドラーのカメオ出演もある*1。しかしチャンドラーはかつて、本作の原作者であるジェームズ・M・ケインを「文学の屑肉(くずにく)」とまで扱き下ろしていたのだそうだ*2
 ケインの原作も、映画と同じく″Double Indemnity″(1943年に『スリーカード』の中の一篇として刊行)というタイトルで、これを直訳するならば「倍額保険」「倍額補償」などとなるのだろうが、その原作が蕗沢忠枝訳で新潮文庫に入ったとき、『殺人保険』という邦題で出ている(1962年刊)。その登場人物名も、映画とはちょっとずつ異なっており、例えば主役のネフは「ウオルター・ハフ」、ディートリクソンは「ハーバート・S・ナードリンガー」、といった具合だ。
 ストーリー展開にも違いがあって、原作ではハフがフィリスのみならず継子ローラにも恋をすることになっていて*3、これが後に活きてくることとなるし、ハフがナードリンガー殺害に手を染めた後(倒叙ものなので述べても問題なかろう)の苦悩を克明に描写しているのはむしろ原作の方で(映画版のネフはむしろ冷静)、その後にも大きな展開が待ち構えているし*4、キース(キーズ)はナードリンガーの「自殺」を初めから殺人によるものと疑っている*5。また原作では、キースが「君が好きだったんだぞ、ハフ」と言い、ハフが「僕もそうだった」と応じる場面(p.181)があるけれども、ここはやや唐突に感じられる。映画では序盤にネフがキーズに″I love you,too.″と伝える場面があって、これがクライマックスの伏線となっており、無理はないように感じられる。そして、これまでネフにばかりタバコの火を点けさせていたキーズが「初めて」ネフのタバコに火を点けてやるのだが、原作にないこの演出も秀逸だ。
 もっとも、映画とは大きく異なる原作のラストもたいへん魅力的で、そのラストについては、沢木耕太郎氏がエセーの中で紹介している。曰く、

 主人公のウオルターは、フィリスという名の金髪の、悪魔的な魅力を持つ美人と知り合うことで犯罪への道に足を踏み入れてしまう。彼女の夫に傷害保険をかけ、列車からの転落死を装った殺人によって保険金を詐取しようとするのだ。すべてがうまくいきかけるが、殺した男の実子でフィリスにとっては継子にあたる娘に、ウオルターが強く魅かれはじめることによって、事態は錯綜しはじめる。互いに裏切り裏切られ、すべてが露見し、破滅したウオルターとフィリスは、南へ行く船に乗り合わせる。このラスト・シーンは、外国の小説で描かれた「道行」の中でも、最も美しいもののひとつであると思われる。(沢木耕太郎「ポケットはからっぽ」『バーボン・ストリート』新潮文庫1989:86)

 この後に沢木氏は蕗沢訳の一節を引き、それから、「人はいつ青年でなくなるのか。それは恐らく、年齢でもなく結婚でもなく、彼が生命保険に加入した時なのではあるまいか」(p.89)云々と書いている。
 ところでケインといえば、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(″The Postman always Rings Twice″ ; 1934)が最も有名で、これが遅咲きの(当時42歳)長篇デビュー作となった。『郵便配達』も複数回映画化されており、わたしは1946年のテイ・ガーネット版(ジョン・ガーフィールドラナ・ターナー)と、1981年のボブ・ラフェルソン版(ジャック・ニコルソンジェシカ・ラング)との2本を観たことがある。特に後者は、原作とはかなり異なっていて、ヒロインのコーラ(ジェシカ・ラング)に「悪女」といった雰囲気は殆どなく、しかも中盤以降は「恋の駆け引き」の様相を呈し始め、犯罪映画というよりは上質の恋愛映画のような仕上がりを見せている。
 なお『郵便配達』の方は最近も新訳が出ていて、2014年には7月に池田真紀子訳(光文社古典新訳文庫)が、9月には田口俊樹訳(新潮文庫)が刊行されている(田口氏はケイン『カクテル・ウェイトレス』も翻訳し、『郵便配達』と同時刊行している)。
 ちなみに池田訳の「訳者あとがき」によると、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』というタイトルについて、ケイン本人が次のように記しているのだそうだ。

(ケインは)『殺人保険』のまえがきで、友人の脚本家ヴィンセント・ローレンスとの会話がヒントになったと書いている。ローレンス宅に来る郵便配達員はいつも二度ベルを鳴らすので、玄関を開ける前から出版可否の通知が届いたのかもしれないとわかるという話を聞き、自分の新しい小説にぴったりだと閃いたのだという。なぜかと言えば、『郵便配達』の重要な出来事はすべて二度ずつ起きているからだ。(pp.241-42)

 但しこの「まえがき」は、上に見た蕗沢訳の新潮文庫では訳出されていない。

深夜の告白 [DVD]

深夜の告白 [DVD]

  • 発売日: 2011/02/15
  • メディア: DVD
バーボン・ストリート (新潮文庫)

バーボン・ストリート (新潮文庫)

*1:開始約14分にネフがキーズの事務所を出るシーンがあって、その出入口脇でタバコ片手に雑誌を読み耽っているのがチャンドラーである。

*2:田口俊樹訳『カクテル・ウェイトレス』(新潮文庫2014)の訳者あとがきなどによる。ちなみに、同書に附されたチャールズ・アルダイ「解説」によると、「彼(チャンドラー)は彼一流の雄弁さと辛辣さで次のように書いているーー″ケインは私が嫌悪する作家のあらゆる特性を備えている……彼は油じみたオーヴァーオールを着たプルーストであり、板塀のまえでチョークを持つ薄汚い小僧だ。そんなやつなど誰も見向きもしない″」(pp.504-05)。これに続けてアルダイ氏は次のように書いている。「明らかにチャンドラーはまちがっている。彼はもちろんケインを誹謗して言ったのだろうが、ケインにはチャンドラーの非難それ自体がそのまま勲章になっている。そして、ケインは誰からも″見向き″されていた」。

*3:映画版でも、ネフはローラに好意を寄せるが、それは恋愛感情とはおよそ異なるものである。

*4:さきに述べたように、ハフがローラも好きになることが、この後の展開に関わってくる。

*5:映画版でキーズは初め「事故死」だと考える。また原作のキースは「わたし自身の六感と、直感と、経験きり」(新潮文庫版p.107)を信ずるが、映画のキーズは、ーーこれは「六感」と似たようなものなのかもしれないがーー自分の胸のなかの″my littleman″に常に問いかける、という設定である。そしてキースは「大男で、でぶで、気難かしやで、おまけに理窟屋」(同p.99)と描写されるが、キーズ=エドワード・G・ロビンソンは、「気難かしやで、おまかに理窟屋」ではあるけれどもやや小男で、「でぶ」というよりは小太りである。