フレドリック・ブラウン「星ねずみ」

 ひところ、古書肆や新古書店に入るたびに、目を皿のようにして連城三紀彦フレドリック・ブラウンの本ばかり探していたということがあった。
 最近は一時期に較べると、いずれもかなり見つけにくくなってきたのを感じていたが、このところ、両者の復刊や新訳が相次いでいるのは嬉しいかぎりだ。
 まず連城作品は、未刊だった長篇『悲体』『虹のような黒』が幻戯書房から出たり、「連城三紀彦傑作集1、2」*1を皮切りに『運命の八分休符』『敗北への凱旋』といった入手のやや困難だった作品が創元推理文庫に入ったりした。
 またブラウン作品の方は、「フレドリック・ブラウンSF短編全集」全4巻が東京創元社から出たり(約1年半かけてこのほど完結した)、高山真由美訳『シカゴ・ブルース』や越前敏弥訳『真っ白な噓』がやはり創元推理文庫の「名作ミステリ新訳プロジェクト」シリーズ枠*2で刊行されたりしている。後者の小森収「解説」によれば、越前氏は『復讐の女神』の新訳も準備しているのだそうだ*3
 連城作品についてはまた機会があれば述べるとして、今回は、ブラウン作品のうちで私が最も多くの訳書で読んだ「星ねずみ」(Star Mouse)を紹介することとしたい。
 「星ねずみ」は初め、ロバート・ブロック*4編/星新一訳の『フレドリック・ブラウン傑作集』(サンリオSF文庫1982)で読んだ。その「訳者あとがき」に、星が、

「星ねずみ」では、博士のひとりごとが、すべてドイツ語なまりなのである。アメリカ映画にもドイツ語なまり、フランス語なまりのキャプションが、時たまある。日本で「SFマガジン」にのった時は、井上一夫氏がそれを九州的方言で訳し、えらく好評だった。ひとつの試みである。ここでは未熟さを強調して訳したが。(p.484)

と書いていたのが気になっていたところ、しばらく後、某古書肆の店頭二百均にフレドリック・ブラウン早川書房編集部編『わが手の宇宙』(ハヤカワ・SF・シリーズ1964)を見出したのだった。これには、都筑道夫訳「1999年」、福島正実訳「狂った星座」等と並んで、井上訳「星ねずみ」が収められているのだ。
 さてその「九州的方言」がどういうものかというと、

「ほほう! こいは! ミッキー・マウスじやあなかとな! ミッキーや、どうかい、来週、ひととびしてみんかね? おもしろかぞ」(p.91)

「ミッキー、おんしは、名前ばもらつたちねずみば、見たことあつとな? なになに? ないと? 見んさい、こいがウォルト・ディズニーミッキー・マウスばい。だが、おいは、おんしのほうがかわいいと思うちよつと」(p.92)

「ミッキーやこげんこつは、精度と幾何学的正確さが肝心ばい。すべて条件はそろつちよる――おいたちはただそいを組み合せるだけで――なあミッキー、どげんこつになると思う?
 引力圏からの脱出ばい、ミッキー。ただただ、引力圏から出るこつだけばい。たぶん、未知の条件もあるかもしれん。大気圏の上層、対流圏、成層圏とな、おいたちは、抵抗を計算でくるよう、そこん空気の量を正確に知つちよるつもりばい。けんど、完全に自信があつとな? ミッキー、そげんうまくはいかんばい。まだ、行つちみたこともないとこじやけんな。だが、機械もこまいけん、空気の流れも大した力はあたえんじやろう」(p.93)

等々、まさに、「九州的」方言というほかはない。これをはじめに読んだとき、『社長漫遊記(正続)』だったかでフランキー堺が演じた強烈なキャラクターを思い起したりして、ひどく可笑しかったものだった。
 ちなみに引用の三箇所目にあたる部分を、星がどう訳したのかというと、

「わたしは実現させたいのだ。小規模ではあるが、すべて入念に計算をばなされ、バランス的な条件はととのっておる。で、どうなるかじゃ、ミッキー。引力圏からの脱出である。すごいことなりだぞ。大気の上層部分の空気密度、空気抵抗。万全の計算したつもりではあるが、保証つきと断言はでけん。しかしながら、小型なるがゆえに、うまくいくじゃろう」(p.234)

となっている。それにしても、この主人公の博士というかオーベルビュルガー教授がもともと「ひとりごと」を好む性格で、鼠にさえもどんどん話し掛ける、といった設定のお蔭で、地の文で延々と状況説明をせずに済むわけで、結果的には、作品がテンポよく進むことになっている。あるいは、地球人の登場人物が極端に少ない作品なので、わざわざそのようにしたのかもしれない。
 さて上掲の箇所を、今度は中村保男訳『宇宙をぼくの手の上に』(創元推理文庫1969*5)所収「星ねずみ」で見てみよう。わたしが三番目に読んだ訳である。

「これは、一分の狂いもない絶対の精密さと、数学上の正確さが必要なものなのじゃよ、ミッキー。条件はなにもかも揃っとる。あとはそれらを組み合わせさえすればいいのじゃ。そうしたら、なにを実現させることができると思うかね、ミッキー。
 引力圏内から脱出するのに必要な速度じゃよ、ミッキー! それで脱出速度が倍加するのさ。たぶんな。大気圏の上層、対流圏、成層圏には、まだ未知の要素があるやもしれん。どの程度の空気抵抗があるかは正確にわかっとるつもりじゃが、完全に自信があるとは言えんのじゃ。そうなんじゃよ、ミッキー、自信はないのじゃ。実際にそこまで昇ったことはないのじゃからな。しかも、安全余剰(マージン)はきわめてわずかなので、気流というような些細な要素に影響されかねないのじゃ」(p.269)

 原文は見たことがないが、こうして並べてみると、――他の箇所からもそう感じたのだが――星訳はかなりの意訳であろうことが推察される。
 最近の安原和見訳『フレドリックSF短編全集』(東京創元社2019~2021)の第1巻(2019年刊)の表題作が「星ねずみ」で、わたしが四番目に読んだのがこちらである。当該箇所の訳文はというと――。

「これはな、たんに徹底的な精密しゃと数学的正確しゃの問題なんじゃよ、ミツキー。なんもかもとうにあるもんばっかりなんじゃ。しょれをただ組み合わしぇりゃ――しょれでどうなると思うね。
 脱出速度じゃよ、ミツキー。ほんのちょびっとじゃが、脱出速度を上まわるんじゃ。たぶんな。まだわかっちょらん要因があるんでな、ミツキー、大気圏のうえ、対流圏、成層圏まで行くとな。抵抗を計算しゅべき大気の量は正確にわかっちょるつもりじゃが、果たしてしょれは正確かっちゅうこっちゃ。いんや、ミツキー、正確じゃありえんのじゃ。なんしぇ行ったことがないんじゃからな。しかも許容幅がえれえ狭いんでな、ちょびっと気流があるだけで影響が出かねんのじゃよ」(p.62)

 安原訳が、他の訳者がみな「ミッキー」としているところを「ミツキー」と訳しているのは、実は意図的にそうしているのであって、牧眞司氏の「収録作品解題」に、

 この主人公はミッキー・マウスならぬ、ミツキー(Mitkey)である。ディズニーのミッキー(Mickey)は一九二八年に誕生し、ブラウンが「星ねずみ」を発表したころ(1942年―引用者)にはすでにすっかり人気者になっていた。読めばおわかりのとおり、この作品は読者がミッキーを知っていることを前提として書かれており、ぬかりなくディズニーへのリスペクトも盛りこまれている。(p.333)

とある。
☆☆☆
 今回はブラウンのSF作品を特に取り上げたが、ミステリ作家としてのブラウンについては、『短編ミステリの二百年3』(創元推理文庫2020)巻末の小森収氏の解説「第五章 四〇年代アメリカ作家の実力」の第2、3節(pp.631-48)がたいへん参考になる。

*1:特に「2」の方に収められた『落日の門』はこれが初めての文庫化となった。

*2:当初このシリーズは冊数を限っていたが、好評を博したのか、最近は無制限に出しているようだ。

*3:旧訳は、『シカゴ・ブルース』が青田勝訳、「短編集1」の『真っ白な噓』が中村保男訳、「短編集2」の『復讐の女神』が小西宏訳。ちなみに旧訳『真っ白な噓』は、原書にはあった “The Dangerous people” について、『世界短編傑作集5』(リニューアル版は『世界推理短編傑作集5』)が既に収めていたため(大久保康雄訳「危険な連中」)あえて省いたのだそうだが、越前氏による新訳版は「危ないやつら」とタイトルを改めて収めている。このほか、星新一訳として「ぶっそうなやつら」(『さあ、気ちがいになりなさい』所収)もある。

*4:『サイコ』の原作者として知られる。

*5:手許のは1982年3月5日19版。

『爾雅』の話

 國分功一郎『中動態の世界―意志と責任の考古学』(医学書院2017)には色々と触発されるところがあって、

 かつて中動態は、中動態と能動態とを対立させるパースペクティヴのなかにあった。中動態は能動態との対立のなかで自らの位置を確定していた。ところが、そのパースペクティヴは受動態の台頭とともに変化していく。もともとは中動態から派生したものに過ぎなかった受動態が中動態に取って代わった。
 いまわれわれは、そのような、能動態と受動態とを対立させるパースペクティヴのなかにいる。ならば、そのようなパースペクティヴのなかに中動態をうまく位置づけられないのは当然である。中動態はこの歴史的変化のなかで、かつて自らが有していた場所を失ったのだ。(pp.79-80)

という記述などにも蒙を啓かれたものだった。これを援用すれば、例えば『干祿字書』が定義する漢字字体の「俗・通・正」というタームも、「俗:通:正」の三項対立ではなく「俗:正」と「通:正」との二つの二項対立に切り離しておくのが本来で、それだとむしろ字体の処理がスムースに行くのでは、などと考えたりしていたのだが、こういった対概念に限らず、等価の関係であっても、二項で考える場合と三項で考える場合とではその意味するところが異なってくる場合もあるのだろうな、と感じられる例に逢著した。
 先日、小川環樹・西田太一郎・赤塚忠(きよし)編『新字源』(角川書店)で「肆」字を引いていたところ、十六番目の語釈に「いま。(類)今。」とあるのに偶々目がとまって、へえこの字にはこんな意味も有るのかと、そうおもったことがあった。
 その後、なぐさみに『爾雅(じが)郭注』*1をぱらぱら捲っていたとき、巻一「釋詁(しゃくこ) 下」本文に「治肆古故也」「肆故今也」とあるのにたまさか気づき(それまでに何度も披いていたというのに、今さら、である)、後者(前者については、いまは無視するが後述する)に対応する晋代の郭璞の注文(郭注)を見ると、「肆既爲故、又爲今。今亦爲故、故亦爲今」となっていたのだった。つまり「『肆』は『故』(の義)であり、そのうえさらに『今』(の義)でもある」、という訣である。続けて郭は、「此義相反而兼通者、事例在下而皆詩」という。この後半部がよく判らなかったのだが(これについては後述)、「義相反而兼通」と言っているから、郭はこの「故」「今」を「ふるい」「いま」と解し、「肆」がその相反する両義を兼ね備えていると主張していることが判る。
 『新字源』の語釈はこの記述を基にしたのだろう、と考え、そのときはそのまま深くは調べずに了った。
 ここで一寸『爾雅』について説明しておく。『爾雅』は漢代に成立したとされる字義分類体の字書である。有名な許慎の『説文解字(せつもんかいじ)』に先んじて編まれたと考えられる。全体が十九篇に分れており、カテゴリ別に「釋詁」「釋親」「釋楽」「釋木」などの篇名が与えられている。例えば「釋親」は親族名称、「釋楽」は音楽に関することばを類聚している。『爾雅』がどういう風にことばを集めていったかということについては、頼惟勤(らいつとむ)が直截簡明に説いているので以下に引いておく。

 いろいろ経書を読んでみると、そこには訓詁が付いている。『詩』*2でいえば毛公(もうこう)が訓を付けている。『書』*3でいえば孔安国(こうあんこく)が訓を付けている。それをいわばカードにとって整理していくのと全く同じ方式を、『爾雅』は採っている。『爾雅』には、特に『詩』と『書』の語彙が多い。
 たとえば、『詩』を訓詁をたよりにして読んでいくと、「俶(しゅく)、始也」という例が出てくる。これは、「毛伝」である。ただし、『爾雅』の立場からすれば、これが『詩』のどこにあるのかは問題ではない。とにかく、「俶、始也」という訓詁があることがだいじなのである。また、『詩』の毛伝に「哉(さい)、始也」という例がある。この「哉」は〈カナ〉と訓読する助詞ではなくて、始という意味である。それから、「哉」が「始」である用法は『書』にも出てくる。毛公がいおうと、孔安国がいおうと、それは『爾雅』としてはかまわない。ともかくも「始也」の訓詁があることが大切なのだ。そこで、この「始也」の場合も含めて、いろいろな種類の訓詁をカードに拾う。そして、整理するときに、たくさんの「始也」が集まったとする。この場合の整理の仕方の一つに、「初、始也」「哉、始也」「首、始也」などをこのままずっと並べるやり方がある。ところが、『爾雅』ではこれを簡単にして、「初、哉、首、基、肇、祖、元、胎、俶、落、権輿(けんよ)、始也」という並べ方をしている。『爾雅』の撰者は、これだけの「始也」を拾い出した。このように一挙に連続させて書いてあるが、これは「初、始也」「哉、始也」「首、始也」「基、始也」「肇、始也」「祖、始也」「元、始也」「胎、始也」「俶、始也」「落、始也」「権輿(これだけが二音節)、始也」と同じことである。要するに、『詩』や『書』を読んでいくと、「始也」という訓の付いている字がいろいろ出てくる。それを総合すると、このようになる。だが、仮に「権輿」の字の意味がわからないときに、『爾雅』を使うとすると、これは不便である。暗唱でもしてしまわないと使えないことになる。(頼惟勤著/水谷誠編『中国古典を読むために―中国語学史講義』大修館書店1996:22-23)

 さて諸橋轍次編『大漢和辞典』(大修館書店)で「肆」を引いてみると、十四番目の語釈に「故にいま。又、いま。」とある。ここでは例の『爾雅』の「肆故今也」を「肆、故今也」と解した上で、上掲の郭注を引き、さらに「疏」(=注釈に対する注釈。この場合は郭注に対する宋代の邢ヘイ〔日+丙〕による注釈)の「以肆之一字爲故今、因上起下之語。」を引いていた。要はこれが、『爾雅』本文の記述を「肆=故今也」と解釈する根拠になっているらしい。
 この「疏」を、今度は『爾雅注疏』*4で確認してみよう。その巻二の「疏」に「毛傳云肆故今也即以肆之一字爲故今……」とあるから、邢ヘイは毛伝の記述をもとに、『爾雅』の記述を「肆、故今也」と解していることが知られる。清代の劉淇『助字辨略』(章錫琛校注)*5巻四の「肆」字の項を見ても、邢疏を引用しつつ、やはり「肆、故今也」と記している。劉はしかし、同じ巻四で「自」字を解するにあたって、『爾雅』の郭注ならびに邢疏を引用しているから、「肆」の項では、どうやら意図的に郭注を無視して邢疏のみ引用しているらしいことが判る。つまり、「肆既爲故、又爲今」という解釈は適当でない、と切り捨てているとおぼしい。
 同じく郭注を批判しているにも拘らず、これらとは異なる見方をするのが、宋代の王觀國である。王は『學林』巻二で、次のように述べている――中華書局刊の「學術筆記叢刊」版(1988年刊,2006年重印)から引く――。

觀國按:爾雅釋詁一篇,皆用一字爲訓,曰治,曰肆,曰古,此三字皆訓故也;曰肆,曰故,此二字皆訓今也。若從郭璞注,則是以故、今二字而訓肆也。此篇未有以二字爲訓者。(p.49)

 そして、『爾雅』の例えば「尼定曷遏止也」という記述は、「尼、定、曷、遏四字,訓止也」と解釈すべき旨を述べたうえで、

爾雅釋詁、釋言二篇,皆用一字爲訓。郭璞誤析其句,反以故、今二字而訓肆,字義雖亦通,而非爾雅句法也。(同前)

と説く。『爾雅』の「句法」から考えると郭注の解釈は成り立ちえない、といっている。ここでは、上で見たような郭注の「肆=故也∧今也」という解釈を批判しているわけだ。そしてこれは同時に、邢疏や後代の劉淇の解釈、すなわち「肆=故今也」とも異なる見解を打ち出していることにもなる。
 しかし、先にみたとおり「肆=故今也」は毛伝の解釈なのであり、頼が説くように、『爾雅』は毛伝等の訓詁を蒐めて作られていたのだった。
 だとすれば、王説はきわめて分が悪くなる。王は毛伝を恐らく見ていないし、毛伝を引く邢ヘイの疏も見ていないだろう*6
 とは云え『爾雅』釋詁篇の「句法」としては、解釈される語に二音節語がくることはあっても(頼の引用にあった「権輿」のように)、語釈の部分に二音節語がくることはなさそうである*7。ゆえに王のような解釈が出て来るのは無理もないことと考える。
 以上を要するに、『爾雅』の「肆故今也」について、郭注は「肆=故也∧今也」(A=B也∧A=C也)と解し、王は「肆、故=今也」(A、B=C也)と解していることになる。両者はたしかに大きな違いである。前者は必ずしもB=Cとは云えないのであるから。
 ここで、先ほどは無視した『爾雅』本文の「治肆古故也」(「肆故今也」の直前に出て来るもの)の解釈について考えてみよう。こちらは素直に、「治、肆、古=故也」と解釈できるだろう。しかし冒頭になぜ「治」が現れるのかよく判らない。郭注も「治未詳」といっている。ただ「治」と「肆」とは同韻字(去声寘韻字)であるから、「肆」を抜き出してくる際に、音注か何かをうっかり一緒に引用してしまった蓋然性がある。あるいは、単なる誤記、何らかの通假例といった可能性も残るが、今はとりあえず「治」は無視するとして、「肆、古=故也」と考えておく。この場合、「肆」「古」「故」は「ゆえに」の意味を表していると考えられる。「古=故也」だけだと、その意味を特定しがたいが(むしろ「ふるい」という義が直ちに想起される)、この両者の関係に、「肆」が割って入ってくることによって、この場合は、「古」も「故」も「ゆえに」であるだろうことが予想されるからだ。「古」が「故」の通假字として機能したことは、かつてしばしばあったらしい。白川静『字通』(平凡社)も、「金文の〔大盂鼎(だいうてい)〕に「古(ゆえ)に天、翼臨して子(いつくし)む」とあり、古を故の意に用いる」と説く。
 さて次に、問題の「肆故今也」である。こちらは王の説では、「A、B=C也」という形になるのだった。そうするとこれは、「A=C」「B=C」と分けて考えることができる。当然ながら、「A=B」ともいえるわけだが、「A、D=B也」(Dは「古」)というのが先に出て来た。こちらは「D」との関係において「A=B」を考えなければならず、「ゆえに」の意味だろうと解釈して置いた。一方「A=C」「B=C」は、「C」との関係において「A=B」を考える必要があり、しかも前出の「ゆえに」の義ではあり得ない(それならば前項にまとめてしまう筈だからだ)。このうち「B=C」すなわち「故=今」は、郭注の解釈はいまは措くとして、「これ」という代名詞としての用法が共通しているとも解釈できる。しかしそうなると、「肆」が浮いてしまう。「肆」に代名詞的な用法があるとは寡聞にして知らない。
 ここでもう一度、郭注の解釈に戻ってみる。郭は、「肆=故也∧今也」(A=B也∧A=C也)と解釈していたのだった。そのうえで、「此義相反而兼通者、事例在下而皆詩」と述べていたのであった。この後半の「事例在下而皆詩」が、初めに『爾雅注』を見た段階ではよく判らないと先に記したけれども、実はこのことについては邢疏が補足していた。「在下者謂在下文徂在存也注」と。すなわち『爾雅』の「徂在存也」に対する郭注を見よというわけだ。
 そこで、「徂在存也」を捜してみると、これは釋詁篇の後のほうに出て来る。たしかに、ここで郭注は「以徂爲存猶以亂爲治(略)以故爲今此皆訓詁義有反覆」と言っていて、「徂(死ぬ)」が相反する「存」の義を、「亂(みだれる)」が相反する「治」の義を(後者は「亂」と別字を混用したものかともいわれる)もつことを例にあげ、「故」「今」の例にも言及している。ただ、郭注のこれらの説明はやや不十分で、「故」「今」両字の関係については述べているとしても、肝心の「肆」が相反する両義を兼ね備えていることの例を挙げての説明になっているとは言いがたい。
 すっかり遠回りしたが、『爾雅』の「肆故今也」は毛伝をもとにしており、釋詁としては異例であるけれども、「肆、故今也」と解釈すべきで、邢疏がいうように「以肆之一字爲故今、因上起下之語」としておくのが、やはり無難なところなのかもしれない。
 『爾雅』に採録された語は、以上にみてきたように、引用元やそのコンテクストからは全く切り離されているので、ある字がどのような義を表しているかについては、他の字との関係から類推してゆくほかはない。
 こうして、「肆故今也」のどこをどう区切り、どこを等号で結びつけるかをあれこれ考えているときに、その解釈が巧く行ったり行かなかったりして、『中動態の世界』の前掲の一文を思い起していた――という訣なのだった。

中国古典を読むために―中国語学史講義

中国古典を読むために―中国語学史講義

  • 作者:頼 惟勤
  • 発売日: 1996/03/01
  • メディア: 単行本
琴棊書画 (東洋文庫)

琴棊書画 (東洋文庫)

  • 作者:青木正児
  • 発売日: 1990/08/05
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)

*1:手許のは台湾・新興書局刊(1971)で、「國学基本叢書」という影印本シリーズの一冊。

*2:いわゆる『詩経』のこと。

*3:いわゆる『書経』のこと。

*4:手許のは、台湾・世界書局刊(2012年五版)の「經學叢書」の一冊、『爾雅注疏及補正附經學史五種』所収の影印本。

*5:手許にあるのは中華書局版の第2版(2004年刊)。なお、書名の「助字」が「助辞」を指すのでないことは夙に青木正児が指摘していて、「彼(劉淇)のいわゆる『助字』は虚死字であって、本書は虚死字を採集して弁ずるを主旨としたのであった」(青木正児「虚字考」『琴棊書画』平凡社東洋文庫1990所収p.168,初出は1956.4「中国文学報」)と述べている。

*6:邢ヘイは王よりも200年近く前に生れているはずなので、参照できる環境にはあったとおもうが、王は『爾雅注』しか見ていないと考えられる。

*7:もっとも、『爾雅』釋訓篇などには、「朔北方也」「蠢不遜也」といった例も有る。

「器量」の話―『徳政令』餘話

 笠松宏至『徳政令―中世の法と慣習―』(岩波新書1983)の話をもう少し続ける。
 同書が、中世語「甲乙人」についても説いていることはさきに触れた。笠松氏はこの語の原義が、身分的な意味を有しない、ニュートラルな「第三者の総称」(p.122)であったことを述べ、これがなぜ「凡下(ぼんげ)百姓等」を意味するようになったかという問いを立て、その答えを追究している。
 まず笠原氏は考察の前提として、

 この頃(鎌倉末期―引用者)からまた、ある所領所職を、正当に知行しうる資格をもつ人間を「器量の人」とよび、その逆に資格のない人間を「非器」とよぶ法律用語が用いられはじめる(p.123)

といった条件を挙げたうえで、次のようにいう。

 ごくごく一般的にいって、中世の人間がある所領所職を、正当に(暴力や経済力だけではなく、社会的に認知された妥当性をもって)知行できる根拠は二つあると思われる。
 その一つは、前述の「器量」である。どんなに有勢の御家人であっても、それだけで庄園の本家職や領家職を知行するわけにはいかないし、逆に堂上の貴族が地頭職を手中にすることもできない。(略)
 第二は「相伝(そうでん)の由緒(ゆいしょ)」である。ある御家人領を、御家人Aが知行するのが正当か、御家人Bが知行するのが正当かは、その器量に差がないのだから、A、Bがその所領所職にもっている「相伝の由緒」の有無、もしくは強弱によって決定される。ここでいう相伝とは、血縁的な相続関係、いわゆる重代相伝に限られたものではない。一年前に他の御家人Cから買得した「買得相伝」であっても、もちろんかまわない。(pp.123-24)

 一方、中世的な秩序における「凡下百姓」は、「彼らなりの器量や相伝の世界があったかもしれない」とは云い條、「貴族や武士たちの人物の世界では、器量はもちろん、相伝とも無縁な人びとだった」(以上p.124)。しかし、やがて徳政の時代に至ると、経済力をつけた「凡下百姓」たちが相伝を獲得するようになった。それでも、厳然たる身分社会にあっては、どうしても「器量」までをも買うことはできない。これは逆説的に、「相伝の世界にふみ込み、事実の上でかかわりをもったこの時代、彼らは甲乙人に成り上ったのである」(p.125)と言い換えることが出来る。
 もっとも、笠松宏至『法と言葉の中世史』(平凡社ライブラリー1993)所収の「甲乙人」(pp.28-45)によると、

 このように「甲乙人」は「不特定者」から「百姓凡下」へと、その意味内容を変化させるが、ある時期を境にして、などということは勿論あり得ない。前者の「甲乙人」がはるか後代にも見出され、また庶民的ニュアンスの濃い用例が、古くから用いられていることも確かである。だから正確にいえば、語義の変化というよりも、両義の混在というべきかもしれない。(p.36)

といい、また、鎌倉的法秩序のもとでは、「『幕府の恩賞』という、これ以上ない『器量』と『相伝由緒』を獲得する時代が始」まり、「庄園や村落の内部でも、恐らく同じような事態が進行」することとなった(p.43)。そうして、「非器」の人という意味での「甲乙人」は姿を消してゆくことになる――、と解釈している。
 笠松氏はこれを、「臆測」だとか「想像」だとかいった謙辞で表現しているが、思考の過程が非常に明晰でかつ説得的である。私のようなまさに「凡下」の者は、「時代が下がって語の使用頻度が高まるにつれ、ニュートラルな語義をもつことばが卑語化したのでは」などとつい考えてしまい勝ちだが、なぜ「使用頻度が高ま」ったのかがまず問われなければならないわけである。
 さて、上記でキイ・ワードのように登場したのが、「器量」ということばであった。
 この「器量」で思い出したのが、『保元物語』のことである。正確には、藤田省三経由で知った『保元物語』、と云うべきか。
 竹内光浩・本堂明・武藤武美編『語る藤田省三―現代の古典をよむということ』(岩波現代文庫2017)所収「言語表現としての故事新編―転形期と表現について」の注に、次のようにある。

 藤田は「保元物語を読む」(一九七五年に平凡社セミナーとして全一〇回の講義をおこなった)で、従来、内容本位に「軍記物語」としてとらえられていた「保元物語」を、叙事詩的作品としてその形式と内容両方からその時代の言語を読み解き、転形期における言語表現の転換を講義した。その一端を藤田は「史劇の誕生」(『精神史的考察』平凡社、のちにみすず書房、一九九七年)として発表したが、藤田の保元物語論のごく一部にすぎない。他に保元物語の「器量」という言葉に焦点をあてたものとして藤田・鶴見俊輔多田道太郎の座談「現代の器量人とは何か」(『潮』一九七五年四月号、所収)、藤田・小田実の対談「器量こそが問われている」(『朝日ジャーナル』一九七四年一二月二〇日号、所収)がある。(p.285)

 上記の座談、対談ともに未見であるし、未完の「史劇の誕生」は平凡社ライブラリー版『精神史的考察』(2003年刊)で読んだが、そちらには「器量」への言及はなかった。それでも、『保元物語』に「器量」が現れるという上記の話が気になって、日下力訳注『保元物語』(角川ソフィア文庫2015)で読み直してみたことがある。
 手許のメモでは、それはたとえば、

器量をも選び、外戚(ぐわいせき)の安否(あんぷ)をも尋ねらるるに、これは当腹(たうぶく)の寵愛(ちようあい)といふばかりにて近衛院に位を押し取られ、…(上巻五、p.28)

文才(ぶんさい)、世に優れ、諸道に浅深(せんじん)を探る。朝家(てうか)の重宝(ちようほう)、摂籙(せつろく)の器量なり。(上巻六、p.28)

といった形で出て来る。ちなみに後者は左大臣藤原頼長に対する評言である。
 このような「器量」=「才能」ある人が現れる一方で、「凡下」(上巻四、p.23)や「凡夫境界(ぼんぶきやうがい)の者」(中巻四、p.97)といった表現も出ては来るが、これらは文脈上、阿羅漢や神仏に対する「普通の人間」=「凡下」「凡夫」なのであって、上で言及した「凡下百姓」の「凡下」とはニュアンスが異なる。これらの表現も、中世的な法秩序のなかでは、宗教的なニュアンスをまとわない身分的な意味を表すことばへと変容していったということが、あるいは想定されたりするのだろうか。
 ところで、藤田省三はこの「器量」という言葉に惹かれていたらしく、対象の時代はずっと下がるが、「我らが同時代人・徂徠―荻生徂徠『政談』を読む」(『語る藤田省三』所収)のなかでも「器量」について述べている。
 藤田は、徂徠が当時の朱子学者などとは違って、いつの時代にも「器量人」がいたと解釈していた(ただその「器量人」が上に立つかそうでないかという状況が異なるだけだ、という)ことに言及し、次のようにいう。

 では、器量人の「器」とは何か。徂徠はこういう時の比喩が巧みですから、「器」とは道具だから、特定のものに役に立つものだ、特徴のあるものだ。人間皆、得手不得手があるんだと、その得手不得手がない奴はぼんくらでどうにもならん奴だ、「器」とは、槍は尖っているから槍なんだ、槍がもし尖ってなかったら役に立たんわけだ。金槌が尖っていたら金槌にならん。だから槍というのは尖ってて金槌にならない、そういうもの。金槌は先が尖ってないから金槌として役に立つのであって、こういうものなんだと。人はある事柄で役に立つことを「器」と言う。したがって器量人とは役に立つ人間になるのであって、大体癖があるものだ、と。「器」とはそもそも癖のことを言ってるのだから、その証拠に人を見て一癖ありげと言う場合は褒め言葉ではないかと徂徠は言うわけですね。癖なき者には役立たずが多い、癖ある者には優れたる人多し、というふうに言うわけです。(略)器量を発見するのは、その癖をも含めて使ってみることであると。(p.191)

 「器量人」は「癖ある者」だ、というのは徂徠独特の解釈であるとしても、当時の一般的な意味において、「器量人」はリーダーたるべき「才能ある者」「才智ある者」を表していたらしい。藤田が述べたような徂徠の「器量人」講釈は、『政談』の巻三に出て来るが、たとえば巻一にも、「頭にすべき器量」「器量次第其内より頭を可申付」などといった形で「器量」が顔を出す。「器量」はこの時代にはもはや、生れ付いた地位やそれに伴う資格を表すものではなくなってしまっていた、ということなのであろうか。
 ちなみに『政談』は、その最良のテクストとしては平石直昭校注『政談 服部本』(平凡社東洋文庫2011)を挙げることが出来るだろう。特に岩波文庫版(辻達也校注、1987年刊)との校合が綿密で、同書が底本とした写本の誤脱を数多く訂している。また岩波文庫版が著者名を意図的に「荻生徂」とするに就ては、

それには十分な根拠があるが、辻氏も認めるように若い徂徠が「徂徠山人」と自署した史料がある(『墨美』二八四号、二三頁所掲の影印。この史料については岩橋遵成『徂徠研究』四三四頁に言及がある)。養子の荻生道済(金谷)や高弟服部南郭らの編集による徂徠の漢詩文集の題も『徂徠集』である。これらを考えると「徂徠」でもよいと思われる。(pp.415-16)

と述べる。
 「事項索引」が附いているのもありがたいことで、「器量」もちゃんと立項されていたのだった。

徳政令――中世の法と慣習 (岩波新書)

徳政令――中世の法と慣習 (岩波新書)

法と言葉の中世史 (平凡社ライブラリー)

法と言葉の中世史 (平凡社ライブラリー)

政談 (東洋文庫0811)

政談 (東洋文庫0811)

笠松宏至『徳政令』

 早島大祐『徳政令―なぜ借金は返さなければならないのか』(講談社現代新書2018)の第一章に、次のようにある。

 ここで、日本の歴史学において、債務破棄を意味する徳政令がどのように理解されてきたかをまず紹介しておこう。
 最初にとりあげるのは、笠松宏至氏の研究である。
 笠松氏は、著書『徳政令』のなかで、戦前からの研究史をたどりつつ、この徳政令と呼ばれた奇妙な法令が、研究史上、どのように把握されてきたかを述べていた。
 具体的には近代法制史研究の父である中田薫以降の古典的研究において、鎌倉時代後半以降に頻発した徳政が、「しばしばわが経済界を擾乱し、かつ当時における法制の健全なる発達を阻碍」するものと否定的にとらえられてきたことを指摘した上で、なぜ債務破棄が徳政と呼ばれたのかと問いを立て直し、元の持ち主に返す=あるべきところに返すことが、古代~中世の政治において徳政とされた可能性を主張した。
 近代的観点からなされた、債務破棄としての徳政を愚かしいものと断じる態度を一転させ、中世固有の思想にあり方に迫った作業は、歴史認識を文字通り百八十度転換させた画期的なもので、現時点でも色あせない業績と言えるだろう。本書を笠松氏の著書と同じ書名にしたのも、一つには笠松氏へ敬意を表明するためでもある。(pp.27-28)

 また、呉座勇一『日本中世への招待』(朝日新書2020)の「〈付録〉さらに中世を知りたい人のためのブックガイド」にも笠松氏の『徳政令』が挙げられていて、紹介文の末尾で呉座氏は、

 とはいえ、(笠松氏の著書で―引用者)1冊に絞れと言われたら、やはり『徳政令』(岩波新書)だろう。長らく絶版状態だったが、読者からの熱い要望に応え、最近復刊された。借金帳消しをいう現代の常識を超える法令がなぜ生まれたか。この素朴な疑問から出発して、中世法の本質に迫る、日本中世史研究を代表する名著だ。(p.272)

と書いている。これらの記述に触発されたこともあり、「最近復刊された」というので*1、昨年の初めに大型書店をいくつか廻ってみたのだが、『徳政令』は店頭には見当らず、既に版元品切となってしまっていた。そして気がつけば、マーケットプレイスでは結構な値がつけられていた*2。地道に古書肆を廻ればもっと安いのがそのうち見つかるだろう、と気長に構えていたところが、昨年末に散歩がてら這入った近所の小さな「街の本屋さん」ですんなり入手できたのだから(しかもたったの100円で)、本屋巡りというのは面白い。
 その本屋は新刊販売が中心なのだが、店内の約十分の一のスペースを占める形で古書用の棚も設置されており、岩波新書の青版や黄版、カバーのない時代の岩波文庫や角川文庫などが1冊100円で出ている。そこに笠松宏至『徳政令―中世の法と慣習―』初刷(1983年刊)を見出したのだった*3
 スリップがついたままだったので、おそらく新刊で売れ残って返本できずに倉庫かどこかで眠っていたものを店頭へ出してきたのだろう。
 とまれ、その『徳政令』を、この年始に味読していたのである。
 冒頭から、ひとつの偽文書の記述をもとに『吾妻鏡』の成立時期を「永仁五年以後」と断じたり(pp.13-14)、下久世の百姓らの陳状が原法令の「質券買得の地」を「質券売買の地」と書き替えた理由について解き明かしたりと(pp.22-24)、スリリングな考察が展開されるので、おぼえず引き込まれる。そして早々に、

 永仁徳政令で、Aという名の御家人が売った所領が、A御家人のもとへもどった。現代の所有の観念からすれば、何より大事なのはAという固有名詞である。しかし、このAをとり払ってみるとどうなるか。御家人の売ったものが御家人の手にもどった、ということになるだろう。もっと単純にいえば、それは「もとへもどる」という現象にすぎないのである。そして、もしこの、あるべきところへもどす(復古)政治こそが、徳政の本質であるとすれば、徳政と永仁五年の徳政令との間の違和感は、ほとんど消滅してしまうだろう。(p.54)

と結論らしきことを提示する。それから以下、「もとへもどる」ことが、中世社会において社会通念上決して不自然ではなかった、という事実が論証されてゆく。その過程で、笠松氏が重視するのが、いわゆる「中世語」の解釈である。
 同書では、たとえば「悔返す」(p.64)、「神物」「仏物」「法物」「僧物」「人物」(pp.65-76)、「本主」(pp.102-03)、「甲乙人」(pp.121-25)、「土風」(pp.131-32)、「時宜」(pp.134-35)といったことばが当時どのような思想のもとで使われていたか、という点に着目している。前掲の呉座著も、「笠松氏の研究の特徴としては、中世語への注目が挙げられる。現代では使われなくなった、あるいは現代とは意味が異なる中世の特異な語を蒐集し、その分析を通じて、中世社会独特の法慣習・価値観を浮き彫りにするのである」(p.270)と評する通りだ。
 笠松氏のその姿勢がよく表れているのが、以前「『首塚の上のアドバルーン』と『太平記』と」という記事で少しだけ触れたことのある、『法と言葉の中世史』(平凡社ライブラリー1993)だ(この本は呉座氏も紹介している)。ここに収められた「甲乙人」(pp.28-45)、「仏物・僧物・人物」(pp.86-119)を併せて読むと、『徳政令』に対する理解がさらに深まるし、『法と言葉の中世史』各論の問題意識も明確なものとなる。
 ちなみに、この「徳政」という現象が、鎌倉・室町期に限らず戦国期にもひろく見受けられることを教えてくれるのが、阿部浩一「戦国大名の徳政」(高橋典幸五味文彦編『中世史講義―院政期から戦国時代まで』ちくま新書2019、その第14講)である。阿部氏は、「為政者の法としての徳政令」が「中世社会の終焉とともに歴史の表舞台からは姿を消してい」った理由として、次のような説を提示している。

 一つは、徳政令が出されても公権力につながる蔵本たちには手厚い保護が与えられていたように、借銭・借米の破棄や土地取戻しを主内容としていた中世の徳政令そのものがきわめて限定的なところでしか有効性を発揮しえなくなっていたことがある。徳政免除や買地安堵にみられるように、債権債務関係や土地売買の安定化を求める社会的要請は確実に存在する。それ故に、戦国大名の徳政は「撫民」「善政」を幅広く含む内容のものとして民衆に訴えかける必要があった。(略)
 二つ目は、そうした「撫民」「善政」が本当に実現されるためには、災害や戦乱、代替りに発布される徳政令という限定的な法令ではなく、領国支配さらには社会全体の恒常的なシステムの中で構築されなければならなかった。(pp.244-45)

徳政令――中世の法と慣習 (岩波新書)

徳政令――中世の法と慣習 (岩波新書)

日本中世への招待 (朝日新書)

日本中世への招待 (朝日新書)

法と言葉の中世史 (平凡社ライブラリー)

法と言葉の中世史 (平凡社ライブラリー)

中世史講義 (ちくま新書)

中世史講義 (ちくま新書)

  • 発売日: 2019/01/08
  • メディア: 新書

*1:正確には「重版」だろう。どうも2016年のことらしい。

*2:その頃には、軽く1,500円を超えていた。

*3:ついでながら、このとき同時に入手したのが、同じ岩波新書黄版の鹿野政直『近代日本の民間学』であった。この本は、山本貴光吉川浩満『人文的、あまりに人文的』(本の雑誌社2021)で山本氏が「在野研究者や独立研究者というあり方に興味が」ある人にとって参考になる一冊として挙げていたので(p.116)、まさにタイムリーだった。

ふたたび『競輪上人行状記』

 過日、約8年ぶりで西村昭五郎『競輪上人行状記』(1963日活)を観た。前回は「日本映画専門チャンネル」の「ハイビジョンで甦る日の当らない名作」枠でかかっていたのを録画して鑑賞したのだが、はからずも主演を務めた小沢昭一を追悼するという形になってしまった。今回は、ちょうど西村昭五郎監督の誕生日に、そうとは知らずに観たのだった。のむみちさんの「名画座手帳2021」の1月18日條にメモをしておこうと思って披いたところ、西村の誕生日であることが示されていて驚いた*1、という次第なのだ。しかし、この間に西村は亡くなってしまったし(2017年歿)、主要登場人物を演じた加藤武も亡くなった(2015年歿)。
 8年前は鑑賞後に、

 おそるべき大傑作。原作は寺内大吉による。脚本は、大西信行今村昌平。いかにも今村らしいカラーに満ちた作品だ。とにかく、小沢昭一の鬼気迫る演技に注目。単に落魄の身となるのではなく、したたかさを持って「競輪上人」となり果ててゆくくだり。そして圧巻はラストの広長舌。
 春道(小沢)をその道に引きずりこんでゆく葬儀屋の色川=加藤武、競馬ぐるいの渡辺美佐子……。あくの強い役者が揃い、人間の慾、エゴ、ふてぶてしさ、汚らしさなどが有り体に描かれる。

などと書いたのだが、基本的にこの感想にかわりはない。「おそるべき大傑作」という言辞も、大袈裟ではなく、その通りだと考える。前回も思ったことだったが、ラストで小沢が広長舌をふるうモブ・シーンは、おそらくエキストラを殆ど使っていない。偶々そこに居合せたと思しい二、三人の男性が、カメラの存在に気づいた様子で笑みを見せているからだ。
 また前回、オープニング・クレジットとラストとで流れる黛敏郎の音楽について、「どことなく、ベルリオーズ幻想交響曲』の第5楽章「ワルプルギスの夜の夢」をおもわせる」と書いたが、改めて聴きなおしてみると、テーマが完全に「ワルプルギスの夜の夢」(「魔女の夜宴の夢」とも)と一致しているので、むしろこれを編曲したもの、といえそうだ。
 それから、小沢がつまずいて地面に倒れる場面で、眼の前にちょうど犬の死骸があってヒエッとなる展開は、これまた大傑作の川島雄三幕末太陽傳』(1957日活)で(こちらはこれまでに少くとも5度は観た)、貸本屋金造(アバ金)=小沢が水の中から出て来ると猫の死骸を抱いているのに気づいてウワッとなるという、例のシーンのオマージュでもあるだろう。ちなみにこの猫の死骸は「本物」であったということを、麻生芳伸編『落語特選(下)』(ちくま文庫2000)の解説で小沢本人が明かしている。

 私の役は「品川心中」の貸本屋の金蔵(ママ)。ウスバカですが人がよくて、品川遊廓ではかつて売れっ妓だったけど、今は落ち目で金に困っているお染に、一緒に心中しようともちかけられ、二人で裏の品川の海へ出ます。桟橋の先で、ちょっとためらっている金蔵は、お染にドンと突かれてドブン。お染も続いて飛び込もうとしますが、その時、「番町の旦那が金をこさえてきた。もう死ぬこたァないよ」と妓楼の若い衆の声に、「金ちゃん、わるいねえ」とお染はクルリ引き返していくのです。海へ落ちた金蔵、しかし品川の海は遠浅で足が立ちました。映画では金蔵が猫の死骸を抱いて海から出てくるところでフェイドアウトです。
 撮影所で小道具さんがずっと飼っていた猫の死骸を抱くとは、私、あまりいい気分はしませんでしたが、好きな落語の世界の人物を演じてまことに楽しく、忘れられない映画です。『幕末太陽伝』は、軽妙洒脱なユーモアと味わい深い諷刺、そして文明批評のこめられた川島監督ならではの一級の喜劇作品となりました。(小沢昭一「落語と私」『ちくま文庫解説傑作集』非売品2006:46-47)

 『競輪上人行状記』の犬の死骸の方は果してどうであったか。
 さて、この作品を観なおしていて、面白い、と思ったシーンがある。それは、頭を丸めた春道(小沢)と嫂役の南田洋子とが対峙する場面で、ここでは南田の口から重要な真実が明かされるのだが、まずはカメラが会話する二人をクロースアップ気味に捉え、右へ左へとせわしなくパンして発話者をフォローする。ところが小沢がその真実を知った後は、ミディアムショットになって、今度はカメラが切り返し(いわゆるショット・リバースショット)に転換する。二人の関係が親密なものから対立するものへと変わってゆく過程を巧みに表現しているように感じたのであった。
 小沢昭一といえば、先日、石原裕次郎が長期休養を経たあと*2の復帰第一作、中平康『あいつと私』(1961日活)も約14年ぶりに(石原プロの解散を意識したわけではないが)観た。この作品で石原と(同じ学生役として!)共演していた小沢と吉行和子とが、今度は生徒と教師役(小学校の先生で、小沢に英語を教える)として共演することになった春原政久『英語に弱い男 東は東西は西』(1962日活)*3と、それから春原政久『猫が変じて虎になる』(1962日活)とについては、もう一度観てみたい、と思っているのだけれど、なかなかその機会に恵まれずにいる。

競輪上人行状記 [DVD]

競輪上人行状記 [DVD]

  • 発売日: 2013/05/02
  • メディア: DVD

*1:ちなみにこの日は、三益愛子、田中重雄の命日でもあるようだ。

*2:スキー場での複雑骨折で、8箇月間休養していた。関川夏央『昭和が明るかった頃』(文藝春秋2002)によれば、「すでに二十六歳になっていた彼(石原)の最後の学生役の仕事だった」(p.116)という。

*3:小沢が吉行から英語を教わるシーンは、まさに捧腹絶倒だった。このタイトルから、つい、『あいつと私』主題歌(作詞は谷川俊太郎)の「あいつはあいつオレはオレ」を聯想してしまうのだ。

『ヴァルモンの功績』のルビの話など

 さる方から、ロバート・バー/田中鼎訳『ヴァルモンの功績』(創元推理文庫2020)を頂いた。バーの作品は、これまで宇野利泰訳の「放心家組合」だけしか読んだことがなかった。宇野訳「放心家組合」は、まず江戸川乱歩編『世界短篇傑作集(一)』(東京創元社1957)に収められ、これは3年後に『世界短編傑作集(一)』として文庫化された。さらに全面リニューアルされた江戸川乱歩編『世界推理短編傑作集』(創元推理文庫2018-19)では、第2巻に入っている。
 このほど出た『ヴァルモンの功績』にも、もちろん「放心家組合」(新訳)が入っており、そのほかに「ウジェーヌ・ヴァルモン」もの7作品と、ホームズもの(パロディ)掌篇2作品とを収めている。
 そのさる方が「遊んだ訳文」と仰しゃっていたように、まず訳者名の「田中鼎」だが、これはモーリス・ルヴェル『夜鳥』などを訳したことで知られる田中早苗(1884-1945)の名を意識したものであるようだ。そしてその本文については、訳者自身、

 本書の文体は非常に遊んで(挑戦して)いる。この試みを許してくださった版元には感謝しかないし、バーやムッシュ・ヴァルモンには謝罪しかない。もちろん無闇に遊んだわけではない。(略)原書は実際のところ古典教養が縦横に鏤められ、韻や語呂も多く、晦渋を極める翻訳者泣かせの作品である。このような原文を日本語にするには、相応の雰囲気が欲しい。そこで読みづらさを感じさせない程度に夏目漱石を意識し文体を練った(泉鏡花や柴田天馬訳『聊斎志異』等も参考にした)。衒学的原文が浅学的訳文によって損なわれていないことを祈る。(「訳者あとがき」pp.367-68)

と書いているとおり、文体(というよりむしろ語彙の面)での工夫が随処に見られる。ことに面白く感じたのは、自在なルビの振り方である(独特なルビ、というので思い出されるのが、円城塔氏の『文字渦』のことである)。
 その例をあげると、「射干玉(ぬばたま)の夜」(「〈ダイヤの頸飾り〉事件」p.34)、「無頓着*1(じこまんぞく)」(「爆弾の運命」p.50)「没義道(おんしらず)」(同p.91)、「杜康(よきさけ)」(「手掛かりは銀の匙」p.105)、「歓伯(さけ)」(同前)、「斗十千(うまいさけ)」(同p.112)、「荘重的儀式(こけおどし)」(「チゼルリッグ卿の遺産」p.126)、「藉口(いいわけ)」(同p.129)、「口実(いいまえ)」(同p.131)、「当推量(はったり)」(「ワイオミング・エドの釈放」p.258)、「鍋取公家(びんぼうきぞく)」(「レディ・アリシアのエメラルド」p.292)……、といった具合。
 それから、「杯また盈々(えいえい)」(「手掛かりは~」p.109):「盈々(なみなみ)と」(「ワイオミング~」p.258)、「恰度(ぴったり)」(「チゼルリッグ卿~」p.135):「恰度(ちょうど)」(「チゼルリッグ卿~」p.149)「恰度(ちょうど)」(「放心家~」p.113)、「執拗(しゅうね)く」(「チゼルリッグ卿~」p.131):「執拗(しつこ)い」(「内反足の幽霊」p.215)「執拗(しつこ)く」(「レディ・アリシア~」p.305)のような読み分けや、「暫時(しばし)「少時(しばらく)」のような使い分け(「〈ダイヤの頸飾り〉~」「手掛かりは~」「内反足~」「ワイオミング~」)も面白い。
 「因業爺(いんごうじじい)」などもほとんど見ない言葉で、わたしはこれまでに、太宰治「散華」から、

……でも、うっかりすると、としとってから妙な因業爺(いんごうじじい)になりかねない素質は少しあるらしいのである。(「散華」『太宰治全集6』ちくま文庫1989:252)

という一例しか拾ったことがないのにも拘わらず、『ヴァルモンの功績』には二度も出て来る(「チゼルリッグ卿~」p.130,「内反足~」p.219)
 ちなみに『日本国語大辞典(第二版)』は「いんごうじじい」を立項せずに、「いんごうおやじ【因業親爺】」(用例なし)と「いんごうじじ【因業爺】」とを立項している。後者「いんごうじじ」の用例は次のとおり。

*落語・性和善(1891)〈三代目春風亭柳枝〉「大屋の寛六奴(め)、義理も人情も知らねへ隠剛老爺(インガウヂヂ)よ」

 また、訳者の田中鼎氏が「柴田天馬訳『聊斎志異』等も参考にした」と書いていることもさきに引用したが、それが奈辺にあるのか、まだ見極められていない。「窮措大(びんぼうがくしゃ)」(「爆弾~」p.56)*2や「峩冠大帯(りっぱないしょう)」(「チゼルリッグ卿~」p.124)あたりのルビの振り方にあるのではないか、と思ったのだが、『聊斎志異』の訳文でそれに類するものとしては、今のところ、

「君が見くびっていた窮措大(ひんしょせい)だって出世ができないこともなかろう」(「西湖主」、蒲松齢/柴田天馬訳『完訳 聊斎志異 第一巻』角川文庫1969改版:27)

しか拾えておらず、あるいは、その独特のルビの振り方ではなくて、使用語彙を参考にした、というくらいの意味なのかも知れない。
 さらに面白いのは、「訳者あとがき」に「ヴァルモン国語辞典〔抜萃版〕」を載せていることで(pp.368-69)、訳者は「『日本国語大辞典 第二版』にすら立項されていない語」(pp.368)として、使用語彙のうちのほんの一例(9語)を紹介している(完全版の発表が俟たれる?ところだ)。そのうちの例えば、

じょう‐ちょう【杖朝】礼記王制篇「八十杖於朝」]年齢八十歳をいう。「――だろうとこの熱情に指の先まで痺れるのだ」

は、本文では「レディ・アリシア~」に「杖朝(やそじ)であろうと、この熱情に指の先まで痺(しび)れるのだ」(p.289)という形で出て来る。また例えば、

てい‐じ【底事】何事に同じ。彼(か)の文豪も作品中に用いている。ちなみに吾輩の活躍を逸(いち)早く本朝に伝えたのも件(くだん)の文豪と聞いておる。

は、「放心家~」に「『フランス式の詭策(トリック)とは底事(なにごと)ぞ? ムッシュ・スペンサー・ヘール』」(p.166)という形で出て来る(なお、「彼の文豪」「件の文豪」というのは、後に述べるが、夏目漱石を指す)。
 「底事」は、白話的な性格の強い表現といえそうで、『辞海』編纂作業にも従事した張相(1877-1945)の『詩詞曲語辭匯釋』巻一*3が助字「底」の條を五條示し、その第一條「底,猶何也;甚也。」(p.85)で杜荀鶴「蠶婦」詩の後半部を引きつつ、

「年年道我蠶辛苦,底事渾身身著苧蔴?」*4言何事也。(p.86)

と記しており、すでに晩唐において「底事」が「何事」と同義で用いられていたことがわかる。
 ところで、初めに触れた「放心家組合」の話に戻るけれども、これが日本でとりわけよく知られているのは、エラリー・クイーン*5江戸川乱歩が激賞したということのほかに、漱石の『吾輩は猫である』がどうもこれを種本にしたらしい、という事実が知られているからだ。
 『猫』の当該箇所、「ネタばれ」になるのもまずいので、その冒頭のみ引いておこう。

「成程難有い御説教だ。眼前の習慣に迷わされの御話しを僕も一つやろうか。この間ある雑誌をよんだら、こう云う詐欺師の小説があった。僕がまあここで書画骨董店を開くとする。で店頭に大家の服や、名人の道具類を並べて置く。無論贋物じゃない、正直正銘、うそいつわりのない上等品ばかり並べて置く。上等品だからみんな高価に極ってる。そこへ物数寄な御客さんが来て、この元信の幅はいくらだねと聞く。六百円なら六百円と僕が云うと、その客が欲しい事はほしいが、六百円では手元に持ち合せがないから、残念だがまあ見合せよう」(『吾輩は猫である』十一、新潮文庫2003改版:519-20)

 この引用部に見える「ある雑誌」というのが、「放心家組合」の初出誌をさすのではないか、そして漱石はその初出誌で「放心家組合」を読んだのではないか――と云われているのである。この後に披露される挿話が、「放心家組合」の内容とあまりにもよく符合するからだ。
 わたしが初めにそのことを知ったのは、瀬戸川猛資『夢想の研究―活字と映像の想像力』(創元ライブラリ1999)中の「灯台もと暗し」によってだった。
 瀬戸川は、『猫』中に「放心家組合」と「そっくりそのまま」の話が出て来ることを山田風太郎が「発見」したと述べたうえで、次のように書く。

 残念なことに、『放心家組合』が何という雑誌に掲載されたのか、わたしが調べた範囲ではわからなかった。バーが編集にたずさわっていた《アイドラー》という雑誌かもしれないが、断定はできない。この人は他にも沢山の雑誌に作品を発表していたからだ。漱石はその雑誌をどのようにして入手したのだろうか。当時はまだ神田の古書街も形を成していないころである。イギリスの雑誌が易々と入手できるとは思えない。丸善に注文して船便で取り寄せていたのだろうか。
 ここで、別の臆測が成り立つ。バーの短篇集は一九〇六年の刊行だが、『放心家組合』自体はその数年前に雑誌掲載されたものではないか、という臆測である。もしそれが一九〇二年十二月以前のことであれば、すんなりと平仄が合う。一九〇〇年十月から一九〇二年十二月まで、漱石はロンドンに留学中で、読書三昧に耽っていたからだ。『放心家組合』を、漱石はロンドンで読んだのである。あるいは、ロンドンで購ったその掲載紙を東京に持ち帰って読んだのである。――この推理が当たっているかどうかはわからないが、考え方としては無理のないものだと思う。(「灯台もと暗し」pp.203-04)

 『夢想の研究』の解説は丸谷才一が担当しているが(「真珠とりの思ひ出」)、この解説文中では上の文章については触れていない。しかしこれ以前(1993年3月7日収録)に丸谷は、須賀敦子三浦雅士氏との鼎談で、この「灯台もと暗し」の内容に言及している。

丸谷 これは瀬戸川猛資さんの『夢想の研究』ですが、これを読んでいましたら、『吾輩は猫である』の終わり近いところに出てくる放心家の話……。
三浦 ああ、夢みがちな、放心状態の放心ですね。
丸谷 ええ。作中人物が語るその話は、江戸川乱歩が後に推薦した奇妙な味の短編小説なんですって、どうしても推定してみると。そうすると、江戸川乱歩は『吾輩は猫である』を最後まで読んでないんじゃないかと(笑)、そういう瀬戸川さんの推定があるんですよ。瀬戸川さんはそれをとがめているわけじゃないけれど、さっき君の言ったバルトの話によれば、そこへ行くまでの間に読む必要がなくなることはあり得るわけね。
(「本とのすてきな出会い方」『須賀敦子全集 別巻』河出文庫2018:355-56)

 今では「放心家組合」の初出誌は明らかになっていて、リニューアルされた『世界推理短編傑作集2』に収められた解題「短編推理小説の流れ2」で、戸川安宣氏が、次のように書いている。

(「放心家組合」は―引用者)〈サタデイ・イヴニング・ポスト〉一九〇五年五月十三日号に掲載された後、〈ウィンザー・マガジン〉の一九〇六年五月号に再録された。そして同年、ロンドンのハースト・アンド・ブラケット社より刊行された連作短編集『ウジェーヌ・ヴァルモンの勝利』の五番目の物語として収録された。(略)
 ところで、明治の文豪、夏目漱石がこの「放心家組合」を読んでいたらしい、と林修三、山田風太郎といった人たちが指摘している。『吾輩は猫である』の十一章で、漱石は登場人物の口を借りて、ある雑誌で読んだ詐欺師の話を開陳しているのだが、それはまさしく「放心家組合」の肝の部分なのである。(略)
 ご存じのように漱石はイギリスに留学したことがあったが、一九〇五年にはすでに帰国している(漱石のイギリス滞在は一九〇〇年から〇二年まで)。したがってここで言及している雑誌というのは、ロンドン滞在中ではなく、帰国後に読んだものだろう。漱石研究家に依ると蔵書の中に「放心家組合」の載った雑誌はないようだが、漱石が読んだ小説が件の作品であったことは間違いあるまい。(pp.369-72)

 上に見える林修三は、風太郎よりも早く「放心家組合」と『猫』の挿話との類似に気づいたというが、『ヴァルモンの功績』の「解説」(日暮雅通氏)にはさらに驚くべきことが書かれている。

 漱石といえば、『吾輩は猫である』の一シーンが本書第五話「放心家組合」をネタにしているという話が有名だが、この件について、ホームズ/ドイル研究家の植田弘隆氏が非常に興味深い事実を教えてくれた。
 問題のシーンは、同書最終章(十一)の中ほどに出てくる。迷亭君が、ある雑誌の小説を読んだらこういう詐欺師の話があったと言って、「放心家組合」の「5」にあるエピソードと同じ話をするのだ。このことを最初に指摘したのは誰なのか? 時系列的に書くと、次のようになる。
 昭和四十五年十一月二十日付の《朝日新聞》夕刊……鈴木幸夫早稲田大学教授がコラムで、山田風太郎から「『猫』の詐欺師の話はロバート・バーの短編からとったという指摘をした者はいるか?」という問合せがあったことを紹介。
 昭和四十五年十一月三十日付の《東京新聞》夕刊……匿名コラム「大波小波」が、鈴木幸夫のコラムを取り上げ、山田風太郎の“発見”に賛辞を送る。
 昭和四十六年一月三日・十三日合併号の《時の法令》……林修三が、「放心家組合」のことは自分がすでに昭和四十一年四月号の《ファイナンス》(旧大蔵省の広報誌)と昭和四十四年四月二十四日付の《日本経済新聞》夕刊で指摘したと、クレームの投稿。この後、朝日の担当記者と鈴木・山田両名から詫び状および釈明の手紙が来たことで、林は矛を収める。
 ところが、植田氏がたまたま購入した《別冊宝石21号》(昭和二十七年七月)に載っていた推理作家・狩久の随筆に、「探偵嫌いの漱石が、後者[放心家組合]を読んでいたと推定される記述が《猫》の終章にある」という記述があったのだ([ ]内筆者)。いやはや、奥の深いことで……。はたしてこの件もすでに誰かがどこかで書いているかもしれないが、念のためここに紹介しておくことにした。(pp.355-56)

 ただ田中鼎氏は、同書の「訳者あとがき」で次のごとく述べている。

 『吾輩は猫である』第十一に登場する迷亭が読んだ「ある雑誌」の「小説」は、内容の一致をみること、号こそ異なるが「放心家組合」の掲載誌であるウィンザー・マガジンを漱石が所有していることから、「放心家組合」の可能性が非常に高い。ただし「放心家組合」が掲載されたウィンザー・マガジンが一九〇六年五月号、問題の箇所を含む『吾輩は猫である』掲載のホトヽギスが一九〇六年八月号。当時の流通事情を考えると、そんなにも早く漱石が「放心家組合」を読んで自らの小説に反映できたのか、疑問なしとしない。(p.372)

 戸川氏が書いていたように、漱石は一九〇五年五月の「サタデイ・イヴニング・ポスト」で「放心家組合」に触れた、という可能性はないのだろうか? いずれにしても謎は尽きない。
 そういえば瀬戸川の『夢想の研究』は、「霧の中の群衆」という文章も収めており、ロンドンの「猛烈な濃霧」なる気候条件が、イギリスで探偵小説が「異常なほどの発達をとげた」大きな理由のひとつなのだろう、といった大胆かつ刺戟的な推理をしているのだが、「放心家組合」にも濃霧の描写が何度も出て来る。「ロンドンは霧が厚く罩(こ)め、吾輩は道に迷った。(略)霧はあまりに濃く、歩道に貼り出された新聞の見出しも読めぬ」(田中鼎訳p.161)、「霧が文字通りフラットの中にまで浸潤し、電灯があっても読めたものではない」(同p.162)……。
 かのディケンズの名作『荒涼館』の冒頭にも、濃霧の執拗な描写があることを、ふと思い出したのだった。

ヴァルモンの功績 (創元推理文庫)

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世界推理短編傑作集2【新版】 (創元推理文庫)

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太宰治全集〈6〉 (ちくま文庫)

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  • 作者:太宰 治
  • 発売日: 1989/03/01
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*1:徹底させるなら、「着」は「著」という表記が良かったかも知れない。

*2:訳者による「第二のあとがき」には、「学者」ならぬ「窮措大(びんぼうやくしゃ)」が出て来る(p.374)。

*3:手許のものは、1955年第三版に拠った中華書局版(1977刊)、その二分冊のうちの「上册」。

*4:「蠶」はここでは「養蚕」を指すのだろう。

*5:ついでながら、クイーン編『黄金の十二(ゴールデン・ダズン)』には、「放心家組合」と並んでポーの「盗まれた手紙」も入っているのだけれど、「放心家組合」にはまさにその「盗まれた手紙」に言及した箇所がある。「有り体に言えば、住人不在の間に行う略式の家宅捜索だ。エドガー・アラン・ポオの名作「盗まれた手紙」にもその種の行為が記されている」(田中鼎訳p.158)。

斎藤精輔が語る怪談

 野呂邦暢の「剃刀」を読んで、それに触発されるかたちで再読したのが石川桂郎『剃刀日記』のうち数篇(「蝶」「梅雨明け」など)であったり、また志賀直哉の「剃刀」であったりしたのだが、志賀の「剃刀」は、『焚火―志賀直哉全集 第二巻』(改造文庫1932)所収のものを読み返したのだった。
 改造文庫版『焚火』は4年前、『文章読本X』(中央公論新社)の記述に影響され、標題の「焚火」を読むため古書肆で購ったものであるが*1、以前この「焚火」を読んだときはその面白さをあまりよく理解できなかった。しかし今回「剃刀」を読むついでに「焚火」も読み直してみたところ、どういう訣か、無性に面白く感じたのだった。
 この短篇は、芥川龍之介が『文芸的な、余りに文芸的な』で「あらゆる小説中、最も詩に近い小説」「散文詩などと呼ばれるものよりも遥かに小説に近いもの」「通俗的興味のないと云う点から見れば、最も純粋な小説」の代表的な国内作品として挙げており(芥川龍之介谷崎潤一郎千葉俊二編『文芸的な、余りに文芸的な|饒舌録ほか 芥川vs.谷崎論争』(講談社文芸文庫2017:28-38)、谷崎潤一郎との論争のきっかけをつくった作品のひとつでもある。今これを手軽に読める文庫としては、『小僧の神様 他十篇』(岩波文庫2002改版)もあるが、ざっと見較べてみると、「黒檜山(くろび)」(岩波):「黒檜山(くろびざん)」(改造)、「集った」(岩波)*2:「集まつた」(改造)等々、ルビや字句の若干異なるところがある。
 ところで「焚火」は物語の末尾、作中人物の会話の内容が不思議な話、怪談めいたものになって行く。その一部を引いておく。

「ぢやあ、此山には何んにも可恐(こは)いものは居ないのね」と臆病な妻はKさんに念を押した。すると、Kさんは、
「奥さん。私大入道を見た事がありますよ」と云つて笑い出した。
「知つてますよ」と妻も得意さうに云つた。「霧に自分の影が映るんでせう?」妻はそれを朝早く、鳥居峠に雲海を見に行つた時に經驗した。
「いゝえ、あれぢやあ、ないんです」
 子供の頃、前橋へ行つた夜の歸り、小暮から二里程來た大きい松林の中で左(さ)う云ふものを見た、と云ふ話だ。一町位先でぼんやり其邊が明かるくなると、その中に一丈以上の大きな黒いものが起つたと云ふ。然し、暫くして大きな荷を背負(しよ)つた人が路傍に休んで居たので、其人が歩きながら煙草を飮む爲めに荷の向うで時々マッチを擦つたのだと云ふ事が知れたと云ふ話である。
「不思議なんて、大概そんなものだね」とSさんが云つた。
「でも不思議は矢張(やつぱ)りあるやうに思ひますわ」と妻は云つた。「左う云ふ不思議はどうか知らないけど、夢のお告げとか左う云ふ事はあるやうに思ひますわ」
「それは又別ですね」とSさんも云つた。そして急に憶ひ出したやうに、「そら、Kさん、去年君が雪で困つた時の話なんか、左う云ふ不思議だね。未だ聽きませんか?」と自分の方を顧みた。
「いゝえ」
「あれは本統に變でしたね」とKさんも云つた。
 かう云ふ話だ。(改造文庫版pp.27-28)

 この後、「本統に變」な話が始まるのだが、未読の方の愉しみを奪うことにもなるので、そのくだりを引くのはやめておく。ちなみに上で「霧に自分の影が映る」と「妻」が言っているのは、「ブロッケン現象」のことと思われ、これについてはかつて述べたとおり、ウィンパー『アルプス登攀記』幸田露伴「幻談」も言及している。なお余談にわたるが、私が「ブロッケン現象」を初めて知ったのは小学生の時分、佐藤有文監修『怪奇全(オール)百科』(小学館コロタン文庫)のカラー口絵を見たことによる。
 さて「焚火」は、上で見たように突如として怪談じみた展開となるのだが、それでふと思い出したのが開高健『夏の闇』で、こちらも作中に次のような怪異譚が唐突に出てくる。

 旅館にもどろうとして二人で裏通りを歩いていった。夕方のひとときはざわめいていたのにもうまっ暗な下水溝となっていて、人の姿がどこにもない。あちらこちらに酒場や料理店の灯が虫歯の穴のような入口を照らしているが、壁には私たちの足音が低くこだまするだけである。闇しかない路地に入っていくと汚水に浸りこんでいくような気持がする。この市ができたときに山からはこびこまれてそれ以来一度も日光を浴びたことがないのではあるまいかと思いたくなるような石が積みあげられている。冬を吸収したままで凍てついている、濡れた、かたくななその壁のよこをすぎたとき、むせるような立小便の酸っぱい腐臭のさなかに、ふいにあたたかい花の香りとすれちがった。私は闇のなかでたちどまった。
「誰か歩いていったのかな」
「どうかしら」
「靴音を聞いたかい?」
「ずっと私たちきりだわ」
「ドアのしまる音も聞かないね?」
「そう思うけど」
「だけど香水の匂いがする。君のじゃない。いますれちがった。女とすれちがったみたいだ。フレッシュで、うごいていた。誰もいないのに不思議だな。どういうわけだろう」
「幽霊と浮気したいの」
 ひくく含み笑いしてからふいに女が腕をからみあわせ、うむをいわせぬ力でひきよせると、背のびしてくちびるをよせてきた。(『夏の闇』新潮文庫1983*3:56-57)

 数年前に、これと同工の「実録怪談」をネットか何かで読んだことがあって、開高のこの小説をもとにしているのではないか、と思ったことであった。
 なぜか突然怪奇な話が挿入される、といえば、『辞書生活五十年史』という書物もそうであった。辞典編集者の斎藤精輔(1868-1937)が最晩年に自伝として書き上げたこの本にも、いきなり怪談を語り始めるくだりがあって、斎藤はあるいは相当の怪談好きだったかも知れない、とおもったことがある。
 『辞書生活五十年史』は初め少部数の謄写版として世に出たもので、森銑三が「斎藤精輔の自伝」*4小出昌洋編『新編 明治人物夜話』岩波文庫2001所収:226-37)で次のように書いている。

 かような内容のある書物が、広く知られずにいるというのは惜しいといえばやはり惜しい。他日この種の珍本を集めて、明治文化全集風の刊行事業でも起されるならば、本書の如きは、第一に推薦してよいものだということを、まず一言して置きたい。
 『辞書生活五十年史』は、菊判袋綴の一冊で、本文は百六十頁に及んでいる。二、三時間にして読了せられるほどのものであるが、その内容は実に充実しており、それを簡約して紹介するなどということは、到底なし難い。(『新編 明治人物夜話』p.228)

 森は、当該の自伝中に中井錦城や赤堀又次郎らが登場することに言及したうえで(同pp.232-36)、「『辞書生活五十年史』は、昨一年(1962年―引用者)を通じて私の読んだ書物の内でも、最も異色に富んだものの一つであったというを憚らぬ」(p.236)とこの一文を結んでいる。わたしも『辞書生活五十年史』は確かに異色の本だとおもうのだが、「異色に富」むように感じられたのは、そう大部の書物でもないのに、怪談めいた挿話がところどころに差し挟まれているという点にもある。
 『辞書生活五十年史』は、森の歿後6年を経てから図書出版社の「ビブリオフィル叢書」というシリーズに加わった。現在、新本では手に入らないが、古書ではわりと容易に入手がかなう。わたしは13年前に(今はなき)上野古書のまちで購ったのだが、その後も古書市などで何度か見かけたことがある。
 鶴ヶ谷真一氏もビブリオフィル叢書版でこれを読んで、「辞典編集 斎藤精輔」(『古人の風貌』白水社2004:36-45)という一文をものしている。その文中で鶴ヶ谷氏は次の如く述べる。

 斎藤はいわば辞典をつくるために生れてきたような人物だった。緻密と熱意。不幸や不遇にもめげぬ闊達さ、そして相手に好感をいだかせるような晴朗な人柄。若いころ三省堂辞典編集所にあって、所長の斎藤に親しく接した長田恒雄氏によると、「先生は女性的ともいえるやさしい、端正な風貌だったが、一日も酒をきらしたことがなく、そのくせ、用心に新薬ばかり買いあさって『いつも酒ののめる体にしておかなくちゃね』といっていたほど酒好きだった。酔っぱらって二階からころがりおちたときも『酒飲みは決してけがはしません』とけろりとしていた。温厚な学者であるばかりでなく、一種の豪傑でもあったのだろう」。酔って転落するのが偉いわけではないが、緻密にして豪放磊落な一面をかねそなえていたことは、多くの執筆者をたばねなければならない百科事典の編集者には必要な資質だったのかもしれない。(『古人の風貌』p.40)

 ちなみに、詩人としても知られる長田恒雄の回想部分は、「朝日新聞」1962.9.25付夕刊の「私の先生」という記事に拠るらしい。
 では、その『辞書生活五十年史』で語られる怪談を以下に紹介しておこう。まず斎藤が数えで十歳の頃、父の赴任先の三重県へ母と船で向かう場面である。

それより神戸に至る途中、播磨灘上月明の夜の事なりき、船頭たちと種々様々の話をなせる中、船頭の一人「岩」なる者、色々の怪談を語り出で、この辺には「海坊主」という者出没し、船を覆えし旅客を食い殺す事ありとて、余等を嚇したりしが、船の進行中「岩」が上甲板にて櫓を漕ぐとき、いかなる油断ありしにや、播磨灘の只中に真逆様に墜落せり。他の船頭おおいに驚き、これ「海坊主」にさらわれたるものなるべしと大騒ぎをなししが、まもなく「岩」は同輩に救われて船に帰り来り、岩国出発以来一ヶ月目にしてようやく大阪に安着することを得たり。こと六十年以前の昔なれど、今なおこの海坊主の恐しさが余の心に残りて、ときどき身の毛のよだつ思あらしむることあり。(pp.5-6)

 「(旧制中学の時分に)教師欠席の休暇を利用し、付近城山の頂上なる護館神の森に遊びぬ。この森林は城山の最高峯にして、昔より天狗が住むと称し、人々これを恐れてこれに登ることなかりしが、余等はこれを事ともせず、意気揚々とここに登り、樹を斬りて木刀とし、もって盛に剣闘を試み、天狗よ出でよと呼び叫びしも、ついに何等の事なく下山するや」云々(pp.23-24)、といった豪胆ぶりを示したさしもの斎藤でも、海坊主については、「ときどき身の毛のよだつ思あらしむることあり」というほどなのであるから、幼時のこの体験は、相当恐ろしいものとして心に刻まれたのだろう。
 次は斎藤が岩国の中学に入学してから間もない頃、母が投身自殺を遂げてしまうのだが、その後日譚を述べたくだりである。

 余はこれより四十九日の間、毎夕普済寺山の母の墓に詣り、墓側の石灯籠に油を注ぎ、火を点じて帰るを例とせしが、始めは気付かざりしも、四、五日後帰山の途中、ふと山上を回顧すれば、今直前に火を点じて帰りし灯火の消えおることを知り、すぐに後へ引き返し、さらに火を点じて山を下り、再び振返り見れば、火のまた消えおるを見る。よって再三これを繰返ししが、いつも点火してまもなく消ゆることいかにも訝しく、家に帰りて集いおる人々にその旨告げしに、その座中より一人の老僕膝を進めて、それこそ思い当る事あり、やつがれ二、三日前墓掃除に赴きしが、その墓の後に大なる狐穴あるを見、枯木を押入れ火を点け、燻し攻めにして帰りし事あれば、多分その狐共の復讐なるべし、明日はやつがれも同伴してその様子を伺うべしとて、その翌夜老僕は余を伴いて墓地に至り、いつものごとく皿に油を注し、灯心に火を点じて帰途につき、山下よりこれを見上ぐるに、いつもと違い火は煌々として輝き何等の異状なし。老僕これを怪しみそのゆえいかがならんと余に尋ねしに、余は笑って、「昨夜会合中のある人の勧めにより、油揚を三丁携え行き、その狐穴に入れ置きたれば、狐はこれを徳として灯籠には仇をなさざるものならん」と答え、老僕も「あるいは然らん」とて共々笑いながら帰家し、余はその翌日よりまたまた単身にて油揚を携え点火を勤とせしが、その後は以前のごとく灯火の消ゆる事なかりき。(pp.21-22)

 山に天狗がいるだとか、これは狐狸の仕業だとかいった話柄が、当時はごく自然に人々の口の端にのぼっていたという事実はきわめて興味ふかい。
 三つめは、斎藤が百科事典を編纂するにあたり、三省堂の創業者亀井忠一と二人で「専門語以外の本文の付訳」に従事するための場所をさがしに、湘南、大磯を経て箱根まで向かったときの話。明治二十二年頃のことである。

さらに車を飛ばして小田原に出で、鴎盟館というに投宿せり。この旅館は海岸景勝の地に在りて、眺望すこぶるよろしく、余等両人の意に適し、この夜は余と亀井氏とは室を異にして岸打つ濤声を聴きつつ静に眠につけり。しかるに、夜半物音騒がしく、亀井氏余の室に入り来りていわく、余不思議にもベルの鳴る音盛に聞えたり。風のいたずらとも見えで、怪奇の至に絶えず、君これを聞かざりしやと、余はまったくこれに気付かざりし旨を答えしも、亀井氏は今夜独寝せんこと、いかにも心寂し、君の部屋に寝ねんとて、自ら褥を余の室に移したり。その後何事もなく朝まで熟睡せしが、翌朝女中の膳部を持来りし際、亀井氏は前夜の事を女中に告げ、御前達はこれを知らざりしやと問いしに、女中もさらに心付かざりし旨を答えぬ。この音はたして何の音なりしや、いまだに判明せざれど、亀井氏はさかんに変化説を唱え、後年までしばしば当時の事を語り出で、身振いしおりたり。(pp.68-69)

 むろん同書は、辞事典の誕生秘話がメインで語られていること云うまでもなく、『日本百科大辞典』編纂の苦心談や、足助直次郎による漢和辞典編纂の話(pp.93-94,p.101)など、この本でしか知り得ない(だろう)裏話も満載だ。しかし、上記のような意外な一側面もあるということで、あくまで怪異譚についてのみ、ここで紹介した次第である。

小僧の神様 他十篇 (岩波文庫)

小僧の神様 他十篇 (岩波文庫)

夏の闇 (新潮文庫)

夏の闇 (新潮文庫)

新編 明治人物夜話 (岩波文庫)

新編 明治人物夜話 (岩波文庫)

  • 作者:森 銑三
  • 発売日: 2001/08/17
  • メディア: 文庫
古人の風貌

古人の風貌

*1:「焚火」「剃刀」のほか、「子供三題」「夢」「山形」「和解」を収める。300円で買った。

*2:「集った」にはルビ無し。これは岩波文庫の編集方針からすると、「あつまった」ではなく、「つどった」と訓ませるのだろう。

*3:手許のは1989.2.15の九刷。

*4:小出昌洋氏「編後附言」によれば、もとは「ももんが」昭和三十八年三月号に掲載された「三篇」のうちの「一つの自伝」。のちに改題のうえ、『明治人物夜話』に収録された。