中村武志『埋草随筆』と内田百閒

 総勢87名の文章を収める佐藤聖編『百鬼園先生―内田百閒全集月報集成』(中央公論新社2021)には、たとえば河盛好蔵の文章であれば3本、阿川弘之江國滋安岡章太郎の文章も同じく3本、川村二郎や池内紀の文章は4本収録されているのだが、中村武志による文章は最多の6本が収録されている。その内訳は、講談社版百閒全集の月報に寄せたものがひとつ(「百鬼園先生の黒前掛」)、福武書店版百閒全集の月報や巻末に載ったものがみっつ(「阿房列車のこと」「郷里岡山に文学碑建つ」「全集完結後記」)、福武文庫の巻頭文・解説文がふたつ(「内田百閒の作品を新字、新仮名づかいにするについて」「百鬼園先生の錬金術」)、である。「内田百閒の作品を新字、新仮名づかいにするについて」は百閒生誕100年に当る1989年に書かれており、同題のものが内田百閒『冥途・旅順入城式』(岩波文庫1990)の巻末にも収録されている。内容はほぼ同じで、要は、百閒の生誕百年を機に「著作権者の遺族に乞うて、文庫にかぎり、新漢字、新仮名づかいにしていただ」いた、ということが述べられている(百閒は生前、新仮名新漢字を拒否し続けていた)。
 「百鬼園先生の黒前掛」に書いてあることは、かつてどこかで読んだような気がしていたのだが、中村は同じようなことを「百鬼園随筆との出会い」(『内田百閒と私』岩波同時代ライブラリー1993所収)でも書いている。あるいはこれで読んだのかも知れない。『内田百閒と私』は、『百鬼園先生と目白三平』(旺文社1986)を「改題し、加筆、改稿したものである」といい、黒澤明の遺作となった『まあだだよ』の公開に合わせる形で復刊されたものであるらしい*1。ちなみに同書巻末の「われ百閒を超えたり――あとがきにかえて」には、「一九九二年十二月十一日」の日付がみえるが、これは中村が亡くなったまさにその日である。日付は編集部で入れたのかもしれないが、いずれにしても、これが絶筆となったのだろう。
 中村武志といえば、新古書店目白三平シリーズの自選集のようなもの(講談社文庫)を買ったこともあるが、とりわけ印象に残っているのは、古書市で入手した『埋草随筆』(私家版1951年刊)である。雑賀進*2への献呈(?)署名入りの再版本(1952年1月30日刊)で、500円だった。徳川夢声源氏鶏太、古谷綱武、週刊朝日の書評(の一部)が転載された帯が巻かれていたことや、序文を百閒が書いていることなどに惹かれて購ったのである。「埋草」というのは、旧国鉄の社内報「国鉄」の埋め草的随筆を主として収めることに由来する*3
 さて『埋草随筆』には「図書目録」という文章が収められていて、そこに次のようにある。

 その日は丁度百閒先生の随筆集「無絃琴」が発売された日であり私は幾度も手に取つて本の背をなでたり、目次を覗き見したりして暫くはそこを立ち去ることが出来なかった。向うからやつて来た男が、今私が書棚へ戻したばかりの「無絃琴」を取り上げ、一寸開いて見るや否や乱暴に函へ入れ、投げつける様に書棚へ押し込んで出て行つた。私は店員の見てゐぬ隙を狙つて、その「無絃琴」の函の中からはみ出てゐるパラフイン紙を取りはがし、丁寧に皺を伸ばしてから本を包み、書棚へそつと返したところが、「御親切にありがたうございます」とささやく様な女の声が耳元でした。この(丸善の―引用者)女店員は、何処か店の隅で先刻から私の行動を仔細に監視してゐたらしい。私が「無絃琴」に執心して手に取つたり撫で廻していつまでも立ち去らぬ様子を見て、その女店員は私が万引をするのではないかと思つたのにちがひない、と思ひ当つたら私は思はず赤面した。(pp.21-22)

 この『無絃琴』、どういうわけか、「百鬼園随筆との出会い」では『百鬼園随筆』だったことになっている。当該箇所を引く。

 その日――昭和八年十一月初旬、いつものように丸善書店の新刊書の棚から、内田百閒の『百鬼園随筆』(昭和八年十月・三笠書房刊)を取って、何気なく拾い読みをしたところが、もはや本を棚に戻すことができなかった。百閒の文章をはじめて読んだのだが、その独特の論理、レトリック、わかりやすい文章でありながら非凡な表現、無駄のない的確な文体、筆をおさえご本人は絶対に笑わないユーモアと飄逸(ひょういつ)と滑稽と諧謔(かいぎゃく)とが、『百鬼園随筆』のいたるところから湧き出て来るようであった。
 『百鬼園随筆』を棚に戻したけれど、釘づけになったようにその場を立ち去ることができなかった。再び私は本を手に取り、背表紙をなでて見たり、目次を覗いたり同じことを繰り返した。
 そこへ向こうからやって来た男が、私が書棚へ戻したばかりの『百鬼園随筆』を手に取り、ちょっと開いて、ろくに見もしないで乱暴に箱へ押し入れて、書棚の隙間へ無理矢理突っこんで出て行った。
 私は、店員の目を盗んで、またもや『百鬼園随筆』を再び手に取り、箱と本の間からはみ出ているカバーのパラフィン紙を取りはがし、丁寧に皺(しわ)をのばしてから本を包み、書棚へそっと戻したところが、
 「ご親切にありがとうございます」
 ささやくような女の声が耳元でした。
 この女子店員はどこか店の隅のほうで、先刻から私の挙動を子細に監視していたらしい。『百鬼園随筆』に執心し、手に取って撫でまわして、いつまでも立ち去らぬ様子を見て、万引をするのではないかと彼女は疑っていたにちがいないと思い当たった私は思わず赤面した。(「百鬼園随筆との出会い」『内田百閒と私』pp.38-40)

 「百鬼園随筆との出会い」は、「図書目録」よりもはるか後に書かれたものらしいので、「図書目録」の記述の方が事実に近いのではないかとおもわれる(百閒の存命中に書かれたと云うこともあり)。このような齟齬があるのは、『百鬼園随筆』との出会いの衝撃をさらに劇的なものに仕立て上げたかったためなのか、単なる思い違いなのか、そのあたりのことはよくわからない。しかし、いずれにせよ中村が、『百鬼園随筆』によって内田百閒を初めて知り、その文章に心酔したという事実に間違いはあるまい。この『百鬼園随筆』を是が非でも欲しくなった中村は、「名曲を楽しむのはしばらく我慢しよう」と決意して蓄音機を質に入れ、借りた金でその日のうちに『百鬼園随筆』を購うこととなる。そして「ものにつかれたように」一晩で読了、その興奮もさめやらぬまま、古本屋で探し出した「『冥途』『旅順入城記』を夢中で読」んだという(「百鬼園随筆との出会い」「われ百閒を超えたり」)。
 食い違いといえば、中村が初めて百閒に会ったときの描写も、なぜか文章によって違いが有る。まずは「百鬼園先生の黒前掛」(講談社版全集第1巻月報)から。

 なんとかして、一度先生にお目にかかりたいと思うようになった。叔父の荒井袈裟之助が、小山書店主の小山久二郎さんから、先生への紹介状を貰ってくれた。それを持って、昭和十二年六月二十五日に、牛込の合羽坂のお宅をおたずねした。
 恰幅のいい先生は、当時は丸坊主で、髭をはやしておられた*4ので、ありていにいうと、大入道という印象を受けた。浴衣を着て、端坐しておられる先生の前にかしこまった私は、中村武志でございますと自己紹介をしたまま、あとの言葉が出なかった。
 軽くうなずいただけで、先生は何もおっしゃらない。何時間も経ったように思われたが、実際は数分にちがいなかった。お生まれは長野県だそうですね、とお聞きになった。顔をあげ、はいと答えて、また私は畳のへりに目を落した。再び長い時間が過ぎたようであった。ご郷里はどこの駅で降りるのですか。先生の口調は、重々しかった。塩尻駅でございます。
 そのあと二、三、おたずねになったが、それがどんなことであったか、今は記憶にない。時々大きな目でぎょろりと私をご覧になる大入道の大先生がこわくなって、またお出で下さいとおっしゃったが、再びおたずねする勇気がなかった。(『百鬼園先生―内田百閒全集月報集成』pp.29-30)

 次に引くのは、「百鬼園随筆との出会い」にみえる記述である。

 東京麻布小学校の教員をしている伯父の荒井袈裟之助は、安倍能成氏に師事していた。その安倍氏が百閒先生と親しいことを知り、おそれ気も無く安倍能成氏から紹介していただいた。
 昭和十二年六月二十五日(金曜日)午後一時にお出でいただきたいという返事が、依頼の時とは逆まわりの伝言で私のもとに届いた。
 この時百閒先生は、牛込区仲之町の合羽坂(かっぱざか)に住んでおられた。合羽坂を登って行くと、まだ登りきらない中途の左側であった。一時二十分前に私は百閒邸の前に到着したが、丸ビルの千疋屋で求めた枇杷びわ)の包みを提げて、約束の時間になるのを待っていた。真夏のように暑い日であった。
 座敷へ通された。長い時間待たされたように思ったが、実際は一、二分にちがいなかった。かしこまっている私の一メートルほど前に、のっそりとあらわれた百閒先生が黙って座られた。坊主刈りの大きな頭で、ぎょろりとした眼でじっと私を見ておられる。
 「中村武志でございます」
 しばらく間をおいて先生は、
 「よくお出でになりました」
 といったまま再び私のほうへ顔を向けて黙っている。
 何を申し上げたらいいのか、私には見当がつかない。何か口をきらなければならないとあせるのだが、頭の中が空っぽになっていうべきことが何もなかった。
 「お国はどちらです」
 ぽつりと百閒先生がいわれた。
 「はあ、信州、長野県でございます」
 それで会話が途切れてしまった。
 「信州というとアルプスですが……」
 「はあ、私の実家からは、北アルプスの槍、穂高、乗鞍、白馬、常念などが眺められます」
 その後百閒先生からのご質問はなかった。私のほうから何かおたずねするのは恐れ多いことであった。
 「今日はどうもありがとうございました。これで失礼いたします」
 話のつぎ穂を失った私が挨拶をすると、
 「朔日(ついたち)と十五日が面会日にしてありますから、いつでもお好きな時にお出で下さい」
 と百閒先生がいわれた。(『内田百閒と私』pp.43-45)

 かたや小山久二郎、かたや安倍能成。まずその紹介者からして異なるのだが、細かい点に至るまで色々と相違が有る。荒井袈裟之助が中村の「伯父」なのか「叔父」なのかということさえ判然しない。それに、「百鬼園随筆との出会い」の方が後に書かれた(と思われる)にしては、やたらと描写が細かい。ちなみに、最近出た山本一生『百間、まだ死なざるや―内田百間伝』(中央公論新社2021)は、前者「百鬼園先生の黒前掛」の記述を採用してはいる(pp.430-31)ものの、「伯父を通じて」(p.430)と書いている。
 ともかく、中村は百閒との初の面会から五年後の昭和十七(1942)年にふたたび「拝謁の栄に浴」することとなり、以後百閒が歿するまでの約三十年間、百閒を文学上の師として親しくつきあうようになる。
 冒頭で紹介した中村の『埋草随筆』の序文を百閒が書いていることには少し触れたが、中村と百閒との出会いには上記のようなゆくたてがあった。もっとも、百閒は序文を書くことを何度も拒んだという。このことについて詳しく述べているのが、「百閒先生の序文をいただく」(『内田百閒と私』)である。その内容を紹介する前に、中村がなぜ埋め草的文章を書くに至ったか、簡単に述べておく。
 百閒作品との衝撃的な出会いを経た中村は、勤め先の東京鉄道局の社内報「運輸月報」に随筆を書くことを、編集者で友人の小沢清史からすすめられる。そこで書き始めた随筆はことごとく百閒作品の摸倣で、九歳年下の文学青年・甘木雪山*5に、百閒の摸倣をやめてはどうか、と窘められる。そこで一旦は「筆を折って」しまう。約二年後に、中村は敬愛する百閒に会うことがかなうのだが、これは先に記したとおりだ。
 さて敗戦を経て、国鉄内部には地方鉄道局ごとに九つの組合が生まれた。鉄道当局は組合の左傾を防ぐという意図のもと、社内報を発行しようということになる。中村はその編集長に択ばれる。部下はたったの一人、例の甘木君だけだった。中村は、編集方針をめぐって幹部たちと対立するなどしたが、なんとか自分の意見を押し通し、昭和二十一年十月十日に創刊号を完成させる。その編集や割付は実質的に甘木が担い、今度はその甘木から、埋め草的文章を書くように頼まれた――という訣で、中村は十年ぶりに筆をとることになったのだそうだ。つまり、筆を折るきっかけも、再び筆をとるようになったきっかけも、甘木の発言だったということになる(以上「編集権を奪われる」『内田百閒と私』による)。
 とまれ、それらの文章をベースとして、『埋草随筆』は誕生することとなる。

 国鉄本社の社内報「国鉄」の埋草のほか、国鉄部内の新聞や雑誌に載せたものを一緒にすれば、昭和二十六年にはちょうど単行本一冊くらいの分量になった。そこで編集者時代の記念として、随筆集を自費出版し、先輩、同僚、友人たちに差しあげようと考えた。女房に相談したら、
 「ご冗談でしょう。食糧事情も少しはよくなりましたけれど、でも栄養失調にならないようにするためには、今のサラリーでは食費だけで大赤字ですよ。下手な文章を集めて、自費出版するなんて、狂気の沙汰というものですわ」
 たちまち反対されてしまった。
 そうなると、儲ける必要はないが、印刷費だけは何とか捻出しなければならない。差しあげるつもりを、今度は買っていただくことに変更した。
 懇意にしている静和堂印刷所の竹内常治郎氏に頼んで、特別に安く印刷して貰うことにした。その上費用のかからぬように文庫判にし、横綴(と)じの変型で、体裁を整えることにした。装釘と挿絵は、親しくしている高橋忠弥画伯が、無料で描いて下さることになった。(「百閒先生の序文をいただく」『内田百閒と私』p.127)

 「買っていただくことに変更した」とあるから、わたしの手許にあるものも、著者献呈本ではなく、雑賀に頼んで買ってもらったものなのかもしれない。

 印刷その他の準備が整ったところで、私は百閒先生にお願いして、序文を書いていただこうと考えた。
 ほかの用事でおたずねしたついでに、おそるおそるお願いすると、
 「序文を書くのはイヤです」
 と、百閒先生は一言おっしゃっただけであった。
 しばらく経ってから、未練がましく、再び懇願すると、
 「イヤダカラ、イヤデス」
 といって、黙っておられる。
 もはや、取りつく島がなかった。
 煙草を二、三本吸ってから、百閒先生が、序文というものについて、ご自分の考えを述べられた。
 自分は今までに、幾人もの人から序文を書いて貰いたいと頼まれたが、みんな断って、一度も書いたことがない。それはともかくとして、その理由をいうと、序文でどんなに褒(ほ)めようと、提灯を持とうと、その反対にどんなに悪口をいおうと、本の内容にはいささかも影響を与えるものではない。読者は序文に関係なく、著者の書いた文章に感動し、あるいは駄作だと考えるだけだ。序文ほど無駄なものはない。当然のことながら、こういう意味のことを言われた。実は森田たまさんにも序文を頼まれたがお断りして、その代わり、本の題を「木綿随筆」とつけて差しあげた。内容がいいから、本の題名に関係なくたいへん評判になった、と先生はつけ加えられた。
 その日は納得して帰って来たけれど、次にお目にかかった時、序文がいただけなくて残念だというような意味のことを何気なく申しあげると、
 「いや、書いてあげましょう。その代わり、あんたさんが希望なさっているような内容とはちがうものかも知れませんよ」
 といわれた。一カ月後に百閒先生から頂戴した序文は、在来のものとは全然ちがっていて、読者に向かってではなく、むしろ私に対する文章道についてのきびしい教えであり、訓示でもあった。先生も苦心なさった文章なので、作品同様単行本『無伴奏・禁客寺』の中に作品として収録されている。(同前、pp.128-29)

 これに続けて件の序文が全文引用されているのだが、それは省略に従うことにする。ただ、岩波ライブラリー版の引用文は、元版(旺文社版『百鬼園先生と目白三平』)を踏襲した引用ミスなのかどうか定かでないが、原文と2箇所違っていて、原文で「ドウ云フ事」「私ガオ請合ヒ申ス」なっているところが、それぞれ「ドウイフ事」「私ガオ請ヒ申ス」となっている。その事実だけここに記しておく。
 『埋草随筆』の完成後、中村は常時それを三、四冊持ち歩き、友人や知人に会うたびに買ってもらっていたそうだ。自費出版なので取次を通すことはできなかったが、田辺茂一と知り合いだったこともあり、まずは新宿の紀伊國屋書店に三十冊ほど並べてもらい、そのほかにも「有楽町駅前の丸の内書店、新橋の三壺堂、神田の東京堂三越本店の書籍部、丸善の本店、拙宅の近所の紙魚書房、目白書店の七軒に、それぞれ二十冊ずつ預けた」という(「著者は叱られる」『内田百閒と私』p.133)。
 そして『埋草随筆』は、「週刊朝日」の書評欄で紹介されるといった「思いがけないことが起こ」り(同p.134、手許の『埋草随筆』再版本の帯に週刊朝日の評が転載されていることはさきにも述べたとおり)、そのために「赤字がごくわずかで済んだ」のだった(p.136)。

 ところが、一年おいて昭和二十八年に、私にとって、再び思いがけぬ、その上ありがたいことが持ちあがった。表紙の装釘をした高橋忠弥画伯が、六興出版社の編集の人に、私家版『埋草随筆』の話をしたら、それが社長の吉川晋氏に伝わり、ここからあらためて出版されることになる。吉川社長は、昭和四十三年に亡くなったが、吉川英治の弟さんである。
 『埋草随筆』以後に書いた短い随筆「沢庵のしっぽ」などに、「目白三平の生活と意見」という小説を加えて、『沢庵のしっぽ』という変な題にして、六興出版社から出版した途端に、思いがけないほど売れだした。八人の作家、評論家の諸先生方が新聞や雑誌の書評欄で書いてくださったせいだろう。(同pp.136-37)

 「沢庵のしっぽ」は読んだことがないのだが、そのタイトルは、百閒の「風の神」(『百鬼園随筆』)に出て来る「澤庵の尻尾」に由来するものでもあろうか。とまれ、『埋草随筆』を出したことが、中村の兼業作家としてのスタートになったといえる。
 また、中村が出版史上にその名を刻んでいるのは、「目白三平」シリーズがヒットしたことに加えて、光文社「カッパ・ブックス」の創刊を飾った、ということも挙げられるだろう。
 ただこの事実は、たとえばその関連書、新海均『カッパ・ブックスの時代』(河出ブックス2013)に、

 いずれにしても、一九五四年一〇月に伊藤整の『文学入門』と、中村武志『小説 サラリーマン目白三平』の2冊で「カッパ・ブックス」はスタートした。編集長は弱冠二六歳の塩浜方美だった。(pp.37-38)

と、ごく簡単に触れられるにすぎない。「カッパ・ブックス」生みの親・神吉晴夫の著作『カッパ軍団をひきいて』にいたっては、「伊藤整の『文学入門』と『サラリーマン目白三平』の二冊をもって、カッパ・ブックスは創刊された」と、著者名すら出していない。実はそれには曰くがあり、神吉と中村との間には、印税をめぐってひと悶着あったというのである。「もの書きはつらいよ」(『内田百閒と私』)は、その経緯について詳しく述べている。そこには神吉への率直な(しかし、かなり手厳しい)批判もみられて興味深いが、ここでの詳述は避ける。

*1:同時代ライブラリー版の帯に、「黒澤明監督『まあだだよ』の世界 全国東宝系公開中!」などとあり、主演の松村達雄の写真が載っている。

*2:鉄道日本社の社長だった人物。同人は『埋草随筆』pp.81-82に登場している。『百鬼園先生―内田百閒全集月報集成』にも、講談社版全集の月報に載った雑賀の文章が収められている(pp.75-77)。『実説内田百閒』(論創社1987)という著作もあるそうだが未見。

*3:ちなみに『埋草随筆』冒頭の「堀立(ママ)小屋の百閒先生」は、百閒歿後に増補され、『内田百閒と私』に「百閒先生弟子の代筆」という文章として収められた。なお「掘立小屋の百閒先生」は、「『小説新潮』二十五年三月号に書かせていただいた」作品(中村武志「榜葛剌(べんがら)屋盛衰記」『内田百閒と私』p.56)だという。

*4:百閒と髭との複雑な(?)関係については、「髭」(『百鬼園随筆』)で百閒自身が書いている。

*5:この「甘木」というのは、これまた百閒の書きぶりを真似たもので、「某」という匿名のつもりなのだろう。

野口冨士男「かくてありけり」のことなど

 前回の記事で紹介した宇野浩二『思い川』は、野口冨士男の「かくてありけり」にも(やや唐突な形で)出て来る。関東大震災直後、市民の避難状況を描写したくだりである。

 私たちだけではなく、富士見町の花柳界の連中はことごとく馬場へ避難した様子で、みるみるあの広場は人間と荷物とで埋めつくされた。
 宇野浩二の『思ひ川』によれば、作者自身とみられる主人公牧新市の愛人で富士見町の芸者だった三重次のモデル村上八重もその一人だったようだから、私は何時間か彼女とおなじ場所に避難していたわけだが、九段坂上の灯明台のあたりへ行ってみると坂下の神田方面は蒼みを帯びた灰色の煙につつまれていて、その煙のなかから大八車をひいたり、箪笥や夜具などの大荷物を背負ったおびただしい数の避難民があえぎあえぎのぼって来るのが見えた。(「かくてありけり」『しあわせ/かくてありけり』講談社文芸文庫1992所収:98-99)

 宇野の『思い川』から当該部分を引くと、

 それから、牧は、友だちと一しょに、一たん本郷三丁目にもどり、壱岐坂をおりて、いたるところに、電信柱がたおれ、電線が地上にもつれている、焼けあとの、道のない道を、たどった。そうして、ある堀ばたにそうている坂をのぼって、高台の端にある、『なにがし』神社の鳥居の下で、一服しながら、下町の方を眺めると、目の下にある神田へんから、遠く、日本橋、本所、深川あたりにかけて、一めんに焼け野が見わたされた。
 その時、ふいに、「先生、」と、うしろから呼ぶ声がしたので、牧がふりむくと、思いがけなく、紺がすりの著物(きもの)をきた三重次が、牧の顔を見あげながら、頰に微笑をうかべて、立っていた。
「君んとこは……」と牧が云うと、
「まる焼けです、……」と云ってから、三重次は、『なにがし』神社の後の方を指さしながら、「……あそこに、みな、避難しております、」と云った。
(『思い川・枯木のある風景・蔵の中』講談社文芸文庫1996:31)

となっているのだが、野口によるとこの「『なにがし』神社」は、靖国神社、ということになる。
 「かくてありけり」でもうひとつ印象深いのは、大正十一年の夏、房州・保田の松林の外れで、主人公が歌人原阿佐緒と思しき女性に声を掛けられるところである。野口自身、「あるいは私の白昼夢にも似た錯覚であったかもしれない」(p.82)と述懐するように、それはまさに、夢中の一場面を描いてでもいるかのような不思議な一齣である(ちなみに連城三紀彦は、原をモデルとした長篇小説『残紅』を書いている*1)。
 さて、野口冨士男の文章は、十数年前からぽつぽつ読んではいたが、特にここ4~5年ほど特に集中的に読んでいる。その直接の契機になったのは、佐伯一麦氏の次の文章である。

 格別文学青年でもなかった私が、野口氏の作品に親しむきっかけとなったのは、昭和五十三年、当時「週刊プレイボーイ」にエッセイを連載していた中上健次氏の文章による。十八歳の私は、田舎の仙台から東京に出て来たばかりだった。
 「小説家として生粋の気質を持った人」「一見地味ではあるが、それだけに水増しは一切ない」という中上氏の惹句に何故か触発されるところがあって、刊行されたばかりの『かくてありけり』を手に取った。熱中した。それは、実質感のある何かだった。都会とは、まがいものばかりが横行するところだ、と苛立っていた十八の身体に、その小説は真っすぐ入り込んで来た。(「生命の樹を仰ぐ――野口冨士男の小説」『麦主義者の小説論』岩波書店2015:105)

 なお中上は、野口の「なぎの葉考」の取材旅行に同行しており、その「なぎの葉考」は中上=間淵宏の人柄について、「巨漢というより肥大漢とよぶほうが適切な間淵には、粗野な外見にもかかわらず、人間的にもこまかく神経のはたらくところがあった」(『なぎの葉考・少女―野口冨士男短篇集』講談社文芸文庫2009:125)と書いている。
 もうひとり、佐伯氏の文章(前掲『麦主義者の小説論』や『渡良瀬』など)に触発されて、わたしがよく読むようになったのが和田芳恵なのだが、野口は和田とも親交があって、たとえば野口のエセー集『断崖のはての空』(河出書房新社1982)には、「和田芳恵さんを悼む」「和田芳恵 友人代表弔辞」「和田芳恵を憶う」「和田芳恵との交友」が収められている。
 そもそも野口と和田とは、私小説作家(両人とも徳田秋声を特に好んだ)ということのほかに、学究的な側面がある*2ところまでよく似ている。そういう意味では、今年の3月に、野口冨士男『なぎの葉考・しあわせ』と和田芳恵『暗い流れ』とが小学館P+D BOOKSから同時に刊行されたのは、象徴的な出来事だったといえる。また佐伯氏の前掲書には、「私小説という概念――和田芳恵と『暗い流れ』」「生命の樹を仰ぐ――野口冨士男の小説」が並べて収められているのだが、同様に、たとえば鈴木地蔵『市井作家列伝』(右文書院2005)にも、「野口冨士男の志操」と「和田芳恵の技芸」とがやはり続けて収められている。この事実は、なかなかに興味ふかいことである。
 さて野口の作品に話を戻すが、緻密な風俗描写が光る『風のない日々』(文藝春秋1981)もよかった。淡々と日常を描写しながらも、主人公をやや突き放したような形で終幕を迎えるところがまた良い。これを読んだのも、やはり佐伯氏の下記の文章に刺戟を受けたことが大きい。

 まさに、秋声的、野口版『新世帯』といえる『風のない日々』を私は静かな熱狂とともに読んだ。はじめにエピグラフとして引用されている佐多稲子の言葉、「しかしこのころは、一般にいわゆる暗い時代であった。(略)市電にぶらさがる男たちの表情に明るさはない。女たちのつつましさも何かを押えている」に要約される戦前の「暗い時代」の一組の夫婦の愉快ならざる夫婦生活をくすんだ色合で描いたこの一編には充実したものの感触があった。さらに、こんな箇所――
「恋愛から家庭をきずいて離別する男女がいるいっぽうには、見合いで結ばれてむつまじい夫婦生活をすごす者もいるが、愛情のない夫婦生活もある。が、しかし、愛情のないことが、ただちに離婚に結びつくとばかりかぎったものでもない。そういう夫婦が、しかも無数にいることを信じないのは、未婚の男女だけである」
 当たり前のことかもしれないが、そんな当たり前のことをはっきりと認識させてくれる小説は少ない。そうして、その当たり前のことが、明確なもののイメージで描かれるとき、それがどんな暗い認識でも、読むものに充実感を与えてくれるのではないだろうか。(佐伯前掲pp.106-07)

 『風のない日々』は、近隣の古書肆で拾ったのだが(500円だった)、同じ本屋では『なぎの葉考』(文藝春秋1980)400円や、『海軍日記―最下級兵の記録』(文藝春秋1982)500円も拾った。
 後者『海軍日記』は、1958年に現代社から書き下ろしで刊行された作品の新版なのだが、このたび中公文庫に入った。その背を見ると、「の 2 3」とあるから、『わが荷風』(中公文庫1984)、『私のなかの東京―わが文学散策』(中公文庫1989)に続く中公文庫入りということになる。
 とりあえずざっと確認すると、註釈部もそのままの様だ。この日記作品は、本文そのものよりも(野口は上官に知られないよう、たいへんな苦労を重ねながら日記をつけていたようだ)、後から補完的に附された註の部分こそむしろ読んでおもしろく、『標準海語辞典』を引用しての術語の解説など、ことに興味をひかれる。
 ちなみに、冒頭の「応召、入団」の昭和十九年九月十四日條の註釈部には、

 父と母とは横須賀へ先まわりしていて、海兵団の入口にあたる稲楠門の所まで見送ってくれた。「死ぬんじゃないのよッ」と私の背後から声を掛けた母の髪は額に乱れていた。身だしなみのよかった母には珍しいことであった。(文庫版p.19)

とあるが、このくだりは「かくてありけり」にも見える。これもやはり印象的な一場面だったので、以下に引いておく。

 横須賀駅から海兵団までは、徒歩でも十分とはかからない。稲楠門という地点から先は桜並木の海軍道路で、そこからは一般市民の通行が禁じられていた。団門はそれよりさらに奥にあったが、引率されて稲楠門へさしかかったとき私はギクリとした。父と母が私より先まわりして横須賀へ来ていて、身を寄せ合うようにしながら立っていたのである。
 三十年以上も以前に夫婦ではなくなっていた二人が、そうしてそこに立っていたことは、私という息子があったためには相違なかったものの、姉や私がいなくても二人の間には誰にも引き裂くことのできぬなにものかがあったのではなかろうか。そうとしか考えようのない機会に私はもういちどめぐり合うことになるのだが、そのとき母が叫んだ言葉も、私には生涯忘れることができないものであった。
「夏夫ッ、死ぬんじゃないのよ」(「かくてありけり」、前掲書pp.214-15)

 野口は戦時下のみならず、復員後も日記を書き続けており、残された帳面は厖大な量にのぼる。このことについては、野口の息・平井一麥氏による『六十一歳の大学生、父 野口冨士男の遺した一万枚の日記に挑む』(文春新書2008)が詳しく述べるところであった。

 日記を調べてみると、昭和八年からはじまっていて、十五年半ばから十九年半ばまでの中断はあるものの、以後、平成五年の死去寸前まであることが判明した。
 父は、太平洋戦争末期の昭和十九年九月に三十三歳(略)という年齢のいわばロートル兵だった。しかも、昭和六年満二十歳の徴兵検査で、「徴集ヲ免除シ第二国民兵役ニ編入相成候条此旨通知ス」という「徴集免除通達書」を受取っていて、「徴兵免除」になっていたにもかかわらずの「徴兵」で海軍に召集され、敗戦直後の二十年八月二十四日に復員した。この間父は四冊の小型手帳に、トイレに隠れたり防空壕に避難したときに日記をメモした。これに注釈を加え三十三年『海軍日記』として現代社から発刊されたが、倒産して絶版になっていたのを、五十七年文藝春秋新社から『海軍日記―最下級兵の記録』として再刊された。(p.39)

 なお、復員後の約一年半にわたる日記も、『越ヶ谷日記』(越谷市教育委員会)と題して2011年に(野口の生誕百年を記念して)刊行されているものの、そのほかの大部分は未刊のままである。
 このたびの『海軍日記』の文庫入りは、野口の生誕110年を記念したものということになるが、これよりもさきに、平井一麥・土合弘光ほか編『八木義徳 野口冨士男 往復書簡集』(田畑書店2021)が出ている。八木も野口と同年で、いわば盟友関係にあった間柄だが、生涯の長きにわたってここまで手紙でのやり取りが続いたというのも非常に珍しいことだろう。
 最後に、八木が野口の「かくてありけり」の感想を述べた書簡から一部を引いておく(1978年3月2日の日付がある)。

 ただいま三月二日ちょうど午前一時です。これが貴兄のお作「かくてありけり」を讀み終った時間です。
ある興奮でどういう感想を述べたらいいのか頭が混乱しています。(略)
一体これが「小説」というものなのか?たしかに「小説」にはちがいない。しかしここには「小説」を越えた何かがある。その「何か」とは何なのか?
小説には「芸」というものがある。たしかにここには「芸」がある。しかしここには「芸」を越えた何かがある(以上、2カ所の「越えた何か」に傍点―引用者、以下同)。その「何か」とは何なのか?
ここにはたしかに「人間」が描かれている(「描かれて」に傍点)。しかしここには「描かれている」という以上の何かがある。その「何か」とは何なのか?
この三つの「何か」について、いまのぼくは明確な答を出すことができない。
しかしお作を讀み終ったただいまの時間のぼくの頭はこの三つの「何か」でほとんど充満している、といってもいい。小説というものを讀んで、こんな感じになったことは何年ぶりだろう、いや何十年ぶりだろう。
「おもしろく讀んだ」などとは口が裂けても言えない。かといっておもしろくなかったのか?全くその反対だ。
「おもしろくて、おもしろくて……」いや、ここでも「おもしろさ」を越えた何か(「越えた何か」に傍点)がある。
その「何か」とは何なのか?(前掲p.123)

*1:連城は、「わが人生最高の10冊」の第8位に瀬戸内寂聴『美は乱調にあり』を挙げており(『女王(下)』講談社文庫2017:322-23)、このような作品に刺戟を受けて、実在の人物をモデルとした「恋愛小説」をものしたのかもしれない。

*2:和田は樋口一葉研究でも知られるが、野口はいわゆる文学史、文壇史的な研究で知られ、『徳田秋聲傳』『感触的昭和文壇史』などの著作がある。「かくてありけり」にも、文芸雑誌創刊の意義を文学史的な観点から位置づける記述が随処にある(文芸文庫版p.118、p.167など)。

宇野浩二のことー生誕130年

 「文学の鬼」との異名をとり*1、また、「私小説」という言葉の生みの親としても知られる宇野浩二の作品は、ほぼ自身の実体験に基づくものだったのではないか――、などと何の根拠もなくおもっていたが(というより、昨夏まであまりきちんと読んでいなかったのだが)、改めて読んでみると、実はそうでもないことに気づかされる。
 たとえば『蔵の中・子を貸し屋 他三篇』(岩波文庫1992第7刷*2)には、表題作の「蔵の中」「子を貸し屋」のほか「一と踊」「屋根裏の法学士」「晴れたり君よ」が収められているが、創作性の強いことが明らかな「子を貸し屋」は措くとしても、その他の各作品について、宇野自身は「あとがき」で次のように述べている。

 『藏の中』は、はつきりいふと、近松秋江先生が、あらゆる著物を質にいれてしまつた上に、自分が現在きてゐる著物まで質にいれてゐる、といふやうな話を、廣津和郞から、聞き、その話を元にして、その頃(大正六七年ごろ、)私もさかんに質屋がよひをしてゐたので、その時分の私自身の生活と感想のやうなものもいくらか(かなり)取りいれて、だいたいは空想で作つたものである。(pp.203-04)

 『一と踊』は、これも、ある友人が、ある時、ある山の温泉に滯在ちゆうに、ここに書いたやうな、(もつとも、ここに書いたやうなのは私の空想であるが、まづ、このやうな、)二人の老婆の踊りを見た、といふ話から、私のいはゆる體驗したやうな事を元にして書いた、やはり、作り話である。(p.204)

 『屋根裏の法學士』は、これを書いたころ私が下宿をしてゐた九段の中坂の下へんの下宿屋を舞臺にしただけで、やはり、まつたく作り話である。(p.204)

 『晴れたり君よ』は、書き出しのへんが本當にちかい話で、中頃のはうもその時分の私のいはゆる體驗のやうなものではあるが、この小説を書く氣になつたのは、はじめの方に書いたやうな事を經驗したのが『元』であつて、それを元にして、鼻唄でもうたふやうな氣で、作りあげたものであらうから、まづ『若氣』が作つた出來そこなひの唄のやうなものであらうか。(p.205)

 「空想」「作り話」などと、こうまで「手の内」を明かされては、いささか拍子抜けする気がしないでもないのだが、晩年に至って宇野がそこまで強調しなければならなかったのも、何か理由があってのことだったかもしれない。
 ちなみに「屋根裏の法学士」に出て来る「下宿屋」の描写として、以下のような印象的な一節がある。

 さて、法學士乙骨三作の下宿は、ある坂の中腹であつて、しかもそれが往來の面よりも二尺ほど低い地面にたつてゐた。だから、彼の部屋は、往來(すなはち坂)に面した二階にありながら、道をとほる人の顔と、室内にすわつてゐる彼の顔とが殆ど同じくらゐの高さになるので、窓をあけはなして、押し入れの戸もあけておいて、そこの寢床の上に横臥しながら、往來のはうを見わたすと、往來の人は、まさか押し入れの中に人がゐるとは思はないから、誰も見てゐる者のない空の部屋のつもりで、無關心な態度で通つて行くので、彼は通つて行く人人を手に取るやうに眺めることができるのであつた。(p.93)

 似た描写は、宇野の『苦の世界』にも出て来る。引用は『苦の世界』(岩波文庫1989第17刷*3)から。

 私の部屋は往来にめんした二階にあったが、その下宿屋の建物が坂の中腹に位置していたので、私のすわっている畳と、往来の人のあるく土とがほとんど同じ高さだった。だから、窓をあけて首をつき出した私は、家の二階部屋にいるにもかかわらず、自分の顔とおなじ高さに往来する人々の顔を見いだして、…(〈その二〉p.130)

 その時、表のかた、今日の今朝私が窓をひらいて、通りがちょうど坂になっているので、私のふむ畳と往来の高さとがほとんどおなじだとか、窓からつきだす私の顔と、往来をゆく人の顔とがほとんどおなじ高さにあるとかいってよろこんだところの、…(〈その二〉p.147)

 こういった描写は、まさに自身の体験に基づくものであったろう。なお「屋根裏の法学士」というのは、江戸川乱歩の「屋根裏の散歩者」を想起させるが、宇野の上記の記述がなければ、「屋根裏の散歩者」は(タイトル、屋根裏からの「窃視」という設定も含めて)世に出なかったと思しい。宇野の「夢見る部屋」(池内紀川本三郎松田哲夫=編『日本文学100年の名作 第1巻1914-1923 夢見る部屋』新潮文庫2014等)における執拗な室内描写や幻燈趣味なども、乱歩に与えた影響は大きかったと思われ*4、事実、乱歩の随筆でも何度か言及されている*5
 乱歩が特に初期の宇野作品を耽読したことはよく知られるところで、最近出た落合教幸+阪本博志+藤井淑禎+渡辺憲司〈編〉『江戸川乱歩大事典』(勉誠出版2021)も「宇野浩二」を立項しており(pp.432-36)、そこには、

 初期乱歩短編の文体には宇野浩二からの影響が顕著である。大正後期の文壇小説の饒舌体が乱歩・横溝にもたらした影響の問題や、また、読者への語りかけという、のちの少年探偵団シリーズで最大限発揮される語りの形式の起源を考察する上でも、宇野浩二の存在は大きいであろう。(pp.435-36)

などとある(担当執筆は安智史氏)。
 とまれ宇野の創作態度は、「私小説」のスタイルを取りながら、空想(作り話)と事実とを意図的に綯交ぜにするというものだとおもわれ、このことをよく象徴する表現が、「枯木のある風景」に古泉圭造(小出楢重がモデル)の言葉として出て来る。

「それで、今度の風景は、その雑物をみんな取って、こっちの絵エ(『裸婦写生図』を指さしながら)の裸婦の横たわっている辺に、枯木の丸太を四五本横倒しにおいたろと思てんね。それだけで、後はまだ思案ちゅうや。……今までの、写実一点張りは、これで(再び『裸婦写生図』を指さして)当分打ち切りにして、これからは、芭蕉風に、写実と空想の混合酒(カクテエル)を試みてみよと思うんや。題して『枯木のある風景』というのはどうや。」
「ふうむ、」と島木は唸った。
 島木はその晩ほとんど眠れなかった。その日、島木は、古泉の家の門を出た時から自分の家に帰るまでの間、「芭蕉風に、写実と空想の混合酒(カクテエル)を試みてみよと思うんや、」という言葉を何度口のなかで繰り返したか知れなかった。(講談社文芸文庫版pp.236-37)

 しかし、宇野の作品には実在の女性をモデルにしたものが多く、その女性たちについての記述が、事実なのか、はたまた創作なのかよく判らないところが、かえって「批判」を呼ぶことにもなったのではなかろうか。
 水上勉は、『宇野浩二伝』で次の如く書いている。

 「苦の世界」「軍港行進曲」では伊沢きみ子が、「山恋ひ」その他の「諏訪もの」では(原とみはともかく)村田キヌが、「子の来歴」「人さまざま」「四方山」では星野玉子や公吉やキヌが、事実といくらか変えられて、あるいは歪めて書かれていなかったか。たとえば伊沢きみ子が事実は四歳も年下だったが二つ年上にされている点など、意地悪く考えれば作者に周到な自己弁護の匂いがなくもない。年上の妓を身売りに出すのと年下の妓を出すのとでは、ずいぶん違うからである。よしそれがあっても、「人は嘘を書くことが出来ぬ」と浩二はいう。だからそれで浮ばれなくても、モデルたちは観念しなければならないということになるのである。浩二の小説づくりの態度がそうである以上は、小説からその「真」と「嘘」とをふるい分ける作業はまたなみたいていのことではない。(『宇野浩二伝(上)』中公文庫1979:408-09)

 こういった宇野の「自己弁護」に関しては、大岡昇平が次のように言及しているのを最近見つけた。

 一九七〇年水上勉が『宇野浩二伝』を書き始めた。彼は「續軍港行進曲」の叙述や生前の宇野自身の暗示に従い、道玄坂上や三宿方面にこの竹屋(渋谷の宇田川横丁附近にあった竹屋―引用者)を探したのだが、遂にそれは発見できなかった。私はそれについて、当時感想文を書いたことがある。要旨は宇野の小説では、この竹屋が色街の近くにあって、表を着かざった芸者やお酌が通る。すると元芸者の愛人がいら立ち、やがて宇野に別れ話を持ち出して、横須賀から芸者に出るということになっている。しかし現実の竹屋は練兵場通りにあり、裏は柴田君の家に代表される高級住宅地に接していて、近所に色街なぞないのである。それをそういう風に作ったのは、私小説通弊の「私」一人いい子になるためのうそで、実際は宇野がすすめて芸者にしてしまったのではないか、という疑問を提出しておいた。(略)
 竹屋の裏座敷には宇野の母親が同居していた。この母親は、水上の調査によれば、北河内で水商売をしていたことがある。(略)女はむしろ宇野母子によって売り飛ばされたのではないかというのが、私の意見であった。(略)
 当時接触があった出版社出入の「女友」から手紙が来て、愛人がヒステリイを起す記事が『苦の世界』にある。この女はそれきり出て来ないし、水上の調査はこの「女友」に及んでいないが、(略)証言が事実とすれば、(宇野の)新しい奥さんとはこの「女友」ではなかろうか。
 要するに女は九段下の下宿からではなく、「竹種」(竹屋の名前)にいる間に芸者になって出て行ったのである。(略)女の身代金を敷金として、新しい女と共に移ったのでなければならない(略)。
 水上勉は私とは成城で隣組なので、私はこの情報をすぐ伝えた。(略)話の録音テープも聞かせた。彼も宇野の書き方のあいまいさに気付いていて、私の意見に半ば賛成だったが、『宇野浩二伝』を単行本にする時も結局この証言を取り入れなかった。彼としては恩師について書くに忍びなかったに違いないので、これは伝記を書くに当っての一つの態度といえる。しかし第三者である私としては、一応書きとめておく方がいいかも知れないので、私自身の回想を書く途中で知った一つの可能性として記しておく。(大岡昇平『幼年』文春文庫1975:188-91)

 もっとも水上は、『宇野浩二伝』には宇野について知り得たすべての事柄を盛り込んだわけではない、と後にいっている。『わが文学 わが作法―文学修行三十年』(中公文庫2021←中央公論社1982)で次の如く記している。

…私だけがきいたこと、私だけが見たことを、急に(宇野浩二―引用者)先生の晩年に至って手柄顔に書きつづけることに、多少の控え目を意識していた。それは、私のなかの節度といってもいいし、私だけがきいていることのなかには、あるいはききちがいや、臆測が作用して、先生の真実をあやまりつたえる懸念がなしとしない。そのことを恐れたのである。(略)
 いずれにしても、私は、自分で調査し、メモしてきたことや、先生の許にいた日ごろ、先生ご自身からきいたことなどの思い出のすべてを、ここに書いているとはいえない。(略)したがって、作品にも出さなかった調査メモや、先生の言行録については、私はそのまま、今日も机のよこの筐においているのである。(pp.133-34)

 この「調査メモ」には、大岡から聞いた話の概要も記してあったかもしれない。
 それにしても、上記の大岡の話が事実であるとすれば(その可能性が高そうだが)、ひどい話である。ひどいことを自覚していたからこそ、そのあたりを虚=創作でごまかしたのだろう。
 ちなみに、『苦の世界』で「ヒステリイを起す」愛人のモデルとなった伊沢きみ子は、宇野と別れて二年後に自殺している。昭和の初めに宇野は精神に異常をきたすことになるが、その原因をこのあたりに求めるのが、嵐山光三郎氏である*6

 しかしながら、この連作(『苦の世界』のこと―引用者)を読めば、「のんびり」どころか、宇野発狂の因が、この家庭事情暴露小説に対する、モデルとされた女たちの反発にあったことが推測される。宇野の情痴私小説には、「火宅を楽しむ陽気さ」がある。愛人をつぎつぎと作り、それを題材として私小説を構想する「情話製作工房」あるいは「私家版赤新聞」告白編といった気配さえある。〈その一〉に書かれたきみ子は猫いらずを飲んで死の抗議をした。それが、一見、傲慢不埒な宇野の心に斬りつけぬはずはない。宇野の職人芸は、私小説の形をとって、主人公が宇野自身の投影として見せつつも、それが「真の宇野」であったかははなはだ疑わしい。どこかに嘘がある。その弁明をするかのように『苦の世界』の最終章〈その六〉は、「ことごとく作り話」というタイトルである。(「宇野浩二――なぜ薔薇を食べたか」『文人暴食』新潮文庫2006:348-49)

 宇野の「発狂」については、たとえば近藤祐『脳病院をめぐる人びと―帝都・東京の精神病理を探索する』(彩流社2013)の「プロローグ」(pp.7-8)や第3章のpp.206-10も、広津和郎の記述などを引きつつ*7、その症状なども含めて詳述するところであった。「脳梅毒による進行麻痺」との診断がくだされたという。
 それでも宇野は、数年で奇蹟的なカムバックを果たす。

 私は、昭和四年に大病する前(ママ)、昭和四年一月號の「改造」に小説を書く約束をして、昭和三年の十一月二十五日頃であつたか、その日、徳廣(徳広巌城。上林暁のこと―引用者)が原稿を取りに來ることを承知しながら、菊富士ホテルを體だけ引き上げたことがある。さうして、その詫びのつもりで、昭和七年十二月八日、病後の第一作『枯木のある風景』を徳廣巖城にわたした時は、誇張していへば、互いに萬感胸に迫るものがあつた。(宇野浩二『文學の三十年』中央公論社1947:167)

 宇野の作風はしばしば、病前と病後とでがらりと変わった、というふうに言われるけれど、その変化について手軽に知ることができるのが、『思い川・枯木のある風景・蔵の中』(講談社文芸文庫1996)であろう。昨夏、「人間椅子が選ぶ講談社文芸文庫フェア」(全10冊)のうちの1冊に択ばれ、選者の和嶋慎治氏が次のような言葉を寄せている。

軽妙饒舌な文体で、つかの間垣間見る夢を描くのが、宇野の初期作品の特徴であった。一転、畢生の作「思い川」においては、簡潔な筆致で夢を夢のままに結実させている。まさに文学の鬼、執念の人とは宇野浩二である。

 なるほど初期の「蔵の中」「一と踊」などもよかったが、どれか一作を択ぶとすれば、私も『思い川』をとる。岩波文庫に入っていた初期短篇「晴れたり君よ」と同じく、村上八重をモデルとした女性が登場する作品で、記述も重なる部分があるが、「その後」のことについて詳述している(やはり「虚」も交えて書いているだろうけれども)。
 ところでタイトルの「思い川」に関しては、作品冒頭でエピグラフ風に、

おもひ川ながるる水のあわさへも うたかたびとにあはできえめや 『伊勢物語

と示されていて、この歌に由来するであろうことが暗示されるが、水上勉は次のように述べる。

 「思ひ川」は、「あるひは 夢みるやうな恋」という副題があり、さらに「おもひ川ながるる水のあわさへもうたかたびとにあはできえめや『伊勢物語』」と、小さく題の横に歌が掲げられていた。この歌について、新潮社版「日本文学全集」『里見弴・宇野浩二集』の巻末注解で、吉田精一氏が、この歌は「後撰和歌集」巻第九、恋歌一の「思川たえず流るゝ水の泡うたかた人にあはで消えめや」の作者「伊勢」と「伊勢物語」を混同した誤りであろうと指摘しておられる。発表誌の「人間」昭和二十三年八月、十月、十一月号では、「おもひ川たえずながるる水のあわもうたかたびとにあわできえめや」とあり、九月、十二月号では、単行本と同様「たえず」が削られ、「も」が「さへも」となっている。本歌をかえて、しかも「伊勢物語」とされているわけだが、このような作為は、はたして吉田氏の指摘される「伊勢」と「伊勢物語」の混同であるか、それとも、それを承知の上で「伊勢」物語と、本歌をかえて使われたのか、そこのところは今となっては謎である。(『宇野浩二伝(下)』中公文庫pp.365-66)

 たしかにこれは謎だとしかいいようがないが、宇野の頭のなかには、以下の小唄の一節も谺していたのではないだろうか。

 今でも私のおぼえている唄は、辻君のたえぬ流れの思い川というのだった。辻君のたえぬ流れの思い川、恋にはほそる柳かげ、しばし止めたき三日月の、櫛のむねさえ小夜風に、さらりと解けし洗い髪、むすんで清き水の音。
 いい唄だね、と私が思わず感嘆していうと、いい唄だろう、と、しかし参三はそれを聞かれたのをちょっとはずかしがるような表情をして、
 「この一ばんしまいの、むすんで清き水の音、というとこを名人がやると、聞いていると、真に水の音がきこえるというくらいだよ。」
(略)だが、そのたえぬ流れの思い川というのはなんの事だかわからないので、「君、木戸君、そのたえぬ流れの思い川というのはどういう事だい、」と聞くと、
 「さあ、」といいながら、彼もきっとよくわからないのだとみえて、ちょっと返事がなくて、(略)「たえぬ流れの思い川はたえぬ流れの思い川だよ、」と参三はいって、「君、雀はいいね」というのである。(『苦の世界』〈その五〉岩波文庫pp.300-01)

――
 宇野浩二は、ことし生誕百三十年、そして歿後六十年を迎えた。二月に出た頭木弘樹編『ひきこもり図書館―部屋から出られない人のための12の物語』(毎日新聞出版2021)には、宇野の「屋根裏の法学士」が採られている(pp.121-38)。

蔵の中・子を貸し屋―他三篇 (岩波文庫)

蔵の中・子を貸し屋―他三篇 (岩波文庫)

苦の世界 (岩波文庫)

苦の世界 (岩波文庫)

江戸川乱歩大事典

江戸川乱歩大事典

宇野浩二伝 上巻 (中公文庫 A 19-9)

宇野浩二伝 上巻 (中公文庫 A 19-9)

  • 作者:水上 勉
  • 発売日: 1979/09/10
  • メディア: 文庫
幼年 (文春文庫 158-1)

幼年 (文春文庫 158-1)

文人暴食(新潮文庫)

文人暴食(新潮文庫)

*1:1927年に、「小説の鬼」の副題を有する「日曜日」を発表したことに由来するという。後述する宇野の『思い川』でも、「昭和二年のはじめごろ」牧新市(作者の分身)が『小説の鬼』という文章を書いたことになっていて、作中には次のようにある。「牧は、自分のもっとも愛している『文学』の生活(いとなみ)に、『小説の鬼』などと名づけて、不安におそわれながら、そのつぎに、もっとも愛している筈である、『恋愛』の生活、『家庭』の生活というようなものにも、やはり、何ともいえぬ、漠然とした、いわば『なになにの鬼』とでもいうような、不安を、その頃、やはり、ときどき、ふと、覚えるようなことがあった」(講談社文芸文庫版pp.108-09)。

*2:初刷は1951年だが、旧字旧かな。

*3:初刷は1952年、1972年第12刷改版。新字新かな。

*4:ついでに云うと、新潮文庫のこの巻には乱歩「二銭銅貨」も収められている。

*5:そもそも、私が中学生のころに「宇野浩二」の名を知ったのは、乱歩の随筆によってである。

*6:なお『思い川・枯木のある風景・蔵の中』(講談社文芸文庫)の柳沢孝子「作家案内」には、「昭和二年の発病は、直接的には性病からきた精神障害であったと言われるが、(村上)八重との関係のもつれも無視できない」(p.328)とある。

*7:広津と芥川龍之介とが宇野に付き添って斎藤茂吉のもとへ病状を診てもらいにいった、という挿話は、日本近代文学史上の「事件」としてよく知られるところである。後述『思い川』には、芥川をモデルとする「有川」が登場する。歿年、命日も事実と同じである。

『完落ち』ー業界用語のことなど

 赤石晋一郎『完落ち―警視庁捜査一課「取調室」秘録』(文藝春秋2021)は、“伝説の刑事”大峯泰廣氏の活躍を描いたノンフィクションである。他の本で読んだり(第三章「猥褻」)、テレビで見たり(第五章「信仰」、第八章「迷宮」)した挿話もあったものの、巻措くあたわざる面白さで、文字どおり「イッキ読み」したのだった。
 加えて、辞書好き、言葉好きとしては、所々にいわゆる隠語、業界用語が紹介されていることも興味深く感じた。その例を挙げておこう。

 “マグロ”というのは「仮睡盗(かすいとう)」のことを指す刑事独特の隠語だ。仮睡盗とは駅構内などで酔い潰れ寝ている人間から財布などを抜くコソ泥のことだ。市場に転がされている冷凍マグロのように動かない酔客を狙い犯行に及ぶので、刑事の間でマグロと呼ばれるようになったそうだ。(p.43)

 多分、上記から派生した意味のひとつなのだろうが、「マグロ」は犯罪者側からは、「睡眠薬等で客の身ぐるみをはがしてしまい,路上に放置することを『マグロにして放ってこい』という」(下村忠利『刑事弁護人のための隠語・俗語・実務用語辞典』現代人文社2016:104)といった用法でも使われるようだ。
 そのほか次のような業界用語、隠語が出て来る。

 事件化はしていないものの事件である可能性が高い案件を捜査することを、「掘り起こし事件」という。(p.59)

 そう云えば、スコップやシャベル(「掘り起こす」道具だ)を意味するscoop(スクープ)は、まさに「特ダネ」のことだった*1

 旅慣れているな、と大峯は感じた。「旅慣れる」とは、前科が多く刑務所暮らしが長いという意味だ。何をしでかしてもおかしくないタイプだろう。(p.107)

「一課長! 下川の様子がいつもと違います。この場所については慎重に話をするんです。私に『引き当たり』をさせてもらえませんか!?」
 引き当たりとは、つまり現場検証のことだ。
「そうか。やってみようじゃないか」
 寺尾*2は即答した。(pp.159-60)

 著者の赤石氏は、「引き当たり」をごく簡単に「現場検証」と言い換えているが、重要なのは、「被疑者などを現場へ連れて行く」という点である。ここでも、その下川(仮名)という証人を現場に同行させて重要な証拠を得るという展開になっている。
 前掲の下村著は、「引き当たり」について次のように説いている。

被疑者を犯行現場などに連行して,犯行時の裏付け捜査をすること。「明日,娑婆の空気を吸わしたる。引き当たりやぞ」と刑事は値打ちをつける。かつては,引き当たりに行った帰りに刑事は「コーヒーでも飲め」と缶コーヒーなどを被疑者におごっていたが,このような利益供与は少なくなっている。「サービス悪いでんな」とふてくされる被疑者もいる。(p.128)

 ちなみに、ニュースなどでよく耳にする「現場検証」という表現は、どうもメディア用語であるらしい。古野まほろ『警察用語の基礎知識―事件・組織・隠語がわかる!!』(幻冬舎新書2019)には、以下の如くある。

 ところがこの「現場検証」という言葉も、業界ではあまり聞きません。意図して使うことはまずないと思います。「容疑者」「重要参考人」同様、解りやすさその他の理由から一般化したメディア用語だと思います。
 ここで、捜査でいう検証――音節が少ないので、業界用語でもケンショウ――とは、確かにメディア用語でいう現場検証を含みますが、実はもっと幅広な概念です。すなわちケンショウとは、業界の堅い言葉でいうと、捜査員等が「①五感の作用により、②身体・物・場所の、③存在・性質・状態を認識する強制捜査」のことです。(p.54)

 なお、隠語に関しては、約3年前に「再び『けいずかい』、あるいは掏摸集団の隠語について」という記事を書いている。また、特に警察関係の隠語については、約8年半前の「読書メモ抄」で触れたことがある。
―――
 7月1日にフジテレビ系で放送された「奇跡体験!アンビリバボー」の「実録!戦慄の国内事件」で、『完落ち』第六章「自演」の内容が映像化され、大峯氏も出演していた。『完落ち』の紹介映像もあった。(8.2記ス)

*1:同じ語に由来するものでも、「スクープ」「スコップ」と形を違えることで日本語としての意味に差異が生じる例としては、「トラック」「トロッコ」、「スティック」「ステッキ」などがある。

*2:当時の捜査一課長・寺尾正大氏。寺尾氏が今年一月に亡くなったことは、赤石著「あとがき」の追記でも触れられている(p.235)。「大峯氏が最も敬意を持っていた上司だった」といい、本文中にも何度か登場する。4月24日付朝日新聞夕刊の「惜別」欄では、指揮官として徹底的に報告書を読み込む姿勢や、「被害者の気持ちを忘れずに捜査すれば、難事件も解決できる」を信条としたことなどが描かれている。

ツィマーマンのベートーヴェン

 昨年はベートーヴェン・イヤーであったが(生誕250年)、あいにくのコロナ禍で休日の外出もままならず、コンサートへは一度も行けなかった。岡田暁生氏は、「コンサートやライブが自粛されていた間、録音音楽ばかり聴いていたせいで逆に、生の音楽における背後のかすかなお客たちの気配やざわめきが、いかに音楽を生き生きと映えさせるための舞台背景であったか、改めて実感した」(『音楽の危機―《第九》が歌えなくなった日』中公新書2020:28-29)と書いており、これにはまったく同感であった。
 しかし「録音音楽」というのは、自分の好きなときに好きなだけ、居ながらにして何べんもくり返し聴けるという利点があるわけで、夕まぐれの曖昧な時間帯に、あるいは深夜の夢寐のうちに、アルバン・ベルク四重奏団による『ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第12番変ホ長調弦楽四重奏曲第16番ヘ長調』『ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調』(いずれもワーナークラシックス)を筆頭に、ベートーヴェンの楽曲を何度もくり返し聴けたのは、非常によい経験になり、また刺戟にもなった。
 EテレやBSなどでベートーヴェンの演奏会がかかるかどうかも缺かさずチェックしており、過去の名演が放送されると聞けば、きっと録画して、帰宅後のひとときにゆっくり聴いていた。
 今年に入ってからもなおその熱はさめやらぬ状態で、先月下旬には、NHKBSプレミアムで、ツィマーマン(p)、バーンスタイン&ウィーン・フィルによる「伝説の名演を再び! ツィマーマン*1が弾くベートーベンのピアノ協奏曲」という3本立てのシリーズが放送されたので(3番、4番、5番。いずれも1989年のライヴ収録)、こちらも録画し、それぞれ少くとも3回は通して聴いている。
 ツィマーマンと云えば、わたしは高校生の頃に、カラヤン&ベルリン・フィルカップリング盤『シューマングリーグ ピアノ協奏曲』(グラモフォン)がすっかり気に入り、愛聴していたことがあった(1981~82年録音)。この盤のシューマンの協奏曲については、青山通(青野泰史)氏が、

 とにもかくにも、まずツィマーマンのピアノに感嘆してしまう演奏だ。(略)ここでツィマーマンが高速で弾く八分音符の一つひとつは、くっきりと粒立ち、クリアで明晰な音色で響いてくる。やや遅めのスピードで入り、テンションを高めていく流れはみごとだ。(略)第1楽章は、とくにこの3つの木管楽器*2がピアノとよくからむのだが、ベルリン・フィルの希代の名人たちからツィマーマンへのメロディの橋渡しは、シューマンのピアノ協奏曲史上でもベストの1枚に挙げられるだろう。(『ウルトラセブンが「音楽」を教えてくれた』新潮文庫2020:109-10)

と評している。
 しかし、ツィマーマンによる「ベートーヴェンの」協奏曲は、実をいうと、これまでに一度も聴いたことがなかった。
 わたしがベートーヴェンの音楽に衝撃を受けたのは交響曲第3番「英雄」で、これを初めて聴いたのは父の持っていたカセットテープ、ハンス・シュミット=イッセルシュテット&ウィーン・フィルの演奏だったから(確か1960年代の録音。その後よく聴くようになったのは、カラヤン&ベルリン・フィル、モントゥー&アムステルダム・コンセルトヘボウ管、フルトヴェングラー&ウィーン・フィルだった)、これこそまさにベートーヴェン!という固定観念や思い込みがあったせいか、かつてはピアノ協奏曲も、とりわけ5番(よく聴いたのはバックハウス(p)、イッセルシュテット&ウィーン・フィル)が好きだった。
 しかし年齢とともに嗜好も変わるものなのだろうか、ツィマーマンの演奏をじっくり聴いていて、特に惹かれたのは「4番」なのだった。5番の方は、以前ほどにはよいと思えず、これはツィマーマンだからそう感じたのかと思って(まさか!)、カサドシュ(p)、ロスバウト&ロイヤル・コンセルトヘボウ管の5番などを聴いてみたけれど、やはり印象はあまり変らなかった*3
 ところで、新保祐司氏はこの第4番について、『ベートーヴェン 一曲一生』(藤原書店2020)で「ピアノ協奏曲全五曲の中で、一番好きな第4番」「ピアノ協奏曲に限らず、ベートーヴェンの全作品の中で、一番好きかも知れない」(p.158)と書いており、

 この第4番のベートーヴェンは、実に新鮮な精神である。第1楽章の、ピアノで開始される第1主題を聴いた瞬間に、もう心は高められる。何という冴えであろう。この第1主題は、第5交響曲のいわゆる「運命の動機」と近親関係にある。この新鮮さが、単なる新しさではなく、深みのある新鮮さである所以である。(p.158)

と記し、さらに、吉田秀和武満徹も第4番が好きだったということに触れている。
 新保氏はこれ以前にも、「恐るべき独創―ホルスト・シュタイン」という文章のなかで、次のように述べている。

 ベートーヴェンの全五曲の(ピアノ)協奏曲の中で、私はこの「第四番」が最も好きだが、この「第四番」は、逆説的にいえば、ベートーヴェンらしくないものなのである。
 当時、いわばベートーヴェンらしい名曲をまず聴いていた私は、この曲に至ってベートーヴェンらしさなどを突き抜けた、ベートーヴェンの本当の独創を感じとったのである。
 冒頭で、直ちにピアノが第一主題を呈示するところで、もう私は、あえていえば陶酔してしまう。何という独創であろう。大胆さであろう。こういう創造の力を見せられると、それだけで人間の精神の栄光を感じ、深く感動する。(『ハリネズミの耳―音楽随想』港の人2015:166)

 なお、新保氏の『ベートーヴェン 一曲一生』は、「みすず」二〇二一年一・二月合併号「読書アンケート特集」で富士川義之氏が紹介しており、「著者もまた『正気を保つために』はベートーヴェンを聴き、彼の音楽について書くことが不可欠であったのである」(p.54)等と書いていた。
 ちなみに、4月に入ってからは、ヴァイオリン・ソナタ第5番ヘ長調「春」もよく聴いている。以前は専らケンプ(p)&メニューイン(v)だったが、最近は、フィルクシュニー*4(p)&ミルシテイン(v)の演奏で聴いている。

ベートーヴェン 一曲一生

ベートーヴェン 一曲一生

ハリネズミの耳 音楽随想

ハリネズミの耳 音楽随想

  • 作者:新保 祐司
  • 発売日: 2015/11/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

*1:ツィメルマン」というカナ表記のほうに馴染みのある方もいらっしゃるかも…。

*2:クラリネット、フルート、オーボエ

*3:そもそも「皇帝」という俗称的な副題があることで、イメージが先行してしまうのかもしれない。

*4:「フィルクスニー」とも。

フレドリック・ブラウン「星ねずみ」

 ひところ、古書肆や新古書店に入るたびに、目を皿のようにして連城三紀彦フレドリック・ブラウンの本ばかり探していたということがあった。
 最近は一時期に較べると、いずれもかなり見つけにくくなってきたのを感じていたが、このところ、両者の復刊や新訳が相次いでいるのは嬉しいかぎりだ。
 まず連城作品は、未刊だった長篇『悲体』『虹のような黒』が幻戯書房から出たり、「連城三紀彦傑作集1、2」*1を皮切りに『運命の八分休符』『敗北への凱旋』といった入手のやや困難だった作品が創元推理文庫に入ったりした。
 またブラウン作品の方は、「フレドリック・ブラウンSF短編全集」全4巻が東京創元社から出たり(約1年半かけてこのほど完結した)、高山真由美訳『シカゴ・ブルース』や越前敏弥訳『真っ白な噓』がやはり創元推理文庫の「名作ミステリ新訳プロジェクト」シリーズ枠*2で刊行されたりしている。後者の小森収「解説」によれば、越前氏は『復讐の女神』の新訳も準備しているのだそうだ*3
 連城作品についてはまた機会があれば述べるとして、今回は、ブラウン作品のうちで私が最も多くの訳書で読んだ「星ねずみ」(Star Mouse)を紹介することとしたい。
 「星ねずみ」は初め、ロバート・ブロック*4編/星新一訳の『フレドリック・ブラウン傑作集』(サンリオSF文庫1982)で読んだ。その「訳者あとがき」に、星が、

「星ねずみ」では、博士のひとりごとが、すべてドイツ語なまりなのである。アメリカ映画にもドイツ語なまり、フランス語なまりのキャプションが、時たまある。日本で「SFマガジン」にのった時は、井上一夫氏がそれを九州的方言で訳し、えらく好評だった。ひとつの試みである。ここでは未熟さを強調して訳したが。(p.484)

と書いていたのが気になっていたところ、しばらく後、某古書肆の店頭二百均にフレドリック・ブラウン早川書房編集部編『わが手の宇宙』(ハヤカワ・SF・シリーズ1964)を見出したのだった。これには、都筑道夫訳「1999年」、福島正実訳「狂った星座」等と並んで、井上訳「星ねずみ」が収められているのだ。
 さてその「九州的方言」がどういうものかというと、

「ほほう! こいは! ミッキー・マウスじやあなかとな! ミッキーや、どうかい、来週、ひととびしてみんかね? おもしろかぞ」(p.91)

「ミッキー、おんしは、名前ばもらつたちねずみば、見たことあつとな? なになに? ないと? 見んさい、こいがウォルト・ディズニーミッキー・マウスばい。だが、おいは、おんしのほうがかわいいと思うちよつと」(p.92)

「ミッキーやこげんこつは、精度と幾何学的正確さが肝心ばい。すべて条件はそろつちよる――おいたちはただそいを組み合せるだけで――なあミッキー、どげんこつになると思う?
 引力圏からの脱出ばい、ミッキー。ただただ、引力圏から出るこつだけばい。たぶん、未知の条件もあるかもしれん。大気圏の上層、対流圏、成層圏とな、おいたちは、抵抗を計算でくるよう、そこん空気の量を正確に知つちよるつもりばい。けんど、完全に自信があつとな? ミッキー、そげんうまくはいかんばい。まだ、行つちみたこともないとこじやけんな。だが、機械もこまいけん、空気の流れも大した力はあたえんじやろう」(p.93)

等々、まさに、「九州的」方言というほかはない。これをはじめに読んだとき、『社長漫遊記(正続)』だったかでフランキー堺が演じた強烈なキャラクターを思い起したりして、ひどく可笑しかったものだった。
 ちなみに引用の三箇所目にあたる部分を、星がどう訳したのかというと、

「わたしは実現させたいのだ。小規模ではあるが、すべて入念に計算をばなされ、バランス的な条件はととのっておる。で、どうなるかじゃ、ミッキー。引力圏からの脱出である。すごいことなりだぞ。大気の上層部分の空気密度、空気抵抗。万全の計算したつもりではあるが、保証つきと断言はでけん。しかしながら、小型なるがゆえに、うまくいくじゃろう」(p.234)

となっている。それにしても、この主人公の博士というかオーベルビュルガー教授がもともと「ひとりごと」を好む性格で、鼠にさえもどんどん話し掛ける、といった設定のお蔭で、地の文で延々と状況説明をせずに済むわけで、結果的には、作品がテンポよく進むことになっている。あるいは、地球人の登場人物が極端に少ない作品なので、わざわざそのようにしたのかもしれない。
 さて上掲の箇所を、今度は中村保男訳『宇宙をぼくの手の上に』(創元推理文庫1969*5)所収「星ねずみ」で見てみよう。わたしが三番目に読んだ訳である。

「これは、一分の狂いもない絶対の精密さと、数学上の正確さが必要なものなのじゃよ、ミッキー。条件はなにもかも揃っとる。あとはそれらを組み合わせさえすればいいのじゃ。そうしたら、なにを実現させることができると思うかね、ミッキー。
 引力圏内から脱出するのに必要な速度じゃよ、ミッキー! それで脱出速度が倍加するのさ。たぶんな。大気圏の上層、対流圏、成層圏には、まだ未知の要素があるやもしれん。どの程度の空気抵抗があるかは正確にわかっとるつもりじゃが、完全に自信があるとは言えんのじゃ。そうなんじゃよ、ミッキー、自信はないのじゃ。実際にそこまで昇ったことはないのじゃからな。しかも、安全余剰(マージン)はきわめてわずかなので、気流というような些細な要素に影響されかねないのじゃ」(p.269)

 原文は見たことがないが、こうして並べてみると、――他の箇所からもそう感じたのだが――星訳はかなりの意訳であろうことが推察される。
 最近の安原和見訳『フレドリックSF短編全集』(東京創元社2019~2021)の第1巻(2019年刊)の表題作が「星ねずみ」で、わたしが四番目に読んだのがこちらである。当該箇所の訳文はというと――。

「これはな、たんに徹底的な精密しゃと数学的正確しゃの問題なんじゃよ、ミツキー。なんもかもとうにあるもんばっかりなんじゃ。しょれをただ組み合わしぇりゃ――しょれでどうなると思うね。
 脱出速度じゃよ、ミツキー。ほんのちょびっとじゃが、脱出速度を上まわるんじゃ。たぶんな。まだわかっちょらん要因があるんでな、ミツキー、大気圏のうえ、対流圏、成層圏まで行くとな。抵抗を計算しゅべき大気の量は正確にわかっちょるつもりじゃが、果たしてしょれは正確かっちゅうこっちゃ。いんや、ミツキー、正確じゃありえんのじゃ。なんしぇ行ったことがないんじゃからな。しかも許容幅がえれえ狭いんでな、ちょびっと気流があるだけで影響が出かねんのじゃよ」(p.62)

 安原訳が、他の訳者がみな「ミッキー」としているところを「ミツキー」と訳しているのは、実は意図的にそうしているのであって、牧眞司氏の「収録作品解題」に、

 この主人公はミッキー・マウスならぬ、ミツキー(Mitkey)である。ディズニーのミッキー(Mickey)は一九二八年に誕生し、ブラウンが「星ねずみ」を発表したころ(1942年―引用者)にはすでにすっかり人気者になっていた。読めばおわかりのとおり、この作品は読者がミッキーを知っていることを前提として書かれており、ぬかりなくディズニーへのリスペクトも盛りこまれている。(p.333)

とある。
☆☆☆
 今回はブラウンのSF作品を特に取り上げたが、ミステリ作家としてのブラウンについては、『短編ミステリの二百年3』(創元推理文庫2020)巻末の小森収氏の解説「第五章 四〇年代アメリカ作家の実力」の第2、3節(pp.631-48)がたいへん参考になる。

*1:特に「2」の方に収められた『落日の門』はこれが初めての文庫化となった。

*2:当初このシリーズは冊数を限っていたが、好評を博したのか、最近は無制限に出しているようだ。

*3:旧訳は、『シカゴ・ブルース』が青田勝訳、「短編集1」の『真っ白な噓』が中村保男訳、「短編集2」の『復讐の女神』が小西宏訳。ちなみに旧訳『真っ白な噓』は、原書にはあった “The Dangerous people” について、『世界短編傑作集5』(リニューアル版は『世界推理短編傑作集5』)が既に収めていたため(大久保康雄訳「危険な連中」)あえて省いたのだそうだが、越前氏による新訳版は「危ないやつら」とタイトルを改めて収めている。このほか、星新一訳として「ぶっそうなやつら」(『さあ、気ちがいになりなさい』所収)もある。

*4:『サイコ』の原作者として知られる。

*5:手許のは1982年3月5日19版。

『爾雅』の話

 國分功一郎『中動態の世界―意志と責任の考古学』(医学書院2017)には色々と触発されるところがあって、

 かつて中動態は、中動態と能動態とを対立させるパースペクティヴのなかにあった。中動態は能動態との対立のなかで自らの位置を確定していた。ところが、そのパースペクティヴは受動態の台頭とともに変化していく。もともとは中動態から派生したものに過ぎなかった受動態が中動態に取って代わった。
 いまわれわれは、そのような、能動態と受動態とを対立させるパースペクティヴのなかにいる。ならば、そのようなパースペクティヴのなかに中動態をうまく位置づけられないのは当然である。中動態はこの歴史的変化のなかで、かつて自らが有していた場所を失ったのだ。(pp.79-80)

という記述などにも蒙を啓かれたものだった。これを援用すれば、例えば『干祿字書』が定義する漢字字体の「俗・通・正」というタームも、「俗:通:正」の三項対立ではなく「俗:正」と「通:正」との二つの二項対立に切り離しておくのが本来で、それだとむしろ字体の処理がスムースに行くのでは、などと考えたりしていたのだが、こういった対概念に限らず、等価の関係であっても、二項で考える場合と三項で考える場合とではその意味するところが異なってくる場合もあるのだろうな、と感じられる例に逢著した。
 先日、小川環樹・西田太一郎・赤塚忠(きよし)編『新字源』(角川書店)で「肆」字を引いていたところ、十六番目の語釈に「いま。(類)今。」とあるのに偶々目がとまって、へえこの字にはこんな意味も有るのかと、そうおもったことがあった。
 その後、なぐさみに『爾雅(じが)郭注』*1をぱらぱら捲っていたとき、巻一「釋詁(しゃくこ) 下」本文に「治肆古故也」「肆故今也」とあるのにたまさか気づき(それまでに何度も披いていたというのに、今さら、である)、後者(前者については、いまは無視するが後述する)に対応する晋代の郭璞の注文(郭注)を見ると、「肆既爲故、又爲今。今亦爲故、故亦爲今」となっていたのだった。つまり「『肆』は『故』(の義)であり、そのうえさらに『今』(の義)でもある」、という訣である。続けて郭は、「此義相反而兼通者、事例在下而皆詩」という。この後半部がよく判らなかったのだが(これについては後述)、「義相反而兼通」と言っているから、郭はこの「故」「今」を「ふるい」「いま」と解し、「肆」がその相反する両義を兼ね備えていると主張していることが判る。
 『新字源』の語釈はこの記述を基にしたのだろう、と考え、そのときはそのまま深くは調べずに了った。
 ここで一寸『爾雅』について説明しておく。『爾雅』は漢代に成立したとされる字義分類体の字書である。有名な許慎の『説文解字(せつもんかいじ)』に先んじて編まれたと考えられる。全体が十九篇に分れており、カテゴリ別に「釋詁」「釋親」「釋楽」「釋木」などの篇名が与えられている。例えば「釋親」は親族名称、「釋楽」は音楽に関することばを類聚している。『爾雅』がどういう風にことばを集めていったかということについては、頼惟勤(らいつとむ)が直截簡明に説いているので以下に引いておく。

 いろいろ経書を読んでみると、そこには訓詁が付いている。『詩』*2でいえば毛公(もうこう)が訓を付けている。『書』*3でいえば孔安国(こうあんこく)が訓を付けている。それをいわばカードにとって整理していくのと全く同じ方式を、『爾雅』は採っている。『爾雅』には、特に『詩』と『書』の語彙が多い。
 たとえば、『詩』を訓詁をたよりにして読んでいくと、「俶(しゅく)、始也」という例が出てくる。これは、「毛伝」である。ただし、『爾雅』の立場からすれば、これが『詩』のどこにあるのかは問題ではない。とにかく、「俶、始也」という訓詁があることがだいじなのである。また、『詩』の毛伝に「哉(さい)、始也」という例がある。この「哉」は〈カナ〉と訓読する助詞ではなくて、始という意味である。それから、「哉」が「始」である用法は『書』にも出てくる。毛公がいおうと、孔安国がいおうと、それは『爾雅』としてはかまわない。ともかくも「始也」の訓詁があることが大切なのだ。そこで、この「始也」の場合も含めて、いろいろな種類の訓詁をカードに拾う。そして、整理するときに、たくさんの「始也」が集まったとする。この場合の整理の仕方の一つに、「初、始也」「哉、始也」「首、始也」などをこのままずっと並べるやり方がある。ところが、『爾雅』ではこれを簡単にして、「初、哉、首、基、肇、祖、元、胎、俶、落、権輿(けんよ)、始也」という並べ方をしている。『爾雅』の撰者は、これだけの「始也」を拾い出した。このように一挙に連続させて書いてあるが、これは「初、始也」「哉、始也」「首、始也」「基、始也」「肇、始也」「祖、始也」「元、始也」「胎、始也」「俶、始也」「落、始也」「権輿(これだけが二音節)、始也」と同じことである。要するに、『詩』や『書』を読んでいくと、「始也」という訓の付いている字がいろいろ出てくる。それを総合すると、このようになる。だが、仮に「権輿」の字の意味がわからないときに、『爾雅』を使うとすると、これは不便である。暗唱でもしてしまわないと使えないことになる。(頼惟勤著/水谷誠編『中国古典を読むために―中国語学史講義』大修館書店1996:22-23)

 さて諸橋轍次編『大漢和辞典』(大修館書店)で「肆」を引いてみると、十四番目の語釈に「故にいま。又、いま。」とある。ここでは例の『爾雅』の「肆故今也」を「肆、故今也」と解した上で、上掲の郭注を引き、さらに「疏」(=注釈に対する注釈。この場合は郭注に対する宋代の邢ヘイ〔日+丙〕による注釈)の「以肆之一字爲故今、因上起下之語。」を引いていた。要はこれが、『爾雅』本文の記述を「肆=故今也」と解釈する根拠になっているらしい。
 この「疏」を、今度は『爾雅注疏』*4で確認してみよう。その巻二の「疏」に「毛傳云肆故今也即以肆之一字爲故今……」とあるから、邢ヘイは毛伝の記述をもとに、『爾雅』の記述を「肆、故今也」と解していることが知られる。清代の劉淇『助字辨略』(章錫琛校注)*5巻四の「肆」字の項を見ても、邢疏を引用しつつ、やはり「肆、故今也」と記している。劉はしかし、同じ巻四で「自」字を解するにあたって、『爾雅』の郭注ならびに邢疏を引用しているから、「肆」の項では、どうやら意図的に郭注を無視して邢疏のみ引用しているらしいことが判る。つまり、「肆既爲故、又爲今」という解釈は適当でない、と切り捨てているとおぼしい。
 同じく郭注を批判しているにも拘らず、これらとは異なる見方をするのが、宋代の王觀國である。王は『學林』巻二で、次のように述べている――中華書局刊の「學術筆記叢刊」版(1988年刊,2006年重印)から引く――。

觀國按:爾雅釋詁一篇,皆用一字爲訓,曰治,曰肆,曰古,此三字皆訓故也;曰肆,曰故,此二字皆訓今也。若從郭璞注,則是以故、今二字而訓肆也。此篇未有以二字爲訓者。(p.49)

 そして、『爾雅』の例えば「尼定曷遏止也」という記述は、「尼、定、曷、遏四字,訓止也」と解釈すべき旨を述べたうえで、

爾雅釋詁、釋言二篇,皆用一字爲訓。郭璞誤析其句,反以故、今二字而訓肆,字義雖亦通,而非爾雅句法也。(同前)

と説く。『爾雅』の「句法」から考えると郭注の解釈は成り立ちえない、といっている。ここでは、上で見たような郭注の「肆=故也∧今也」という解釈を批判しているわけだ。そしてこれは同時に、邢疏や後代の劉淇の解釈、すなわち「肆=故今也」とも異なる見解を打ち出していることにもなる。
 しかし、先にみたとおり「肆=故今也」は毛伝の解釈なのであり、頼が説くように、『爾雅』は毛伝等の訓詁を蒐めて作られていたのだった。
 だとすれば、王説はきわめて分が悪くなる。王は毛伝を恐らく見ていないし、毛伝を引く邢ヘイの疏も見ていないだろう*6
 とは云え『爾雅』釋詁篇の「句法」としては、解釈される語に二音節語がくることはあっても(頼の引用にあった「権輿」のように)、語釈の部分に二音節語がくることはなさそうである*7。ゆえに王のような解釈が出て来るのは無理もないことと考える。
 以上を要するに、『爾雅』の「肆故今也」について、郭注は「肆=故也∧今也」(A=B也∧A=C也)と解し、王は「肆、故=今也」(A、B=C也)と解していることになる。両者はたしかに大きな違いである。前者は必ずしもB=Cとは云えないのであるから。
 ここで、先ほどは無視した『爾雅』本文の「治肆古故也」(「肆故今也」の直前に出て来るもの)の解釈について考えてみよう。こちらは素直に、「治、肆、古=故也」と解釈できるだろう。しかし冒頭になぜ「治」が現れるのかよく判らない。郭注も「治未詳」といっている。ただ「治」と「肆」とは同韻字(去声寘韻字)であるから、「肆」を抜き出してくる際に、音注か何かをうっかり一緒に引用してしまった蓋然性がある。あるいは、単なる誤記、何らかの通假例といった可能性も残るが、今はとりあえず「治」は無視するとして、「肆、古=故也」と考えておく。この場合、「肆」「古」「故」は「ゆえに」の意味を表していると考えられる。「古=故也」だけだと、その意味を特定しがたいが(むしろ「ふるい」という義が直ちに想起される)、この両者の関係に、「肆」が割って入ってくることによって、この場合は、「古」も「故」も「ゆえに」であるだろうことが予想されるからだ。「古」が「故」の通假字として機能したことは、かつてしばしばあったらしい。白川静『字通』(平凡社)も、「金文の〔大盂鼎(だいうてい)〕に「古(ゆえ)に天、翼臨して子(いつくし)む」とあり、古を故の意に用いる」と説く。
 さて次に、問題の「肆故今也」である。こちらは王の説では、「A、B=C也」という形になるのだった。そうするとこれは、「A=C」「B=C」と分けて考えることができる。当然ながら、「A=B」ともいえるわけだが、「A、D=B也」(Dは「古」)というのが先に出て来た。こちらは「D」との関係において「A=B」を考えなければならず、「ゆえに」の意味だろうと解釈して置いた。一方「A=C」「B=C」は、「C」との関係において「A=B」を考える必要があり、しかも前出の「ゆえに」の義ではあり得ない(それならば前項にまとめてしまう筈だからだ)。このうち「B=C」すなわち「故=今」は、郭注の解釈はいまは措くとして、「これ」という代名詞としての用法が共通しているとも解釈できる。しかしそうなると、「肆」が浮いてしまう。「肆」に代名詞的な用法があるとは寡聞にして知らない。
 ここでもう一度、郭注の解釈に戻ってみる。郭は、「肆=故也∧今也」(A=B也∧A=C也)と解釈していたのだった。そのうえで、「此義相反而兼通者、事例在下而皆詩」と述べていたのであった。この後半の「事例在下而皆詩」が、初めに『爾雅注』を見た段階ではよく判らないと先に記したけれども、実はこのことについては邢疏が補足していた。「在下者謂在下文徂在存也注」と。すなわち『爾雅』の「徂在存也」に対する郭注を見よというわけだ。
 そこで、「徂在存也」を捜してみると、これは釋詁篇の後のほうに出て来る。たしかに、ここで郭注は「以徂爲存猶以亂爲治(略)以故爲今此皆訓詁義有反覆」と言っていて、「徂(死ぬ)」が相反する「存」の義を、「亂(みだれる)」が相反する「治」の義を(後者は「亂」と別字を混用したものかともいわれる)もつことを例にあげ、「故」「今」の例にも言及している。ただ、郭注のこれらの説明はやや不十分で、「故」「今」両字の関係については述べているとしても、肝心の「肆」が相反する両義を兼ね備えていることの例を挙げての説明になっているとは言いがたい。
 すっかり遠回りしたが、『爾雅』の「肆故今也」は毛伝をもとにしており、釋詁としては異例であるけれども、「肆、故今也」と解釈すべきで、邢疏がいうように「以肆之一字爲故今、因上起下之語」としておくのが、やはり無難なところなのかもしれない。
 『爾雅』に採録された語は、以上にみてきたように、引用元やそのコンテクストからは全く切り離されているので、ある字がどのような義を表しているかについては、他の字との関係から類推してゆくほかはない。
 こうして、「肆故今也」のどこをどう区切り、どこを等号で結びつけるかをあれこれ考えているときに、その解釈が巧く行ったり行かなかったりして、『中動態の世界』の前掲の一文を思い起していた――という訣なのだった。

中国古典を読むために―中国語学史講義

中国古典を読むために―中国語学史講義

  • 作者:頼 惟勤
  • 発売日: 1996/03/01
  • メディア: 単行本
琴棊書画 (東洋文庫)

琴棊書画 (東洋文庫)

  • 作者:青木正児
  • 発売日: 1990/08/05
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)

*1:手許のは台湾・新興書局刊(1971)で、「國学基本叢書」という影印本シリーズの一冊。

*2:いわゆる『詩経』のこと。

*3:いわゆる『書経』のこと。

*4:手許のは、台湾・世界書局刊(2012年五版)の「經學叢書」の一冊、『爾雅注疏及補正附經學史五種』所収の影印本。

*5:手許にあるのは中華書局版の第2版(2004年刊)。なお、書名の「助字」が「助辞」を指すのでないことは夙に青木正児が指摘していて、「彼(劉淇)のいわゆる『助字』は虚死字であって、本書は虚死字を採集して弁ずるを主旨としたのであった」(青木正児「虚字考」『琴棊書画』平凡社東洋文庫1990所収p.168,初出は1956.4「中国文学報」)と述べている。

*6:邢ヘイは王よりも200年近く前に生れているはずなので、参照できる環境にはあったとおもうが、王は『爾雅注』しか見ていないと考えられる。

*7:もっとも、『爾雅』釋訓篇などには、「朔北方也」「蠢不遜也」といった例も有る。