「酒池肉林」の話

 「酒池肉林」は、日本でも古来親しまれてきた故事である。たとえば『太平記』第三十巻「殷の紂王(ちゅうおう)の事、并太公望の事」には、四字成語の形としては出て来ないが、

 (紂王は)また、沙丘に、廻り一千里の苑台を造りて、酒を湛へて池とし、肉を懸けて林とす。その中に、若く清らなる男三百人、みめ貌勝れたる女三百人を裸になして、相逐うて婚婬をなさしむ。酒の池には、龍頭鷁首(りょうどうげきしゅ)の船を浮かべて、長夜の酔ひをなし、肉の林には、北里の舞、新婬の楽を奏して、不退の娯しみを尽くす。天上の娯楽快楽(けらく)も、これには及ばじとぞ見えたりける。(兵藤裕己校注『太平記(五)』岩波文庫2016:45)

とあるし、曲亭馬琴南総里見八犬伝』にも、

…定包(さだかね)ます\/こゝろ傲り、夜をもて日を続(つぐ)遊興に、士卒の怨をかへりみず、或は玉梓と輦(てぐるま)を共にして、後園(おくには)の花に戯れ、或は夥(あまた)の美女を聚(つどへ)て、高楼に月を翫び、きのふは酒池に牛飲し、けふは肉林に飽餐す。(小池藤五郎校訂『南総里見八犬伝(一)』岩波文庫1990:82)

というくだりが有る。要は度を越えた奢侈を象徴するものとして「酒池」あるいは「肉林」が登場するという訣である*1
 小林祥次郎『日本語のなかの中国故事―知っておきたい二百四十章』(勉誠出版2017)は、劈頭に「酒池肉林」を挙げ、「『酒池肉林』という熟語は贅沢を尽くした酒宴を言うのだが、それにワイセツな気分を感じるのはわたくしだけだろうか。『肉』に女の肉体を想像するからだ」(p.3)と述べる。「ワイセツな気分を感じ」てしまうのは確かにその通りで、たとえば円満字二郎『四字熟語ときあかし辞典』(研究社2018)を見てみると、「酒池肉林」は「重要度☆☆☆実用性☆☆☆格調☆☆☆」と、(なぜか「格調」をも含めて)全ての項目で最高の三ツ星を獲得しているのだが、その本文に、「(故事のもとになった)『史記』の原文の続きにも、全裸の男女を走り回らせたという記述があり、淫らなイメージで使われることが多い。/転じて、“快楽に溺れるすさんだ生活”を指しても用いられる」(p.241)とある。また、武部良明『四字漢語辞典』(角川ソフィア文庫2020←『四字漢語の用法』角川書店1990)も同様に、「日本では、肉を女体の意味とし、みだらな宴会の場合にも用いる。史記にも、前記(「酒池肉林」のもとになった記述―引用者)に続けて、「男女ヲ倮(はだか)ニシテ其ノ間ニ相逐(お)ハシメ、長夜ノ飲ヲ為ス」とあるから、実際はみだらであったことになる」(p.302)とする。冒頭で引いた『太平記』の記述も、そういったイメージを補強するものとしてあるだろう。
 しかし、「酒池肉林」自体にはそのような淫靡な意味合いはない。奥平卓・和田武司『四字熟語集』(岩波ジュニア新書1987)も「『肉林』とあると、なんとはなしに女性のはだかを想像してしまうが、原文にはその意味はない」(pp.100-01)と書いているし*2、竹田晃『四字熟語・成句辞典』(講談社学術文庫2013←1990)は「酒池肉林」をごく簡潔に、

酒を池にたたえ、肉を木々に懸けるような、ぜいたくの限りを尽くした酒宴。豪奢な宴会。(p.249)

と説いていて、本来的な語義としては、この程度の記述にとどめておくのが無難なところだろう。
 ここで、司馬遷史記』の原文を見てみよう。いわゆる「標点本」正史の『史記 一・紀[一]』(中華書局1959.9第1版*3)から殷本紀の一部を引用すると、次のようである。

 帝紂資辨捷疾,聞見甚敏;材力過人,手格猛獸;知足以距諫,言足以飾非;矜人臣以能,高天下以聲,以爲皆出己之下。好酒淫樂,嬖於婦人。愛妲己妲己之言是從。於是使師涓作新淫聲,北里之舞,靡靡之樂。厚賦税以實鹿臺之錢,而盈鉅橋之粟。益收狗馬奇物,充仞宮室。益廣沙丘苑臺,多取野獸蜚鳥置其中。慢於鬼神。大冣樂戲於沙丘,以酒爲池,縣肉爲林,使男女倮相逐其閒,爲長夜之飲。(p.105)

 「酒池肉林」でお馴染みの紂王について、まずは「資辨捷疾,聞見甚敏;材力過人,手格猛獸」(資辨捷疾、聞見甚だ敏し。材力人に過ぎ、猛獸を手格す)と云っているから、その卓抜した能力は認めていることになる。しかるに、「知足以距諫,言足以飾非;矜人臣以能,高天下以聲,以爲皆出己之下」(知は以て諫を距するに足り、言は以て非を飾るに足る。人臣に矜るに能を以てし、天下に高しとするに聲を以てし、以爲らく皆己の下に出でたりと)と、驕慢な性質をも併せ持っていたとする。「好酒淫樂,嬖於婦人」以下に至ってはもう散々な書きぶりで、そのくだりに、「以酒爲池,縣肉爲林,使男女倮相逐其閒,爲長夜之飲」*4が出て来る。
 なお、「以酒爲池」につく注釈には『史記正義』からの引用が見られ、

括地志云:酒池在衛州衛縣二十三里。太公六韜云紂爲酒池,廻船糟丘而牛飲者三千餘人爲輩。(p.106)

とあるのだが、『六韜』のこの記述(「廻船糟丘而牛飲者三千餘人爲輩」)などを踏まえているのが、以下の宮崎市定の言である。

 我々が習う中国歴史の最初に出て来る話は殷の紂王の奢侈であります。紂王は奢侈のために国を滅ぼしましたが、何をしたかと云うと、いわゆる酒池肉林、酒で池を造り、肉の林を構え、あるいは酒糟で岡を築いたとも謂います。そこに招待されて牛のように飲み馬のように食う者が三千人。そういう話が最初に歴史に出て来ます。即ち古代における奢侈の代表は紂王でありますが、そういう行為を今日から見て一体どこが奢侈であったかと云うと、結局分量が多すぎるというだけであります。(略)単に酒池肉林でいわゆる長夜の飲をなしたのであって、当時の奢侈は何でも分量を貴んだものです。(宮崎市定「中国における奢侈の変遷」,礪波護編『中国文明論集』岩波文庫1995*5所収:13-14)

 ついでながら、宮崎は「長夜之飲」について、『史記』殷本紀のほか王充『論衡』語増第二十五を引いているのだが、さらに次のように補足している。

 この長夜の飲とは、普通に朝に達するまで飲みつづける事と解するが、また別に、
〔宋の陸游の『老学庵筆記』巻四〕古のいわゆる長夜の飲、或いは以て旦(あした)に達すとなすは、非なり。薛許昌(せっきょしょう)の宮詞に云う、画燭(がしょく)は蘭を焼きて煖(あたたか)く復た迷い、殿帷(でんい)は深密にして銀泥を下す。門を開き侵晨の散を作(なさ)んと欲するも、己に是れ明朝にして日は西に向うと。此れいわゆる長夜之飲なり。
 とあって、これに従えば明日の日暮まで飲み続けることである。(p.37)

 一昨年に亡くなった井波律子氏には、『酒池肉林―中国の贅沢三昧』(講談社現代新書1993)という著作があるが*6、そこでは紂王の「悪行」はあくまで話の緒としての役割を果たすに過ぎず、当該書は、文学作品等に現れた桁外れの奢侈や蕩尽を通史的に眺めようとするもの。したがって紂王説話については、『史記』の記述をなぞるに止まる。
 では、紂王の贅沢三昧は果して事実であったのか――と云うと、答えは、否である。
 まず、さきに引いた小林著も「歴史は勝者の記録で、負けた者はどんどん悪者にされてゆくものだ。ましてこういう話には尾鰭がついてくる。紂の悪名は雪達磨式に増えてきたのだろう。『論語』(子張)には、孔子の弟子の子貢が『紂の不善はそれほどひどくはないのだ。』と言ったとある」(p.4)と書いているし*7、井波氏も『完訳 論語』(岩波書店2016)において、子張第十九の子貢の当該発言(紂之不善、不如是之甚也)に対する注で、「さすが聡明きわまりない子貢らしく、この章の発言も明晰そのものであり、伝説や伝承にしばしば見られる極端化現象を鋭く突いている」(p.575)と書き、紂王の挿話を「極端化現象」の一例と見なしている。
 ここまで「紂王」「紂」などと書いてきたが、これは実は諡号である。冨谷至『四字熟語の中国史』(岩波新書2012)には、

 周に滅ぼされた殷の最後の王は、三十代の王帝辛(ていしん)である。――殷の王の名称は、甲・乙・丙・丁の十干の名をもってつけられている。それは、太陽が十個あり、王族の各々をその十個の太陽の末裔と考えることを前提とし、そこから王族組織、祖先の祭祀の日、そして王の名称などは、すべてこの十干に起因する。
 帝辛はまた紂という諡(おくりな)をもっている。諡とは、人名のいくつかのカテゴリーの一つ、死後に生前の行いを評価してつける名称で、「紂」は「残義損善――義を残(そこ)ないて、善を損(やぶ)る」人物への諡号とされる。(p.101)

とある。そして冨谷氏は、

 そのようなこと(「酒池肉林」の宴など―引用者)が現実に存在した、それを実際に行ったとは考えられず、これは荒唐無稽な作り話でしかない。(略)つまりそれは、暴君の理不尽な贅沢・奢侈であり、それゆえ国が滅んだということを言わんとしたに過ぎない。(p.105)

と断言する。加えて、『史記』大宛列伝で「酒池肉林」が「贅沢三昧を行うといった抽象的」な意味で使われていることを引き合いに、司馬遷自身もそのことを承知していたと述べ、さらに、「暴君紂王のイメージもやはり作られたものでしかないと言ってよいだろう」(p.107)と記す。
 冨谷氏の著作でさらに興味ふかいのは、なぜその奢侈を表す言が「酒の池」「肉の林」でなければならなかったのか、という必然性を問うたところで、詳細は同書に譲るが、

 つまり「酒池肉林」の酒と肉(牛肉)は、殷の時代から王朝の祭祀・儀礼の供物であり、それを無節度に飲み食いした、そこに殷の紂王の破滅の原因があった。そういった伝えは早く周の初期に現れ、儒教の倫理道徳という流れのもとで紂王の「酒池肉林」の話が次第に形成されていったのである。(p.114)

と結論している。
 別の観点、具体的には甲骨文や金文を解読することによって、「酒池肉林」はなかったと実証するのが、落合淳思氏である。落合氏は『甲骨文字に歴史をよむ』(ちくま新書2008)で、

 殷の滅亡と酒の関係は、実のところ周王朝成立後の主張であり、最も早いものは、西周金文の一つである大盂鼎に見られる。(p.209)

と説き、同書のコラムで 、「酒が原因で殷が滅びたというのは周王朝によるプロパガンダであり、それに何百年もかかって尾ひれがついて、最終的に『酒池肉林』という伝説が形成されたのであった」(p.212)と述べている。
 また落合氏は、『古代中国の虚像と実像』(講談社現代新書2009)の「第四章 紂王は酒池肉林をしなかった」で、『史記』が紂王を「慢於鬼神」(鬼神をあなどった)と評したことも否定し、むしろ先王への祭祀を熱心に行い、狩猟(遊興ではなく、政治的な意義があった)に打ち込むといった、『史記』の記述とはまるで異なる紂王の姿を描く。落合氏によると、「(祭祀と狩猟は)いずれも二日に一回以上の頻度であ」り、「とても『酒池肉林』をしている暇などはなかった」(p.43)という。
 なお落合氏は、『殷―中国史最古の王朝』(中公新書2015)でも、「酒池肉林」が史実ではなかったことに繰返し言及しており(pp.184-88)、さらには紂王の妃「妲己(だっき)」(上記『史記』の引用参看)までもがフィクションだったのだ、と説いている。最後にそれを紹介しておく。

 そのほか、殷本紀には帝辛の寵愛を受けた女性として「妲己」という名が記されているが、十干(己は十干の六番目)が使われるのは諡号であるから、生前の名に十干を用いることは殷の文化としてはあり得ない。逆に妲己諡号とすると、殷代には死去した女性に母某や妣某のような親族呼称が用いられたので、「妲」という固有の文字を使うことは考えられない。そもそも甲骨文字には「妲」の文字すら見られないので、妲己も後代に作られた架空の人物であることが確実である。(p.187)

*1:太平記』(岩波文庫の底本は西源院本)は「若く清らなる男三百人、みめ貌勝れたる女三百人を裸になして」と書いているが、その典拠はよく判らない。後に引用する司馬遷の『史記』には出て来ない。

*2:但し、続けて「もっとも、この宴会の全容を見るならば、この想像も、あながち見当はずれではない」と述べてはいる。

*3:手許のは1975.3第7次印刷。

*4:四字成語辞典の類で典拠を示したものに、「縣肉爲林」を「『懸』肉爲林」とするものがあるが、正確には「縣」である(管見の及ぶ限り、異本間での相違は無い)。因みに、尚学図書・言語研究所編『四字熟語の読本』(小学館1988、のち小学館ライブラリー1996)の引用は「縣肉爲林」となっているのだが、これを基にしているはずの『日本国語大辞典【第二版】』(小学館2001)はなぜか「懸肉爲林」。『日国』によると、「しゅちにくりん」には、「しし(肉)」の訛った「しゅちじじりん」という語形もあったのだそうで、「浄瑠璃・大友真鳥(1698頃)」からの引用がなされている。

*5:手許のは1999.1.14第4刷。また、「中国における奢侈の変遷」の原題は「羨不足論」(史学会五十年記念大会,1939.5)で、「史学雑誌」第五十一編第一号(1940.1)に収む。

*6:のち、講談社学術文庫(2003)。

*7:なお小林著は、『論衡』語増篇が「酒池牛飲」は事実でない、と指摘することにも言及しているが、宮崎がそのことに触れていないのはやや奇異である。

青春の日記の公刊相次ぐ

 昨年10~12月、著名人が十代後半に誌した日記の公刊が相次いだ。心の赴くままぱらぱら捲っていると、それぞれに、十代ならではの煩悶や鬱屈、そして抑えがたい向学心や旺盛な好奇心が垣間見られて面白い。
 たとえば田辺聖子は戦時下にあって、事あるごとに「勉強!」と書きつけ、自らを鼓舞している(以下『田辺聖子 十八歳の日の記録』文藝春秋2021.12刊から)。

 勉強! 勉強! 灯は燦然と彼方に在って輝いている。私はその灯をめがけて勉強する。たとえ戦争であったにしても私は私の行くべき道をしっかりと知っている。(1945.4.10,p.23)

 勉強! 勉強!
 青年の時代の美しさは勉強にある。旺盛な智識欲に燃える所にある。知りたい、憶えたい、究めたい、という純粋な美しい欲望が無限にひろがり、果しなく膨らんでゆくその楽しさを何にたとえよう。(1945.4.27,p.45)

 田辺は同年6月23日にも「勉強したい」(p.79)と記し、また7月9日には、「今、私はあらゆるものを吸収したくて体がフクレ上がっている」(p.90)とも書いている。
 さらに翌1946年5月2日には、「私の若い日、それは泣きたくなるほど尊いと思う」(p.134)と記し、陶淵明(陶潜)の「盛年不重來、一日難再晨」(雜詩十二首の其一)を引いたうえで、「(若い日を)無意義にあらしめたくない」と結んでいる。ちなみに偶ま今月、訳し下しの林田愼之助訳注『陶淵明全詩文集』(ちくま学芸文庫2022)というのが出ており(これはまったくのノーマークであった)、当該の詩はpp.311-12に収める。
 また餘談だが、1945年5月14日の條には、「私は二、三日前から略々察していたが、全く夢の様であって、とても本当のことと思えない」(p.54)とあって、「略々」に「ほぼほぼ」とルビが附されている。しかし、「ほぼほぼ」はあくまで現代の俗語。したがってこれは、編集サイドの単純なミスだろう。「略々」の訓みは「ほぼ」でよいはずだ。
 さて一方、1953年元日の「新年の所感」で「今を楽しく」過ごさなければ、と記したのは立川談志である(以下『談志の日記1953 17歳の青春』dZERO2021.11刊から)。

 今を楽しくくらさなければうそだと思う。これはけしてアプレゲールの精神ではない。しかしそれではいけないのであるからやんなっちまう。(p.7)

 以降談志は、若さゆえの切迫感からか、「する事がありすぎる」と何度も日記に記すことになる。

 すこし本を読まねばいけないと思うし、する事がありすぎる。(1953.3.24,p.57)

 する事が有りすぎて困る。(4.21,p.73)

 する事がありすぎる。(4.24,p.75)

 そのほか、青年期らしく?異性を意識した記述も処々に見られるし、下記のように意外なロマンチストの一面も覗かせる。

 (青春は)もっと明るくロマンチックな悲しいものであると思ひ、シャクにさわる。(5.23,p.91)

 しかし青春の貴重な時間を犠牲にしている、という感覚は、強烈な自負心と綯交ぜになり、やや屈折した感情も生む。

 目白では女学生、上野竹台高校では男女高校生がバレーをしていた。うらやましい。自分はこう云う時代を去ったのかと思うと淋しい。べんとうを持って一人で歩いている姿があわれっぽく見えた。馬鹿にするな。高座へ出れば一人前だ。(5.25,p.92)

 満19歳当時の北杜夫は、思索には読書こそが必要だという信念を懐いていた。斎藤国夫編『憂行日記』(新潮社2021.10刊)から引く。

 人は本を読まずに生きていける。
 読まずとも考えればよい。然し実際問題として、本を読まない生活に思索が行われるか。今の時分には否としか云えない。本を読まないだけでその生活はヌカっていると断じて誤りであろうか。(1946.10.15,p.172)

 次のように自己を律する言葉も。

 自分は何と云うなまけものになったか。8月になってから勉強の時間もとらず、自由な気持で本を読む積りだったが寝ている時間の方が多いみたいだ。(同年8.4,p.152)

 さて、そうして日記に目を通していて、特に興味ふかく感じるのは各人の映画の鑑賞記録である。テレビも本放送を開始する前の話で、映画が「娯楽の王様」であったことを十分に窺わしめるわけだが、たとえば北杜夫は『命ある限り』(日記では「生命あるかぎり」。1946.8.21)等、田辺聖子は『噫無情』(1947.1.4〔実際の鑑賞日は1月2日〕)、『アリゾナ』(同年1.19)、『どん底』(同年1.20)、『にんじん』(同年2.5)等々といった作品を観ているのだけれど、談志の観た作品の数は他を圧倒する。1953年6月12日の條には、

 観たい映画が有りすぎて困る。(p.102)

と書いているほどで、同年1月以降の主立った鑑賞作品を挙げてみると(表記は原文ママ)、『一等社員』『次郎長初旅』(1.12)、『ハワイの夜』(1.14)、『彼女の特ダネ』『学生社長』(1.19)、『夏子の冒險』(2.17)、『キリマンジェロの雪』(2.23)、『ライムライト』(2.24)、『まごころ』(3.13)、『百万弗の人魚』(4.18)、『雨にうたへば』(5.13)、『十代の性典』(5.18)、『地上最大のショウ』(5.28)、『シンデレラ姫』(6.11)、『三つの恋の物語』(6.17)、『青色革命』(6.18)、『續思春期』『都会の横顔』(7.8)、『ナイヤガラ』『情無用の街』(7.17)、『無法松の一生』(8.3)、『腰抜け二丁拳銃の息子』『西部の男』(8.5)、『春雪の門』(9.3)、『花咲ける騎士道』(9.24)、『貴女は若すぎる』(9.25)、『誘蛾燈』(10.8)、『終着駅』(10.20)、『禁じられた遊び』(10.26)、『MP』(『腰抜けM.P』)(11.4)、『地獄門』(11.6)……、といった具合。
 そのうち個々の感想をいくつか拾ってみると、次の如くである。

 若藏さんと武藏野館で「雨にうたへば」を見る。時間が気がかりであるが割にゆっくり見て来た。良かった。オコーナーが印象的であった。理屈は云うがミユッジック映画は始めである。仲々悪くない。これからせい\/゛映画を見よう。(5.13,p.85)

 「地上最大のショウ」を観る。豪華絢爛な映画。ストーリイもいやみがなく、二時間四十分を充分楽しませてくれた。映画はこれで良いのだ。何も理屈を云う事はない。(略)やはり映画はいゝ。現実とは大違ひ。少し派手に観よう。寿司を喰うよりよっぽど良い。(5.28,p.93)

 (「禁じられた遊び」に)近来にない感めいを受けた。何もかも実にすばらしい映画だ。涙がにじみ出た。あの主役の女の子は永久に忘れられないであろう。他の恋愛映画なんて見られなくなるだろう。
 しばらく終ってから頭を上げる事が出来なかった。もう一度見たい。しかし、いぢらしくて見られないであろう。(10.26,p.183)

 「禁じられた遊び」がまだ頭にこびりついて離れない。実に大きなショックだ。ストーリイジャあない。あの子供の有り方がなのだ。(10.28,p.184)

 なにも褒詞ばかりではない。

 石田さんの長男と東劇前で待合せ、映画「ライムライト」。チャップリンたいした事はない。観劇中非常に眠い。(2.24,p.40)

 談志ははるか後年に『談志映画噺』(朝日新書2008)を著しており、同書で「ずばり言おう、『一番良かったのは?』とくれば、『雨に唄えば』(’52)である」(p.42)と書き、また、初見時に「たいした事はない」という感想を懐いた『ライムライト』については、次のように振り返っている。

 戦後、チャップリンの映画が久しぶりに来るって話題になった。
 それが『ライムライト』(’52)。喜び勇んで東劇だったかへ見に行って、がっかりしちゃって。御落胆\/。面白くもなんともない。
 そしたらその後、花森安治がいみじくも書いてくれました、「あほらしき名画」と。「あれじゃあまるで新派大悲劇じゃないか。悲しくても、ロールパンのダンス*1をするチャップリンを見たいんだ」とね。あれ読んで、俺も間違ってなかったと。家元、花森安治に救われました。(p.115)

 若き日の和田誠も、『ライムライト』に同様の感想を懐いている。『だいありぃ 和田誠の日記1953~1956』(文藝春秋2021.10刊)の1954年11月4日の條では、「『ライム ライト』なんて愚作」(p.187)と断じた上で、

「ライム・ライト」みたいな中途半端な笑わせ方と泣かせ方――泣かせ方も新派調大悲劇なんてものは沢山だが、(同)

と書いている*2。「新派(調)大悲劇」という喩えがこちらにも出て来るが、当時はこの評言が流行ったのだろうか。
 ちなみに、談志が「良」の一言で済ませた(前掲10.20,p.179)『終着駅』について和田は、

 テアトルハイツ「終着駅」。話はそれほど面白いもんじゃない。だがうまく出来ている。(略)(モンゴメリー・)クリフトはうまい。前ほどきらいじゃなくなった。(1954.2.13,p.41)

と書いている。

*1:『黄金狂時代』(1925)の名シーンである。

*2:ただし脚注によると、和田はかなり後にこれを観なおして、評価を変えたようである。

『ボヴァリー夫人』のことーーフローベール生誕200年

 この秋から冬にかけて(主として車中で)味読していたのが、ギュスターヴ・フローベール/山田𣝣訳『ボヴァリー夫人』(河出文庫2009)である。十二月にフローベールが生誕二百年を迎えるというので、一種の義務感のようなものから読み直していたのだったが、初読時よりも杳かに充ち足りた読書体験となった。
 フローベールといえば、異形の者たちが跋扈する内容に惹かれて読んだ渡辺一夫訳『聖アントワヌの誘惑』(岩波文庫1957)や、未完のエンサイクロペディア的作品・鈴木健郎訳『ブヴァールとペキュシェ(上中下)』(岩波文庫1954)などもそれぞれに印象的だったし、当ブログでは、「愛書狂」や「ブヴァール~」について少し触れたことがある(「フローベールの『愛書狂』」「日本語の用例拾い」)けれども、生誕二百年の今年は、やはり『ボヴァリー夫人』で行こうと、独り決めに決めていたのだった。
 『ボヴァリー夫人』を再読するにあたって、『ボヴァリー夫人』が連載された「パリ評論」の編集主幹だったマクシム・デュ・カンによる『文学的回想』(冨山房百科文庫1980、戸田吉信訳)の第一章「ギュスターヴ・フロベール」を読みかえすなどしていた。そこに、こんな印象的な一節がある。

 フロベールは、写実主義の作家であり、また自然主義の作家であるといわれている。人々は彼を、様々な情熱にメスを入れ、人間の心を解剖する文学の外科医のような存在とみなしてきた。ところが、この世評を最初にせせら笑ったのがほかならぬ彼自身だった。彼は実際には抒情詩人だったのである。彼はこのころすでに、最も調べゆたかな語こそ最も的確な一語であるとする、あの独特の理論に達していた。文章の諧調を得るためなら、彼はすべてを犠牲にすることをもいとわなかった。ときには文法までも平気で犠牲にした。彼はしばしばこう繰り返したものだった。「何を語るかは問題ではない。いかに語るかがすべてなのだ。何かを証明しようとする芸術作品は、それだけではゼロだと言ってもいい。何の意味もない美しい詩句は、何らかの意味をもつこれと同じくらい美しい詩句よりすぐれていると言うべきだ。形式(フォルム)のほかに救いはない。一冊の書物の主題が何であれ、もしそれが美しい言語を語る機会となるなら、それはよい作品なのさ。」初めてペンを執ったその日から、死が、手中のこのペンを砕いたときまで、彼は芸術のための芸術の職人だったのである。(pp.13-14)

 この証言は、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの以下のような記述に通ずるものであろう。

音調のよさと正確さはあらかじめ調和を作り上げていると彼(フローベール―引用者)は信じており、「正しい語と音楽的な語の間に必然的な関係」があることに驚いている。他の作家が言語に関してこのような迷信じみた考えを抱けば、統語と韻律の面で妙な癖のある言い回しを用いるようになるものだが、フロベールはそうはならなかった。生来の高潔さのおかげで、その教義がもたらす危険を回避することができたのだ。彼は粘りづよく正しい語(モ・ジュスト)を誠実に追求した。正しい語は決まり文句を排除するものではないが、やがて象徴派のサロンで使われるようになる奇異な語(モ・ラール)へと頽落してゆく。(「フロベールと模範的な運命」『ボルヘス・エッセイ集』平凡社ライブラリー2013所収pp.60-61、木村榮一編訳)

 いまわたしの手許にある邦訳の『ボヴァリー夫人』は、山田訳のほか、生島遼一訳(新潮文庫1965→1987第37刷)、白井浩司訳(旺文社文庫特製版1968)、芳川泰久訳(新潮文庫2015)の計4種である。山田訳と芳川訳とは出たばかりのころに新本で購い、それ以外の2冊は古本屋の百均で買っている。初読時に読み通したのは山田訳で、今回もまた山田訳であった。山田訳はすでに読んでいたので、別の訳本でもよかったのだが、十年前の初読はやや駆け足で読んでいたこと、『感情教育』もまた山田訳で読んだことなどを考え併せて、馴染みのある山田訳で、ということにしたのであった。
 さて、十年前に「積読気味」だった(読み止しのままだった)山田訳『ボヴァリー夫人』を読み通すことになったきっかけは何か、というと、これははっきり覚えていて、前田愛『都市空間のなかの文学』(ちくま学芸文庫1992)の序「空間のテクスト テクストの空間」を読んだことである。冒頭で前田は、伊吹武彦訳(岩波文庫)『ボヴァリー夫人』の、

 或る日彼は三時頃に訪ねて来た。みんな野良へ出かけていた。彼は炊事場へ入って行ったが、はじめはエンマのいるのが眼につかなかった。窓庇(まどひさし)が閉めてあったのである。板のすき間を透して、陽の光が細長い線(すじ)をいくつも石畳の上に引いていた。その線は家具の角に砕け、天井に顫えていた。蠅が食卓の上で、飲み捨てたコップを伝ってのぼり、底に残った林檎酒の中にはまりこんでブンブンいっていた。煙突から射しこむ陽の光が煖炉の蓋の煤を天鵞絨のように見せ、冷い灰をほの蒼白く照していた。窓と煖炉の間でエンマが裁縫をしていた。頸巻をしていないので、露(あらわ)な肩の上に細かい汗の雫が見えた。

という箇所を引き、次のように述べている。

 暗い炊事場のなかに入ったシャルル(これが上引文中の「彼」――引用者)は、明るい外光に眼を馴らしていたために、はじめはエンマの姿に気がつかない。彼が見なかったエンマの存在を読者があらかじめ教えられるのは、語り手の声によってである。ところが、その次のセンテンスからはじまる精密な描写は、知覚をあらわす言葉は省略されているものの、まぎれもなくシャルルの視線にとらえられた室内風景であって、閉じた窓庇、板のすきまからさしこむ陽の光などの点景が時間の順序に従って描きだされて行く。円を描いて室内を一巡したシャルルの視線が最後に吸いつけられるのは、エンマのあらわな肩の上にちりばめられた汗の雫である。読者は、エンマの裸の肉と出会ったシャルルのまなざしを共有することで、そのなかにこめられた彼の欲望と期待を了解するのだ。(p.13)

 また前田によれば、シャルルの眼に飛びこんでくるそれら個々の像(イマージュ)は「ばらばらに切りはなされ、孤立しているわけではな」く、最終的にひとつに結合される(前田はそのあり方を「視線の統辞法」(p.17)と称している)。その結びつき、連続性のゆえにこそ、読者の想像力が、屋内の暗い炊事場と接続する屋外の明るい田園風景という「見えない空間」「描かれなかった空間」へとさらに拡がっていくことを可能にさせるのだと説く。そしてまた次のようにいう。

文学テクストを構成している言語記号は、数学の記号のように、純粋な意味と読者とを媒介するものではない。それがあらわしているのは、読者と非現実の世界との界面である。界面としての言語記号が消失し、表象としての空間をつつみこむかたちで現出する非現実の世界のひろがりこそ、読書行為によって現働化されたテクスト空間のひろがりそのものなのである。(p.19)

 後年に筒井康隆氏は、前田が引いた箇所とまったく同じところを、こちらは山田訳で引いたうえで、

 蠅のくだりはつい笑ってしまう。大藪春彦がその作品の中で、処女が野外で強姦される場面に「血だまりの中で蟻が溺れていた」と書き、その描写を気に入ったらしい彼が、他の作品で何度も使っていたことを思い出したからだ。(筒井康隆「細部」『創作の極意と掟』講談社文庫2017←講談社2014:182)

などと書いている。この「細部」という文章は、コンパクトな「『ボヴァリー夫人』論」にもなっていて、「細部の描写」や「記述の省略」、「妨害」「遅延」などがどのような効果を齎すかということについて、実作者ならではの着眼点から説き及んでいる。ちなみに、フローベールの細部の描写などが「時には全体としての効果を損っていることもある」と評したのが、同時代のサント・ブーヴであった(「フローベールの『ボヴァリー夫人』」、土居寛之訳『月曜閑談』冨山房百科文庫1978:245*1)。
 前田や筒井氏が引いた部分と同じ箇所について、翻訳者としての立場から興味深い解釈を呈示しているのが、芳川泰久『「ボヴァリー夫人」をごく私的に読む―自由間接話法とテクスト契約』(せりか書房2015)である。芳川氏はこの本で、新潮文庫の新訳『ボヴァリー夫人』を手掛けるにあたってどのような工夫を凝らしたかということを、「過激なテクスト論者」(p.6)としての立場から縦横に語っており、こちらは一種の「翻訳論」としても読める。
 芳川氏は、『ボヴァリー夫人』の上引の記述について次のようにいう。

「食卓の上で、使われたコップに蠅が伝いのぼり、底に残ったシードルに溺れてぶんぶん羽音を立てている」という記述じたいもまた、恋の情動の昂進という意味の方向性になじむだろう。甘いシードルを求めるハエ(とはいえ、日本のものより小バエに近いという)の姿には、蜜に群がり、そこに絡み取られる欲望というイメージが重ねられている、と考えることが許されるだろうか。しかし厳密には、それはテクスト的な現実の外にある。かろうじてテクスト的な意味につなぎとめるとすれば、「シードルに溺れてぶんぶん羽音を立てている」ハエから共示(コノウト)される意味の広がりとしてとらえる必要があるかもしれない。しかし、テクスト的な現実から、そこに接近する方法もある。テクスト的な隣接性のうちに、もう一つ、液体にちなむ光景が描き込まれているのだ。エンマの「むき出しの肩の上に小さな玉の汗が見えた」とあるではないか。エンマとシャルルしかいない空間で、「見えた on voyait」とは、シャルルの視覚以外にない。そのとき、シャルルの視線を介して、底に残った「シードル」の蜜と、顕わな肩に結ぶ汗の小さな水滴は同じ意味の磁場を形成する。間違っては、いけない。蜜と汗という液体に、共通する物質性があるのではない。そうではなく、シャルルの視線に共有されることで、蜜と汗は意味の隣接性を獲得するのだ。(pp.121-22)

 この「蜜と汗という液体に、共通する物質性があるのではない」というくだりは、そのまま「主題論(テマティスム)批評」批判ともなっているわけだが、「過激なテクスト論者」たる芳川氏は、主題論批評の一例として蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』(筑摩書房2014)の「塵埃と頭髪」を挙げ、その方法論について、やや批判的に言及している(pp.131-39)。
 もっとも、芳川氏の『「ボヴァリー夫人」をごく私的に読む』でわたしがとりわけ関心を懐きながら読んだのは、第一章「『そして』に遭遇する」、第二章「『自由間接話法』体験」、第三章「表象革命としての『自由間接話法』」で、これらは、さきにも述べたように「翻訳論」として読むこともできる。
 たとえば第一章では、(いずれも「そして」と訳しうる)文頭の〔Et〕、フローベールがもっともよく用いたという〔;et〕、節と節とのあいだに小休止を入れる〔,et,〕の三種をそれぞれどう訳し分けたかということについて説得的に論じているし、第二・三章では、フローベールが自覚的に用いた「自由間接話法」が小説の語りをどのように変革したかということが丁寧に述べられている。
 わたしは特にその第二・三章を読んで、池波正太郎が好んだ(そして門井慶喜氏に引き継がれた?)丸括弧の用法(「門井慶喜作品を読む」参照)は、あるいはこの「自由間接話法」の影響を受けたものなのではないか、と考えてみたりもしたのだった。フランス贔屓の池波のことだから、あり得なくもない話のようにおもえる。
 なお芳村氏は、「自由間接話法」という名称について「『自由間接文体』とも呼ばれる」(p.37)と書いているが、蓮實氏の浩瀚な『「ボヴァリー夫人」論』は、

たとえば、ある作中人物の言葉なり思考なりを文の形式で再現する場合、直接話法と間接話法という二つの文法上の範疇があることは誰もが知っている。それとの関連でいうなら、むしろ「自由間接話法」《le discours indirect llibre》という名称がふさわしかろうが、その名称は論者によってさまざまであり、必ずしも一定していない。(p.251)

と前置きしたうえで、「主節を用いることなしに思考なり言葉なりが独立した文として形成される『報告文』」の一形態(p.252)ともされる「自由間接話法」の呼称を避け、オズワルド・デュクロの言語理論にもとづいて「自由間接文体」《le style indirect libre》の方を採用している。ただし、

 とはいえ、「自由間接文体」なるものの定義は、なおも曖昧なものとしてとどまる。『ボヴァリー夫人』には、そこに表現されている思考や言葉が誰のものかにわかには決定しがたい文章がいくつもまぎれこんでいるからだ。実際、ごく普通の構文におさまっているかに見える文章が、見方によっては「自由間接話法」ともとれる場合も少なくない。(p.264)

とも述べており、「にわかには決定しがたい」という「『曖昧さ』を加速させているのが『自由間接文体』であり、その定義を具体的なテクストに触れつつ魅力的に拡張して見せたのがオズワルド・デュクロだとひとまずいえる」(p.265)と評価している。
 そう云えば先日、山田訳の『ボヴァリー夫人』を読み了えた直後に、ソフィー・バルテスボヴァリー夫人』(2014米=独=白)という映画を観てみたのだけれど、そもそもたった2時間弱の尺でこの作品を映像化しようとすること自体に無理があるようにおもわれたものだった。まず、ボヴァリー夫妻がトストからヨンヴィル・ラベイへと引っ越す場面や、医師たるシャルル・ボヴァリー(ヘンリー・ロイド=ヒューズ)がイポリットの脚を手術した後、その「失敗」が明らかになるまでの過程などがかなり端折ってあったりするので、エンマ・ボヴァリー(ミア・ワシコウスカ)の微妙な心理の変化がほとんど伝わらない。ロドルフ(劇中では確かそんな役名ではなかったが、ローガン・マーシャル=グリーンが演じている)は原作に較べると最初から傲岸な印象があるし、ロドルフがエンマを口説く名高い「農業共進会」の場面の描き方も、ごくあっさりしたものであった。原作の面白さ*2を活かすなら、クロスカッティングで繋ぐという手法もあったとおもうのだが。主観ショットも殆どなく、したがって淡々とした描写に終始している。
 同年製作の映画であれば、それよりは、アンヌ・フォンテーヌ『ボヴァリー夫人とパン屋』(2014仏)*3のほうがずっと面白かった。この映画では、小説に憧れて?妄想を懐くのは“ボヴァリー夫人”ジェマ(ジェマ・アタートン)ではなくパン屋のマーティン・ジュベア(ファブリス・ルキーニ)のほうで、最後の秀逸な「オチ」でもその妄想を全開させつつ終わる。原作のレオンにあたるエルヴェ(ニールス・シュナイダー)は貧書生ではなく金持ちのぼんぼんで、そういった細かな設定も映画では活かされているようにおもう。
 では最後に、面白い「こぼれ話」をひとつご紹介しておくとしよう。

 戦前、我が国にも、厳重な検閲制度がありましたが、(略)『ボヴァリー夫人』に対して、やや国辱的な削除が命令され実行されていました。それは、女主人公のボヴァリー夫人が、新しい恋人と馬車に乗ってゆくところですが、しばらくして、男が車からおりますと、走り去ってゆく馬車の窓から、紙切れが投げだされるという描写でした。ボヴァリー夫人は、前の恋人から送られた恋文を破り棄てたにすぎませんのに、日本帝国の検閲官は、恐らく性行為後に用いる桜紙のごときものが窓から投げすてられたものと解釈したのでした。(渡辺一夫『曲説フランス文学』岩波現代文庫2000:300←『へそ曲がりフランス文学』光文社1961)

 ただし、この「紙切れ」は作中ではっきりと「恋文」のことだとわかるように書かれているわけではない。そのために、後年でもこのくだりをエロティックなものと解釈する向きがあったようだ(芳川著p.168)。しかし結論としては、「前の恋人から送られた恋文」ではなくエンマが前日に「新しい恋人」レオンに書いた「断りの手紙」(同p.170)を指すとみて間違いないようだ。すなわち、エンマがレオンを受け容れたので、いったん書いた断りの手紙が不要になって破り棄てた――、ということである。

*1:1857年5月4日に発表。なおサント・ブーヴは、フローベールの描写の仕方についてさらに、「一切を記述しようとし、そこに起った一切の事柄を強調しようとする彼の方法の効果そのもののために、細かい部分がまことに生き生きとして、露骨なまでに描かれており、それがもう少しで官能を激しくゆするまでになっている(略)。だが絶対にそれはその手前で止めるべきであったと私は思う」(同p.259)とも書いている。

*2:芳川著の第四章「『農業共進会』」参照。

*3:芳川訳『ボヴァリー夫人』の帯には、この映画のスチルが印刷してあって、(2015年)7月上旬から全国で公開されることが書かれている。新潮文庫の「Star Classics 名作新訳コレクション」の一冊としての位置づけだが、映画とのタイアップ企画としての側面もあったようである。

戸石泰一をめぐる人々

 鶴岡征雄『私の出会った作家たち―民主主義文学運動の中で』(本の泉社2014)の主要登場人物のひとりに、戸石泰一(といし・たいいち)がいる。作家にして日本民主主義文学同盟(現・日本民主主義文学会)の幹事、そしてまた都立高校の教員でもあった。
 同書の第九章「無頼派太宰治の弟子、戸石泰一の晩年」はこの人物に割かれているし、鶴岡氏が吉行淳之介のもとをたずねてゆくきっかけは戸石の発言によるものだし、戸石歿後、彼の作品「ドッチデモ・イイ」の掲載誌を鶴岡氏が探しあぐねて島尾敏雄にコピーを送ってもらう、という挿話なども出て来るし、同書の特に後半部で事毎に顔を出す(名前が出て来る)のが戸石だ。
 前掲の章題が示すように、戸石は、「太宰の弟子」であった。文中に略歴が記されているので一部を引いておく。

 戸石泰一は一九(大正8)年一月二八日、仙台市生まれ*1、東京(帝国―引用者)大学国文科を半年繰上げで卒業後、戦争にとられて、南方にやられた。「ポツダム中尉」(ポツダム宣言受諾を機に一階級昇進)となって復員、四八年二月、仙台第一高等学校の教師に就くが、その四ヵ月後、師・太宰治が山崎富栄と玉川上水に入水、六月一九日に遺体が発見された。戸石は急遽、上京して三鷹の太宰宅に泊まり込んだ。北海道夕張の炭鉱夫になっていた太宰の弟子・小山清も上京してきた。混乱する太宰宅でふたりは出会い親しくなった。
 七月、八雲書店から刊行中の『太宰治全集』の仕事を委嘱され、学校は退職した。ところが、八雲書店が左前になり給料も滞りがちの最中、妊娠中の妻・八千代が長女・千鶴の手を引いて仙台から上京してきた。友人宅に居候の身となっていた戸石は、戦後の住宅難の中、三鷹下連雀三一二番地に部屋を借りるのだが、これがとんでもない物件だった。(略)吹けば飛ぶような“鳩小屋”で次女の万里が生まれた。名付け親は阿川弘之。赤貧洗うが如きのありさまだった。
 それから五年、書きさえすれば“アタル”と信じていた小説はさっぱり評判にならなかった。一家の貧苦を見かねた亀井勝一郎のおもいやりで教職に就いた。作家・戸石泰一は小説「天才登場」を最後に、“かたぎ”(本人の弁)になった。都立豊島高等学校定時制の時間講師に転じたのである。
 そして、東京都高等学校教職員組合(略称・都高教)副委員長を一〇年務めた後、病気となって労働運動から身を引いた。
 一八年ぶりの小説、それが、「そのころ」(『民主文学』71年4月号)である。作家にカムバックするなり、つぎつぎと作品を書き出した。それが『青い波がくずれる』となって、新たな門出を祝う出版記念会となったのである。(略)
 しかし、この一八年間に友人たちは、すでに作家として功成り名を遂げていた。東大の同期、阿川弘之志賀直哉に師事、師の推挽で作家デビュー、一家を成していた。千谷道雄は『秀十郎夜話』(文藝春秋社、58年刊)で読売文学賞受賞、古山(高麗雄―引用者)は仙台・第二師団歩兵第四連隊に入営した折からの戦友だが、七〇年、小説「プレオー8の夜明け」で芥川賞を受賞していた。(pp.160-63)

 上引にもあるように戸石は、かの古山高麗雄とは「戦友」の関係にあって、戸石の葬儀で古山は葬儀委員長を務めたようだ(鶴岡著p.175)。玉居子精宏氏はその著書で、古山と戸石との関係について次のように述べている。

 古山には第四聯隊で得た唯一の友人がいた。太宰治の弟子だという戸石泰一である。彼は一九四二年に東京帝国大学文学部国文科を卒業している。阿川弘之とは遊び仲間の文学青年である。
 古山は戸石には本音をある程度話せた。休日には彼とともにその実家に行った。家には戸石の妻(入隊前に結婚した)と母がいた。古山は戸石の妻に頼み、ラブレーの『ガルガンチュワ物語』の購入を頼み(ママ)、次の外出日に受け取って兵営内に持ち込んだ。兵舎では消灯八時半、起床六時半であったが、勉強熱心な者、幹候試験を受ける者は夜、兵営内の一室で学習が許されていた。古山はそこで文学書を読んでいた。
 文学書を外で調達して持ち込むなど、見つかれば制裁を受けると覚悟していた。床下に隠したが、もし露見したら戸石のことは話さず、自分で購入したと言うつもりであった。
 一方の戸石は、自著の『消燈ラッパと兵隊』(KKベストセラーズ)によれば、岩波文庫の『好色五人女』を持ち込んだところ、年少の少尉に見つかって殴られた。
 戸石が見ると、古山は上級の者から目をつけられやすい存在にほかならなかった。植民地育ちだから東北の言葉を話さず、高等学校に学んだ「エンテリ」であり、始終哀しそうな顔をして、周囲になじまないからである。(玉居子精宏『戦争小説家 古山高麗雄伝』平凡社2015:51)

 同年(一九七八年―引用者)『季刊藝術』第四七号(一九七八年一〇月)で(古山の)「点鬼簿」の連載が終わった。発行の一〇日後、歩兵第四聯隊に入隊したときからの親友、戸石泰一が死んだ。
 軍隊で唯一心を開いた相手であり、『芸術生活』への転職の契機をつくった人である。『芸術生活』で遠山一行に出会い、『季刊藝術』へ、そして作家へ――戸石は古山が小説家になる道筋の起点をつくった存在とも言える。
 二年前、仙台の兵営が取り壊される折にはともに出かけた。あと一〇年は生きようと話し合ったが、持病の心臓の発作から入院していて、一度見舞ったあとは面会謝絶になっていた。死の日、古山は青山の仕事場で小説の構想を練っていたが、訃報に接して狼狽した。
 戸石は教職員組合の活動に取り組むなど、政治的には革新の立場だろう。保守と目された古山だが、そうしたイズムで人を分けることの無意味さは日頃語るところであり、だから左派の『民主文学』にも追悼文を寄稿した。古山の人間関係はあくまで個人同士のものであった。(玉居子著pp.180-81)

 これらを読むと、古山にとって戸石がいかに大きな存在であったかということがわかろうというものだ。
 しかるに一方で、小説家としての戸石は不遇であった。晩年にはようやく初めての小説集『青い波がくずれる』を上梓したものの*2、さほど耳目を集めたわけではなかったらしい。
 ところが昨秋、その『青い波がくずれる』が突如として新装復刊された。戸石泰一『青い波がくずれる―田中英光小山清太宰治』(2020本の泉社)がそれである。これはありがたいことだった。それまでに戸石の文章は、鶴岡著に引用されたものと、それから、「東北文学」(1948.8)初出の太宰の追悼文「仙台・三鷹・葬儀(抄)」(河出書房新社編集部編『太宰よ! 45人の追悼文集―さよならの言葉にかえて』河出文庫2018所収)*3だけしか読んだことがなかったから。
 復刊なった『青い波がくずれる』の奥付をみてみると、「新装改訂版第1刷」という扱いになっている。また、解説の「戸石泰一さんのこと」を鶴岡征雄氏が執筆している。
 『青い波がくずれる』は、「青い波がくずれる――田中英光について」「そのころ――小山清とのこと」「別離――わたしの太宰治」の三篇を収めていて、副題からもわかるように、これらはそれぞれの作家のポルトレになっており、また、戸石自身が生前の彼らとどう関わったかを描いた私小説にもなっている。惜しむらくは、刊行を急いだ所為か、誤記が目につくこと。たとえば「古田晁」が2箇所とも「古田晃」となっていたり、『ろまん燈籠』が『うまん燈籠』となっていたり(p.212)する。あとは推して知るべし。
 もっとも、いずれも読んで面白いことにかわりはなく、とりわけ興味深く読んだものを挙げるとすれば、「そのころ――小山清とのこと」であろうか。たとえば、次のような一節がある。

 つきあってみると、小山君は、ただ篤実なだけの人ではなかった。オヤと思うことも、いろいろあった。
 たとえば、小山君の将棋は、急戦模様の棒銀一本槍であった。はじめて将棋をさしたとき、小学生のように単純に、棒銀で突込んでくるので「やはり小山君はマジメなんだな」などとたかをくくっていたところ、アッという間に寄せ切られてしまった。二番目は、用心して堅固な矢倉に組んだつもりだったが、矢次早の攻撃で、これももろくくずされた。せっかちな急戦法にみえて、同時に強靱なのだ。その性急さも強靱さも、私が小山君の人柄と勝手に考えていたものとは、全くちがったものだった。
 ある夏の日は、井の頭公園のプールに行ったこともある。小山君の方からわざわざさそいに来たのである。小山君は、正式(?)の褌をしめ、黒筋のはいった水泳帽も用意してきた。私は、途中で吉祥寺の洋品店の店頭にぶらさがっていた、安物の簡便褌を買った。
 井の頭プールの水は、湧き水をひいているとかでひどく冷たかったが、小山君はあざやかな抜き手をみせてくれた。入ると心臓がギュッとちぢむような思いがして、私はすぐあがった。ところが、心臓が丈夫でないはずの小山君の方がいつまでも悠々と泳いでいる。私もちょっとした水泳自慢で、小山君のさそいにもすぐ応じて、スタイルのいいところを見せてやろうなどと思っていたのだが、これには、すっかり気押されてしまった。小山君にも、そんな私を、ちょっと尻目にみながら、泳いでいるというふうなところがみえた。(略)
「僕はいまの人が忘れて顧みないような本をくりかえし読むのが好きだ」(『落穂拾ひ』)と小山君自身が書いているが、古本屋の均一本の山の中から、本を選びだすのがうまかった。ゴミの中に埋れているときは、何ということもないただの雑本が、小山君がとりあげて手の中にすると、オヤと思う本に変っているという工合である。『落穂拾ひ』には、こうして『聖フランシスコの小さな花』と『キリストのまねび』という本を二冊五十円で買ったと書いてあるが、それが時には、アガサ・クリスチイの探偵小説になり、ワイルドの『獄中記』になり、山川弥千枝の『薔薇は生きている』になり、あるいは、ジャック・ティボーの自伝「ヴァイオリンは語る」になった。(「そのころ――小山清とのこと」『青い波がくずれる』本の泉社2020:147-49)

 ちなみに「『落穂拾ひ』には~」のくだりについてだが、小山の文章は、正確には次のようである。手近な文庫本から引く。

 僕はまた彼女の店の顧客(おとくい)でもある。主として均一本(きんいちぼん)の。僕はまだ彼女の店で一度に五拾円以上の買物をしたことはない。僕が初めて、彼女と近づきになったのも、均一本の中に「聖フランシスの小さき花」と「キリストのまねび」を見つけたときだ。彼女は「小さき花」の奥附がとれているのを見て、拾円値引をしてくれて、二冊で五拾円にしてくれた。僕はいまの人が忘れて顧みないような本をくりかえし読むのが好きだ。(小山清「落穂拾い」『栞子さんの本棚―ビブリア古書堂セレクトブック』*4角川文庫2013所収:51)

 なお、こちらもついでながら、ではあるが(小山の「釣果」のひとつとして紹介するわけだが)、小山は随筆「私について」のなかで、古本屋の「均一本の中にアランの「幸福論」があるのを見つけ、三十円奮発して買って帰った」(小山清『風の便り』夏葉社2021所収:59)と書いているし、戸石が言及したワイルドの『獄中記』*5に触れてもいる(同p.61)。
 さて戸石の「そのころ」についてもうひとつ、というよりも、この作品で特に読みどころとなるのが、ささいなきっかけから生じた小山との不和を描くくだりである。一部を引く。

 太宰の最初の「文学碑」が、山梨県南都留郡河口村の御坂峠にたてられ、建碑式が行われたのは、昭和二十八年の十月三十一日のことだ。
 早朝三鷹を発って(そのころ、甲府行きの電車には三鷹始発というのがあったように思う)まず、大月に向ったが、その日の行事で、小山君は、太宰の“弟子”の一人としてあいさつをし、私は、用事で行けない亀井(勝一郎―引用者)さんの祝辞を、代読するという役まわりになっていた。その何日か前、亀井さんによばれて、このことをたのまれた時には、何でもなかったのだが、そのうちに、だんだん、小山君に“差をつけられている”という思いに、とらわれだした。
 亀井さんの「祝辞」は、小山君がもってきてくれることになっていた。車中で、小山君がそれを私にわたそうとしたとき、私は、いきなり「それも、小山さんが読んでよ、それが順序なんですよ」という論理もなにも通らない、めちゃくちゃなことを、ぶっつけてしまった。
 私は、頭に浮かぶさまざまな思いで、ひとり興奮し、きれぎれの断片を脈絡もなく、相手に投げつけてしまうことがある。たぶん「太宰の“弟子”の序列の順序で、小山君があいさつをする代表に選ばれたのなら、亀井氏の代読も、亀井氏に親しい順番で、小山君にやってもらいたい。そうではなくて、小山君があいさつ、私が代読というのは、二人の間に序列をつけることではないか。私は承服しがたい」というようなことが、言いたかったのではなかったかと思う。
 脈絡がなくても何でも、これで、私がこれまで小山君に対してためていた感情を、この上もなく露骨にさらけだしてしまった、ということだけは、はっきりした。
 小山君も、困惑と同時に、憤りの表情を強くにじませていた。(戸石著pp.164-65)

 このあたりのことについては、鶴岡著の第九章第二節「ライバル小山清との確執」でも述べられるところである。
 戸石は、こういったプライドと自己嫌悪との間を揺れ動く屈折した感情を描くのが巧く、「別離――わたしの太宰治」でもそれは活かされているようにおもう。
 ところでわたしは、戸石の「別離」と、鶴岡氏の解説とを読んで初めて、太宰に戸石をモデルにした「未帰還の友に」という作品があるという事実を知り、『太宰治全集8』(ちくま文庫1989)で読んでみた。
 「別離」には、この作品を戸石が「ザラザラした粗悪な紙に印刷した、うすっぺらな雑誌」(p.222)で読み、自分をモデルにしていることにすぐに気が付いて「こんな思いで、私を待っていてくれたのだ」(p.224)と心を動かされ、太宰に手紙を書く場面がある。しかし、待ちに待った太宰からの返信は「それだけで嬉しくないことはなかった」ものの、「どこかもの足りないものがある、どこかなにか、そっけない隙間があるようにも思われてならなかった」(p.225)。その太宰からの葉書全文も、作中に併せて引用されているが、これと同じものが、(若干の字句の異同はあるけれども)太宰治亀井勝一郎=編『愛と苦悩の手紙』(角川文庫1998改訂初版)に収録されている(p.287)。また『愛と苦悩の手紙』には、太宰の戸石あての葉書が、これを含めて三通収められているが、太宰治小山清編『太宰治の手紙―返事は必ず要りません』(河出文庫2018←河出新書1954)には戸石あての手紙(葉書)は一通も収められていない。
 太宰の手紙といえば、「そのころ」にこんなことも書かれている。これも印象に残ったことなので、最後に引いておこう。

 太宰に関することでは、私には、もう一つの“前科”があった。
 太宰全集(八雲版)の一巻として、書簡集を出すについて、井伏(鱒二―引用者)氏宛のものを、原稿用紙に書き写すことになったときのことである。まだ、三鷹の小屋に友人が同居していたころだ、友人は〈それぐらいの仕事〉はぜひやらせろと言い、自分一人でそれを仕上げてくれた。私は、それをそのまま、井伏さんのところに届けて、みてもらった。
 ところが、それにはいくつもの誤りがあった。仮名遣いの誤記、漢字を勝手に略字体にしていることのほかに、致命的なのは――、「いろいろ」というような場合、「いろ\/と書いていることであった。太宰は、全くといってよいほど「\/」という書き方をしないのだ。
「君は、太宰のこんなことも、知らなかったのかね」
 と、井伏さんは言われた。きめつけるような言い方ではないだけに骨身にしみた。
(戸石著p.160)

*1:ちなみに、戸石の母シヅの長兄は吉野作造だという(同p.164)。

*2:鶴岡著の第九章は、その出版記念祝賀会と励ます会とを兼ねたパーティーの描写で幕を開ける。励ます会の発起人は、阿川弘之井伏鱒二伊馬春部小田嶽夫、窪田精、霜多正次、檀一雄丹羽文雄藤原審爾古山高麗雄と、錚々たる顔ぶれだ(鶴岡著p.159)。

*3:巻末に、土井虎賀寿(青山光二『われらが風狂の師』のモデルとしてむしろ有名)とともに戸石の「著作権継承者の連絡先が判明し」なかったと書かれている。

*4:「落穂拾い」は、三上延氏の「ビブリア古書堂の事件手帖」シリーズ本編の第二話に、ピーター・ディキンスン『生ける屍』などと共に登場する。新潮文庫版『落穂拾ひ・聖アンデルセン』のうちの一篇としての扱いだ。私が初めて「落穂拾い」を読んだのは、今から16年ほど前のこと、当時出たばかりの講談社文芸文庫版『日日の麵麭・風貌―小山清作品集』によってであった。

*5:本屋店頭で一、二度手に取って見ただけだが、昨秋、詳細な註を附した新訳版が出た。

甦る黒島伝治

 紅野謙介編『黒島伝治作品集』が岩波文庫に入ったので、早速求めた。プロレタリア系作家の作品集というと、5月には同じ岩波文庫から、道籏泰三編『葉山嘉樹短篇集』も出ている。
 黒島伝治の作品に初めて触れたきっかけは単純で、父の蔵書に集英社版日本文学全集があり、そのうちの個人名の選集ではない名作選集に、「二銭銅貨」という、そのころ(四半世紀ほど前)私が入れ込んでいた江戸川乱歩の作品と同タイトルの短篇が収められていて興味を懐いたからで、それがまさに、偶々伝治の作品だったというわけなのである。もっとも、大正十五年一月の発表時(初出:「文藝戦線」)は、「二銭銅貨」ではなく「銅貨二銭」という題名であった。
 とまれ伝治の「二銭銅貨」との出会いはなかなかに衝撃的で、その内容とともに作家名が強く印象されたので、某古書肆の店頭百均で黒島傳治『渦巻ける烏の群 他三篇』(岩波文庫1953)を拾ったり*1、別の店の三百均では黒島伝治遺稿/壺井繁治編『軍隊日記―星の下を』(理論社1955)を見つけて購ったりした。岩波文庫で読んだ「渦巻ける烏の群」や「豚群」にもまた感銘し、『軍隊日記』では、終始激越な調子のうちに亡き思人への恋情や切実な読書慾が吐露されているのを微笑ましく思うなどした。
 するうち、山本善行選『瀬戸内海のスケッチ 黒島伝治作品集』(サウダージ・ブックス2013)が出た。上林暁や埴原一亟の作品集を編んだ山本氏の「読み巧者」ぶりは際立っていて、「私は、黒島伝治にまとわり付く、農民文学、プロレタリア文学反戦文学などのイメージをまずは取り除き、ま新しい目で全集を再読することから作品選びを始めた」「この作品集で、黒島伝治作品の底に流れている、さわやかな瀬戸内の風を感じ取っていただけたら、選者としてうれしく思う」(p.244)と選者解説にもあるとおり、伝治の知られざる一面に光を当てた作品集となっている。「砂糖泥棒」「田園挽歌」「本をたずねて」はこの本で初めて読み、特に気に入った。nakaban氏の美しい装画も、伝治作品のイメージを一新するのに与って力があった。
 その4年後には、黒島伝治『橇/豚群』(講談社文芸文庫2017)が出た。表題作のほか8篇、計10篇を収めている。この間にも、『日本文学100年の名作 第2巻 幸福の持参者』(新潮文庫)で「渦巻ける烏の群」を再読したり、『教科書で読む名作 セメント樽の中の手紙ほか―プロレタリア文学』(ちくま文庫)で「二銭銅貨」を三読したりしたが、大西巨人編『日本掌編小説秀作選(下) 花・暦篇』(光文社文庫1987)で読んだ黒島伝治「その手」も、一読忘れがたいものであった。タイトルの「その手」の意味するところは、「その手は桑名の…」の「その手」なのだが、物語の末尾での爆発、すなわち大西のいう「『親爺』の自然発生的な反抗の噴出」(p.284)が小気味よかった。
 文芸文庫の『橇/豚群』には、山本氏が最後まで選集に入れるかどうか迷ったという「彼等の一生」も収められていたので、店頭で見掛けるなり直ぐに買い、これも舐めるようにして読んだ。同文庫の解説を担当した勝又浩氏も、「今度、黒島作品を集中して読んで改めて、これらは歴史的なプロレタリア文学という枠に捉われず、もっと広い時代の文学の上に置いて読まれるべきだ」「農民文学、プロレタリア文学という枠を外してみれば、作品のふくんださまざまに人間的、歴史的時代的な影も浮かび上がってくる」(p.234、p.236)などと述べ、伝治の作品群の普遍性をやはり強調している。
 そもそもわたし自身に、「黒島伝治プロレタリア文学作家」という予備知識があったなら、恐らく敬して遠ざけていたことだろう。それに伝治の文庫の内容紹介を読んでみると、概してつまらなそうなのだ。手に取る気さえしなかったに相違ない。しかし実際は、どの作品も読む悦びを充足するものだと思っている。文学全集のなかの「二銭銅貨」がいりくちだったことは幸いであった*2
 ちなみに、『橇/豚群』の帯文は荒俣宏氏が書いており、「不条理を超える『無常』を夢映画のように語れた才能!」などとある。その荒俣氏には、『プロレタリア文学はものすごい』(平凡社新書2000)という著作があって、伝治の「二銭銅貨」も取り上げている。荒俣氏はその内容紹介をしつつ、同作品については、「もはや慄然とするほかない。これは単なる労働者階級の悲嘆を超えている。人間の運命ないし宿世を語った哲学小説と呼ぶべきかもしれない。いや、「山椒太夫」のような中世の説経節の偉大な末裔と称してもよい」「階級闘争をはるかに超えて縁起本覚論の世界にまで達した作品」(pp.58-59)などと評している(さらに面白いのは、これを乱歩の「二銭銅貨」と対比させながら作品の位置づけを行っているということだ)。
 荒俣氏はこの本で、たとえばプロ文の代表作とも見なされる小林多喜二の『蟹工船』に「ホラー小説」「スプラッターホラー」といった側面があることを見出しているのだが、プロ文に多かれ少なかれそのような傾向があることを伝治も自覚していたのか、半ば自虐的に、次のごとく述べている。

 一体、プロレタリア作家は、誰でも人を殺したり、手や足をもぎ取ることが好きである。彼も、その一人である。まるで、人を殺さなければ小説が出来ないもののように、百姓も殺せば、子供も殺す。パルチザンでも、朝鮮人でも、日本人でも、誰でも、かれでも殺してよろこんで居る。「橇」とか「パルチザン・ウォルコフ」などを見れば、これはすぐうなずける。彼はまた、「二銭銅貨」では子供を殺している。彼の殺し方は、なかなかむごたらしい。「穴」の中の、朝鮮の老人などがその一つの例である。――あんなにまでして殺さなくてもよかりそうなものだ。(「自画像」『黒島伝治作品集』所収:298)

 文中の「彼」は、いうまでもなく伝治自身のことであるが、「あんなにまでして殺さなくてもよかりそうなものだ」と云いながら、一種独特のユーモアさえ漂わせている。たとえば「豚群」もそうだが、たくまざるものか、はたまた敢えてそうしたものか判然しないが、役人たちが豚を逐いまわす場面など、何ともいえない可笑しみがある。「橇」という、およそユーモアの欠片さえなさそうな状況を描いた小説であっても、吹き出しそうになる描写が少なからずある。
 伝治が「プロレタリア文学」という時代の枠組みにとらわれず自在に作品を書いていたら、今よりもずっと高く評価される作家となっていたに違いない。

*1:此度の『黒島伝治作品集』は、この『渦巻ける烏の群』以来の伝治作品の岩波文庫入りなのであった。実に68年ぶりのことだ。

*2:ちなみに通貨としての二銭銅貨については、乱歩が「直径三センチ余、厚さ四ミリほどの、どっしりと重い銅貨であった」と書き、また永井龍男が「ひと昔とでもいったような懐しい重みを持っているように感じられる」(「黒い御飯」)と書いている。一体どんなものかと興味が湧き、縁日で古銭商からひとつ購ってみたことが有る。意想外にズッシリしていた。今も大事にとってある。

谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』、木村恵吾『瘋癲老人日記』

 谷崎潤一郎『瘋癲(ふうてん)老人日記』*1は、20年ほどまえ小林信彦氏の評に導かれるようにして読んだのがたしか最初であったが、最近、宇能鴻一郎『姫君を喰う話―宇能鴻一郎傑作短編集』(新潮文庫)の「解説」(篠田節子)に、〈「雲のかなたにそびえる高峰」と宇能鴻一郎が讃える文豪谷崎潤一郎の「瘋癲老人日記」で、自分が執心する嫁の足形を墓石に刻みつけ、死後も踏まれ続けることを切望する老人が登場するのだが、本書では銅板に刻みつけられたキリストを無垢な若い花魁の生身の足が踏みつける〉(p.372)云々とあるのを読んで触発され、じっくり再読(正確には三度め)した。
 手許に『瘋癲老人日記』のテクストは二種あって、ひとつは『鍵・瘋癲老人日記』(新潮文庫2001改版)、いまひとつは函入再版本(1962年5月刊)の『瘋癲老人日記』(中央公論社)である。後者は『鍵』がそうであったように装釘を棟方志功が担い、志功の板画も収めてある*2。今回再読したのは携帯に便利な新潮文庫版の方だったが、少なくとも2箇所、本文で片仮名表記とすべきところを平仮名にしている誤記に気づいた(p.255「血圧が二〇〇ヲ越スクライニ」、p.348「男性的に結跏趺坐シテイル」)。と、これは餘談。
 それから偶然にも、木村恵吾監督の『瘋癲老人日記』(1962大映)を、こちらは初めて観る機会に恵まれたのだった*3。観た感想はというと、原作の卯木督助の人物造形はかなり変えてあったが、山村聰の「怪演」は実にすばらしく、若尾文子の颯子もなかなかよかった。さるところでこの映画が「コメディ」に分類されていたのも宜なるかなと思った。
 督助の人物造形を変えたというのは、原作で「芸術批評の一見識を持っている」「演劇にも一家言を持っている」(山本健吉)人物として描いていたのを、映画ではすっかり削ぎ落したということなのだが、原作における督助による批評の具体的な内容は次のごとくである。

 七十七歳の督助は、たとえば、永井荷風の書と漢詩はさして巧みではなけれども、彼の小説は自分の愛読書だ、というような芸術批評の一見識を持っている。あるいはまた、勘弥の助六は感心しないが、訥升(とっしょう)の揚巻は充分感心したとか、団子(今の猿之助*4)の治兵衛は緊張し過ぎてこちこちであり、訥升の小春は綺麗だが揚巻ほどではないとか、演劇にも一家言を持っている。相当以上に洗練された教養と趣味との持主であることが、これらによってほのめかされるのであって、その精神生活の面が全然切り捨てられている『鍵』の主人公とは、その点でまず同じでない。(山本健吉「解説」、p.444)

 それに督助の部屋には、「青磁ノ水盤ニ縞ススキト三白草ト泡盛草ガ活ケテア」ったり「長尾雨山ノ書」が掲げてあったりするし(p.198)、日本画家の菅楯彦については「ヨク漢詩ヤ和歌ヲ書キ添エル癖ガアル」(p.331)などと評したりもする。このような内面は、映画では全くといってよいほど描かれていない。したがって映画版の督助は、はっきり言って、単なる助平爺のように見えてしまう。しかしそのことが、督助の執着心のみクロース・アップさせることにつながり、作品に妙ななまなましさを与えているのも事実である。
 ところで、山本のいう「勘弥の助六」「訥升の揚巻」は原作の冒頭に出て来る話題なので、とりわけ印象的である。当該部を引く。

十六日。………夜新宿ノ第一劇場夜ノ部ヲ見ニ行ク。出シ物ハ「恩讐の彼方へ」「彦市ばなし」「助六曲輪菊(すけろくくるわのももよぐさ)」デアルガ他ノモノハ見ズ、助六ダケガ目的デアル。勘弥ノ助六デハ物足リナイガ、訥升ガ揚巻ヲスルト云ウノデ、ソレガドンナニ美シイカト思イ、助六ヨリモ揚巻ノ方ニ惹カレタノデアル。(略)トニカク予ハ助六ノ芝居ガ好キナノデ、助六ガ出ルト聞クト、勘弥ノデモ見ニ行キタクナル。況ンヤ御贔屓ノ訥升ガ見ラレルニ於テヲヤ。
勘弥ノ助六ハ初役デアロウガ、ヤハリドウモ感心出来ナイ。勘弥ニ限ラズ、近頃ノ助六ハ皆脚ニタイツヲ穿ク。時々タイツニ皺ガ寄ッタリシテイル。コレハ甚ダ感興ヲ殺グ。アレハ是非素脚ニ白粉ヲ塗ッテ貰イタイ。
訥升ノ揚巻ハ十分満足シタ。コレダケデモ来タ甲斐ガアルト思ッタ。福助時代ノ昔ノ歌右衛門ハイザ知ラズ、近頃コンナ美シイ揚巻ヲ見タコトハナイ*5。(pp.176-77)

 「助六曲輪菊」は、市川家十八番(七代目団十郎が指定)の一、「助六所縁(由縁)江戸桜(すけろくゆかりのえどざぐら)」の外題でむしろ知られるが、「助六曲輪菊」は六代目菊五郎助六の花道登場時の河東節を清元節に代えて上場したものという。助六(実は曾我五郎)と恋仲の三浦屋揚巻は女形の大役とされ、

 揚巻は、美貌・伝法・貫目と三拍子揃った女形でなければ完璧でなく、そういった俳優は五代目岩井半四郎以来皆無とされる。助六以上の難役である。いわば五丁町の運命を支配する女王だからである。(金沢康隆『歌舞伎名作事典』青蛙房1959:164)

などともいわれる。訥升=揚巻の話も映画には出てこないものの、勘弥=助六についての話は劇中に出て来る。もっとも、それもやはり督助の言ではなくて、その妻を演じる東山千栄子と主治医に扮する永井智雄との会話のなかに、やや唐突に次の様なかたちで出て来る。

東山千栄子「勘弥の助六観ましたけど、大したことありませんでしたね。勘弥に限らず、みんな近頃の助六は足にタイツを穿いていますが、あれはやはり……素足に白粉を塗ってもらいたいものですねえ」
永井智雄「タイツに皺が寄りましたんではね」

 「芸術批評」と言いうるものは、劇中では上記のやり取りに限られる。なお「助六のタイツ」に関しては、谷崎自身、かなりの不快感を懐いていた様子で、別のところでも次のように述べている。

ところで、近頃の助六は不精をして素脚に白粉を塗らず、タイツを穿いてゐる場合が多い。私はあれが嫌ひなのだが、今度の(十一代目団十郎襲名披露の舞台―引用者)助六はさすがにそんな不精をせず、ほんたうに素脚を白塗りにしてゐると云ふ。さう聞いて私は安心したが、(略)白塗りにするのを面倒がつてタイツを穿いたりするやうなことから、次第に歌舞伎の醍醐味が失はれて行くのだと思ふ。(谷崎潤一郎助六の下駄」*6『雪後庵夜話』中央公論社1967所収:124-25)

 そのほか映画では、原作の細かな個々のエピソード――たとえば、颯子が鮎を食い散らかす場面*7や、督助が自分の喉が鳴る音をコオロギの鳴声だと勘違いする挿話など――をそのままなぞっている部分もあるが、そもそも映画は第三者の視点(超越的視点)から描かれているので、印象はまったく異なる。原作の語り手たる督助が登場するのは映画では開始後約13分のことだし、颯子=若尾文子の方も開始10分後くらいに至ってようやく姿を現す。日記形式のものを、そのまま映像化するのは困難だろうし、かえって画面が単調になったり説明が過剰になる印象を与えたりしかねないので、已むを得ないこととは思うが、たとえば新藤兼人『濹東綺譚』(1992)が、『断腸亭日乗』の記述を荷風津川雅彦による朗読(ナレーション)をかぶせる形で引用していたような、そういった手法もあったかも知れないとは思う。望蜀の嘆だろうが。
 ちなみに最近、『谷崎マンガ―変態アンソロジー』が文庫化されたが(中公文庫)、しりあがり寿氏が『瘋癲老人日記』とヘミングウェイ老人と海』とを組み合わせた漫画を描いており(pp.163-96)、その着想に驚かされるとともに、おもしろく読んだ。なおこの文庫には、榎本俊二氏による「青塚氏の話」も入っているが、竹本健治選『変格ミステリ傑作選【戦前篇】』(行舟文庫)で竹本氏が〈…とびきりの怪作「青塚氏の話」から、乱歩に受け継がれたテーマや発想をいくらでも見つけることができるだろう〉(p.76)などと書いていることに触発され、今度は中公文庫で「青塚氏の話」を久しぶりで(10年ぶりくらい?)読み返そうと思っているところだ。

*1:初出は「中央公論」1961.11~1962.5。

*2:ちなみに現行の中公文庫版『瘋癲老人日記』にも板画が掲載されている。

*3:同じ木村恵吾による『痴人の愛』(京マチ子宇野重吉主演)も観たことがあるが、増村保造版(安田道代〔大楠道代〕、小沢昭一主演)の方がなぜか強烈な印象を残している。中学3年という多感な時期に観たことにもよるのだろうか。なお、木村のセリフリメイク版『痴人の愛』(叶順子、船越英二主演)は未見。高林陽一『谷崎潤一郎・原作「痴人の愛」より ナオミ』(水原ゆう紀主演)は録画してあるが、まだ観ていない。

*4:「今の」とあるが、これは解説が書かれた1968年時点でのこと。現・二代目市川猿翁

*5:督助は翌(六月)十七日、訥升の小春(「河庄」)を観にゆくが、「訥升ハ今日モ綺麗デアッタガ、揚巻ノ方ガヨカッタ気ガスル」(p.182)との感想を漏らしている。

*6:初出は「朝日新聞」PR版1962.5.26付。

*7:原作では銀座の「浜作」での出来事になっているが、映画では熱海に変更されている。

琵琶のロマン

 松尾恒一『日本の民俗宗教』(ちくま新書2019)は知的好奇心をかき立てられる本だが、すこし不思議な点がある。第三章「民衆の仏教への受容」の第三節「因果応報の志操の遊行と宗教者・芸能民」に、

 中国の琵琶の音色やメロディーを考える上で注目したいのは、仏・菩薩の住む浄土の様子を描いた『浄土変相図』には、琵琶を含む、浄土での演奏の様子が見られることである。
敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)」第二二〇窟の唐代の浄土変相図の一つ『奏楽図』には、正面の高欄(こうらん)のある高舞台に仏・菩薩や天女と思われる楽人たちが座して、琵琶やほぼ円形の胴の阮咸(げんかん)(ruanxian)などの棹のある弦楽器や横笛、ハーモニカ状の排簫(はいしょう)(pai2xiao1)などの吹奏楽器を奏している様子が描かれている(図23)。(略)
 画中でひときわ目を引くのは、琵琶を背負いかつぐようにして弾く様子である。この奏法は「反弾琵琶(はんだんびわ)」と呼ばれ、現代の中国では天女が演奏するイメージが定着し、絵画や彫刻のモチーフとなって制作され、舞劇などでも、実際に女性が天女姿で演じたりする。(pp.122-24)

とあり、「浄土変相図」の一部分とされる図が掲げられているのだが(p.123)、その記述と写真とに少々疑問があるのだ。
 そのことを述べる前に、「変相図」とは何かということについて触れておこう。たとえばある概説書は次のように説く。

 隋時代以降(581年-)、敦煌ではそれまでの仏伝図や本生図といった釈迦の在世や前世の事績を描く絵画に代わり、経典に描かれる内容や仏世界を絵画化した様々な変相図(経変)が描かれるようになった。初唐・盛唐期(7-8世紀)には、維摩経変、法華経変、弥勒経変、阿弥陀浄土変、薬師浄土変、仏頂尊勝陀羅尼経変などの変相図が、窟内の壁面全体に大画面パノラマのごとく表されている。(朴亨國監修『東洋美術史』武蔵野美術大学出版局2016:276)

 同書は、同ページに「阿弥陀浄土変相図」の写真を掲げ、

 莫高窟第220窟の東壁と北壁には「貞観十六年」(642年)の墨書題記があり、本窟の壁画の制作年代はおよそこの頃と想定される。同窟南壁の画面いっぱいに阿弥陀浄土変相図が描かれている。中央に宝池から伸びる蓮華座上の阿弥陀仏が説法する様子が描かれ、左右には脇侍菩薩のほか、多数の聖衆を配する。菩薩が身にまとう裙(くん)や天衣(てんね)は薄く透けており、瓔珞(ようらく)その他の装飾も華やかである。画面左右部には楼閣や樹木、上部には雲に乗って飛来する仏や種々の楽器、下部には舞踏や奏楽する天人たちなど、画面全体には浄土を構成する様々なモティーフが色彩豊かに、かつ緻密に描き込まれる。(pp.276-77)

と解説している。ちなみに、姜亮夫『莫高窟年表』(上海古籍出版社1985)の「六四二年 唐太宗貞觀十六年壬寅」「D二二〇窟」の項を見ると、「大雲寺律師道弘造『藥師淨土變相』壁畫一鋪。(同上窟、左壁『藥師淨土變相』下端題記云;「貞觀十六年、歳次□寅、奉爲大雲寺律師道弘……造……。」)」(p.216)とあって、おやと思うが、東山健吾『敦煌三大石窟―莫高窟・西千仏洞・楡林窟』(講談社選書メチエ1996)によれば、第220窟は東壁門口の両側に「維摩詰経変」、南壁に「『仏説阿弥陀経』にもとづく大画面の阿弥陀浄土経変」、そして北壁には「『薬師如来本願功徳経』にもとづく薬師浄土経変」が描かれているといい(p.143~)、それだと『東洋美術史』の記述とも合致するので、得心が行く。
 さてその『東洋美術史』が掲げるところの「阿弥陀浄土変相図」だが(モノクロでやや小さいけれど)、どんなによく目を凝らして見てみても、「反弾琵琶」らしきものが描かれていないようなのである。
 東山著も、「反弾琵琶」について言及しているのだが、第220窟ではなく、「第112窟」(吐蕃支配期*1に造営)の「観無量寿経変」の一部だといっている。次の如くである。

 「反弾琵琶」として知られる図は、観経変の中尊阿弥陀仏前方の舞台にあらわされた舞楽段の一部である。この舞楽は、舞天一名と楽天六名で構成され、楽天の向かって左側の三名は鶏婁鼓(けいろうこ)と鼗鼓(とうこ)、横笛、拍板(はくばん)を奏し、右側の三名は箜篌(くご)、阮咸(げんかん)、琵琶を奏す。その前に設けられた平台ではさらに左右各二体の伎楽天が背中あわせに坐り、父子相迎会の阿弥陀に対して楽器を奏している。中央の舞天は頭に宝冠をのせ、半裸に胸飾り、臂釧をつけ、短袴(たんこ)をはき、天衣をひるがえして舞う。足を高くあげ、指をそらせてステップを踏みながら、身体を傾け琵琶を背にまわして弾いている。このような弾奏法を「反弾」といい、きわめて難度が高いことから絶技とされた。この図は「反弾琵琶」として著名で、莫高窟壁画中の白眉であるばかりでなく、唐代の舞踏史を研究するうえから貴重な史料とされている。(東山健吾『敦煌三大石窟』pp.174-75)

 あるいは、第220窟の維摩経変か薬師浄土変かに似たような絵が見られるのかもしれないが(そのあたりは慎重に考えなければならないところだ)、「反弾琵琶」として紹介されるのは、ふつうは東山著が挙げるように「第112窟」の「観無量寿経変」の部分としてである。なぜ松尾著は、著名な第112窟ではなく第220窟の方を紹介しているのだろうか。
 しかも、松尾著が浄土経変の一部として掲げた反弾琵琶の図は、保存状態が頗るよいので、当初は複製か何かを写したものかと思っていたところ(加えて、「観無量寿経変」の反弾琵琶とは違って下部の伎楽天二体がいない)、ネット上に公開された画像がもとになっているらしいことが判った。ちょっとわかりにくいのだが、これは右下に作者名が記されており、どうやら敦煌壁画を摸した作品であると思しい。それにその画像には、「莫高窟第220窟 舞楽図・唐」との文言も添えられている。この記述は、果して正確なものなのかどうか。
 ところで松尾著は、琵琶そのものの由来についても述べている。

 琵琶は、隋・唐代の宮廷音楽の楽器であったが、中国にとっても外来の楽器であった。隋・唐の帝国は、周辺国への版図の拡大とともに、その国の音楽・舞踊を吸収し、外国の楽器も取り込んだ。琵琶はそうした楽器の一つで、宋代、陳暘(ちんよう)著の『楽書』(一一〇一年成立)には、異国の楽である「胡楽(こがく)」の中に「琵琶・五絃琵琶」を分類している。
 単に「琵琶」と記される楽器は、中国から日本にまで広域に広まったペルシャ起源の四弦琵琶である。一方、五弦琵琶はインド起源で、その両方が中国に入ってきていたことがわかる。ちなみに古代の五弦琵琶は日本にも伝来しており、東大寺正倉院の宝物として伝えられている。現在、世界に確認されている五弦琵琶は二本だけで、そのうちの一本が日本に現存しているのである。(p.122)

 小泉文夫『日本の音―世界のなかの日本音楽』(平凡社ライブラリー1994)は、琵琶には上記の「四弦」か「五弦」かという種別に加えて、「直頸」か「曲頸」かという違いがあることを紹介している。

 日本にはいまあげた、いろいろなタイプの琵琶の音楽があるのと同じように、楽器としての琵琶も、それぞれにみな少しずつ違っていて、あるものは四弦であったり、三弦であったり、あるいは五弦であったり、また、琵琶という楽器の棹のところについている非常に丈の高い柱(じ)の数も、たとえば四柱であったり、五柱であったりというふうに、いろいろです。琵琶全体の大きさもそれぞれに違っていますし、さらにはその構造も違っています。しかしながら、こまかなヴァラエティを度外視すると、まず、棹の上端――天軫(てんじん)がうしろに曲っているということ、これが共通しています。それから柱があるということです。
 実は、日本には、もう一つの全く違う種類の琵琶があります。いままであげたものは、こまかく言えばいろいろ違っていますけれども、しかしやはり、一つのタイプ、首がうしろに曲った琵琶で、それを曲頸琵琶といいますが、もう一つのタイプというのは直頸琵琶、首が真っすぐな琵琶というものです。これは弦の数が五本あるものですから、五弦琵琶と言われ、さらにもっと簡単に五弦とも言われておりますが、この楽器はすでに述べた通り正倉院にあります。(略)この五弦というものは、いままで述べてきた、琵琶のすべてのタイプとは全く違う種類のものです。(略)
 それから今日見られる資料で重要なものはインドにあります。インドで紀元後二世紀の仏教遺跡と言われているアマラーバチというところに石に彫った浮彫がありますが、お釈迦さまの事跡を描いた構図の中に、いまの正倉院の五弦琵琶に非常によく似た形の楽器が現われています。おそらくこういうような事柄から、五弦琵琶のほうは亀茲というところは、クチャという地名になっていますが、ここから中国に伝わったということで、こういうインド系の琵琶のことを亀茲琵琶といいます。したがって日本の五弦琵琶は、この亀茲琵琶がもとであり、そしてそのもとはインドであると想像されております。(pp.167-69)

 これによれば、「五弦」かつ「直頸」のものはインド系ということになり、前引の松尾著によると「四弦」はペルシャ系、ということになるが、その通説に疑義を呈しているのが、若林忠宏氏である。

 今日、正倉院の研究者、伝統邦楽研究者のほぼ全てが、聖武天皇(在位724~749年)が中国から献上され、正倉院に収められた様々な中国撥弦楽器は「直頸五弦琵琶」「曲頸四弦琵琶」「阮咸」の三種に大別されると、疑いもなく信じていると思われます。少なくとも今まで、これに物言いを付けた記述は見当たりません。(略)
 そして「直頸五弦琵琶は古代インド系」「曲頸四弦琵琶は古代ペルシア系」といい、やや詳しい研究者は、「阮咸という円形胴の琵琶の名は、この楽器の名手であった戦国時代の竹林七賢人のひとりの名に因んだものである」といいます。これは、中国学研究者にとって重要文献とされている(私にとっては最大最悪の偽書である)『通典(つてん)』の記述によるものでしょう。
 私も五十年弱にわたる民族音楽研究の大半は、この通説を信じてきました。しかし、世界に散在する様々な琵琶系弦楽器の壁画や石彫を改めて検証すれば、そこには、遥かに壮大な「琵琶の世界」があり、正倉院の三種は、そのほんの一部に過ぎなかったことがわかったのです。
 まず、古代インド系の「直頸琵琶」ですが、確かに古代インドの琵琶は、ほぼ全て「直頸」です。しかし、そこには五弦の他、四弦も六弦も存在します。また、三蔵法師も通った、アフガニスタン東部からパキスタン北部にかけてのガンダーラ地方には、明らかな曲頸であったり微妙な曲頸であったりする楽器の他に直頸もあります。アフガニスタン西部は古代からペルシア文化圏でもありましたから、曲頸はペルシアからの移入で直頸はインドから、で話は落ち着きそうですが、ガンダーラの直頸がインドより古い可能性は皆無ではありません。
 他方、アフガニスタン以西、果てはスペインに至るまで存在する西域琵琶は、ほとんど曲頸です。そしてその伝播の出発点は、定説どおり古代ペルシアであろうと思われます。東西に広がる以前、直頸の楽器が多く存在していた各地にとって、「曲頸」のアイデア(同じ張力でも弦の余韻と立ち上がりが顕著に向上する)は古代ペルシアの大発明ともいえます。しかし、西域の曲頸琵琶には、四弦の他、五弦、六弦、七弦、八弦もあり、北アフリカでは、四弦がむしろ少数派の時代もありました。
 したがって「直頸=インド系=ほぼ正解」「曲頸=ペルシア系=正解」ですが、「五弦=直頸」「四弦=曲頸」「五弦=インド系」「四弦=ペルシア系」ということではないのです。正倉院の琵琶の「捍撥(かんばち。撥から表面板を守るための絵画で装飾した皮や布の帯)」には、「直頸四弦琵琶」もしっかり描かれています。(若林忠宏『日本の伝統楽器―知られざるルーツとその魅力』ミネルヴァ書房2019:105-06)

 なお若林著が「そもそも『リュート』は、西アジアの琵琶が伝わったもの」(p.11)と説いているように、ヨーロッパの古楽器リュート」は琵琶と親縁関係にあるらしい。小泉著も次のように書いている。

 とにかく、インドから、さらに西のほうに目を向けてみますと、たいへん琵琶によく似た楽器が現われてきます。それは今日のイラン、トルコ、あるいはアラブ諸国イラク、シリア、エジプト、モロッコなどで使われている、ウードという楽器です。このウードというのはアラビア音楽で一番重要な弦楽器で、日本の琵琶とよく似た形をしていて、演奏法も中国の琵琶のように自分の手の指ではじくのではなく、細長い撥を使うということや、首がやはり、うしろの方に曲っているということなど、たいへんよく似ています。(略)
 さらに目を西のほうに向けていきますと、アラビアのウードがヨーロッパに入っていったと思われる、よく似た楽器がたくさんあります。特に東ヨーロッパなどでは、いまでもそれをラウドと呼んでいるところもありますし、また、南ヨーロッパのスペインなどでは非常によく似た形のもので、しかしマンドリンのようなフレットのついた楽器のことをラウタなどと呼んでいまでも使っています。こういったものが発達して、完全にヨーロッパの楽器になったものが、リュートと呼ばれるものです。
 リュートは国によっていろいろな呼び方があります。ドイツ語ではLaute(ラウテ)、イタリア語ではliuto(リウト)、フランス語ではluthe(リュト)、英語ではlute(リュート)というようにいろいろな呼び方がありますが、これらは全部アラビア語のウード、それに定冠詞をつけてエルウード(elud)、こういう言葉がなまってできたものですから、アラビアとヨーロッパのリュートとの結びつきは非常にはっきりしています。さらに、ほかの楽器と混って、今日のマンドリンだとか、ギターというヨーロッパ楽器ができあがったと想像されております。(小泉文夫『日本の音』pp.169-72)

 リュートといえば、イタリアのレスピーギによる「リュートのための古風な舞曲とアリア」が想起される。とりわけ第3組曲の第1曲「イタリアーナ」は2007年ごろクルマのCMの挿入曲として使われたのでよく知られるようになったが(第3曲の「シチリアーナ」なども有名)、この作品は16~17世紀のリュート用の楽曲をレスピーギ弦楽合奏のために「編曲」しただけで、「リュートのための」とうたってはいるものの、そもそもリュートで奏される作品ではない。リュートは18世紀中にはいったん「滅びて」しまっているからだ。
 ちなみに「リュート」と「クラシック」との複雑な関係について述べたものとして、星野博美『旅ごころはリュートに乗って―歌がみちびく中世巡礼』(平凡社2020)がある。最後にそれを引いておく。

 日本の音楽教育で刷りこまれたクラシック観を基準にしたら、リュートはクラシックには入らない。リュートの繊細で小さな音色は、金管楽器鍵盤楽器には太刀打ちできず、楽器の熾烈な生存競争から脱落した。バッハと、同時代に生きたヴァイスを最後に、作曲家たちはリュート曲を作らなくなったといわれる。ヴァイスとバッハの死んだ十八世紀半ばを境に凋落の一途をたどり、二世紀以上の深い眠りについた。リュートは絶滅した、といわれがちな所以である。
 過激な表現をするならば、リュートは、いわゆる「クラシック」に殺されたともいえる。
 しかしながらCDショップに行けば、リュートはクラシックコーナーの片隅の「古楽」や「アーリーミュージック」に分類されている。自分を殺した相手と一緒にされ、さぞ居心地が悪かろう。
 リュート界や古楽界の人々の、クラシックとの距離感はどうなのだろう。私から見ると、やはりクラシック畑出身の人が多く、純粋にこの楽器に魅了された、クラシックをやっていたが何らかの理由で飽き足らなくなった、あるいはラッシュアワーを避けて通勤する人のように、すいた電車に乗り換えた、という人が多いように見受けられる。(pp.25-26)

*1:東山氏によると、唐の時代区分は文学史などのそれとは異なっており、「初唐」(618-712)、盛唐(712-781)、吐蕃支配期(781-848)=中唐、張氏支配期(848-907)=晩唐、というような分け方をするという(p.108)。