レーモン・ラディゲ(1903-23)は、ことし生誕120年、そして歿後100年をむかえた。ラディゲはその短い20年の生涯のうちに、『肉体の悪魔』『ドルジェル伯の舞踏会』の二大傑作をものしたが、特に遺作となった『ドルジェル伯の舞踏会』(以下「ドルジェル伯」…
柏木如亭(1763-1819)による「新潟」詩は、如亭の代表作のひとつと看做される七律で、揖斐高訳注『柏木如亭詩集1』(平凡社東洋文庫2017)が採る(pp.143-46)のはもちろんのこと、揖斐高編訳『江戸漢詩選(下)』(岩波文庫2021)にも採録せられているし(…
学研パブリッシング(当時)が手がけていた文庫レーベルに、「学研M文庫」というのがあった。特に歴史小説や戦史ものを出していたことで知られるが、わたしにとっては、酒井潔『悪魔学大全(1)(2)』、アンソロジスト・東雅夫氏の編纂にかかる「伝奇ノ匣」シリ…
ことし生誕百年を迎えた橋川文三(1922-83)の著作を、このところじっくり読む、あるいは読み返すなどしている。ちなみにいうと、「文三」の読みは両様あるようだが、「ぶんぞう」ではなく「ぶんそう」が本来ではないかと思われる。この五月に講談社と丸善ジ…
かつてわたしは、植村達男『本のある風景』(勁草出版サービスセンター1978)を2冊持っていた。その後――といってももう十五年ほど前の話になるが――、初刷の方は知人に差し上げた。いま手許にあるのは1982年刊の第2刷で、ビニールカバーの下に抹茶色の帯が巻…
かつて人物往来社から刊行されていた宮崎市定監修「中国人物叢書」(第一期、全十二巻)の著者名およびタイトルは、それぞれ下記のとおりである(第一回配本は④の宮崎著)。 ①永田英正『項羽』/②狩野直禎『諸葛孔明』/③吉川忠夫『劉裕』/④宮崎市定『隋の…
「怪を語れば怪至る」の典型としてしばしば言及される怪談のひとつに、「田中河内介(たなかかわちのすけ)」というものがある。これは、大正期の或る怪談会で、幕末の勤王派・田中河内介の最期について語ろうとした者が、同じ言葉をくり返したあげく結末を…
四年前に「『女と刀』のことから」というエントリで、中村きい子の『女と刀』を復刊してくれないものか、と書いたことがあるけれど、それが三月にちくま文庫に入ったので、驚き、かつ嬉しく思ったことだった。 ところでこの四年のあいだに、必要あって田宮虎…
宇能鴻一郎『味な旅 舌の旅』(中公文庫1980)が、エセー「男の中の男は料理が上手」と、著者と近藤サト氏との対談(「酒と女と歌を愛さぬ者は、生涯馬鹿で終わる」)とを附して、2月に新装復刊された。昨夏に出た宇能氏のオリジナル短篇集『姫君を喰う話』…
「酒池肉林」は、日本でも古来親しまれてきた故事である。たとえば『太平記』第三十巻「殷の紂王(ちゅうおう)の事、并太公望の事」には、四字成語の形としては出て来ないが、 (紂王は)また、沙丘に、廻り一千里の苑台を造りて、酒を湛へて池とし、肉を懸…
昨年10~12月、著名人が十代後半に誌した日記の公刊が相次いだ。心の赴くままぱらぱら捲っていると、それぞれに、十代ならではの煩悶や鬱屈、そして抑えがたい向学心や旺盛な好奇心が垣間見られて面白い。 たとえば田辺聖子は戦時下にあって、事あるごとに「…
この秋から冬にかけて(主として車中で)味読していたのが、ギュスターヴ・フローベール/山田𣝣訳『ボヴァリー夫人』(河出文庫2009)である。十二月にフローベールが生誕二百年を迎えるというので、一種の義務感のようなものから読み直していたのだったが…
鶴岡征雄『私の出会った作家たち―民主主義文学運動の中で』(本の泉社2014)の主要登場人物のひとりに、戸石泰一(といし・たいいち)がいる。作家にして日本民主主義文学同盟(現・日本民主主義文学会)の幹事、そしてまた都立高校の教員でもあった。 同書…
紅野謙介編『黒島伝治作品集』が岩波文庫に入ったので、早速求めた。プロレタリア系作家の作品集というと、5月には同じ岩波文庫から、道籏泰三編『葉山嘉樹短篇集』も出ている。 黒島伝治の作品に初めて触れたきっかけは単純で、父の蔵書に集英社版日本文学…
谷崎潤一郎『瘋癲(ふうてん)老人日記』*1は、20年ほどまえ小林信彦氏の評に導かれるようにして読んだのがたしか最初であったが、最近、宇能鴻一郎『姫君を喰う話―宇能鴻一郎傑作短編集』(新潮文庫)の「解説」(篠田節子)に、〈「雲のかなたにそびえる高…
松尾恒一『日本の民俗宗教』(ちくま新書2019)は知的好奇心をかき立てられる本だが、すこし不思議な点がある。第三章「民衆の仏教への受容」の第三節「因果応報の志操の遊行と宗教者・芸能民」に、 中国の琵琶の音色やメロディーを考える上で注目したいのは…
総勢87名の文章を収める佐藤聖編『百鬼園先生―内田百閒全集月報集成』(中央公論新社2021)には、たとえば河盛好蔵の文章であれば3本、阿川弘之や江國滋、安岡章太郎の文章も同じく3本、川村二郎や池内紀の文章は4本収録されているのだが、中村武志による文…
前回の記事で紹介した宇野浩二『思い川』は、野口冨士男の「かくてありけり」にも(やや唐突な形で)出て来る。関東大震災直後、市民の避難状況を描写したくだりである。 私たちだけではなく、富士見町の花柳界の連中はことごとく馬場へ避難した様子で、みる…
「文学の鬼」との異名をとり*1、また、「私小説」という言葉の生みの親としても知られる宇野浩二の作品は、ほぼ自身の実体験に基づくものだったのではないか――、などと何の根拠もなくおもっていたが(というより、昨夏まであまりきちんと読んでいなかったの…
赤石晋一郎『完落ち―警視庁捜査一課「取調室」秘録』(文藝春秋2021)は、“伝説の刑事”大峯泰廣氏の活躍を描いたノンフィクションである。他の本で読んだり(第三章「猥褻」)、テレビで見たり(第五章「信仰」、第八章「迷宮」)した挿話もあったものの、巻…
昨年はベートーヴェン・イヤーであったが(生誕250年)、あいにくのコロナ禍で休日の外出もままならず、コンサートへは一度も行けなかった。岡田暁生氏は、「コンサートやライブが自粛されていた間、録音音楽ばかり聴いていたせいで逆に、生の音楽における背…
ひところ、古書肆や新古書店に入るたびに、目を皿のようにして連城三紀彦やフレドリック・ブラウンの本ばかり探していたということがあった。 最近は一時期に較べると、いずれもかなり見つけにくくなってきたのを感じていたが、このところ、両者の復刊や新訳…
國分功一郎『中動態の世界―意志と責任の考古学』(医学書院2017)には色々と触発されるところがあって、 かつて中動態は、中動態と能動態とを対立させるパースペクティヴのなかにあった。中動態は能動態との対立のなかで自らの位置を確定していた。ところが…
笠松宏至『徳政令―中世の法と慣習―』(岩波新書1983)の話をもう少し続ける。 同書が、中世語「甲乙人」についても説いていることはさきに触れた。笠松氏はこの語の原義が、身分的な意味を有しない、ニュートラルな「第三者の総称」(p.122)であったことを…
早島大祐『徳政令―なぜ借金は返さなければならないのか』(講談社現代新書2018)の第一章に、次のようにある。 ここで、日本の歴史学において、債務破棄を意味する徳政令がどのように理解されてきたかをまず紹介しておこう。 最初にとりあげるのは、笠松宏至…
過日、約8年ぶりで西村昭五郎『競輪上人行状記』(1963日活)を観た。前回は「日本映画専門チャンネル」の「ハイビジョンで甦る日の当らない名作」枠でかかっていたのを録画して鑑賞したのだが、はからずも主演を務めた小沢昭一を追悼するという形になってし…
さる方から、ロバート・バー/田中鼎訳『ヴァルモンの功績』(創元推理文庫2020)を頂いた。バーの作品は、これまで宇野利泰訳の「放心家組合」だけしか読んだことがなかった。宇野訳「放心家組合」は、まず江戸川乱歩編『世界短篇傑作集(一)』(東京創元…
野呂邦暢の「剃刀」を読んで、それに触発されるかたちで再読したのが石川桂郎『剃刀日記』のうち数篇(「蝶」「梅雨明け」など)であったり、また志賀直哉の「剃刀」であったりしたのだが、志賀の「剃刀」は、『焚火―志賀直哉全集 第二巻』(改造文庫1932)…
当ブログでかつて触れたことのある本が、文庫本というあらたな形になって再び生命を吹き込まれ、世に出るのはうれしい*1。 たとえば、日夏耿之介『唐山感情集』(彌生書房1959)は2018年7月に講談社文芸文庫に入った*2。また、岩田宏『渡り歩き』(草思社200…
永井荷風『来訪者』の主要登場人物2人のモデルのうち、白井巍(たかし)のモデルになった平井呈一(1902-76)はいまも読まれる翻訳作品を数多く残しているし、その弟子のひとり荒俣宏氏が語り継いでいることもあってよく知られているものの*1、木場貞(てい…