イーヴリン・ウォー『ラブド・ワン』のことなど

池永陽一『学術の森の巨人たち―私の編集日記』(熊本日日新聞社2015)は、講談社学術文庫の編集者(出版部長)だった池永氏の回想録であるが、そこに由良君美『言語文化のフロンティア』(講談社学術文庫1986)を編んだ切っ掛けについて語ったくだりがみえる…

ヒッチコックの『泥棒成金』

ヒッチコック作品は、高校*1、大学生の時分にある程度まとめて観て、その後――山田宏一・和田誠両氏による対談本『ヒッチコックに進路を取れ』が刊行された2009年(一昨年に文庫化された)、同書に触発されて、『見知らぬ乗客』を皮切りに、それまで観たこと…

早川孝太郎の『花祭』『猪・鹿・狸』

早川孝太郎(1889-1956)、という民俗学者がいた。 わたしはその名を、たしか岡茂雄の『本屋風情』で初めて知り、深く記憶に刻みつけたはずである。なにしろ同書の書名の由来に関わってくる人物なのだから。 少し長くなるが、そのくだりを「まえがき」から引…

『陶庵夢憶』や周作人のこと

張岱(ちょうたい)著/松枝茂夫訳『陶庵夢憶』(岩波文庫1981)という、滋味あふれる明代の随筆集がある。気が向いたときに、時々本棚から取り出しては読む。とりわけ「三代の蔵書」(巻二、pp.105-07)、「韻山」(巻六、pp.230-32)あたりが気に入ってい…

大泉滉・大泉黒石

濱田研吾*1『脇役本』が、ちくま文庫に入った。元版の右文書院版はかつて読んだことがあり、「中村伸郎の随筆集」で触れたこともあるが、増補がなされているというので手に取ってみた。 増補部分であらたに加えられた役者の顔ぶれがまた豪華だ。高田稔、賀原…

ちくま文庫の「ベスト・エッセイ」

ちくま文庫が、昨年12月から4カ月連続で「ベスト・エッセイ」と冠したエッセイ選集を刊行している。大庭萱朗編『田中小実昌ベスト・エッセイ』(12月刊)、大庭萱朗編『色川武大・阿佐田哲也ベスト・エッセイ』(1月刊)、荻原魚雷編『吉行淳之介ベスト・エ…

『女と刀』のことから

「明治150年」であるためか、日本近代関連書の出版や復刊が相次いでいる。大河ドラマの「西郷(せご)どん」(林真理子原作)関係はもちろん、たとえば中公文庫でも、石光真清の手記が新編集で復刊されたり*1、橋本昌樹の『田原坂』が増補新版で刊行されたり…

路線バスで読む梅崎春生

うろ覚えだが、草森紳一氏が、東京―大阪間の新幹線の車内で読むのに好適な本として松本清張の短篇集を挙げていた。ほどよい長さのため車中読書にうってつけで、しかもやみつきになる、というわけで、その状況を“手が伸びることさながらバターピーナッツのご…

異分析、民間語源

例えば「あくどい」を「悪どい」と捉えたり、「いさぎよい」を「いさぎ(が)良い」と解釈したりすることを、「異分析(metanalysis)」という。國語國文研究會編『趣味の語原』(桑文社1937)を見てみると、この手のものがたくさん出て来て、なかなか面白い…

久生十蘭「母子像」のことなど

神奈川近代文学館のスポット展示「久生十蘭資料〜近年の収蔵資料から〜」(2017.12.9〜2018.1.21)は、十蘭の姪にあたる三ッ谷洋子氏の寄贈品をもとに構成されていて、十蘭の改稿癖の一斑がうかがえる「海豹島」切抜きへの夥しい書込み*1等、とりわけ印象に…

『広辞苑』第七版刊行

今月12日、新村出編『広辞苑』第七版(岩波書店)が出た。ネット上では早くも、「LGBT」の語釈に誤りがある(のちに「しまなみ海道」の件も報道された。1.22記)ということで話題となっている。 第五版の宣伝文句は「私が、/21世紀の/日本語です。」、第六…

将を射んと欲すれば

日本で言い慣わされている漢籍由来の故事成句は、漢籍における元々の表現とは異なった形で人口に膾炙している、ということがしばしばある。 例えば、『史記』巻九十二「淮陰侯傳」にみえる「敗軍之將不可以言勇」(敗軍の将は以て勇を言ふべからず)は、日本…

飯間浩明氏の新著

先日、飯間浩明『小説の言葉尻をとらえてみた』(光文社新書2017、以下『言葉尻』)を読んだ。特におもしろく読んだところを抜書きしてみる。 「愛想を振りまく」 先回りして言っておくと、この表現(「愛想を振りまく」―引用者)は誤用ではありません。でも…

「功を奏する」か「効を奏する」か

再掲だが、ここに、「日本文学全集」第30巻(池澤夏樹個人編集)『日本語のために』(河出書房新社2016)所収の松岡正剛「馬渕和夫『五十音図の話』について」(pp.261-68)から、 問題を五十音図だけに絞っているのも効奏した(p.267) という箇所を引いた…

岩田宏『渡り歩き』のことから

「デュ・モーリア」というと、ミステリ好きや映画好きは、おそらくダフネ・デュ・モーリアを思い浮かべることだろう。わたしもそのくちで、ヒッチコック作品を経由して彼女を知り、文庫版でいくつかその作品を読んだ。 しかしその祖父、“ジョージ”・デュ・モ…

青木正児、鈴木虎雄、桂湖村

前回の記事で青木正児(1887-1964)に触れたが、その青木は、櫻井正一郎『京都学派 酔故伝』(京都大学学術出版会2017)pp.346-73でも紹介されている。 櫻井氏は青木を「狷介な隠者」(p.373)と評し、鈴木虎雄(1878-1963)−青木ラインが形づくる系譜を、京…

青木正児「陶然亭」

神吉拓郎の短篇集『二ノ橋 柳亭』が光文社文庫に入った。 この作品集が、『二ノ橋 柳亭』というタイトルで刊行されるのは初めてのことで、かつては『ブラックバス』という題で文春文庫に入っていた。 春先に、大竹聡編『神吉拓郎傑作選1 珠玉の短編』(国書…

『首塚の上のアドバルーン』と『太平記』と

後藤明生『首塚の上のアドバルーン』(講談社文芸文庫1999)*1は、「ピラミッドトーク」「黄色い箱」「変化する風景」「『瀧口入道』異聞」「『平家』の首」「分身」「首塚の上のアドバルーン」の七つの中短篇から構成される連作小説集である。 著者が1985年…

松本恵子訳『アクロイド殺し』のことなど

「叙述ミステリ」は、「そういう作品である」とあらかじめ聞かされて手に取ることが多い、と以前書いた。むしろそのような前提知識があった方がありがたい場合もあるので、この前Nさんにすすめられて読んだ麻耶雄嵩「こうもり」(『貴族探偵』集英社文庫2013…

北村薫『六の宮の姫君』

先日、北村薫『六の宮の姫君』(創元推理文庫1999)を再読した。 北村薫「円紫さんと私」シリーズ第四作・長篇『六の宮の姫君』は、芥川龍之介の短篇「六の宮の姫君」についての芥川自身の発言の謎をめぐって推理が展開される、いわゆる「ビブリオミステリ」…

おとうさん/おかあさん

原作(深見じゅんのマンガ)は未読ながら、かつてオンタイムで見ていたドラマ『ぽっかぽか』(1〜3,1994-97)が、BS-TBSで再放送されている。「花王・愛の劇場」枠で放送されたいわゆる「昼ドラ」だが、これが何よりも印象的なのは、幼稚園児の田所あすか(…

叙述ミステリ(トリック)が好き。

気持ちよく騙されるのが好きだから、叙述ミステリも好んで読む。『盤上の敵』『十角館の殺人』『ハサミ男』『殺戮にいたる病』『葉桜の季節に君を想うということ』『ロートレック荘事件』「依子の日記」等々。 海外作品だと、最近(昨秋)読んだのが、フレッ…

濁る「田」と濁らない「田」と

(大島は)二、三分後には手紙をもったまま車に戻ってきて、 「お客さん、さっき『イシダ』って言ったの? 西田って客なら予約が入っていて、さっき『到着がもっと遅れる』って電話が入ったって。イシダって客はいないと言うから」 と言った。 女はちょっと…

梁啓超『和文漢読法』のことなど

顧頡剛/平岡武夫訳『ある歴史家の生い立ち―古史辨自序―』(岩波文庫1987)に、次のような一節がある。 この時は、ちょうど国内に革新運動が勃発した時であって、学校を開け、纏足を止めよ、鉄道を敷け、米国のシナ労働者禁止条例に抗議せよ、政府に憲法を布…

佐多稲子のこと

葉山嘉樹ほか『教科書で読む名作 セメント樽の中の手紙ほか―プロレタリア文学』(ちくま文庫2017)という昨年12月から刊行され始めたシリーズのうちの一冊に、佐多稲子の処女作「キャラメル工場から」が収められている(pp.33-58)。 この作品は、青木文庫や…

葦の髄から…

第1部第二章で紹介される『五十音和解』という本が気になって、内村和至『異形の念仏行者―もうひとつの日本精神史』(青土社2016)を読みはじめたのだが、誤記が少なくないのは残念なことである。 たとえばp.327の注(17)に「井筒敏彦」とあったり、同じく…

尾形亀之助/松田甚次郎

「詩」と云えば、どちらかというと漢詩を思い泛べてしまう様な身であるから、散文詩に対してはあまり昵みがなかったのだけれど、最近、わたしの読書の師匠のひとりKさん(詩人でもある)が、近代から現代にかけての詩人とその作品とをたくさん教えてくださる…

三度目の『やちまた』

このブログでは個人的な事情をいちいち書き連ねることをなるべく控えているので、詳細は縷々述べないが、昨年12月初旬から三週間強、仕事がほとんど手につかず、本を1ページどころか一字も読めない深刻な状況に陥った。 「本好き」を僭称するようになってか…

『文章読本』

文章はいっこう巧くならないが、文章読本の類を読むのは以前から好きである。 たとえば、斎藤美奈子『文章読本さん江』は単行本刊行時に(どんな内容であるかも知らずに)飛びついたし、最近でも、岩淵悦太郎編著『悪文―伝わる文章の作法』が文庫版*1で出て…

「鸚鵡石」、あるいは誤植の話など

高橋輝次編著『増補版 誤植読本』(ちくま文庫2013)に「かづの」なる誤植(というか誤記)があることは、以前ここに書いたとおり。同書にはそのほか、堀江敏幸氏の文庫版解説「誤って植えられた種」に句点の重複があったりする(p.294)のだが*1、それはい…