藤枝晃『文字の文化史』/聖徳太子

 藤枝晃の『文字の文化史』は、「文字・漢字好きのバイブル」ともされ、これまでに岩波書店の単行本(1971年刊)、岩波同時代ライブラリー版(1991年刊)、講談社学術文庫版(1999年刊)、と何度か形を変えて世に出ている。だが、現在はいずれも絶版もしくは版元品切である。
 わたしは学術文庫版が刊行された際にこれを求め、センター試験直前だというのに夜更かしして読んでいた記憶が有る*1。その後、同時代ライブラリー版も購い、同好の士には、事あるごとに一読をすすめている。
 同時代ライブラリー版のあとがきに、「アカデミー(フランス学士院金石文芸アカデミーのこと)は、この小著を私の一生の仕事のダイジェストと見なした模様である」(p.292)とあるが、事実、このことは、小題のつけ方からもうかがい知れる。たとえば、「長城のまもり」(同時代ライブラリー版p.90)というのは、藤枝による雄篇(1955)と同じタイトルである。その論考は、「森鹿三教授主宰の居延漢簡研究班の主力メンバーとして執筆した」もの(礪波護「藤枝晃先生の学恩」『京洛の学風』中央公論新社2001所収:48)で、「系統的な史料整理の方法とその有效性を提示した」(籾山明『秦漢出土文字史料の研究―形態・制度・社会―』創文社2015:338)などと評される。
 『文字の文化史』の副読本としては、藤枝晃『敦煌学とその周辺』(ブレーンセンター1999)が挙げられる*2。藤枝自身の「コディコロジー」(codicologie)*3の確立など、「その後」の進展が述べられている。
 さて先日、「聖徳太子研究の最前線」というブログの、「三経義疏中国撰述説は終わり」や、その続篇「藤枝晃先生のもう一つの勇み足」をおもしろく読んだ。
 ブログ主である石井公成氏は、敦煌学における藤枝の功績を認めながらも、彼の「三経義疏中国撰述説」を批判している。藤枝説は、『敦煌学とその周辺』の「第三回講座 聖徳太子」(pp.107-36)で(裏話も含めて)手軽に知ることが出来る。そこで藤枝は、「(三経義疏は)間違いなく渡来物です」(p.134)と言い切っているのだが、石井氏はその説を誤りとして斥けているわけである。
 石井氏は、今年初めに『聖徳太子―実像と伝説の間』(春秋社)という一般向けの本も出されており、pp.34-36 やpp.167-73 あたりに、上掲のブログ記事で展開される話題をさらに詳しく平易に説いている。それは、「森博達氏や筆者自身を初めとする変格漢文研究の成果と、仲間たちで開発したNGSMと称するコンピュータによる比較分析方法」(p.169)に裏打ちされているから、学説は印象論にとどまることがないし、説得力がある。
 個別的には、たとえば、次の指摘など興味ふかいものがある。

 ただ、三経義疏は変格漢文が目立つとはいえ、「憲法十七条」および変格漢文で書かれた『書紀』β群の諸巻に多数見られる「之」を文の中止・終止の形で用いる用法が、まったく見られません。これは、文体面での重要な違いです。「憲法十七条」と三経義疏を同じ時期に同じ人が書いたとは、とうてい考えられません。(p.173)

 また、聖徳太子の別名「厩戸王(うまやとおう)」が現存史料には全く出て来ないという指摘なども面白かった。ということは、

 なお、(蘇我)馬子と呼んでいるが、その「子」の字は、孔子孫子と同じような尊称である。したがって名前の本質は「馬」となる。一方の厩戸皇子も「うまやと」で、また厩戸の娘も「馬屋古(うまやこ)女王」であり、「うま」という名前の共通性も注目される。
(吉村武彦『蘇我氏の古代』岩波新書2015:120)

という記述の後半部などは、怪しくなってくるのか知ら。

文字の文化史 (講談社学術文庫)

文字の文化史 (講談社学術文庫)

京洛の学風

京洛の学風

敦煌学とその周辺 (対話講座なにわ塾叢書)

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聖徳太子: 実像と伝説の間

聖徳太子: 実像と伝説の間

蘇我氏の古代 (岩波新書)

蘇我氏の古代 (岩波新書)

*1:解説は、藤枝の娘婿・石塚晴通氏が担当。

*2:特に「第一回講座『文字の文化史』のあとさき」。

*3:「古写本の材料・かたち・書き方・作り方・しまい方など、写本の内容以外の一切のことを追求してい」く(p.24)学問のこと。籾山前掲の「序章」を読んで知った術語、「搬送体」(石上英一の造語)とも重なり合う概念であろう。