盛者必衰の理

輪読会の日時が急に変更さる。
日にちがもう少しずれ込んでいたら、京都駅前ポルタの古書市へ行けたのに…。残念。余裕があれば、ポルタの古書市にも行きたいものです。かつて何べんも通った場所なので。
今日はアルバイトもなく、久々にゆっくりすることができたので、イアン・アーシー『怪しい日本語研究室』(新潮文庫)、小松左京『読む楽しみ語る楽しみ』(集英社文庫)、岩松研吉郎『日本語の化学変化』(パンドラ新書)など読む。また、佐藤喜代治『漢字講座3 漢字と日本語』(明治書院)、田中貢太郎『蟇の血』*1を再読。
怪奇譚 (ちくま文庫)
『蟇の血』は、蜂巣敦『実話 怪奇譚』(ちくま文庫)に導かれる形で読み直したくなった小説。この『怪奇譚』を読んでいると、色々の本を読みたくなったり、映画を観たくなったりするので困ります(笑)。たとえば仮名垣魯文『高橋阿伝夜刃譚』、石井隆『フリーズ・ミー』、安部公房『闖入者』、佐々木浩久『籠女』…。石井隆作品は、主題からしてそんなに好きではないのですが、『死んでもいい』(1992)や『夜がまた来る』(1994)の〈エグさ〉は忘れられません。とくに前者は傑作だと思います。オープニングの車内シーンから衝撃のラストに至るまで、しじゅう「得体の知れない不安感」におそわれつづける映画です。B級ホラーよりも、ずっと怖い映画でした。
怪しい日本語研究室 (新潮文庫)
『フリーズ・ミー』(2000)もいちおう録画してはおいたのですが、あまり評判がよくないので、正直にいってなかなか観る気にはなれませんでした。
しかし蜂巣氏の『フリーズ・ミー』評――たとえば「トリッキーな演出で、ハラハラする恐怖感を醸し出すのが石井隆はホントにうまい」(p.195)といった記述――に目がとまると、にわかに観たくなってくるので不思議です。
さて、イアン・アーシー『怪しい日本語研究室』(新潮文庫)を読んでいると、『平家物語』の冒頭部が引かれており、「盛者必衰」のルビが「しやうしやひつすい」となっている(p.77)のが気になりました。私は、高校時代の古文の授業で、「じやうしやひつすい」と習ったはず。
この「盛者」について、橋本進吉は以下のように書いています。

この語は、我々は普通シヤウジヤと讀んでゐる。内海氏の平家物語評釋や有朋堂文庫本のやうな手近な本や、御橋 言氏の平家物語略解や石村貞吉の新註平家物語のやうな勝れた註釋書にも皆「しやうじや」と假名を附けてゐる。しかるに、譜本によると、前田流の平家正節にジヤウシヤとあつて上のシを濁り下のシを芿んで、その芿濁が反對になつてゐる。これは或は書冩の誤ではないかと二三の冩本をしらべて見たが、やはり同樣である。譜本でなく、漢字に假名を附け假名に濁點を附けた萬治二年刊行の片假名整版本もやはり「盛」にジヤウの假名が附いてゐて、この點で語り本と一致する(この本には「者」には假名が無い)。
(『橋本進吉博士著作集第四册 國語音韻の研究』岩波書店,p.24)

つづけて橋本は、「盛(ジヤウ)」は理論上の呉音であったと述べ、「ジヤウシヤ」という読みは根拠のあるものだ、と説きます。一方の「シヤウジヤ」は、あまり古い時代には見当らず、知りえたものでは元禄十一年の平仮名整版本に附されたものがもっとも旧いけれども、これは平仮名版本に勝手に濁点を加えたものだ、と書いています(寛文十一年刊本や延宝五年刊本には「しやうしや」と仮名があるのみで濁点はないとのことです)。
そして結論として、「シヤウジヤ」という読みは、「生者必滅(必衰)」との混同によって生れたのではないか―と書いています。しかし、「生者」が「シヤウジヤ」と読まれたり、『八島』の「生死」が「シヤウジ」と読まれたりするのは、「生」がもともと鼻音韻尾をもっていたことによるのでしょう。だとすれば、「盛者」の「盛」も同様に鼻音韻尾をもつから、「シヤウジヤ」「ジヤウジヤ」と読まれてもおかしくないのではないか…?
そういえばⅠ先生が発表されたおりに、『平家物語』冒頭部をたくさんコピーして載せたレジュメが配られましたが、あれはどこへ行ったのかな…。
後半は「メ」に書く積りの記事でしたが、面倒なのでこちらに書きました。

*1:東雅夫編『伝奇ノ匣6 田中貢太郎 日本怪談事典』(学研M文庫)所収。