あの娘可愛やカンカン娘

銀座カンカン娘

島耕二『銀座カンカン娘』(1949,新東宝)を観た。id:kanetakuさんは三度ご覧になったそうだが、私は二度目の鑑賞である。
お秋(高峰秀子)、お春(笠置シヅ子)、白井哲夫(岸井明)らがうたう「銀座カンカン娘」のメロディが耳に心地よく、ついつい口遊んでしまう。シンプルだがそれゆえに乗りやすいメロディラインは、底抜けに明るく、憂鬱な気分を一掃してくれる。
作品自体もたいへん明るい。特に私の気に入っているのは、おだい(浦辺粂子)に頼まれて、高峰と笠置が飼い犬のポチを捨てにゆくのだが、始終つきまとわれ、捨てるに捨てられず*1……という序盤から中盤にかけてのシークェンス。オープン・セット(?)の「特賣中」だの「古本買入」だのといった立看板にも目が行く。
また武助(灰田勝彦*2)の父親で、高座に復帰する落語家・新笑を演ずるのは古今亭志ん生*3。演技はさほど巧いというわけではないが、「替り目」(または「元帳」)「疝気の虫」のサワリを聴けるのが嬉しい。しかも、志ん生の「ヘイ、御退屈様――」とともに映画も終幕をむかえるのである。
特に「替り目」については、志ん生自身、「ここんとこ(「替り目」のクライマックスからサゲに至るまで―引用者)を演(や)るたびに、こいつあ、あたしがウチのかかァにそういってるんだという気になりますよ。身につまされるはなしってえと、このくらい身につまされる落語(はなし)ってありませんよ」(古今亭志ん生『びんぼう自慢』ちくま文庫,pp.284-85)と語っているとおり、彼が得意とした噺のひとつである。
そのほか、個人的には岸井明のトランペットが聴けるのと、肥満体を利用した(くどすぎるくらいの)ギャグを安心して観られたのがよかった。岸井明の評伝、誰か――例えば小林信彦氏あたりが――書いてくれないものだろうか。
ちなみに主演の高峰秀子は、この映画や曲について次のように書いている。

わたしの渡世日記〈下〉 (文春文庫)
「銀座カンカン娘」はミュージカル風の喜劇で、笠置シヅ子と私は一つ部屋に同居している親友である。会話の途中から歌になり、歌の途中から会話になる、という場面(シーン)が多かった。例によってダビングルームで二人掛け合いの音だけをフィルムにとり、ステージでプレーバックしてみると、どこからどこまでが彼女の声で、どこからどこまでが私の声か分からない。もともと音質が似ている上に、あまり彼女の歌を聞きすぎて、その特徴がすっかり私にうつってしまったのである。(中略)
「カンカン娘って、どういう意味*4? いったいどんな娘なんでしょう?」
私は作曲者の服部良一に聞いてみた。彼はキョトンとした顔で、なにかモゴモゴと呟いたけれど、ハッキリとした回答は得られなかった。考えてみれば、流行歌の題名にいちいちこむずかしい理屈など無用なのだ。服部良一の、カンカン娘のイメージは、あのブギ調の明るいメロディーにちゃんと表現されている。それでいいではないか。
歌のヘタクソな私がむりやり吹き込みをさせられた「銀座カンカン娘」のレコードは、恥ずかしいほど売れに売れた。しつこい私はまた、「なぜ? どうして?」と聞きたくなるけれど、昭和二十四年という年は、たぶん(この「たぶん」に傍点―引用者)そんな年だったのだろう。「銀座カンカン娘」は時代の波の中から生まれたのだと私は思っている。(高峰秀子『わたしの渡世日記(下)』文春文庫,pp.53-54)

*1:ついに大団円のお祝いの席では、ポチのために「座」が設けられる。ちょこなんと坐っているポチがまた可愛い。

*2:この作品では、灰田の「サンタルチア」「わが夢・わが歌」等も聴けます。

*3:小林信彦氏が『名人―志ん生、そして志ん朝』(朝日選書)で、この映画について触れているそうだが未見である。

*4:フレンチ・カンカン」の「カンカン」だという説もあるが、定説ではないらしい。