大楠道代の声から

大雨。
午後から大学。『國文學』(六月号)が「映画の最前線」という特集を組んでいて、四方田犬彦や和田忠彦が書き手として名を連ねている。
そのうち二、三の記事を読んだ。特に阿部嘉昭の「日本―荒戸源次郎論」は、安田(現・大楠)道代の「声」の変化について*1の印象的な書き出しで始まるのだが、荒戸の『赤目四十八瀧心中未遂』を取り上げて、これを「戦慄的な見所満載の傑作だ」(p.48)と評し*2、さらに「大楠道代が、主人公・大西滝次郎に生地『伊賀』の歌を唄う小さな場面、その観念連合作用に鳥肌が立った」と書いている(車谷長吉の原作にこの場面はないらしい)。「鳥肌が立った」という表現が適当なものかどうかはさておき、阿部氏がこの作品を手放しで絶賛しているのは間違いないので、明日の衛星劇場で放送されるこの映画がやや気になったりもしている。
しかし安田道代の「声」の変化は、増村保造の演出術によるところも大きいと思う。だから、若尾文子などは別格としても、たとえば『でんきくらげ』『しびれくらげ』の渥美マリ、『盲獣』の緑魔子、『音楽』の黒沢のり子のリアクションや声がシミュラークルとして消費されている感があるのではないか。同じく『セックス・チェック 第二の性』の安田道代も、特異な例と看做してよかろうと思う。
ところで何故かこの映画には、『新明解国語辞典』が小道具として使用されているらしい。そこで『田園に死す』の高野浩幸が、辞書(これがよく分らない。ちゃんと調べれば分ると思う)で「かけおち」という言葉だったかを引いて、その語釈を読み上げていたのを思い出した。映画に辞書そのものが出て来るのはきわめて珍しいことだから覚えていたのだ。
雨が激しくなりそうだったので、早めに帰ることに。帰途、今月の岩波新書がそろそろ出ている頃かと思い新刊書店に立寄るが、まだ店頭に並んでいなかった(今月は、買いたいものが少なくとも三冊ある)。
横田順彌『嗚呼!! 明治の日本野球』(平凡社ライブラリーOff)の続きを読み、それから山田孝雄平田篤胤』(寶文館)を読む。それで唐突に思い出したが、小林秀雄『夜明け前』について、この作品は「イデオロギイ」とか「思想」とかいったものを見出しにくい、と云っておきながら、「平田篤胤の思想が全篇を強く支配している」などと書いていて(引用は不正確)、その真意を汲取れなかったことがある。修行が足りないのだろうか。

*1:なんと『セックス・チェック 第二の性』が引き合いに出される。

*2:『日本映画の21世紀がはじまる』に詳細な評があるらしいが、これは読んでいない。