伊豆の踊子

益田勝実の仕事〈4〉秘儀の島・神の日本的性格・古代人の心情ほか (ちくま学芸文庫)
 鈴木日出男 天野紀代子編『益田勝実の仕事4 秘儀の島』(ちくま学芸文庫)を読むが、内容がスンナリ頭に入って来ない。例えば「読み・潜在への旅―ひとつの記紀神話の座標を求めて―」は、音声言語と文字言語の別についての話に始まるのだが、「文字のことば」は「裸のことばとして機能しなければならない」と書いてあって、これは(神話を)「読むこと」を前提としたものか、それともソシュール以来の言語観を踏襲したものなのか、などとあらぬことを考えたりするうちにヒルコの出生譚となり、「アルカイックな緊張に満ちた想像の意味」を理解しえないまま読み終えた。
 そこで、映画でも観ようかと思い立ち、そういえば五所平之助『恋の花咲く 伊豆の踊子』(1933,松竹蒲田)があったよな、と棚を見るがそれらしいものが見当らず、まあ仕方ない、ついでだから原作を読もうか(九年ぶりに!)ということで集英社版日本文学全集『川端康成集(一)』をそそくさと取り出し、これは短いのですぐに読み終えたのだが、ラスト附近の「主語のねじれ」が気になった。この問題について、川端自身が回答していたのを思い出したが、それをどこで読んだのかサッパリ思い出せない。
 その「主語のねじれ」というのは、こうだ。

はしけはひどく揺れた。踊子はやはり唇をきっと閉じたまま一方を見つめていた。私が縄梯子に捉まろうとして振り返った時、さよならを言おうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなずいて見せた。
(『川端康成集(一)』,p.113上)

 すなわち、この「さよならを言おうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなずいて見せた」という文章の動作主は一体誰か、という問題である。私は、「私」ではなく「踊子」と解したのだが、だとすれば、「踊子」が「さよならを言おうとした」ことを何故「私」は理解出来たのか、という問題が生ずる。
 確か川端自身も、これは「踊子」が正解であるとした上で、もし「私」と解釈して欲しいのならば、「私が縄梯子に〜」を「私は縄梯子に〜」と書いた筈だ、と述べている―ト、ここまで書いて、ちょっと検索してみたらこんな文章が見つかった。私の疑問についても語り尽くされているように見える。残念ながらいまは読む気力がないので、挙げておくだけにする―。
 結局、ビデオは見つからず。
失踪―松本清張初文庫化作品集〈1〉 (双葉文庫)
 松本清張 細谷正充編『失踪』(双葉文庫)のうち、「草」と「二冊の同じ本」を読む。「草」は題名そのものが作品の謎を解き明かすヒントになっており、しかもクリスティの『アクロイド殺し』を意識した記述があるなど、サービス精神もふんだんに盛り込まれた力作短篇である。「二冊の同じ本」は、「古書が人を呼ぶ」という本好きにとってはたまらない題材を扱っており、古書をテーマにした小説のアンソロジィを作るならぜひ加えたい。
 ちなみに、「草」と表題作の「失踪」は、もと『黒い画集』の一篇として書かれたのだが、光文社の初刊本(全三巻)で「失踪」が外され、その代わりに「天城越え」が収録されたという。また、一冊本の『黒い画集』が刊行されたさいに、「草」と「濁った太陽」の二篇が外されたのだという(細谷氏の「解説」による)。