日夏耿之介の本

 日夏耿之介が『聊斎志異』を幾つか訳してみたことがある、とかれ自身どこかに書いていたことをふとおもい出し、井村君江編『日夏耿之介文集』(ちくま学芸文庫)を繙いてみるが見当らない*1
 しかし、これを再読していて、そう云えば、とおもい出したこともある。
 早稲田には、あの濟々黌出身の古城貞吉も居たのだった(東洋大教授もやっていた)。
日夏耿之介文集 (ちくま学芸文庫)

物知り学者の型は昔ほど多かつた。今日では「雑学者」と呼ぶ人すら稀になつた。早稲田には漢文の大家がうようよゐて、古城貞吉、菊池晩香、牧野藻洲、松平康国、桂湖村の諸先生が此の学校独特の有名な薄給を受けて而も悠然と(してであるかの如く)わだかまつてゐられた。(前掲書p.101,初出:「教育」昭和二四年九月)

 「此の学校独特の有名な薄給」というのは、日夏自身が早稲田に居たとき身を以て体験したことから出た皮肉であったのだろう。彼は、たとえば辰野隆との対談で、次のように述べている(この対談には、「山本アリゾウ」批判なんかも出て来て面白い)。

娑婆で思い出したが、おれは終戰二日前、愛する母校早稲田をやめて、おれの價値を初めて自ら知らされたのだよ。おれは前後二十三年いつていた。ある日、繁員室でぼくが、諸君、吾輩がこの學校に來るのは一種の慈善行爲である、といつたら、先生、賛成と手を擧げたのが秋草道人。あとの連中は例の日本人の不可解な笑いをしてた。おれはその貧乏學校から退職金を幾らもらつた? いゝか。―ここで合の手をちよつと入れる。朝日新聞の澁川玄耳が大正の初めごろかに辭めたとき、いくら手當をもらつたかというと、二萬圓だ。それで玄耳老は「二萬金」という本を書いたんだ。ところが、わが輩は玄耳流でゆけば近いうちに「八百金」という本を書かなきやならんことになるのだよ。(辰野隆『忘れ得ぬことども』朝日新聞社,p.389)

 その他、田岡嶺雲真山青果の出て来る「白山御殿町――明治大正文芸回顧録」(pp.123-40)も面白い。例えば真山青果については、次のように書いている。

真山青果が無残にも一旦葬られたのもジャーナリズムのリンチにかゝつたので、あの程度の行ひを角目立てたら、今日の作者の半は引懸らずにすむまい。青果が生まれざりしならばの脚本や南小泉村の短篇を連発した時は、素晴らしい逸材の出現を告げたもので、線の太い感受性の鋭いといふよりも強いその行文が、快い釣鐘の鯨音のやうに、明治末葉の黄昏雲にとどろきわたつた。近年の青果の復活は当然の事で、馬琴論の如きはわれらの平生思うてゐる処、而して感覚なき国文博士等の云ひ得ないところを、十分に尽し得た学界の佳書であつた。(日夏前掲書p.135,初出:「饗宴」昭和二二年七月)

 文中の「あの程度の行ひ」とは、「原稿の二重売り事件」をさすのであろう*2。また、後半で述べられている「馬琴論」というのは、『随筆滝沢馬琴』のことであろう。これは、高田衛先生の解説附きで岩波文庫に入っていて(但し、綿谷雪によって補訂された「曲亭馬琴年譜」は割愛されている)、高田先生も解説中で以下の如く述べておられる。「青果の馬琴資料に対する態度は、まず資料の読みの恣意性を排し、あるがままの形をあるがままに読解してゆく学究的な姿勢が一貫している。時には実証的ですらある」(p.255)。

*1:後に見つけた。「落日を漁る少年」(初出:『青春の歓びの中に』昭和二二年一一月刊)にこうある。「漢文は昔から好きだつたから、その頃早く李長吉や香奩集の作者に読み耽つた。蒲松齢の聊斎志異をいくつも訳してみた」(『日夏耿之介文集』p.25)。ちなみに、日夏による王維や李長吉の訳詩は河上肇の気に入ることとなる(そのことは、後に述べる辰野隆との対談で、日夏自身が述べている)。八月二十一日記す。

*2:大村彦次郎『文士のいる風景』(ちくま文庫)に、「(真山青果は―引用者)その奇矯な性格と原稿の二重売り事件が禍いして、一時文壇から遠のいた」(p.27)とある。