森鷗外『百物語』とその周辺

研究会のため京都へ。大阪では某先生とお会いする。嬉しい話有。
帰途、T書店で樺山紘一『西洋学事始』(中公文庫)を拾う。
そう云えばこのあいだ、O.T.さんと森鷗外『百物語』について少しお話ししたのであるが、そのときには述べられなかったことや(再読して)思い出したことなどを、忘れないうちに書き留めておくことにしよう。
森鴎外集 鼠坂―文豪怪談傑作選 (ちくま文庫)
東雅夫編『文豪怪談傑作選 森鷗外鼠坂』(ちくま文庫)には、鷗外の『百物語』はもちろん、巻末に「『百物語』関連資料」として、依田学海『学海日録』、鶯亭金升鶯亭金升日記』、『東京朝日新聞』、『墨水別墅雑録』からの引用が附してある。そのうち『学海日録』『鶯亭金升日記』『東京朝日新聞』の三資料をもとに、「(鷗外の小説のモデルとなった―引用者)百物語の催されたのは、いつだったか」という問題を攷証したのが、森銑三である。森のその攷証は、「『百物語』余聞」という題で『歴史と文学』(昭和四十六年四月)に発表されている。これは後に、「森鷗外の『百物語』」と改題せられ、森銑三『明治人物閑話』(中公文庫)pp.24-37に収められた。ここで森は、百物語が「明治二十九年七月二十五日の夜」に開催されたことをつきとめる。
また、森はその文章で、「依田翁が早く帰ったという一事*1は、鷗外の作意に出でたものらしく考えられる」(p.32)と述べていて――これは『学海日録』の記述をもとに森自身が推測していることなのだが――、昭和五十八年に発見された依田学海『墨水別墅雑録』の記述はそのことを更に確実にする。というのは、こちらには饗応の様子までもが描かれているからだ。例えば、「酒盛溲器、飯蓄浄桶、芻置寒具」(酒は溲器に盛り、飯は浄桶に蓄へ、芻は寒具に置く)などの如く。さらに「又出一死屍。掲衣則血痕糢糊、中尽糖菓也。皆大笑」(又一死屍を出す。衣を掲ぐれば則ち血痕糢糊、中は尽く糖菓なり。皆大笑す)などといったのどかな描写もみられる。そしてその後、「徹夜而止。天明余去、至別墅」と続くのである。
さて、「『百物語』関連資料」に引かれるところの『学海日録』、その頭欄には「百物語の事はつまびらかに余が詩にのせたり。これを名づけて鬼趣行といふ」(p.384)とあるのだそうで(森銑三はこれに触れ得ていない)、この『鬼趣行』詩は『墨水別墅雑録』にも掲げてある。
ところが実は、早くから『鬼趣行』詩に注目していた人があった。戸板康二である。戸板氏は、「『百物語』異聞」(『歴史と人物』昭和四十七年二月)で、『歌舞伎新報』の記事を紹介している(森が「『百物語』余聞」を書いてから一年も経ていないことに注意*2)。その『歌舞伎新報』に、『鬼趣行』詩が載っていたというのである。
――「森銑三氏は、依田学海が早く帰ったというのは鷗外の潤色だろうといわれたが、まさしく翌朝まで、その席にいたのではないかと思われるのは、『歌舞伎新報』第一六四九号に、漢詩二篇を寄せている中の『鬼趣行』の末尾に「一道紅線東方明」とあるからだ」(戸板康二『見た芝居・読んだ本』文春文庫,p.150)。さらに『歌舞伎新報』同号には、「当夜の饗応は、白木の台にのせた蓮飯、さんだわらの蓋の上の萩の餅、あわび貝に五目の煎り豆をつめ丸のまま蒸した唐なす、『四谷怪談』にちなんでうなぎざるに入れた櫛形の蒲鉾、しびんに入れた稲荷ずし、菓子で作ったお岩の死体」(同)という様なことも描かれているのだそうで、これは先に挙げた『墨水別墅雑録』でも少し触れられていた事柄ではある(もっとも『墨水別墅雑録』では、「しびんに酒」)。
闇夜に怪を語れば―百物語ホラー傑作選 (角川ホラー文庫)
なお、泉鏡花『吉原新話』『露萩』などは、「作中の百物語を満了させられなかった」が故に、そこに「百物語凋落の反映を認めることができる」(東雅夫「百物語という呪い」p.333,東雅夫=編『闇夜に怪を語れば 百物語ホラー傑作選』角川ホラー文庫所収)という評もある。『吉原新話』は、鷗外『百物語』と同年(明治四十四年)に発表されているのだが、戸板康二の表現をかりれば、そもそも「『百物語』の会を復活したところに、洒落っ気以外の反骨があったのかも知れない」(前掲,p.151)。これは鷗外の作品のみならず、鏡花の作品にも当て嵌まることなのではないかと思う。
因みに戸板氏は、明治十年代〜明治二十年代には、すでに怪異を否定する風潮が広まっていたことに言及している(河竹黙阿弥『木間星箱根鹿笛』、三遊亭圓朝『眞景累ヶ淵』などを引き合いに出す)。

*1:鷗外の『百物語』では、依田学海は「もう怪談はお預けにして置いて帰る」と言ったということになっている。

*2:しかも当時は、『墨水別墅雑録』が未だ発見されていない。