新村出と高峰秀子

わたしの渡世日記〈上〉 (文春文庫)
昨日、高峰秀子『わたしの渡世日記(上)』(文春文庫)を部分再読したのだが、この本には、高峰の大ファンだった晩年の新村出の話が出て来る(「神サマのいたずら」pp.174-87)。高峰はまず、「新村出博士にお目にかかったのも、京都に旅行中の谷崎潤一郎夫妻から、『うまいもン、食べに来い』という命令をうけて、ノコノコと出かけていったときのことであった」(p.176)と書いている。
続けて、さらに詳しく「ともあれ、私たち夫婦(高峰の夫は松山善三―引用者)は、京都滞在中の谷崎夫妻に招(よ)ばれ、『鳥まさ』の鶏を食べ、『吉兆』の懐石料理を食べ、『川繁』の板前料理を食べ、島原を訪ね、祇王寺を詣で、がんでんでんを見物し、その強行軍の真っ最中に、今度は三十歳どころか私より五十歳もお年上の、新村源氏を訪問することになったのであった」(p.178)と書く。これが昭和三十三(1958)年四月二十五日の出来事であるという(時に高峰は三十四歳、新村は八十三歳)。谷崎潤一郎『當世鹿もどき』の記述(『わたしの渡世日記』で引用されているのだが)によってそれは知られる。
高峰らが新村邸に辿り着くまでの話(p.180)も面白いのだけれど、上がり框の正面の壁に「私の等身大よりもっと大きなナショナルの色つきポスターがビロン! と下が」っている(p.180)のに彼女が驚くという話が面白い。しかし、『広辞苑』すら知らなかった*1高峰は、「谷崎ライオン」(谷崎潤一郎)が新村博士の前ではまるで「優等生」の如く畏まっている姿を見て、「新村出という人は、こりゃ余程の大人物なんだな、ライオンが借りてきた猫みたいになっちゃったんだから」(p.181)、と考える。「こわいもの知らず」の高峰秀子でさえ極度に緊張し、一時間の面会で何を話したのか全くおぼえがないという。しかし帰りぎわ、新村にその書斎を見せてもらってふたたび仰天するデコちゃん。「書斎のふすまが開かれたとき、私たち四人は茫然として立ちつくした。ここにもナショナルのポスターが、それも電気釜に頬よせてニッコリしているのやら、エプロン姿で電気掃除機をかけているのやら、アップやらロングショットやら、ありとあらゆる種類のものが、あるいはブラ下がり、あるいは立てかけられ、あるいはベッタリと貼りつけられていたのである。博士は、ヒヨヒヨヒヨッ、と書斎へ足を運ぶと、私の写真の谷間に埋もれたような書きもの机の前に、チンと座って『エヘヘ』と笑ってみせた。冷汗三斗、私は早々に尻に帆かけて退散した」(pp.183-84)。
この章はたいへん美しい結末をむかえるのだが、そこまではあえて引くまい。ただ、高峰が後になって、「京都は寒いから」という理由だけで、新村に、「グリンと赤と黄色で」「チロル風の」「モヘヤの赤ん坊みたいな」「正チャン帽」を贈るのだが、そのことを彼女がひどく後悔しているということだけはつけ加えておこう。
デコちゃんが新村に面会したときのことは、新村の孫娘・五十嵐櫻も「祖父・新村出の想い出」で回想している。新村がデコちゃんのファンになるまでのことも書いてあって興味ふかいので、これは長くなるがそのまま引用して置く。「正チャン帽」の話題も出て来る。

私の娘時代、鴎外の「雁」が映画化され、自分が通った東京帝大の辺りが写ると聞いた祖父を、生まれて初めてと言う映画館に連れて行ったことがありました。「チャー坊(私のこと)映画館ってとこは履物を脱いで入るのかい?」「いいえ、お祖父ちゃま、草履や靴のまま入れますよ。」そしてエレベーターに乗る時は、「お金払わなくていいの?」に笑ってしまいました。生まれて初めて観る映画のこれも初めて見る主演女優、高峰秀子にゾッコンになり、近くのナショナル(デコちゃんがコマーシャルガール)の電器店から等身大のデコちゃんのポスターをいろいろ貰って来て、茶の間に坐った祖父の囲りはデコちゃんだらけ…。しかも谷崎潤一郎さんが文人好きのデコちゃんを伴って訪ねて来られてからはもう夢中…。ある日、たまたま私が遊びに行った時、玄関に松山善三さんが見え、応対に出た祖父が「恒(ひさ)ちゃん(私の弟)が来てるよ。」と言い「いえ、あれはデコちゃんの旦那様ですよ」と私が言ったりしてるところへ、デコちゃんご本人が入って来られ、「さあ、どうぞお上り」と祖父は大喜び。私も客間に参加したくて「お祖父さま、私がお茶をお出ししましょうか?」と申しましたのに、「いや、お邪魔になるからチャー坊は出て来なくていいよ。お手伝いさんに委せなさい。」と拒否されてがっかり…。その後デコちゃんがパリから送って下さったグリーンのベレー帽を、就寝時以外室内でいつも被って離しませんでした。(『泰山木―財団法人新村出記念財団設立二十五周年記念文集』新村出記念財団2006,p.10)

*1:その初版が出たのは、昭和三十年の五月。