『映画が目にしみる』など

出かける用事があったので、ついでに小林信彦『映画が目にしみる』(文藝春秋)を買って来る。
カフカ 池内紀訳『失踪者』(白水uブックス)読了(再読に非ず)、これは救済の物語だと思いたい。『週刊新潮』をよむ。p.149に品川力さんの記事が。「102歳で大往生した本郷・落第横丁の『本豪』」、青木正美さんのコメント。午後は研究会。
映画が目にしみる
『映画が目にしみる』は、やはり期待していただけのことはあって面白い。『青春怪談』は、いわゆる競作というやつで日活版と東宝版があるらしいのだけれど(p.26)、小林氏の観たという日活版しか知らなかった。このあいだ衛星劇場でかかっていた『青春怪談』(録画済)も、やはり日活版である。市川崑特集*1の一本として放映されたのである。そう云えば、集英社版日本文学全集55『獅子文六集』p.428には、「蝶子化粧の場面」のスチルが載っている。「一団の雪。もしくは、カマボコ」である。蝶子役は轟夕起子。これだけで思わず笑ってしまうのだが、集英社版の全集にある宮田重雄の挿画も相当に可笑しい。
ここで小林氏は、「〈北原三枝〉というスターが誕生したのは、この映画からだ」(p.28)と述べており、なるほど『狂った果実』という大舞台も、この作品が用意したものだとわかれば得心がゆく。
しかし時々意見の合わない主張にも行き当たる。これは仕方のないことなのだが、例えば「映画の批評を書く若い人が、やれ小津だとか、清水宏だとかいうのは、一種のタイハイだと思っている。映画は、封切られた時代、環境を知らなくては論じられないもので、戦前・戦時は神格化され、戦後も時代の外にいて「晩春」「東京物語」ほかで〈別扱い〉され、やがて映画ジャーナリズムの中でフェイドアウトしていった小津の在り方がわからずに、あれこれ言っても仕方がない。だから、批評家は同時代の映画を論じるべきだ、とつねに口にしているのだが」(pp.123-24)というくだり。しかしそれでは、「時代に即した」批評ばかりが跋扈することになりはしまいか。そういう批評はいたずらに消費/蕩尽されるのみで、参照に耐えうる資料としての価値は殆ど保持しえない。そうしてただわけの解らないタームだけが空転するのだ。「民衆のための映画」とか「母もの映画」とか。
映画論にもエピステーメーがあるとすれば(私はそう信ずるものである)、結局はどの時代でも特定の枠内でしか作品を論じることが出来ないけれども、いやいや、それに気づくのは次世代の人間たちなのである。映画批評は常に書き換えられていくべきものだ、と思っている。歴史がそうであるように。だから、例えば加藤幹郎氏によって、DVDプレイヤーが「脱構築的(ディコンストラクティヴ)な読みを明示しうる」(『映画館と観客の文化史』あとがき)という卓論がとなえられるのに、同意したいのである。

*1:リメイク版『犬神家の一族』の全国公開に合わせてのもの。