で、結局、妾は何人?

いま読んでいる、丸谷才一芥川比呂志ハムレット役者』(講談社文芸文庫)の「タイツ」(pp.14-17,初出は一九七一年九月の「劇」とか)は、あるエピソードがおもしろおかしく誇張されてゆく話で、思わず笑ってしまった(徳川夢声三島由紀夫も出て来る)。
ところで、三木武吉の「妾発言」とでもいうべき有名なエピソードがある。これも芥川比呂志の「タイツ」と同じく誇張されたものかどうかは分らないのだけれども、何故か妾の数がはっきりしていない。
まず、大宅壮一『昭和怪物伝』(角川書店,1957)を見てみることにしよう。

三木については、いろいろと伝説めいた話がつたえられている。特に情事に関するものが多い。
ある演説会場で、聴衆の一人から、
「あなたは妾を五人もおもちだそうですが、指導的地位にあるものとしてそれでいいのですか」
という質問をうけた。これに対して彼は、
「五人というのはまちがいで、実は六人です。いずれも若気の誤りで仲よくなった女たちですが、私をはなれて生活できないので、今も私が面倒を見ているのです。この際、つきはなして路頭に迷わした方がいいか、それとも今後なお世話をして行った方がいいか、あなたのご指導を願いたい」
と答えたところ、場内は拍手で沸き立ったという。これは人口に膾炙している有名な話だ。(pp.34-35)

福田和也『総理の値打ち』(文藝春秋,2002)には、「対立候補から『四人の妾がいる』と攻撃されたのにたいして、『妾は五人だ』と反撃した話も有名」(p.91)とあるのだが、「有名」と書いているわりには、三木を攻撃したのが「聴衆」ではなく「対立候補」だし、妾は「六人」ではなく「五人」なのである。
続いて、浅川博忠自民党ナンバー2の研究』(講談社文庫,2002)より。
自民党・ナンバー2の研究 (講談社文庫)

野次とともに三木について回るのは、華やかな女性関係である。(中略)絶えず六〜七人の妾を入れ替わり立ち替わり持ち続け、彼女たちが自分から去っていかない限り終始、面倒を見続けたと伝えられている。また、超痩身での着物姿に印象深い。
某日、演説中に「六人の妾はどうした!」と聴衆から野次られると、即座に「いや、六人ではなく正確には七人いるが、皆、キチンと面倒を見ているから御心配無用!」と切り返したというのは、あまりにも有名な逸話である。(p.185)

「有名な逸話」というのは形容矛盾だと思うが、それはともかく、「あまりにも有名な」話であると書いておきながら、妾の数がやはり違っている。
三木のこのエピソードについて書かれた比較的最近のものとしては、楠精一郎『大政翼賛会に抗した40人―自民党源流の代議士たち』(朝日撰書,2006)がある。
大政翼賛会に抗した40人―自民党源流の代議士たち (朝日選書)

三木武吉ほどいまだに人口に膾炙するエピソードをもつ政治家もいないだろう。(中略)戦後初の総選挙で香川第一区から立候補したとき、反対党の候補から立会演説会の壇上で「ある有力候補のごときは、妾を四人もつれている。かかる人物に……」と個人攻撃をうけると、「その有力候補とは不肖三木武吉であります」と前置きし、さらにケロッとした顔で「私には妾が四人あると申されたが、事実は五人であります」と上方修正して対立候補を煙に巻いた。(p.231)

「いつ」「どこで」が明記されている点から考えても、楠氏のこの記述が最も確かであるように思える(福田氏の記述はこれに一致している)。
しかし、「対立候補」が「聴衆」となっているものが存在するのは何故なのだろう。あるいは対立候補とのやり取りがあった上で、後になってから、それを聴衆が野次ったという事実があったのかもしれない。それから、「絶えず六〜七人の妾を入れ替わり立ち替わり持ち続け」という浅川氏の記述を信ずるならば、妾の数に拘泥しても仕方がないのかもしれないが、私が知りたいのは、妾の数というよりも三木の正確な発言内容なのである。
ここに引いたものが全て「有名な話」「人口に膾炙した話」などと書いていることもまた面白いわけだが、妾の数を「上方修正」したこと自体が有名になって既成事実化してしまったので、妾の数はさして重要でなくなり、そこに誇張されたり改変されたりする余地を生じたのかもしれない。誇張や噂話も、このような段階に止まっているくらいだと、まだ他愛ないのだけれど。
(附記)Wikipediaでは、対立候補に「三人の妾は…」と言われて「三人ではなく五人だ」とやり返したことになっている。