小股談義

◆「小股」談義というのがある。いや、これはいまかってに名づけてみたのだが*1、つまり、「小股の切れ上がった女」の「小股」とはそもそも何ぞや、それが「切れ上が」るとはいかなる義なりや、という議論のことである。淮陰生(中野好夫)の『一月一話 読書こぼれ話』(岩波新書,1978)に、「小股の切れ上った女」「小股の切れ上った女、再考」という文章がおさめてあり、なんとなく既読感をいだきながら読んでいたのだが、それも道理で、高島俊男お言葉ですが…(3)明治タレント教授』(文春文庫,2002)に、この文章が「とるにたるもの」として紹介されていたのであった。高島氏は、「以前、これら論議(「小股の切れあがった女」という言葉についての論議―引用者)の活字になったものを極力集めてみようとしたことがあったが、途中でばかばかしくなってやめてしまった」(p.18)、という。何故というに、「その大部分が、この『小股の切れあがった女』という文字を眺めて頭をひねったり、臆測をたくましくしたりしたものにすぎず、とるにたりなかったからである」(同前)。わたしも、このことばが出て来るたびにメモをとって記録していたのだが、いつの間にかやめてしまった。それは、このことばのふるい用例があまりにも少なすぎたことによる。だからあるていど、用例が出揃ってしまったら、あとは臆測にたよるほかないのである。たとえば、てるおか・やすたか(暉峻康隆)『すらんぐ 卑語―ネオン街から屋台まで―』(光文社カッパ・ブックス,1957)は、『申楽談義』の「小股をすくう」や、『本朝二十不孝』の「すまた切れあがりて大男」、という用例をひきつつ攷証をおこなっているのだが、用例がすくないため、最後はやや力業で「『素股切れあがる』という長脚長身の男に関する形容が、後に女の形容になると、おなじ股でも『小股』という可憐な感じの表現にかわったわけである」(p.71)と結論せざるをえなかった。いっぽう高島氏は、幸田露伴の『五重塔』から、若い大工のいなせな姿を「小胯の切り上がつた股引いなせに…」と写した例を引き、「色っぽい女」だけを形容することばではない、と結論されたのだが、しかし「反例」は、露伴のこの一例のみなのである。
「小股」ということばに、あらぬ妄想をかきたてられる人もあるようで、たとえば井上ひさし『ニホン語日記2』(文春文庫,2000)の「小股の切れ上がった女」(pp.261-66)では、井上氏が俗流の解釈をしていた(それを学生にも教えた)ということが正直に告白されている。
◆このあいだ某古書肆で入手した、辰野隆『スポオツ隨筆』(文壽堂,1947)をニヤニヤしながら読んでいる。とくに、「逆縁」がとりもつゴルフとの縁を語るくだりが楽しい。
辰野は、「それまで、俗世のゴルフアを外道と罵つてゐた」のだそうである(p.84)。「二年前の夏、はじめて親友山田珠樹に誘はれて、赤羽の學士會リンクスの芝生を踏んだのも、實はゴルフといふものが如何につまらぬスポオツであるのかを體験して、世のゴルフ・ファンの蒙を啓くつもりだつた」(p.103)のだが、「一度リンクの芝生を踏んだその日から、忽ちゴルフ繁に改宗してしまつた」(p.84)というのだからおもしろい。それどころか、ゴルフは「僕の生命に缺くべからざるスポオツといはんよりはむしろ行動になつてしま」(p.89)い、さらに嵩じて、「このごろでは研究の對象たるル・ゴルフイズム――ゴルフ道――となつて來た」(p.92)、「ゴルフは人生に似てゐる」(p.104)とまでかんがえるに至るのである。これがなんともユーモラスな筆致で、引用だけからはそれが伝わらないのが残念ではある。
もっともその実力はというと、「下手の横好きの域を辛うじて脱したぐらゐだから未だ知れたもので、豐島與志雄君の碁や鈴木信太郎君の安南將棋の程度」(p.91)、なのだそうだ。
著名人がものしたゴルフ本ということですぐに思い浮べたのが、丹羽文雄『ゴルフ談義』(潮文庫,1983)であるが、こちらは専門用語が多くて、全体的にはさほど面白くなかった(まさにゴルフをやる人むけの本なのである)。しかし「文壇ゴルフ」の章だけはさすがにおもしろく、精読した記憶がある。

*1:ネットで「小股談義」を検索してみたところ、たくさんヒットしました。すでに先達がいたようです。