いずこへ。

出久根達郎『本の背中 本の顔』(河出文庫)に、「デコちゃんの著書で、『巴里ひとりある記』と『高峰秀子』(河出新書)の二冊が、もっとも探しにくく、古書価はどちらも三千円ほど、と(中山信如『古本屋「シネブック」漫歩』ワイズ出版に―引用者)書いてあるのを見ると、…」(p.15)とあるが、この『高峰秀子』というのは、たぶん、『河出新書写真篇5 高峰秀子』のことであろう(中山氏の著作は読んでないので不確かだが)。某ブログに、この本を二百円(!)で入手した、と書いてあるのを見て、非常にうらやましくおもったことがある。この本はまだ見ぬ探究書であって、河出新書といえば、ついこのあいだ、ようやく高峰秀子『まいまいつぶろ』(河出新書)350円を入手したばかり(T氏は均一棚にて100円で拾われたというのだから驚く)。デコちゃんの結婚までを描いた『まいまいつぶろ』は、その書名どおり、じつに愛らしい本である。著者自装本。
◆余談になるが、「まいまいつぶろ」の語源は諸説ある。「つぶろ」は「つぶら(圓)」の義と解釈してよさそうだが、問題は、「まいまい」である。まず柳田國男は、「マイマイが少なくとも『巻く』という語に因みあることだけは明らか」(岩波文庫版『蝸牛考』p.70)で、「マイマイ」=「舞舞ひ」と解するのは「早合点」だ(p.73)と書いているが、新村出は、「卷キ卷キを音便に卷イ卷イは甚だ苦しい説明に堕する嫌がある。畢竟マイマイは舞へ舞へにちがひない」(『花鳥草紙』中央公論社所収「蝸牛禮讃」p.368)、と述べている。
◆このあいだ当ブログで、人名の読み誤りについてふれたが、今度は作品名の読み間違いについて少々。白鳥正宗忠夫の『何處へ』は、「どこへ」と読む。ちょっと前の話になるが、これを、「いずこへ」と読んだ近代文学研究者があると聞いた。石坂洋次郎の『何處へ』は、たしかに、「いずこへ」だろう。坂口安吾にも、『いづこへ(いずこへ)』という作品がある(角川文庫版『暗い青春・魔の退屈』に入っている)。こないだ新古書店で見かけた谷村新司のエッセイ集のタイトルも、『何処(いずこ)へ』であった。白鳥の『何處へ』も、おなじく雅語的に「いずこへ」と読みたくなってしまう気持はよくわかる。
わたし自身、安岡章太郎『海辺の光景』のよみを、長らく「うみべのこうけい」(正しくは「かいへんのこうけい」。新潮文庫版『海辺の光景』の奥付で、「かいへん」というルビを見たとき、おもわず目を疑った)だと思い込んでいたことがあった(岡崎武志さんも、一時期この作品名を読み誤っていたらしい。たしか『読書の腕前』にそう書いておられた)。