ブルックナーの第五番

ブルックナー:交響曲第5番
◆作業はかどらず、夜、ハンス・クナッパーツブッシュウィーン・フィルブルックナー 交響曲第五番変ロ長調(改訂版)』(LONDON)聴く。“原始霧”にわけいって、「まるで求道者めいた渋い主題」(鈴木淳史氏の表現)を幾つも幾つも乗り越えながら、終楽章のコラール主題がくっきりと姿をあらわすまで、じっくりと聴き入る。ゆったりしたテンポのクナッパーツブッシュの音楽こそ、それにふさわしい。
鈴木淳史『愛と妄想のクラシック』(洋泉社新書y)に影響されてのこと。<ブルックナーの場合は、すべてが解決へ至るためのパズルを積む作業行程がそのまま作品になっている>(pp.75-76)。<さまよえるブルックナーを堪能するなら、第五番がもっとも適している>(p.77)。<自分の歩んでいる生は、ブルックナー交響曲のように構造的であらねばならないと自身に思い込ませていた>(pp.79-80)。
ただし以前、鈴木氏は某所にて、ブルックナーの八番を「スカスカ」で「ハリボテみたいな作品」とこき下ろしていたが(それでチェリビダッケを…以下自粛)、同書では、その「圧倒的な完成度の高さは認めざるを得ないだろう」(p.77)、とかなり譲歩しているのが気にはなった。
ブルックナー九曲の交響曲、あくまでわたしの「好みだけでいうなら」*1、文句なく第八番(クナッパーツブッシュミュンヘン・フィルの)を第一に挙げ、第七番(ヨッフム、それからカラヤン最後の演奏、ウィーン・フィルとの共演が予想外にいい)、第五番の順で挙げる。以下、四番、九番、六番……となろうか(「零番」は聴いたことがない)。
ところで鈴木氏は、同書のプロローグで「あまり策を弄さぬよう、感傷的にすぎぬよう」(p.7)と書いているが、「第四章 葬送行進曲風の主題によるロンド」は、(本書の圧巻だとおもうが)これまでの鈴木氏の書いてきたものからすると、「感傷的にすぎ」る*2。しかしそれ故にこそ、大いに共感できるのだ。
わたしが当ブログ上で、クラシックについてあまり書かない(書きたくない)のは、最近の演奏をほとんど聴かない(聴けない)、あるいはCDでしか聴かないことも理由としてあるのだけれど、クラシックについて語る場合にはいくぶん感傷的にならざるを得ないから、というのも主な理由のひとつ。
たとえば、同期の友人M君が亡くなった日に聴いたマーラーの第九番とか、青春の過ちにひとり煩悶しつつ聴いたモーツァルトの第四十番やバッハの平均律クラヴィーア曲集とか、大事な試験にしくじった日に聴いたチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲やショパンのピアノ協奏曲第二番とか、各々の曲が、個人的な体験と大なり小なり切り離せないかたちで存在している。だから今でも音楽を聴くと、その体験がどうしても先に立って、不覚にも涙ぐんでしまうことがあるというわけだ。滑稽だが。
◆上で、「最近の演奏をほとんど聴かない」と書いたが、最近、金聖響オーケストラ・アンサンブル金沢の「ブラームス・ティクルス」をABCの深夜枠で視聴した(まだ、ブラームスの第一・第二番しか聴いてないが――第一番といえば、最近ミュンシュ&パリ管の伝説的な録音が、またまたCDで聴けるようになった。EMIレーベル。ありがたいことである――)。これが素晴らしいものだった。金聖響氏は、好きな指揮者のひとり。何年か前、これまたABCの深夜枠で、クラシック入門番組(長原成樹、中濱葉月アナ出演)がやっていて(全三回か四回だったとおもう)、それを見てすっかりファンになった。
最近刊行された、金聖響玉木正之ベートーヴェン交響曲』(講談社現代新書)にも、金氏らしい表現がちらほらと。メモしておきたいことも沢山。ところで最近、“ルツェルン”のフルトヴェングラーベートーヴェンの第九番)が突然復活したのは何故?

*1:鈴木氏は第四番・第六番がお好みだとか。

*2:はじめて鈴木氏の著作を読む者ならば、相当戸惑うはずである。が、客観性を排してきた鈴木氏独自(?)のスタンスの正道に位置づけられようか。