光悦本『謡曲百番』

 光悦本『謡曲百番』といえば、梶山季之せどり男爵数奇譚』(ちくま文庫)第一話「色模様一気通貫(いろもよういっきつうかん)」をおもいだす。

せどり男爵数奇譚 (ちくま文庫)
 嵯峨本と云うのは、角倉素庵、本阿弥光悦らが、関東に対抗してつくったもので、いわゆる道楽出版の一つに数えられていた。
 光悦が自筆の版下で、活字をつくったがために、光悦本の異名もある。
 とにかく造本の粋を集めた芸術品として定評のある古書であった。
 なかでも光悦本『謡曲百番』は、百冊あって、昭和五年八月、徳島の旧家・大多喜家の売り立てのさい発見され、神田の一誠堂が二千円で落した……と云う逸品である。
(pp.39-40)

 ここに出てくる「せどり男爵」こと笠井菊哉の話(『謡曲百番』の「十二番」を十二年かけて探した話)は多分フィクションだろうが……。
 そして、『せどり男爵』が書かれてから僅か三年後の話――、

 一九七七年一月東京日本橋三越で開催された古書即売展に、嵯峨本『謡曲九十七番』(素紙刷極美本、慶長中刊、価九百五十万円)が出品されていた。全百帖のうち三帖を欠くが、全典とも原表紙・原題簽つきで、出版当時そのままの美しさを保っていた。同種本の現蔵するものは京都の祇園神社の蔵本(これは九十九冊)だけだという。
(『定本 庄司淺水著作集 書誌篇 第十巻』出版ニュース社1982:pp.61-62)

 嵯峨本のうち『伊勢物語』は、三、四回活字の組み直しがあり(増刷され)、整版になっても売れ続けた……という話、これはたしか、『和本入門』にある。

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 中国版「狂者」論といえば、白川静「狂字論」(『文字遊心』平凡社ライブラリー1996←平凡社1990所収)。
文字遊心 (平凡社ライブラリー)

 狂気を意味する alienation は、本来疎外を意味する語であり、さらにいえば alien は異邦人、異質なるものを意味する語である。狂気は理性にとって異質なものとして区別され、排除されるものであるが、しかし闇を通して微光がもたらされるように、人はこの異質なるものを内在させることによって、はじめて理性的であることができるのではないか。すなわちその異質なるものの自己疎外を通じて、より理性的であることができるのではないかと思う。(p.13)

 狂はロゴス的な世界のなかで、理性の否定者としてあらわれる。しかもそれは理性に内在する、内なるものである。この理性への反逆者は、「これを裁する」ことによって、はじめて理性を支えるものとなり、理性の一つの形態となる。もし「これを裁する所以」を知らなければ、狂とは空想的な同一化にすぎないものとなろう。「その志嘐々然として」、「古の人、古の人」というのは、その類の人である。孔子がそのような空想的な理想主義者でないことは、その晩年の最も重要な時期に、十四年にも及ぶ亡命の生活を、漂泊のうちに過ごしていることからも知れよう。(p.29)

 このくだりは、挫折した革命家の姿を描いた『孔子伝』へとつながる。
 次いで白川氏は、墨者集団、阮籍、嵆康、謝霊運などを、「狂の世界に生を托した人」として挙げる。もちろん、「童心説」で有名な李卓吾も出てくる(p.95「狂という語は、また李卓吾の最も愛するところであり、かれは聖人をも狂の一類の人とした」、p.102「明代の智嚢は、むしろ経学の規範を脱した戯曲小説の分野において発揮された。そして李卓吾の名声も、その批評本によって喧伝された。明代のデカダンスは、すべて儒学的な繫縛から解放された、一種の狂的状態のなかで生まれた」)。