本が煽動する

新・文學入門 古本屋めぐりが楽しくなる [ 岡崎武志 ]岡崎武志山本善行『古本屋めぐりが楽しくなる 新・文學入門』(工作舎)のサイン本*1を某所にて落手したのだが(結局催しには行けずじまいだった)、やはり期待どおりの、というかそれ以上のおもしろさで、これをきっかけとして、まずは吉田健一『書架記』(中公文庫)を部分再読、また“飛ばし読み”ですませていた吉田精一『随筆入門』(新潮文庫)を改めて手に取って読んでみて(第三部が「近代の書簡文学」に充てられていることに今さらながら気づいた次第)、たとえば室生犀星『随筆 女ひと』*2にふれたくだりで、「作者の度々ひいている伊勢物語、大和物語の話は、どれ一つとして現存の本にも異本にもない話ばかりだ。あるとすれば『室生本』伊勢、『室生本』大和物語か何かにある話なのだろう」(p.118)と書いてあるのが可笑しかったりしたのだが、『書架記』『随筆入門』以外で特に気になったのが「杉山平一」で、私はこの人の著作を実は『映画芸術への招待』(講談社現代新書)しか読んだことがないが、これは百均の本だったからというわけでなくて、その著者プロフィル――「田所太郎らと同人誌『貨物列車』、織田作之助らと同人誌『海風』『大阪文學』を創る」云々――に目が留まったので買ったのだったが、それにしてもこの本は映画を語りながら文学や詩まで語ってみせるというふしぎな本で(それでこその「映画“芸術”への招待」なのであろう)、ために脳底ふかく印象しており、そこに取り上げられている作品まですっかり憶えていて懐かしく読み返すなどしていたのであるが、それはともかくとして、『新・文學入門』の記述に触発されるところは他にも多く、たとえば『中野重治詩集』もパラパラやっていたのだが、山本氏が薦めているのは岩波文庫版(pp.300-06、p.368等)、しかし私の持っているのは「クリーム色にグリーンの罫線の入った」(p.228、山本氏)新潮文庫版だということに気づき、この新潮文庫版には残念ながら「校歌」が入っていない(岩波文庫改版には入っているという)のだが、オリジナルとおぼしき「前書き」が附いていて、では岩波文庫版(1956年)にも別なオリジナルのまえがきは附いているのだろうか、選ばれている詩群は全く同じなのだろうかと*3、またぞろ要らぬことを気にし始め、そして…
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小谷野敦『猫を償うに猫をもってせよ』(白水社)もまた、いつもながらの刺激的な内容となっている。上に挙げた『随筆 女ひと』も「名著推薦」で紹介されているのだが、それよりも中野好夫『蘆花徳冨健次郎』を再読してみたくなった*4
「ことば編」に収められているものでは、『図書』掲載分しか読んだことがなかったが、「『全然〜ない』の迷信」に、異字同訓に言及したくだりが有る。

これは日本語学の世界で特に問題にされていないようだが、今では「初めて知った」(「初」字に傍点―引用者)と書くことになっている。私は時おり「始めは」と書いて編集者から「初めは」と直されるので、どうなのかなあ、と思っていたら、明治・大正期の文学作品では、「始めて」が頻繁に出てくるのである。(p.119)

実は、新しいところでは昭和後期の例も見受けられるのである。たとえば、遠藤周作『わたしが・棄てた・女』(講談社文庫、1972)*5に、

あの日、ぼくたちが始めて会った時、あの女がどんな姿をしていたか、…(p.27)
「いいのよ。あたしだって始めはそうよ。だってねえ……」(p.192)

この問題に関しては、まず三好万季「シめショめ問題にハマる」(『四人はなぜ死んだのか―インターネットで追跡する「毒入りカレー事件」』文春文庫2001所収)というレポートがあって、これは「始めまして」か「初めまして」か、という表記の問題を扱ったものである。具体的な内容に関しては飯間浩明氏のこちら(三好さんへの「反論」にもなっている)を参照。
そしてこの三好さんのレポートを受けて書かれたのが、石山茂利夫氏の「始めまして」で、これは小谷野氏が「全然」との関連で言及している(p.116)『今様こくご辞書』(読売新聞社)にも収録されている(pp.243-51)。
この様な「書き分け」の信仰を巡るものとして、同じ石山茂利夫氏の「『暖かい心』と『温かな家庭』の謎を追って」「意外なところに国語辞書最大の弱点が」(『裏読み深読み国語辞書』草思社2001、pp.192-237)が有る。そこで取り上げられているのも大体「常用漢字表」の「拘束力」に由来する書き分け意識なのだが、「初めて」「始める」の書き分け意識もこれまた然りで、常用漢字表の影響もあったに相違ない。
このような訓読みの書き分けだけではなくて、漢語の書き分けの意識がいつ頃生じたか、という問題も同様に面白い。しばしば拾えるものとしては、例えば「追求」「追及」「追究」の(今日的観点からの)混同が有る。

*1:谷川俊太郎の似顔絵も書き添えてある。ついでに。いくつか誤植を見つけた。p.74の「斉藤美奈子」。本文人名索引では正しく「斎藤」となっている(同頁の「豊崎由美」の「崎」は字体の別にまで“厳密”で、「タツサキ」になっている)。おなじく漢字の誤りで、p.236の本文、『文芸編集者 その跫音』であるべきはずのところが『文芸編集者 その躄音』となっている。因みに「跫」「跫音」の表記の問題に就いては、最近出た加納重文松本清張作品研究』和泉書院にも少し言及が有る。またp.288の戸井田道三『生きることに○×はない』の解説に句点がないのも、しいていうなら誤植か。それからp.163、シモーヌ・ヴェイユの『重力の恩寵』(講談社文庫)は『重力と恩寵』の誤りだろう。

*2:この本自体、『新・文學入門』でも言及されている。私は、新潮文庫の復刻版――葛西善蔵の作品集とか日夏耿之介の詩集とか、九十年代半ば頃に刊行された背が赤茶色(海外作品は紺色)のシリーズ――で持っている…はず。

*3:角川も『中野重治詩集』(1956)を出していたようだ(p.151)。

*4:こちらもやはり飛ばし読みで済ませており、最初から最後までとおして読んだことがない。しかし、「この大著が魅力的なのは、まさにその蘆花の性や政治や宗教に関する矛盾撞着、右往左往ぶりであり、著者中野が一緒になって本気で当惑しているからである」(p.223)という一文を読み、これは少しずつでも頭から読んでみるに如くはない、とおもったのである。この本は七年ほど前、今はなき後藤書店の店頭均一コーナーで入手(確か三冊1000円)したものであるが、その後文庫か何か別の形でも出たのだろうとてっきり思っていた。

*5:何故この小説を挙げたのかというと、小谷野著p.188に「(遠藤周作の)ずいぶん無造作なタイトルの付け方」の好例として紹介されていたので、その関連として挙げたしだいである。因みにこの作品の映画版タイトルは『私が棄てた女』1969ないし『愛する』1997であって、ナカグロは現れない。