旅行のことなど

乱歩ブーム再燃? 立教大学大衆文化研究センターの『大衆文化』創刊を始め*1平井隆太郎氏の『乱歩の軌跡』(東京創元社)刊行、角川ホラー文庫による短篇集(これはさして目新しいものではないが)の刊行開始など、このところ乱歩が人気である。
今月、千葉俊二編『江戸川乱歩短篇集』が「岩波文庫」の一冊として世に出たのは意外なことだった。これまで乱歩の文章が岩波文庫に入ったのは、ただ一度しか無かったのではないか(千葉俊二/坪内祐三編『日本近代文学評論選【明治・大正篇】』所収「前田河広一郎氏に」)、よく知らないけれど。一応「短篇集」と銘打ってあるが、選ばれているのはやはり初期の作品群(勿論「短篇集」を編めば、自然と初期の作品に偏るのは当然なのだろうけど)である。乱歩ファンを自任する人の中にも、後期の通俗長篇を認めない人は少くなくて、たとえば広瀬正『マイナス・ゼロ』に登場するレイ子は、「日本物では江戸川乱歩、それも初期のころの短篇がいいわ。(略)ここへ来るお客さんたら、みんな乱歩の『黄金仮面』しか読んでないんですもの」と、昭和七年(設定上だが)の時点で既に「初期の短篇」が良い、と言っている。
因みに、松本清張が通俗に流れた乱歩を批判した有名な文章は、次のような一節で始まる。「乱歩は偉大な創作家であった。しかし、乱歩の特異性が時流に投じると(事実、その時代は、そういうものを受け入れる退廃的な風潮があった。いわゆる満州事変の起る直前である)、乱歩は通俗的な需要と妥協してしまった」(「私の小説作法」)。いかにも痛烈な批判がこの後もなお続く。かくて清張は、「そんな探偵小説など自滅しても一向に差支えない」とまで言い切ったのである。私は清張ファンだが、この文章には同意できない。乱歩の通俗長篇には、単なる謎解きには還元出来ない別の面白さがあるとおもう。
「通俗作家」乱歩を擁護したのが、小谷野敦氏の「偉大なる通俗作家としての乱歩―そのエロティシズムの構造」(『リアリズムの擁護―近現代文学論集』新曜社所収)で、「土ワイ」とか「井上梅次」(井上は土ワイの方で有名かも知れないが、『黒蜥蜴』のほか、映画としては『死の十字路』も撮っている)とかに言及しつつ、「俗悪で、しかし魅惑的な世界が、江戸川乱歩の本領」(p.144)と結んだのは、乱歩好きでもある私にとっても有難い事であった*2
(追記)乱歩作品の「岩波文庫」化は、「讀賣新聞」の記事にも取上げられたそうだ。
丹後半島あたりを巡って来た。浦嶋神社(宇良神社)やナカバヤシの製本工場に連れて行って頂いた。
浦嶋神社というと、清張ファンの私が思い出すのは『Dの複合』である。もっとも、作中で伊勢忠隆と浜中三夫が訪れるのは浦嶋神社ではなくて、同じ丹後半島に在る網野神社(作中では「浦島神社」と呼ばれもするが)である。その辺りには、何故か浦嶋子伝説ゆかりの地が点在している。
浜中が冒頭近くで、北陸や東北に住江(また住吉)の地名が見られないのは大和政権の影響が及ばなかったからだろうと持説を展開していて、真偽はともかく面白いのだが、それを敷衍してなぜ大陸の影響(支那にも浦島伝説や天女伝説に類似した説話が残っている)が(出雲国風土記でなく)丹後国風土記に及んだのか、という問いに対する「解釈」まで説いており、たいへん興味ふかい。
再掲になるが次の一節を引く(浜中の発言より)。
Dの複合 (新潮文庫)

支那の伝承が、ここにはっきりと現われています。浦島譚では海の底の竜宮となっているが、支那では高嶺(たかね)、つまり蓬莱山のような場所になって、神仙譚となってるでしょう。学者によると、これが奈良朝ごろに日本に輸入され、換骨奪胎されて、山が海になったというんですが、その説を一応承服するとしても、支那の地形と日本のそれとの相違だけでなく、海洋に対する海人族の影響が強くみられるのです。早い話、支那にも羽衣の伝説はあるが、それがみんな山の中の出来事となっている。ところが、日本にはいってくると、海岸に変るから妙です……」(松本清張『Dの複合』新潮文庫,p.33)

異界と日本人  絵物語の想像力 (角川選書)
このことに関しては、後に小松和彦氏も言及している(小松和彦『異界と日本人―絵物語の想像力』角川選書2003所収「龍宮の伝説――『浦嶋明神縁起絵巻」pp.75-89)。こちらはまさに、浦嶋神社蔵「浦嶋明神縁起絵巻」に就いての文章である。同書によると「浦嶋物語」は、龍宮思想や報恩思想と結びついた中世期に変質を遂げたとされ、その時点で日本人の「海底異界観」が流入したのではないかということになる。なおこの本に引かれる「俵藤太*3絵巻」「天稚彦草子絵巻」「御曹子島渡」などにも、海底世界と天上世界との親和性(旅先で某先生も言及された)がうかがい知れてまことに面白い。たとえば天稚彦説話。「まず指摘したいのは、天稚彦は海龍王であると名乗り、水中から出現しながらも、その一方では、天上にある国の王の子息としても語られていることである。そして、その王は鬼の姿で描かれている」(小松前掲p.95)。
しぐさの民俗学―呪術的世界と心性
天橋立も見てきた。二度目である。天橋立と言えば「股のぞき」(実は「袖のぞき」と云うパタンも有る)であるが、今回は「股のぞき」をするのに相応しい高さから見た訣ではない。しかし天気は良かった。
ところで「股のぞき」は、天橋立に特有のものではなくて、古い俗信に基いた方法なのである。これについては常光徹編著『妖怪変化―民俗学の冒険(3)』(ちくま新書)内の文章に詳しい(常光徹『しぐさの民俗学―呪術的世界と心性』ミネルヴァ書房に再録)。
浦嶋神社の縁起絵巻には、「扇子の骨の間から覗く人」が描かれていた(宮司も説明していた)のであるが(「伴大納言絵詞」にも同じしぐさが描かれているが、指のあいだから何かを見ようとする人の姿も一緒に描かれている)、異界の覗き方にも色々あって面白い。常光氏によれば、じゃんけんをする時に、両手を交差させてから組合わせ、それを内側に返して出来る穴を見ると「次の手」が分る(つまり未来が見える)という俗信も、異界の覗き方の一手法だという。
■製本工場は……最も愉しみにしていた所だのに、個人的には悲惨な思いをしなければならなかった。そこを訪れたあたりから左耳の外耳炎が悪化し始め(実は旅行に行く前から左耳に違和感と微かな痛みとがあった)、アレルギーの症状か何かよく分らないが、涙は流れるわ鼻水は垂れるわで話をまともにお聞きすることが出来なかった*4
その後、耳痛もずいぶん落ち着いたので、打上げ会には参加したのだが、物を噛むこともままならず、どうにも我慢ができなくなり二次会の始まる前に辞去。顔をしかめながらようやく帰途に着いた。鈍痛と激痛が交互に訪れ、半ば記憶を失いかける有様。車中、向かい側に坐っていた女性が怪訝そうにこちらを見ていたことだけ、おぼろげながら覚えている。鈍い痛みは耳の奥だけでなく、後頭部や首のあたりまでに広がり、とうとう酷い頭痛へと発展した。もちろん一番痛いのは耳の奥であるが、一体どこが痛いのかわけが分らなくなっていた。
就寝前に鎮痛剤を飲み、翌朝耳鼻科へ行くと、医者は耳穴を覗き込むなり、「こ れ は ひ ど い」と言った。チューブのようなもので大きな膿の塊を吸い出してもらうと、痛みは絶頂時の三分の一くらいまで減じた。
ただ完治には時間がかかりそうで、一週間以上は通院しなければならない様である。たかが耳痛くらい、と侮っていたが、今後は気をつけよう。

*1:この三月に創刊準備号が出た。乱歩が古本屋を営んでいた時期に構想した『二銭銅貨』の草稿が、翻刻とともに掲載されている。ただ藤井淑禎氏の文章が、タイトル・本文共々「市川」という大胆な誤植を許しているのはどういうわけだろう。

*2:ところで同書p.134に、谷崎潤一郎の『金色の死』―乱歩が『パノラマ島綺譚(奇談)』を書くきっかけになった作品とされる―が出て来るのだが、p.135では『黄金の死』となっている。これは同一作品(作品名の変更がどこかで行われたとか?)なのだろうか。やや気になった。

*3:「田原藤太」とも。たとえば、南方熊楠『十二支考(上)』岩波文庫pp.122-221所収「田原藤太龍宮入りの話」。

*4:涙や鼻水は、工場を出ると収まったので、やはりアレルギーだったのかも知れない。午食時に「バスの中で寝てた顔ですね」と後輩に云われたのだが、実は涙で瞼が腫れぼったくなっていたのだった。