尾崎紅葉と言文一致の時代

 以前書いた小文に、すこしだけ手を加えたものですが、データを整理している途中に偶然見つけたので、ここに(恥ずかしげもなく)晒しておきます。

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 鷗外森林太郎が「言文論」(明治二十三年四月)に、「読ませむために作れる文漸く盛になりもてゆく程に、言と文との懸隔生じて、言は必ず文に先立ちて進み、文は其後より追ひ行く如きさまとなれる」と記しているとおり、「言文一致体」というものは、原則的にはあり得ない。それはあくまでも、「読ませむために作れる文」にほかならないからだ。「文」を「言」に近づけたつもりでも、アクセントやイントネーションを表現することはできない。文字以外の――たとえば記号で、それらをいくら再現しようと努めても、声の質までをも再現することはやはりできまい、と、そこまで言ってしまえばもちろん不可能であるわけで、「原則的には」とことわったのは、そういうものを除外しなければ、という意味においてである。
 さて続けて鷗外は、「世には言文一致といふ名を聞きて、文は即言、々は即文なりとやうに思ふ人もあるに似たれど、言文一致も亦た今の言を取りたりといふのみにて、其質は則ち儼然たる文なり。読ませむための文なり」と述べている。「言は必ず文に先立ちて進み」という表現が、今日的観点からみて必ずしも妥当なものではないとしても、鷗外が、「言」と「文」とは全く別の相容れない存在であると見ていたということはまちがいない。
 同様のことは、はるか後に柄谷行人も書いている。「もともと話し言葉と書き言葉はちがっている。それは『話す』ことと『書く』こととが異質な行為だからにすぎない。したがって、それらが一致している言語などはけっしてありえない」(「内面の発見」)。そして柄谷氏は、「言文一致」もつまるところは新しい「文語」の創出にすぎない、と結論するのである。
 とかく「文」が「言」を志向しがちなのも、「言と文との懸隔」あればこそである。「言」の規範(というべきもの)が一朝一夕に改まるものではない以上、「文」の側をいかにして、あるいはどこまで「言」に接近させるかということがまず問題となる。日本語の場合、それは主に単なる語尾に還元されうる問題として、あるいはまた表記上の問題として立ち現れて来ることが多いといえようが、それはいま措く。
 さらに鷗外の筆は、当今の話題におよぶ。「山田氏(山田美妙―引用者)の流派は吾文学社会に与ふるに新しき言を文となす勇気を以てしたり。日本新文章の先登をなしたり。是より先にも坪内逍遥饗庭篁村二氏を始として近体の文を善くしたる人なきにはあらねど、其筆墨は温雅ならむことを勉めたるゆゑ、山田氏が所謂『豹変の手段』を用ゆるに至らざりき。此手段には或は瑕瑾もありしならむ。而れども此に非ざれば、一時文海の驚瀾怒濤を捲起して天下詞客の懶眠を打破するに足らざりしなり」。文中の「豹変の手段」とは、「ダ」調で統一された言文一致体のことである(併し、美妙はのちに、「ダ」調から「デス」調への転換を宣言することになる)。この体には「瑕瑾」もあるだろうが、この体でなければ、「天下詞客の懶眠を打破するに足ら」ぬ。その劃期性をこそ、鷗外は重視しているのである。
 ゆえに鷗外の見方によれば、「日本新文章の先登をなした」のはあくまで美妙だということになる。但し――「山田氏は多く新語を取りしかど、其勉めて卑語を避けむとせし迹も亦歴々として指すべし。縦令『酔沈香』中『玉帳』の一語は世議を招きたりと雖も、是れ語の卑しきよりは寧事の褻なるなり。唯其作用言(働詞)の活に至りては、則ち散文に於て今の京言を取り、韻文に於て古のてにをはを守りたる如し。余等は是に於てや少しく疑なきこと能はず」ともあるように、「豹変の手段」を用いた美妙も、文語の(特に文法の)規範からは自由でなかった。ここにおいても、「言」と「文」の本質的な逕庭が露呈していると云える。また、語の選択基準にもそれなりの規範意識がはたらいていたことがうかがい知れる。

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 鷗外が「言文論」をものする半年ほど前、紅葉尾崎徳太郎は次のように記した。

 此頃の作者は第一無学だからいけませんよ。手紙が一ツ書ないと見えますね……なぜだと……御覧なさいな、女郎の手紙みたやうに口でいふ通りを書いてるぢやありませんか。ヘーエあれが言文一致……時代が違ふと不思議なもので、あれが今ではいゝといつて居ますかィ。あれなら訣やない、私にもかけさうだ、なるほどその言文一致とやらが流行る所から落語家のつゞき物までが新聞に出るのと見えますね。して見りや商売柄だけあつて、まヅ円朝なぞは言文一致の方での大将ですね。
(「読者評判記」、明治二十二年九月二十日『百千鳥』第二号)

 これは、紅葉の心中を代辯したものであったにちがいない。つまり紅葉は、「女郎の手紙みたやうに口でいふ通りを書」く「此頃の作者」を「無学」の徒と喝破しているわけである。確かに当時の紅葉は、言文一致体に対して極端に冷淡な態度をとっていた。それゆえにであろうか、初期の作品で紅葉は、会話と地の文とを分けて書くことをほとんどしなかった(木谷1974等)。
 その言文一致体のかわりに、当初紅葉が目指したのはいわゆる「雅俗折衷体」であった。これについては、紅葉自身も「『我楽多文庫』時代に、頻に雅俗折衷躰といふものを唱導した。つまり西鶴文を根本に置いた」(「地の文と会話」明治三十七年一月一日「新小説」第九年第一巻、山岸荷葉「故紅葉大人談片」)と述べているのだが、ところで、そもそも「雅俗折衷体」の「雅」ないし「俗」とはどのようなものであったのか。
 芳賀矢一杉谷代水編『作文講話及び文範』(明治四十五年三月刊)から引用しておく。

 雅文式というのは、純粋に古代の国文を模した体式(擬古文)及びこれを少しく平易にした体式で、一局部の国学者や歌学者やその門中の婦人などの綴る体式である。明治二十年前後国学復興の当時は一時盛んに行われて、著名な文学者も大分影響を受けたが、爾後新国文学の発達と共においおい一局部に引込み今日では旧派の歌学雑誌以外にはあまり見受けぬようである。(中略)それからまた俗文式とも名づくべき一種の文章がある。これは徳川時代の戯作家の流れを受けた文体で、新聞紙の軟派の雑報や、随筆小品あるいは小説を壇場として一時盛んであった。(中略)この式の文章は小説と最も深い関係を有し、明治二十年代三十年代の小説家にしてこの派の文章の影響を受けぬ者はほとんどないといってよいくらい、尾崎紅葉のごときもこの体の長所をよほど採ったものである。
(「第四講 国文の諸体」pp.56-64)

 引用文中の「雅文式」「俗文式」は、いずれも「文章体」の一種であって、これらの折衷体が、つまりは紅葉の唱導した「雅俗折衷体」だということになる。
 芳賀・杉谷は、この「文章体」に「口語体(言文一致体)」を対置する。さらに「口語体」の下位区分として、「洋文直訳式」(芳賀らはこれに批判的である)「速記体(ママ)」「折衷式」のみっつを設け、「折衷式」を「現代の標準言語を基本とし、それに洋文脈の新しいところや、速記式のくだけたところも加え、なお在来の文章体の中からも種々な長所を取り込んで調和よく折衷しようとする一体」として称揚し、そこから生れたもののひとつとして、紅葉の「である」を引き合いに出している。後期の紅葉が、この流派のいわば開拓者となり、作家活動を行うということになったわけだ。
 後期の紅葉の作家活動を追う前に、取りあえず「地の文と会話」に立ち戻っておこう。それは、先の引用から以下の如く続いている。「今ではまた、地の文と会話を分けて書くやうになつた。さあ地の文と会話とを分けて書くやうになつたもんだから、従つて之に伴つて来る困難は、その地の文と、その会話との調和だ。どうもこれでひどく苦しんだね」。
 「その地の文と、その会話との調和」を考えるようになった紅葉は、はからずも、かつて書いた「流行言葉(はやりことば)」(明治二十一年六月五日「貴女之友」第二十五号)で示唆した次の問題にも直面することになったのではないか。

 しかとは覚えねど今より八九年前小学校の女生徒がしたしき間の対話に一種異様なる言葉づかひせり。
((梅はまだ咲かなくツテヨ))
((アラもう咲いたノヨ))
((アラもう咲いてヨ))
((桜の花はまだ咲かないンダワ))
 大概かゝる言尾を用ひ惣体のはなし様更に普通と異なる処なし前に一種異様の言葉と申したれど言葉は異様ならず言葉尾の異様なるがゆゑか全体の対話いづこも可笑しく聞ゆ。
(中略)
 其起源はいかにありとも言葉さへ風雅てあらんには何の遠慮なく貴女も用ふべく歌人もつかふべくさればこの言葉の素生いやしきをもつて我はこれを謗るにはあらずたゞその鄙びたるを疾むにこそ。言語容貌は徳の符とやら申せばその身柄相応に尊ぶときは人柄なるべく卑しきは鄙びたる言葉づかひさもあるべきなり。心ある貴女たちのゆめかゝる言葉づかひして美しき玉に瑕つけ磨ける鏡をな曇らせたまひそ。

 すなわち会話と地の文とを分けて書くとなれば、場合によっては、「一種異様なる」「鄙びたる」言葉の会話を用いるにやぶさかでない態度さえ要求されるわけだから、地の文とこれらをどのように「調和」させるかということが前景化するのである。
 またこのことは、あくまで推測の域をでないが、紅葉が「口でいふ通り」の言文一致体へと鞍替えすることになったひとつの契機となり得たのかもしれない。
 ところで、紅葉がいわゆる「である」調を小説に用いたということは、明治期から言及されることが多かった(以下でも詳しく見るが、先の芳賀・杉谷もそうであった)。「である」体といえば紅葉、という共通認識がすでに確立していたものとおもわれる*1
 ここでふたたび『作文講話及び文範』を参照してみよう。

 たとえば今日の口語によく用いられる「云々である」という止めのごときは、紅葉山人が工夫し出したもので、それまでは言文一致の小説家はだれもこの留めに苦しんだ。文章体ならば「何々なり」と楽に止められるが、口語文に「何々です」、「何々であります」といっては行儀過ぎて面白くない、また「云々だ」といっては無作法過ぎる。わずか一語のことではあるが、動詞の終止法には始終用い、過去未来、その他の変化が多いだけに始終困っていたところへ、「云々である」「云々であった」「云々であろう」という使い方が工夫されたのでたちまち行われた。泉鏡花氏のごときは「である」ができてから言文一致体が真に確定した「である」の発見だけでも先師(紅葉)の事業は不朽であるといっておる。「である」は文章体のなりから工夫し出したもの、すなわち文章体の長所を口語文に応用したものである。
(「第四講 国文の諸体」、pp.72-73)

 また、高松茅村『明治文学言文一致』(太平洋文学社,明治三十三年七月刊)にも、以下の如くある(谷沢永一編『遊星群』pp.583-84)。

 「です」から「た」、「た」から「ます」と進んで、言文一致は、その達すべきところに達した。この語法を創めた、美妙、四迷、嵯峨のや三氏は、唱道者としての外、また、創造者として、ここに特筆しなければならぬ。この三氏と同時に、言文一致を使用した人が沢山あるが、その語法は、――後になつて、尾崎紅葉氏が、「である」を創めるまで――みな、この三つの外を出なかつた。次は硯友社の諸氏である。(中略)ここの諸氏は、みな、言文一致を把つてゐる人々であつた。頭領の尾崎紅葉氏は、このごろ、どちらかといふと、雅俗折衷文をかいてゐたが、言文一致には、はなはだ賛成してゐた。

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 茅村が「言文一致には、はなはだ賛成してゐた」と記す紅葉の態度は、少なくとも作家活動初期のそれではない。そのことは、紅葉自身が次の如く記していることからも明らかである。

 偖此冷熱の篇は自分が言文一致を始めてから四度目の作である。都の花の二人女房が初発で、隣の女、紫、其の次が是。自分は其始言文一致大の嫌であつた。誰の創見である、彼の発意である、といふ論は次にして、此体で小説を物した抑の人は当時自分と机を並べてゐた山田美妙である。自分は君に於いては可なり、我に於いては不可なりとして、其長所をば味はぬではなかつたけれど、短所の方が多いと見て頗る不服であつた。今考へれば愚なことであるが、自分は大撚に撚つて二百年前の文章に私淑して西鶴其磧といふ洒落者に就いて学んだ。実に言文一致は忽ち冲天の勢をなして、文壇到る所ましたありませんの獅子吼を聞いた。(中略)
 やがて元禄文章は世に出でゝ、言文一致の天下を滅した。それも久しからずして、群雄割拠の世となつて、源平藤橘鏃を磨き、天下は終に一人の天下にあらず、彼の長と此の短と相補つて、まづは泰平の御世と定つた。其頃自分はおのれの文体に倦んだ、といふのは不足を感じたのである。思ふこと、言ひたいことが、毎も脳の底に残つてゐて、それは如何工夫しても自分の文で鈎すことが出来ぬので、苦心に苦心をしたけれども、喟然として筆を投ずるばかりであつた。之を彼破天連が書いたならば如何なものであらうと不図考へた。夜々空に向つて試に言文一致を吐いて見ると、脳の内が痺れるほど、其内に在るものを尽して、而も刃を迎へて解くるが如く聯ねられた。三年前の怨敵たりし破天連も面白いわい、と此時始めて発心した。
(「紅葉山人の文章談」明治三十七年八月十五日「新潮」第四号)

 注目すべきは、鷗外と同じく、「此体」すなわち「言文一致体」で「小説を物した抑の人」を山田美妙であると断じていることである。
 別の媒体でも、紅葉は次のように回想している。

 明治十九年の春に改めて我楽多文庫第壱号として出版した、是が写本の十号に当るので、表題は山田が隷書で書きました、之に載せた山田の小説が言文一致で、私の見たのでは言文一致の小説は是が嚆矢でした(明治三十四年一月一日「新小説」第六号第一巻)

 紅葉と美妙とは、若いころに袂を分かっているので、紅葉が「其始言文一致大の嫌であつた」のは、そのことが幾分かは作用しているのかもしれない。またさきに見たように、「言文一致」には、「無学」という拭いがたい印象が貼り付いていたのであった。そこには、誰も彼もが「言文一致」を持て囃していたという現状への非難も含まれていたのであろう。そのような側面は、次の断片からもうかがわれる。

 実はこの小説を書き始めた時(明治二十九年)は例の言文一致が非常に勢力のあつた頃で、猫も杓子も言文一致/\と騒いだ時だから、僕は言文一致以外にも、一種の文体で能く人の心の機微を写すことが出来るだらうといふ野心で、実はこんな文体を創めて見たのだ。併し労多くして功少しで、骨の折れる割に面白くない。
(「金色夜叉上中下合評」、明治三十五年八月十一日「藝文」)

 文中の「こんな文体」とは、いわゆる「LABOURED STYLE」なのだそうで、「前に抱一庵主人も、此文章に衒気があるといふ評をした」という。かように文体に凝りすぎた結果であろうか、後の回想であるためいくらか割引く必要があるにもせよ、『金色夜叉』でのこころみを自ら「面白くない」と評することとなったのは事実である。
 後藤宙外も、この紅葉の「失敗」に言及している。

 (紅葉)山人の文体の推移を考へて見ると、最初は西鶴の流れを汲んだ雅俗折中の旗幟をたて、中頃に至つて精錬された言文一致体に転じ、それが『多情多恨』あたりで略ぼ頂顛に達したかの感があつた。更に晩年に入つては『金色夜叉』をはじめ、『煙霞療養』や『十千萬堂日録』あたりの文章に見るとほり、漢文脈が著るく取り入れられて来たのである。その頃の山人の書簡などにも此の臭味が横溢して居つたのである。山人自身は『金色夜叉』の文体は決して自分の理想的のものでなく、「唯一時の試みに過ぎない、あれは『穎才新誌』ですからね」などゝけなして居り、結局は「純熱した言文一致体を基準として、各体の長所を打成一片としたものを作りあげる、といふのが理想である」との主張であつた。つまり『多情多恨』流の文章を一層精錬したものを書きたいといふ希望であつたらしい。
(後藤宙外『明治文壇回顧録』)

 宙外も記しているように、紅葉は純粋な「言文一致体」を目指したのではなかった*2
 それに、さきの「紅葉山人の文章談」では、確かに「夜々空に向つて試に言文一致を吐いて見ると、脳の内が痺れるほど、其内に在るものを尽して、而も刃を迎へて解くるが如く聯ねられた。三年前の怨敵たりし破天連も面白いわい、と此時始めて発心した」と書いているのだけれども、それもしばらくの間だけであった。というのも、続けて紅葉は、「此紫以来一瀉千里の勢で書流した言文一致も筆端窘縮して洒落飛すやうな自在を失つて、再び例の苦吟遅筆になつた」と述べることになるからである。このように、「言文一致体」にも限界があった。
 これは、巌谷小波が次の如く記していることにも深く関わって来る。

 元来言文一致なるものは、彼の落語講談の速記とは大いに異なりて、元是一種の文体なれば、只通常の俗語を並列して以て足れりとなすにはあらず。必ずや其間に緩急あり疎密あり抑揚ありて、尋常美辞学的の要素は、一も欠く可きものにあらず。只用うる新俗語多きが故に、他の文体に比して稍々解し易きも、書き方によりては却て雅俗折衷のある一体よりは、遥かに解し難きことあり。之を以て余は彼の黄金丸を綴るに、当初は言文一致を以て試みたるも、少しく都合ありて文体を改めたり。
(柄谷1980,pp.159-60より間接引用)

 この一節は、童話『こがね丸』をなぜ「言文一致体」で書かなかったのか、という疑義にたいする反論*3なのだが、言文一致体は「他の文体に比して稍々解し易きも、書き方によりては却て雅俗折衷のある一体よりは、遥かに解し難きことあり」という。当時の労苦を、今日の読者ないし著述者が想像することはおそろしく困難である*4
 しかし言文一致体のこの困難が、紅葉をも苦しめたのではなかったか。
 そして紅葉の見方によれば、これは日本語の構造に由来する根本的な問題であるということになる。

 たゞ今日我々の悲むべき事は、日本語がまだ十分に発達しない事です。で、支那語から多くの言を取らなければならぬ、時としては文句全体をも藉りなければなりません、其外文学上の言語は会話の言語と非常に異つてゐます。が、勿論今日では言と文とを近接させようと云ふ試もあつて、現に東京に於て言文一致で書いてゐる新聞さへ出てゐますけれど。
(夏葉訳「紅葉山人を訪う」、明治三十五年八月一日「俳藪」寅七号)

 ここに「文学上の言語は会話の言語と非常に異つてゐ」るとあることは、看過出来ない。これは正しく、鷗外述べるところの「言と文との懸隔」そのものである。この状況を、「発達」という言葉に不用意に――やむを得ないことではあるけれども――直結させてしまうこともまた、鷗外の「言は必ず文に先立ちて進み」なる表現を髣髴とさせる。
 さらに、「今日では言と文とを近接させようと云ふ試もあつて」以下の文章にも注目しておくべきであろう。かつては新聞という媒体にも、大新聞・小新聞の別があり、後者のみ言文一致を採用していた。そのことは、たとえば野崎左文が『私の見た明治文壇』(春陽堂、昭和二年五月刊)に、以下のように記しているとおりである。――前者の「雑報の文は概して『したり』『せし由』の文章体」であり(また大新聞は「小説を掲げざりし事」を特徴のひとつとしていた)、後者の「雑報の文は『御座います』『ありました』等の俗談平話体」である、と。
 このうち小新聞系統のものが、明治後半期に全国紙として主流となってゆくにつれて、「言文一致で書いてゐる新聞さへ出」ることになった、というわけである。以上のようなメディアの変質、ひいては読者の変質も、紅葉のスタンスの変化に影響を及ぼしていると、あるいは言えはしないだろうか。

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 紅葉が、その最初期のころは言文一致を執拗に拒んでいたとはいえ、最終的にその体の長所を自らの作品に採り入れてゆくようになるのは、新奇なものを好んだかれ自身の性格からして容易に考えられそうな事態ではある。しかし、様々の外的要因が、紅葉のスタンスの変化に影響をおよぼした可能性も考慮する必要があるのではないか。
 ともかくも、このような苦闘を経た上で、「言文一致体」は確立されて行ったのである。
 小稿は、そのひとつの軌跡を、尾崎紅葉の作家としての試行錯誤に見た。

【参考文献】
臼井吉見編『明治文学回顧録集(一)(二)』筑摩書房、1980
尾崎紅葉『紅葉全集 第十巻』岩波書店、1994
柄谷行人(1980)「児童の発見」(初出:『群像』1980年新年号)
柄谷行人日本近代文学の起源講談社文芸文庫、1988所収を参照)
木谷喜美枝(1974)「尾崎紅葉の初期文体――言文一致への過程――」
日本女子大学国語国文学会『国文目白』第一二号所収)
谷沢永一編『遊星群――時代を語る好書録【明治篇】』和泉書院、2004
芳賀矢一杉谷代水編/益地憲一校訂『作文講話及び文範』講談社、1993
山本正秀(1964)「開化期の文体をめぐって」(『講座現代語2現代語の成立』明治書院
山本正秀編『近代文体形成史料集成 発生篇』桜楓社、1978
『日本近代思想大系十六 文体』岩波書店、1989

*1:しかしながら、これは事実誤認である。山本1964には、「嵯峨の屋お室は、二一年一二月『薄命の鈴子』で「である」調言文一致を創始した」p.121とあるし、木谷1974も、紅葉に先駆けて少なくとも五篇の小説――思案の『わが恋』など――が「である」を用いたことに言及している。

*2:もっとも、文字以外の符号となると話は別である。たとえば山本夏彦は、「尾崎紅葉西鶴の読者で化政期の洒落本を自家薬籠中のものにしたのはいいが、初期のものはさながら戯作で、その上漢文と英語の下地があって、新しもの好きでその戯作調に「!」やら「?」やらついには「!!!」まで用いることこんにちのごとくで、それでいて顰蹙を買わなかったのは明治二十年代は世をあげて新しもの好きだったからだろう」(『完本 文語文』文藝春秋、p.29)と書いている。

*3:後に日本語改良を愬えた小波ではあったが、明治二十一年十二月発表の『鬼車』は文語体で(オットーのメルヘンを翻訳したものという)、三年後の『こがね丸』も「読本風文語体」で書いていることに注意しなければならないだろう(大正十年、ふたたび『こがね丸』を出したときには、自身で「口語訳」を附している)。

*4:当時のいわば「漢詩作文ブーム」も与っているだろう。たとえば幸田露伴は、「普通文章論」(明治四十一年十月)に「しかし今日は普通教育の作文教授法も非常に進歩した。また昔日のごとくに児童青年をして、「一瓢を携へて某山に遊ぶ、春風駘蕩、桜花爛漫」的の文章を作らしめはせぬ」と書いているくらいだし、後には斎藤美奈子氏が、「青少年の作文を募集する専門雑誌が明治一〇〜二〇年代に続々と創刊され、投稿少年たちの間に空前の作文ブームを巻き起こしたのである。明治一〇年創刊の「穎才新誌」を皮切りに、「小国民」「少年園」「少年文林」「小学教文雑誌」「学生筆戦場」、すべて少年むけの投稿雑誌である。(中略)当初は知識階級の子弟に限られていた漢作文の流行も、投稿雑誌の作文ブームにともなって、やがてはあらゆる層の青少年へと広がってゆく」(『文章読本さん江』筑摩書房、pp.137-38)と書いている。