論語ブーム(2)

 「公冶長(こうやちょう)論語」、「雍也(ようや)論語」といわれる。これは、『論語』を頭から読み始めると、第五「公冶長篇」や第六「雍也篇」のあたりで挫折してしまう、――つまり、「源氏は須磨、左傳(『春秋左氏傳』)は僖公」とか「公冶長論語に須磨源氏」とかいった俗諺におなじで、要は「三日坊主」のことである。
 ほかにも、「明石源氏」「三月庭訓(ていきん)」「隠公左傳」などといった同義の諺がある。何を隠そう、わたしも源氏物語を原文では通読したことがないし、左傳は竹内照夫小倉芳彦の現代語訳で読んで済ませただけである*1
 「左傳」は、文章家の軌範として「左国史漢」とも並び称されるくらいだし、たとえば『十八史略』のようにおもしろい、と考えている人もあるいはいらっしゃるかもしれないが、その殆どがひたすら無味乾燥で退屈な記述なのであって、小倉先生は岩波文庫版で、このあたりの巻から読むべし、というようなことを書いているくらいなのだ。

春秋左氏伝〈上〉 (岩波文庫)

春秋左氏伝〈上〉 (岩波文庫)

 さて、『論語』である。「公冶長論語」、「雍也論語」というのは、はじめから読もうとするからそうなるので、身構えて読もうとするのでなければ、通読するのはけっして困難ではない。飽きっぽいことにかけては人後に落ちないこのわたしが言うのだから、間違いない。
 そもそも『論語』は、基本的には孔子やその門人の言行録の「断片」から成る。しかも編年体ではないから、どこから読んでもよいはずなのである。気になったところや人口に膾炙しているところから読む。ついでに、その周辺の章を読んでみる。それを繰返していたら、いつの間にやら全部読んでしまっていることに気づく(はずだ)。
 『論語』は、字数もさほど多くない。「総字数約一万三千七百に対して用字数は一三五五字」(白川静『漢字百話』中公新書,p.165)だという。字種こそ違え、異なり字数は、常用漢字(現在は一九四五字)よりも遥かに少いのである。だから、読み通すだけなら、あまり時間を要しない。
 しかし、これはあくまで「読み通すだけなら」ば、の話である。
 問題となるのは、その解釈である。前回の記事で、踏みこんだ解釈に触れなかったのも、実はそのせいなのだ。
 『論語』というのは、叙述が簡単であるだけに、訳者の立場によって、解釈がずいぶん異っている。その面からいうと、『論語』は、いや論語に限らないのだけれど、解釈を問題にしたいのなら、やはり何種類かは備えておくべし、ということになるのだろう……。
 あの魚返善雄(おがえり・よしお)も、次のように書いている。

世のなかには「論語読みの論語知らず」がじつに多いものだ。筆者などもまさにその一人だとじぶんで思っている。たった一冊の「論語」を、なんべん読んでも「むずかしい! むずかしい!」と、なげいているのだもの。「論語」などの儒教古典を読むのに、漢文の先生がたのよく参考にするのは宋の学者朱子の注釈だ。「朱注」といえば「金科玉条」(golden rule)のようにあがめ奉っている先生もある。しかし朱子のほかにもえらい学者はたくさんいて、いろいろちがった意見をだしている。それらを比較してよくよく考え、じぶんでどうにか満足のできる解釈に到達したら、それでよいとしなくてはなるまい。(「論語読みの論語知らず」『漢文入門』現代教養文庫,p.204)

漢文入門 (1966年) (現代教養文庫)

漢文入門 (1966年) (現代教養文庫)

 『論語』は、おもしろいけれどむつかしい。そのむつかしさを示す例を、ひとつだけ挙げておこう。
 學而篇第一の「曾子曰、吾日三省吾身」。「三省堂」の名の来由としても有名な一節である。これを貝塚版は、「曾子曰(のたま)わく、吾、日に三たび吾身を省みる。」(曾先生がいわれた。「私は毎日三回、自己反省する。」)とし、「三」を「三回」の義と解釈する。宇野版は、「曾子曰(い)はく、吾三つ吾が身を省みる。」(「私は毎日次の三箇条について己の身を反省する。」)の如く、「三」を「三箇条」の義にとる。これは朱子の新注に基いている。しかし金谷版は、「曾子の曰(い)わく、吾れ日に三たび吾が身を省る。」と読下し、「わたしは毎日何度もわが身について反省する。」と訳している。つまり「三」を具体的な数量ではなく、複数回の義にとったのである。また当該箇所について魚返は、「三つ」(三箇条)の義に解するが、「『三省』は『三度かえりみる=たびたびかえりみる』と解することもできる」(前掲,p.204)、とも述べる。
 この点において、貝塚版はやや異色といえるかもしれない。しかしその貝塚版も、「南容三復白圭(南容、白圭を三復す)」(先進第十一)の「三復」は、他書と同じく「なんどもくり返す」と訳出しているのだから、さあややこしくなってくる。また、「子路共之、三嗅而作。」(郷黨第十)の「三」は、他書と同じく具体的な回数の義でとっている。
 「三」の字義解釈さえこの通りなのだから、あとは推して知るべし。
 ついでにいうと、実はいま挙げた郷黨篇の章句も異説の多いところで、まず貝塚版は、「子路これに共(むか)えば、三たび臭(はねひろ)げて作(た)つ」とし*2、「お共の子路が向かってゆくと、(鳥は―引用者)三度ばかり羽ばたきして飛び去った」と解する。
 宇野版は「子路之に共(むか)ふ。三たび嗅(な)いて作(た)つ」(子路孔子の意を知らないで、鳥の方に向ってこれを執えようとした。鳥は三たび鳴いて飛び作った)とし、金谷版は「子路共す。三たび嗅(か)ぎて作(た)つ。」(子路は〔時節の食べ物のことと誤解して〕それを食膳にすすめた。〔先生は〕三度においをかがれると席を立たれた。)と、もはや主語さえ異にしている。これは「集解(しっかい)」、いわゆる古注に基く解釈である。
 ああ、これでは一体何を信じていいんだか。何度でもいうが、『論語』はおもしろいけれどむつかしい!
 しかし、むつかしさばかりを強調していてもはじまらない。論語の講釈をする場合なら知らず、専門家ではない我々は、もっとずっと気楽に読んでいい。
 そして気楽に読んでいると、かえっておもわぬ発見もあったりするのだから楽しい。
 たとえば「狂」字。『論語』を読んでいると、現在はあまりよい印象を受けないこの字が、なんと頼もしくおもえてくることか。
 まず孔子はつぎのように云う、「好剛不好學、其蔽也狂(剛を好みて学を好まざれば、其の蔽や狂。)」(陽貨第十七)、「古之狂也肆、今之狂也蕩(古えの狂や肆、今の狂や蕩。)」(陽貨第十七)、と(いずれも金谷版に拠る、以下同)。ここでは、弊害としての「狂」が説かれている。だが、古今で「狂」の意味するところは違う、とも説くのである。すなわち、「古えの「狂」は気宇壮大だったが、今の「狂」はただでたらめなだけだ」(呉智英『現代人の論語文藝春秋,p.82)と。「古えの狂」を讃美していることは云うまでもない。
 また、孔子は次のようにも云う。「吾黨小子狂簡、斐然成章(吾が党の小子、狂簡、斐然=ひぜん=として章を成す)」(公冶長第五)。あるいはまた、「狂者進取(狂者は進みて取る)」(子路第十三)、と。「狂簡」とは「詰めは甘いが大きな理想を抱いている」(呉同前,p.81)という義。
 このように、孔子は「狂」に、進取の精神、未開拓であるがゆえの可能性も見出していたのである。
現代人の論語

現代人の論語

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 中島敦「弟子」で、子路が死ぬ凄絶な場面は『左傳』に拠ったのではないか、と書いたが、もしかすると、『史記』仲尼弟子列傳第七の記述に基いているのかも知れない。

*1:『春秋穀梁傳』に至っては、これは線装本のみ所有するが、豹軒鈴木虎雄の旧蔵書であって、披くのはもったいないからというのを言い訣に、ついには書架の装飾となり果てている。

*2:「臭」を「〔目*大〕」字の誤記とするのである。