二十にして心已に朽ちたり

 「離騒」につづいて、「庚寅ネタ」(?)をひとつ。鬼才・李賀(長吉)の「長安男児 二十心已朽長安男児有り 二十にして心已に朽ちたり)」(贈陳商)という一節は、賀みずから身の不遇をかこったものであり、しばしば引用されるから、よく知られるところであろう。
 たとえば、粕谷一希二十歳にして心朽ちたり―遠藤麟一朗と「世代」の人々』の書名は、ここから採られている(現在は洋泉社MC新書で読める)。しかし粕谷氏は、典拠を知らぬまま書名に使用したらしい。そのことについて書かれた箇所を、高田里惠子『学歴・階級・軍隊―高学歴兵士たちの憂鬱な日常』(中公新書)から間接に引用しておく。

 本の題名は、いいだももが亡き友「エンリン」の生涯を指して、「長安ニオノコアリ、ヨワイ二十(ハタチ)ニシテ、心スデニ朽チタリ」と言ったことに由来する。「いささか、気楽な酒が廻っていたのか、私はその詩の出所も知らぬまま、ヨワイ二十(ハタチ)ニシテ、心スデニ朽チタリという一句に、強烈なイマジネーションを掻(か)き立てられる想いがした」。(pp.258-59)

 さて「贈陳商」詩に戻るが、その冒頭は以下のごとくである。

長安男児 二十心已朽長安男児有り 二十にして心已に朽ちたり)
楞伽堆案前 楚辭繋肘後(楞伽案前に堆く 楚辭をば肘後に繋く)
人生有窮詘 日暮聊飲酒(人生窮詘有り 日暮聊か酒を飲む)
祇今道已塞 何必須白首(祇今道已に塞がる 何ぞ必ずしも白首を須たむ)
……

 「二十心已朽」とあることから、単純に考えると、賀が二十歳ちょうどの頃、すなわち元和五年庚寅(810)によんだ詩だということになる。鈴木虎雄訳解『李長吉歌詩集』(岩波文庫、以下『歌詩集』)もそのように見なしている(上巻p.14、下巻p.64)。しかもその詩句に、偶然にも「楚辭」の二字があらわれることによって(その代表的作家屈原は、庚寅の生れ*1であった)、私の記憶にいっそう強く刻まれていたのである。
 そもそも、賀が陳商にこの詩を贈ったのは、商が科挙に及第する(元和九年)以前、賀が不本意な任官のため長安にいた頃のこととされる。しかし、賀が長安にあって太常寺の奉礼郎(従九品上)、もしくは協律郎(正八品上)についていた(役職名は諸説ある)のは、元和六年辛卯(811)から三年間のことであったという。ごく最近、黒川洋一編『李賀詩選』(岩波文庫、以下『詩選』)によって知った。その訳注で黒川氏は、「(二十というのは―引用者)概数でいったものであり、李賀が太常寺の奉礼郎の職にあったのは八一一(元和六)年から八一三(元和八)年の春までゆえ、二十一歳から二十三歳までということになる」(p.141)と断じているのである。
 なお、『歌詩集』と『詩選』にはかなりの相違があり、たとえば、前者が官板(昌平黌板)に基き「蘇小小墓」と作る詩題を、後者は別本により「蘇小小歌」に作るなどする。

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 ところで、奥野信太郎は『居酒屋にて』(論創社)所収の「巨人・鈴木先生」(初出:1961.10.20付「東京新聞」)で、「(鈴木虎雄は―引用者)最近にいたって「玉台新詠」「李長吉詩集」等の訳注を刊行されるなど、その学問的活躍は老来いよいよさかんになってゆく感がある。まさに学界巨人の一人者である」(p.305)と書いているが、「玉台新詠」「李長吉詩集」というのは、いずれも岩波文庫版を指しているとおぼしい。
 ついでにいうと、先にあげた「蘇小小墓」詩は、その本歌を『玉台新詠集』所収の「錢塘蘇小(小)歌一首」とし、いわば「幽霊」視点でよんだ作品であるが、『歌詩集』で紹介されたもの(上巻p.84)と、鈴木虎雄訳解『玉台新詠集』(岩波文庫)に挙げられたもの(下巻p.322)とでは、読下しなどの点で少々異っていたりするから、引用の際には注意すべきであろう。

李賀詩選 (岩波文庫)

李賀詩選 (岩波文庫)

李長吉歌詩集 上 (岩波文庫 赤 6-1)

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李長吉歌詩集 下 (岩波文庫 赤 6-2)

李長吉歌詩集 下 (岩波文庫 赤 6-2)

↓これも読んでみたいのだけれど……
夢の展翅

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*1:もっとも、こちらは日月をあらわしているのだが。