衛星劇場が、松竹映画特集や斎藤寅次郎特集の放送を開始したので、嬉々として録画にいそしんでいる。島津保次郎の『隣の八重ちゃん』*1(1934,松竹蒲田)も、これでようやくはじめから観ることができた。クレジットタイトルによると、助監督を豊田四郎や吉村公三郎らが、撮影助手を木下惠介らが担当している。
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筒井康隆はこの作品にかなりのおもい入れがあるらしく、次のように語っている。
さて、次の作品は少し力をこめてご紹介したい「Ha! Ha! Ha!(ベティの笑へ笑へ)」である。ベティ作品としては傑作とは言えぬかもしれないが、おれに「虚航船団」を書かせる遠因ともなった作品であり*2、おれにとって象徴的意味を持っているのだ。製作は三月二日。(略)文房具を擬人化した「虚航船団」、意図は異るものの、本来はこの作品へ「Thanks to」の挨拶をしなければいけなかったのだ。みごとな助演で最後を飾ったココ*3に敬意を表し、八十点という高点をあたえたい作品。(筒井康隆『ベティ・ブープ伝―女優としての象徴 象徴としての女優』中公文庫,pp.134-39)
さてもうひとつ、『隣の八重ちゃん』で面白いのは、さきにもすこし触れたが、劇中のことばなのである。まずは冒頭から、キャッチボールに疲れた磯野秋雄(新井精二)が、「兄さん、グロッキーだよ、もう」と弱音をはく場面がある。『日本国語大辞典【第二版】』(小学館)では、「グロッキー」の初出は「ユーモア・モダン語辞典」(1932)となっているが、これは本来の用法、つまり「ボクシングで、相手の攻撃や疲労によって試合を続けることが困難なほどふらふらになった状態」という義の初出なのであって、派生義(「一般に非常に疲れたり、ひどく酔っぱらったりしてふらふらな状態」)の初出例は、「古川ロッパ日記」(1936年4月7日)となっているから、これより早い時点での派生義の使用例ということになる。
ほかにも、「モチのロン」(大日方傳)だとか、「悦子さんて人、ちょっといかすね」*4(同)だとかいったセリフが出てくるが、特に気になったのは「チェッ」というセリフである。正確にいうと、劇中には「チェー」と「チェッ」の二種類が出てくる。
まず、逢初夢子(服部八重子)の「チェー」。
大日方:「八重子、(靴下を)履かしてくれ。……こう言うのさ」
逢初 :「なあんだ、チェーだ」
つづいて、磯野秋雄の「チェッ」。
磯野 :「冗談言うない。君なんぞのことで妬けてたまるかい」
逢初 :「はばかりさま。悪かったわね」
磯野 :「チェッ。なんだよ」
「チェー」と「チェッ」とではニュアンスが異なる、と書いていたのが、武藤康史『文学鶴亀』(国書刊行会)である。武藤氏は、マキノ正博『鴛鴦歌合戦』(1939)において、市川春代が「チェー」「チエ」と発言することに言及したうえで、次のように述べている。
こんなことばは国語辞典にはあまり載っていないものだ。載っていたとしても「ちぇ」だけだったり、「ちぇっ」だけだったり、ということが多い。意外に健闘するのが和英辞典で、それも古いほうが大胆である。大正十年に出た『井上和英大辞典』(至誠堂書店)を見たら、「ちェ」「ちェッ」(併せて一項目)とは別に「ちェー」という項目が立っていた(ローマ字見出しだが、日本語を併記)。英語の訳語のほか一言ずつの解説もあり、「ちェ」「ちェッ」は《舌打(したうち)》、「ちェー」は《残念》《驚き》だという。私も口の中で「ちェ」「ちェッ」「ちェー」と繰り返すうち、納得した。(p.245,初出2005.1.8付「東京新聞夕刊」)
確かに、『隣の八重ちゃん』でも、「チェー」「チェッ」は別々の意味で用いられているような感じがする。逢初の「チェー」は、せっかく靴下を履かせようと準備をしていたのに、それが大日方の冗談だとわかって、残念だという気持ちから発せられている。一方、磯野の「チェッ」は、このあと逢初とちょっとした喧嘩になることからもわかるように、やはり不愉快な心情を表す「舌打ち」なのである。
また、泉麻人は、昭和三十年代の邦画での「チェッ」の使用例を挙げて、「チェー」「チェッ」のニュアンスの違いを述べていた。さらに、昔の「チェッ」といまの「チェッ」とはちょっと違う、ということも書いている。
尤も、腹が立ったときに、(現在でも―引用者)思わず“舌打ち”することはよくある。しかしこれは活字表記にすると「ちっ」に近いニュアンスのもので、往時の「ちえっ」(ママ)の性格とはちょっと違っているような気がする。あの頃の“青春スター”や、僕らガキどもが発していた「ちぇっ」には、もっと無邪気な雰囲気が漂っていたものだ。さほどいら立ったり、キレたりしているわけではなく、ちょっとしたハズミというか、軽い反発心を訴えるときの“飾り言葉”のような意識で「ちぇっ」と発語する。(中略)
「ちぇー」なんて語尾をのばして、おどけたリアクションを表わすこともある。この辺は先の青大将(田中邦衛)が、スミちゃん(星由里子)にフラれたときの“お家芸”でもあった。(泉麻人『なつかしい言葉の辞典』SB文庫2005,p.142。単行本は2003年三省堂刊)
『日国』は「ちぇっ」の初出例として仮名垣魯文『安愚楽鍋』(1871-72)を挙げている(米川明彦編『日本俗語大辞典』東京堂出版も同じ)。また、「ちぇえ」も別立てで採録しているが、「残念な時くやしい時などに発することば」と解釈していて、「ちぇっ」「ちぇえ」の間にニュアンスの相違を認めていない。しかしこれは、音声をいかにして文字で書きあらわすか、という問題もあるから、一概にそうとは言いきれないこともあろう。

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日常描写が実にすばらしく、ニコニコしながら見てゆくうちに「ああ、昔のようなこういうつき合い方もなくなったなあ」と憧れの気持ちに変わってゆく。子供同士で「お湯」へ行こうとぶらぶら歩いてゆくと、向こうから父が帰ってくるのも何気ないがいい場面だ。夕方、外で遊んでいると父が勤めから帰ってきて一緒に家へ戻る。今から思いおこせばあれは黄金の時だった。(太田和彦「あの日に帰りたい―隣りの八重ちゃん」『シネマ大吟醸』小学館文庫,p.90)

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斎藤寅次郎特集も、珍しい作品の目白押しで、今月は『モダン怪談100,000,000円(松竹グラフ短縮版)』(1929,松竹蒲田)などが放送されている(今のところネット上でも観られるが)。これは、斎藤寅次郎『日本の喜劇王―斎藤寅次郎自伝』(清流出版)に内容が紹介されているが(p.65〜66)、斎藤自身(1982年歿)は、うろおぼえで「昭和五年頃」の作品と書いている。
しかし、ちょうど斎藤の生誕百年にあたる2005年、映画保存協会が発掘したことで話題となった。前掲書の「編者あとがき」(鈴木義昭)には、
「映画祭」の準備に追われ、本書の校正に追われているところへ、斎藤寅次郎監督・昭和四年の作品『モダン怪談・壱〇〇、〇〇〇、〇〇〇円』のフィルム(短縮版)が見つかったとの知らせをいただいた。まだまだ、寅次郎再発見の旅は始まったばかりなのかも知れない。(p.252)
とある。また、インタビュイーの大貫正義(2004年歿)によると、「(斎藤は―引用者)「代表作は?」なんて聞かれると、よく昔のサイレントを上げたりして」いた(p.170)そうだから、斎藤の真骨頂ともいえるサイレントナンセンス喜劇(しかし数本しか残っていない)が、こうしていながらにして観られるというのはじつに嬉しい(『石川五右ヱ門の法事〔パテベビー短縮版〕』や『ロッパの子守唄』も今月に放送)。

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