呉智英『言葉の煎じ薬』(双葉社)を読んでいる。呉氏のことばに関する著作は、『言葉につける薬』、『ロゴスの名はロゴス』*1、『言葉の常備薬』に続いて四冊めということになろうか。『ロゴスの名はロゴス』以降にさしえを担当していた中野豪氏が亡くなったのだそうで、途中から小道迷子氏に代わっている。
「まえがき」は、例のごとく「すべからく」の誤用から説き起こされているが、珍しいことに、「国広哲也」(p.12)という人名の誤記がある。
「僕のことはアローって呼んでくれ」(pp.26-29)に、『箱根八里』の「後に支う」は「しりえにさそー」と歌う、という話が出てくるが、この問題は、高島俊男『お言葉ですが…(7) 漢字語源の筋ちがい』(文春文庫)所収の「前に聳え後に支う」(pp.182-91)でも説かれたところ。高島先生はさらに、文語文を無理やり新かなづかいになおした「さそう」や「うとう(歌う)」がけしからん、というようなことを仰っていて、後には「こいすちょう流」(『お言葉ですが…(9) 芭蕉のガールフレンド』文春文庫,pp.160-65)で、この手の変な表記を取りあげて再説している。しかし、呉氏が挙げている「内藤濯」といった固有名詞の場合は、やはり「あろう」などとせざるを得ないのではなかろうか。高島先生にお訊きしたいところである。
わたしたちの世代でも、『蛍の光』の「さきくとばかり、うたうなり」は「うとーなり」と歌うべし、と教師に強要されたものだが、現在の教育ではどうなっているのだろうか。気になる。
「高学歴でこのていたらく」(pp.110-13)は、「体たらく」の誤用をあげつらったもので、1998年刊の著作からその例(「ていたらくの〜」)をひいているが、飯間浩明『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波アクティブ新書)は、このようなものに加えて「ていたらくぶり」という用法が目につきはじめた、と記していた(pp.101-06)。
「そんなものに紐が付いているか」(pp.122-25)では、「悩ましい」の拡大用法*2にもふれているが、これは飯間前掲書が説いたところで、その拡大用法に通ずるものが古典にも見られるので、「官能的な」という意味だけが本来の使い方と「言い切ることにはためらいを感じ」る(「『なやましい』の新?用法」p.92)、とあったのをおもい出した。
まだ全部は読んでいない。じっくり読んで楽しみたい。
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黒澤明の『七人の侍』(1954)はこれまでに四度観ているが(正確には、一度観たあと長いスパンがあり記憶も薄らいでいたので、三度というべきか)、そのたびごとに、感情移入する人物が異なっている。一度めは勘兵衛(志村喬)、二度めは久蔵(宮口精二)、というふうに。そして、木村梢『功、大好き』(講談社文庫)の読了後に観た三度めは、言うまでもないことだが、勝四郎(木村功)に肩入れしてしまった。なおこの前後に、宮口精二は今井正『にごりえ』(1953)で、木村功は成瀬巳喜男『杏っ子』(1958)で見事な「ダメ男」をも演じている。しかし、それはまた別の話題である。
昨日、作業の合間をぬって読んだ四方田犬彦『「七人の侍」と現代――黒澤明 再考』(岩波新書)は、おもしろい本であった。ただ、当初の問題設定とは異なる方向で作品論がえんえんと展開されるので、結論部(第一〇章)がやや唐突かつ性急な印象を与える。とはいえ、個別論がたいへんおもしろいから、『七人の侍』の大筋を既にご存じの方は、都築政昭『黒澤明と「七人の侍」』(朝日文庫)、堀川弘通『評伝 黒澤明』(ちくま文庫)の第五章「『七人の侍』」、廣澤榮『日本映画の時代』(岩波現代文庫)所収の「『七人の侍』のしごと」、橋本忍『複眼の映像―私と黒澤明』(文春文庫)の第二章「黒澤明という男」など(堀川、廣澤、橋本三氏の記述は四方田氏も参考にしている)といったドキュメンタリーとはまた違った意味でのおもしろさをたんのうすることになるだろう。
この本はまず、イスラエルとパレスチナとで黒澤に対する反応がまったく異なること、セルビアでレジスタンスに関わった知識人が黒澤映画を寓話的に解釈したことなどに言及し、黒澤映画全体の「アクチュアリティ」を問題にする。そして次に、『七人の侍』が、たとえば「グランド・ホテル形式」のように、映画史上でひとつのジャンルを形成していることを述べ、この作品が各国におけるナショナリズムの表出になぜ寄与しうるか、という「普遍性」を問題とする。このふたつの事実を導きの糸として論が説き起こされるわけだが、しかし、それ以降は『七人の侍』の個別性や特殊性がいやというほど強調されるので、ちょっととまどってしまう。具体的にいうと、『七人の侍』を取り巻く「一九五四年」という時代状況、またこの作品が時代劇映画史ではいかなる位置を占めるか、ということなどを説きあかしてゆくのである。このほかにも、トリックスター・菊千代(三船敏郎)の行動の解釈には教えられるところが多かったし、「野伏せ」の描写こそ農民以上に「いかなる個別性も存在していない」*3(p.149)、という指摘にはハッとさせられた。何度もいうが、これらは個別論としておもしろい。
さて第九章だが、「いよいよ『七人の侍』という作品について結論を出すときが近づいてきた」(p.168)と書きながら、その結論は次に持ち越され(しかし、『七人の侍』結論部の問いかけに対して『夢』が解答を与える、という見解は新鮮であった*4)、第一〇章でも、『七人の侍』に対する各国の批評家たちの評価をこれまたえんえんと説く。ここでつけ加えておくならば、当然ながら個人単位で評価が変わった例もある。たとえば佐藤忠男氏は、『七人の侍』公開直後に映画としての出来は認めつつも、農民たちの描写には憤っており、これを激越な調子で批判していたが(『わが映画批評の五〇年』平凡社pp.57-68「黒澤明論」)、近年の新聞記事インタヴューでは(正確な情報は忘れた)、若干譲歩しながら『七人の侍』を好意的に評価するという立場に変わり、そして最近の『意地の美学―時代劇映画大全』(じゃこめてい出版)では、あえて批判的な部分にはふれず、デンマーク映画の『ミフネ』を紹介し、「『七人の侍』の三船敏郎はデンマークの田舎の子どもたちにまでこんな強烈な感銘を残していた」(p.194)、と書いている。
話を戻すと、第一〇章も半ばをすぎてから、ようやく結論めいたことにたどり着く。しかし、『七人の侍』が「普遍性」を獲得したのはなぜか、という問いに対する解答と考えられるのが、「欧米圏ではこの作品は、ローカルで特殊な物語に体現された普遍的ヒューマニズムという観念のもとに賞賛された。いや、この表現は正確ではない。普遍性はローカルで特殊な物語ゆえに実現されるものだからであり、その媒体となるのはつねにリアリズムの一語だからである」(p.209)という箇所で、なんだか読者を煙に巻くような恰好になる。
『七人の侍』という映画が、殺陣におけるリアリティなどはともかく、一個の作品としては時代の呪縛から逃れられなかったことは理解できたのだが、しかしそれがなぜ「普遍性」と結びつくのか、あるいは「アクチュアリティ」を有するようになったか、ということについて、この本が明確な解答を見出しているとはかならずしも言えないのではなかろうか。
なお細かいことながら、一点、気になるところを。
菊千代が読めもしない家系図を得意げに持ち出してくる場面がある。それによると彼は天正二年甲戌(きのえいぬ)生まれと記されており、勘兵衛が「それではお主は一三歳か」と大声で笑い出す。この場面から黒澤明が物語の全体を天正一五年、つまり一五八七年に設定していたことが判明する。(p.152)
とあり、それを前提として論をすすめている箇所がある(p.212にも、同様の記述あり)。全体の論旨にはさほど影響をおよぼさないとはいえ、この時代は、数えどしで勘定すべきだから、設定は「天正一四年」であると考えるべきなのではないのか。
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*1:この著作のみ変則的で、結城昌治『ゴメスの名はゴメス』をもじったタイトルになっている。ちなみに、どうでもよい話だが、双葉文庫版では『ロゴス〜』の前に文庫入りした『危険な思想家』あたりから、なぜかカバー刊記ではなく奥附刊記になっている。
*2:「官能的な」という義ではなく、「頭を悩ませるような」という意味でつかわれるようになったということ。言葉の誤用を解説する本ではしばしば取りあげられている。
*3:ただ辛うじて頭目(高木新平)にのみ、「多少なりとも人格の存在が想定しうる」(p.148)が、その高木は、『奇傑ゾロ』を翻案した『快傑鷹』(1924)で印象的な跳躍を演じた俳優なのだそうで(p.83,p.148)、そのように映画史的な言及がしばしばなされることも嬉しい。
*4:『天国と地獄』や『隠し砦の三悪人』、『野良犬』などに加えて、『夢』が大好きだということを正直に告白したら、映画マニアを自任する某さんに、「『どですかでん』以降の黒澤はまるでダメだ」と一蹴されて傷ついてしまった身としては、おもいもかけない「援護射撃」であった。