(2009年12月23日〜)
*印を附したのは、複数回観たことのある作品。今回から、気に入った度合を星の数で表すことにしました(5点満点。★が1点、☆は0.5点)。ただしこれは、あくまで私の気に入ったか否かを示したにすぎないので、作品の優劣にはあまり関係がないと考えていただきたいのです。
澁谷實『気違い部落』(1957,松竹)★☆
SFホラー女優の水野久美、銀幕デビュー作。森繁久彌のナレーションに役者が反応するメタ的な演出は面白いが、それも前半まで。伊藤雄之助・山形勲の愉快な対決も前半まで。後半はいくぶん間延びする。淡島千景の役どころがもったいない。
若杉光夫『危険な女』(1959,日活)★★
大滝秀治の悪役ぶりが可笑しい。原作(『地方紙を買う女』)とはかなり異なっている。
市川崑『青春怪談』(1955,日活)★★★☆
三橋達也の超然とした感じが何ともよく、北原三枝の両性具有的な役割もよかったが、注目は、やはり何といっても山村聰&轟夕起子の演技合戦である。特に轟は、原作のイメージにかなり近い。上目づかい、堂々たる体躯、天衣無縫ぶり、どれをとっても、すばらしい、のひとことに尽きる。瑳峨三智子やまだ初々しい芦川いづみも、可愛らしく撮ってある。浅草の吾妻橋など、ロケ地にも注目して観た。
田原総一朗・清水邦夫『あらかじめ失われた恋人たちよ』(1971,ATG)★☆
たとえばラスト、「ニセ盲目・ニセ唖」になった石橋蓮司が、加納典明・桃井かおりと手をつないで海岸を歩いてゆくシークェンス、車が砂浜に突っこんで炎上する展開は文明社会を痛烈に批判するものなのだろうが、そのメッセージ性が(現代からすると)ステロタイプで、硬直化しているように感じた。
*成瀬巳喜男『浮雲』(1955,東宝)★★☆
初見時、二度めの鑑賞よりは(スクリーンで観たので)楽しめたけれど、成瀬映画には、これよりもずっと好きな作品がもっとたくさんある。おもうにこれは理想と現実とのぶつかり合いがそのままドラマに昇華した作品なのではないか。路地裏の子供たちのままごと、そして労働者の賃上げ運動……。これらはみな、理想をかかげた行為である。しかし現実というのはもっとグロテスクで、森雅之の下品な咀嚼音、ニセ宗教家になって金をまきあげる山形勲など、目を背けたくなることばかりである。最後は、どうしようもない現実を受けいれたデコちゃんと森が、どうしようもない展開に身を委ねてゆく。なお、今回、デコちゃんと義兄役の山形が話している場面で、店の看板字(「石鹸」)が映りこみ、それが森の再就職先を暗示していることに気がついた。
*成瀬巳喜男『乱れ雲』(1967,東宝)★★★★
浜美枝がカーテンを閉める場面、なんともエロティックだ。『鰯雲』の淡島千景に通ずるものがある。上品なのにエロティック。巧いなあ、とおもう。
*成瀬巳喜男『めし』(1951,東宝)★★★★☆
「終わりなき日常」への闖入者・島崎雪子が可愛らしい。上原謙はだらしないがにくめない。小路の子供たち、祭の場面など、細かな描写が行き届いている。
*成瀬巳喜男『おかあさん』(1952,新東宝)★★★★★
はじめてスクリーンで鑑賞。わたしも騙されたことのある「擬似終幕」には、笑い声とどよめきが起きた。そうだ、これこそ映画館で観ることの愉楽なのだ、と改めて感じたものだった。あれほど憎んでいた加東大介が去ってゆく、その背中にとまどいの視線を向ける香川京子の美しさよ。子役の演技にも、毎度のことながら感銘を受けた。
*成瀬巳喜男『石中先生行状記』(1950,東宝)★★★★★
いわゆる名作番付にはあまり出てこないけれど、これは私にとっての名作なのである。傍観者的だが、存在感のある宮田重雄がいい。三話のうち圧倒的にすばらしいのは、若山セツ子びいきということもあるが、第三話「千草ぐるまの巻」。若山と三船敏郎との共演は、『銀嶺の果て』以来だろうか。ラストシーンの余韻が何ともいえない。このほがらかさこそ、成瀬映画の持ち味なのにな、とおもう。
*ジャン=ジャック・アノー『薔薇の名前』(1986,仏=伊=西独)★★★☆
『アマデウス』でアントニオ・サリエリを演じたマーリー・エイブラハムが、異端審問官ベルナール・ギーを演じている。これが適役。原作を読んだ人のおおくは、この作品をあまりよく言わないが、ミステリとしては上質の映画なのではないかとおもう。しかし、死体役のマイケル・ハベックがまばたきをするハプニングには感興が殺がれる。なぜ撮り直さなかったのか。
ジャック・ドゥミ『天使の入江』(1963,仏)★★★☆
ラストのジャンヌ・モローの細かな表情の変化は、巻き戻して、二度、三度と観た。映画の観方としては邪道だけれど。鏡の使い方が面白い。
山田洋次『母べえ』(2008,「母べえ」製作委員会=松竹)★
浅野忠信や志田未来は予想以上によかったが、作品としては好きではない。原作は野上照代の自伝的作品だが、映画が結末を大幅に改変しているということは、小谷野先生や、鈴木邦男・川本三郎『本と映画と「70年」を語ろう』(朝日新書)が指摘していた。いや、映画だからフィクションでも構わないのだ。でも、あまりに声高で、押しつけがましくて、好きになれなかった。
岡本喜八『ダイナマイトどんどん』(1978,大映)★★★★★
岡本喜八『にっぽん三銃士 おさらば東京の巻』(1972,東京映画)★★★
岡本喜八『にっぽん三銃士 博多帯しめ一本どっこの巻』(1973,東京映画)★★★☆
*岡本喜八『殺人狂時代』(1967,東宝)★★★★★
冒頭の柳原良平のアニメーションも愉快。斬新すぎるカットつなぎ、おもいがけない主観ショットは、喜八映画の独擅場。沢村いき雄の「殺人鬼」ぶり、天本英世の「マッドサイエンティスト」ぶりが素晴らしい。
*成瀬巳喜男『妻よ薔薇のやうに』(1935,P.C.L)★★★★☆
*成瀬巳喜男『噂の娘』(1935,P.C.L)★★☆
フリッツ・ラング『怪人マブゼ博士』(1933,独)★★☆
*ビリー・ワイルダー『アパートの鍵貸します』(1960,米)★★★★★
岡本喜八『肉弾』(1968,ATG)★★★
古本屋「尚文堂」のおやじ・笠智衆がいい味を出している。まるでエトランジェの象徴のような寺田農の、「バカヤロー」の連呼が印象に残る。
清水宏『桃の花の咲く下で』(1951,新東宝)★★
日守新一のトボけた味わいの演技がなんともいえない。金語楼もいい。でも、清水宏の作品としてこれを考えると、なんというか、ちょっと残念な感じだ。
岡本喜八『ジャズ大名』(1986,大映)★★
作品の意図は理解できるが、ラストのジャムセッションが冗長。しかも音が合っていなくて残念。ただタモリや山下洋輔が出てくるのは面白い。壊れた鳥居を十字架に見立てるあたりも発想としては面白いけれど、やっぱりラストが……。『ああ爆弾』のように、もうちょっと「突きぬけて」ほしかった。
ジェームズ・ワン『ソウ』(2004,米)★★★☆
ダーレン・リン・バウズマン『ソウ2』(2005,米)★★☆
神代辰巳『ミスター・ミセス・ミス・ロンリー』(1980,ATG)★★★★☆
原案は刹那、脚本も神代とその刹那との共同だが、刹那というのはヒロイン原田美枝子の筆名である。
千里=原田美枝子は、『三角陥穽』という架空の小説のヒロインを自らに重ね合わせることによってレーゾン・デートルを獲得するわけだが、この小説のタイトル自体が既に作品の展開を暗示しているともいえる。千里はこれまでに関係した(それはいわゆる男女の関係ではない)男の家の合鍵を「ラブの合鍵」と称して後生大事に持っている。これが千里の唯一の武器である。
千里は天涯孤独の半崎=宇崎竜童に拾われ、彼との奇妙な共同生活を始める。半崎を育てた花森咲夫=名古屋章の「怪演」にも注目。
それから、岬=原田芳雄という男が登場する。岬の本業は「辞書づくり」で、『言辞林』(浮橋出版)という辞書の完成(あるいは百科項目の担当のみ?)をめざしている。百科事典をすでに百回読んだ、と自嘲気味に語る彼は、そのためにどうでもよい語釈ばかり暗記している。しかし、彼はそのような地味な生活に内心飽き飽きしていて、一攫千金を狙う。
ここに北川商産の倒産話が絡んでくる。このダミー会社は、親会社の三信商事と組んでカズノコの買い占めをはかるが、消費者の買い控えによって資金が焦げつき、500億円の負債を抱えて倒産する。社長の北川は、額面総額15億円の振出小切手を作成し、これを横領して国外逃亡を図る。しかしその際、岬に強奪されてしまう(この過程は劇中で描かれない)。この金を元手としてさらに儲けようというのが岬の肚だ。
だが岬は、かつて兜町のブローカーとして鳴らした下村(天本英世)から、強奪した金の紙幣番号が控えられていた事実を聞かされ、金融ロンダリングは諦める。そして、資産を持たない下村を協力者としては使えないと判断し、無慈悲にも切ってしまうのである(それがとんだ誤算であったことに、岬は最後まで気づかない。ラスト間際、「アートタイプ、アートマン」、とまったく意味のない語をつぶやく姿が哀れだ。)。
その代わり、今度は宗形八郎=三國連太郎に接近し、この資産家に、千里を近づけて強奪した金を買い取らせようとする。ところが、この宗形がとんだ食わせもので、その手にはのらず……と、ここから物語は急展開するのだが、あらすじの紹介はこれくらいでやめておこう。
一種のロード・ムーヴィとして観ることも出来るし、和製『ディーバ』といった趣もある。色々な観方の許される作品だとおもう。
ダーレン・リン・バウズマン『ソウ3』(2006,米)★☆
第一作が期待を持たせたけれど、シリーズ作品の宿痾というべきか。謎解きの面白さからはすっかり後退し、いかに残酷かつ痛々しく見せるか、ということに主眼が置かれている。それがいい、という人もいるのかもしれないが。ただ、それを中心に据えたために、脚本もますます説明的になってしまった気がする。
ダーレン・リン・バウズマン『ソウ4』(2007,米)★★☆
「3」からやや持ち直した印象も受けるが、そもそも鑑賞者を選んでいること自体、あまり感心しない。ラストはお約束のごとく、短いカットつなぎで「辻褄合わせ」とくるのだから、いやはやどうも……。
デヴィット・ハックル『ソウ5』(2008,米)★★
物語としては、弛緩せず「ひっぱる」ことに成功しているが、ますます閉鎖的に。
神代辰巳『地獄』(1979,東宝)★☆
このチープな印象がタマラン、という人もあるのだろうが……。
神代辰巳『かぶりつき人生』(1968,日活)★★★
雨のシークェンスなど、どことなくフランス映画の影響を感じさせもする。
神代辰巳『宵待草』(1974,日活)★★★☆
若松孝二『処女ゲバゲバ』(1969,若松プロダクション)★★
島津保次郎『隣の八重ちゃん』(1934,松竹蒲田)★★★★
*堀川弘通『黒い画集 あるサラリーマンの証言』(1960,東宝)★★★☆
小林桂樹をアオリで撮るかとおもえば急に俯瞰で撮るなど、対象との適度な距離の取り方がいい。ヒロイン原知佐子は故・実相寺昭雄の妻。もう少し年をとってからのほうが魅力的で、この映画ではただ可愛らしいだけだから、中年男性を虜にしてしまうという説得性にはかける憾みも。
小林が「新橋キネマ」で観ている映画が、わたしの大好きなルネ・クレールの『夜ごとの美女』(もう一本は『お嬢さん、お手やわらかに!』)。会社の窓から「アリの行列」のような人々を見下ろしていた小林が、ラストでは自ら一匹のアリと化して、都会の雑踏のなかに消えてゆく。
ジャック・ドゥミ『ローラ』(1960,仏=伊)★★★★★
『天使の入江』冒頭、コート・ダジュールの海岸を歩いていたジャンヌ・モローを捉えたカメラはアイリス・インして、高速で遠ざかっていくのだが、この作品冒頭のカメラはほぼ固定で、ミシェル(ジャック・アルダン)がキャデラックに乗って登場するのをじっと捉える。そこにベートーヴェンの「舞踏の神化」(交響曲第七番の第二楽章)がかぶさる(クライマックスでもこの曲が流れる。ほか平均律クラヴィーア曲集の第一曲や、舞踏への招待などが流れる)。
初恋のすれ違い、人生の一瞬の交錯が悲しい。ローラン(マルク・ミシェル)は、ローラ(アヌーク・エーメ)と最後に会ったのを十五年前と記憶しているのだが、ローラは十年前だと思い違いをしている。そもそもローラは時間に頓着しないタチで、「今、何時?」とローランや仲間の踊り子に訊ねる場面がある。が、ミシェルのこととなれば話はべつで、七年間、片時も忘れることなく、一日千秋の思いで待っているのである。この「七年間」の重みと、「十五年間」の軽さとを、比べてみれば、ローランの悲しい片恋の結末はおのずと知られる。
大島渚『日本春歌考』(1967,松竹)★★☆
題名を添田知道(さつき)の著作タイトルから借りている。伊丹一三(十三)が、ポール・ニザンの『アデン・アラビア』(晶文社)を読みあげる場面は、まさに「最後の晩餐」の構図だ。……と、『家族ゲーム』をおもい出してしまった。またクライマックスでの、小山明子による「騎馬民族説」講釈は、なんだか見ていて痛々しい。時折、異様な長回し(たとえば荒木一郎と小山が肩をならべて歩く場面)があって、ちょっと疲れる。
田島和子が美しい。無気力な荒木が良い。荒木は、鹿島茂お気に入りの俳優であるらしく、『甦る昭和脇役名画館』(講談社)冒頭、『子供より古書が大事と思いたい』(文春文庫)のコラムなどで、しばしば言及されている(マルチタレント荒木が切手の名コレクターへと転じたことは、鹿島氏の本で知ったのだ)。
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神代辰巳『嗚呼!おんなたち 猥歌』(1981,にっかつ)★★★☆
これも荒井晴彦とのコンビ。住江役の角ゆり子は、『二十歳の原点』(映画としては面白みにかける作品だったが)から七、八年を経て、既に生活感がにじみ出ている。その疲れた感じがこの作品によく似合っている。ロック以外には生きがいが無さそうな“ろくでなし”を内田裕也が好演している。内田が息子とローラースケートで戯れるシーンは、『ミスター・ミセス・ミス・ロンリー』の宇崎竜童&原田美枝子をおもわせる。
内田が死んだ恋人(角)の生き方を引き受けて体を売るラストは、中年男の悲哀を感じさせもするが、感動的ですらある。角と入れ替わるようにしてデビューした(実はそれ以前に別名で何本か一般映画に出ているようだ)中村れい子の初々しさも光る。中村はその後、内田と『水のないプール』『十階のモスキート』などで共演している。
実験的な演出もあって、たとえば安岡力也と内田が話しこんでいるところを走る電車越しに撮るシーンがある(類似のシーンが別にある)。これはあたかもゾートロープのようで、神代は映画の原始的な運動そのものに関心があった(たとえば、『宵待草』で「大がらくり」を覗きこんでいた高橋洋子なども、その証左として挙げることが出来るだろう)のではないかとおもわれる。
斎藤寅次郎『モダン怪談 100,000,000円〔松竹グラフ短縮版〕』(1929,松竹蒲田)★★☆
木魚を坂本武の禿頭に見立て、クロスフェードで処理するところなどは可笑しい。斎藤達雄の長身を生かしたギャグもある。國定忠治の幽霊が消えるというトリッキーな映像もあった。短縮版で、中途半端なところで終るのが本当に残念。
斎藤寅次郎『ロッパの子守唄』(1939,東宝)★★★
ロッパと渡辺篤の掛けあいが実に楽しい。子役悦ちゃん(獅子文六『悦ちゃん』の映画化作品でデビュー)のおませな演技も面白い。
*神代辰巳『赫い髪の女』(1979,にっかつ)★★★★
冒頭の回想場面が面白し。安易なナラタージュにせず、また過度に説明的にならず。まず短いショットを挿入し、それから次に長いシーンを交互に挟んで、登場人物(阿藤快(海))に回想的に語らせるという手法。
荒井晴彦いわく、「愛は嫉妬」(『争議あり』)なのだそうで、その嫉妬にかられた石橋蓮司が、アル中の三谷昇を殴りつけ、倒れた三谷を背負って歩くことになる。この展開は、『ミスター・ミセス・ミス・ロンリー』でも繰り返される。すなわち、草野大悟に殴られて傷だらけになった宇崎竜童を、原田芳雄が背負って帰る。『ミスター〜』はラストでも、原田が宇崎を背負ったり宇崎に背負われたりするのだけれど、男ふたりのこの行為は、たとえば『青春の蹉跌』のショーケン&桃井かおり・檀ふみとは違って、滑稽で、どことなく悲しい。
トニー・スコット『デジャヴ』(2006,米)★★★
神代辰巳『女地獄 森は濡れた』(1973,日活)★★★★
神代映画には海がよく似合う。それも、寒風吹きすさび、荒れ狂う北の海が。
樋口尚文『ロマンポルノと実録やくざ映画―禁じられた70年代日本映画』(平凡社新書)が取りあげていたので観た。冒頭、荒涼たる風景のなかをひたすら逃げ惑う伊佐山ひろ子は『地獄』の原田美枝子&西田健をおもわせるし、その伊佐山を中川梨絵が車で拾う展開は、後の『赫い髪の女』や『ミスター・ミセス・ミス・ロンリー』のモティーフそのままだし、「船頭小唄」や「ダイナマイト節」が無秩序かつ暴力的に使われるのは(『時計じかけのオレンジ』の試みに先んじている!)事実誤認でした。済みません、『宵待草』をおもわせる(歌詞がちょっと違う)。スキンヘッドで異形の山谷初男は、若松孝二『胎児が密猟する時』よりもさらに不気味で迫力満点だ(『赫い髪の女』では、絵沢萌子との滑稽な「泡踊り」を披露する。このギャップがまたすごい)。
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平川雄一朗『そのときは彼によろしく』(2007,「そのときは彼によろしく」製作委員会)★
アイドル映画。長澤まさみのための映画。そして朝日、夕日が綺麗。それはいいのだけど……。リアリティをはなから抛棄しているのはわかるのだが、そしてこれは映画自体の責任じゃないのだけれど、人身御供的な発想はどうにかならないのだろうか。ラストにはドッチラケ。
島津保次郎『春琴抄 お琴と佐助』(1935,松竹蒲田)★★★★
小林十九二、坂本武、日守新一。異論もあるかとおもうが、わたしはこの三人を、「松竹脇役俳優三羽烏」と勝手に位置づけている。坂本&日守の組合せなら、清水宏『按摩と女』『簪』『暁の合唱』、小津安二郎『学生ロマンス 若き日』『大学は出たけれど』、成瀬巳喜男『限りなき舗道』などですでにお馴染みだけれど、三人が揃って出演したのは、五所平之助『マダムと女房』、川島雄三『こんな私じゃなかったに』くらいしか知らない(島津保次郎『家族会議』にも揃って出演しているようだが未見)。この映画にはその三人が出ているのだ(そこに斎藤達雄が絡んでくるのだから、面白くないわけがない)。が、残念ながら日守はチョイ役もチョイ役、セリフが全くない。ひとり坂本が、目立ちすぎるほど目立っていて、斎藤の腰巾着の手代をいやらしく演じている。下卑た笑いが板についている。
作品としては、暗転となる主観ショットが斬新だとおもった。山中貞雄『人情紙風船』などのように、日本家屋の特質をうまく生かしたシーンがあり、目を引く。
*イングマール・ベルイマン『処女の泉』(1960,スウェーデン)★★★☆
神代辰巳『快楽学園 禁じられた遊び』(1980,にっかつ)★★★☆
鈴木幸子(太田あや子)の成長物語と考えれば面白い作品。学校の先生や両親の「情操教育」、恋人たちの「手ほどき」では全く効験がなくて、いかがわしげな催眠術師(丹古母鬼馬二!)によって目覚めさせられる展開がおもしろい。それも、同情から催眠術にかかったふりをして、そこからだんだん本気になるという展開なのだ。この、あえて演じてみようとするところから本気が生まれる、という逆転の発想がおもしろい。
サイド・エピソードに登場する北見敏之のバカバカしいセリフがおかしくて(今の刑事ドラマや何かでの活躍ぶりを考えるとなおのことおかしい)、笑った。登場人物がみな異常なくらいハイテンションで、反権力映画になるのかとおもいきや、いきなり不条理喜劇となり、そして最後は大逆転劇で幕を閉じる。このうねうねとした感覚が、良くも悪くも神代らしいといえる。神代好きを自任する人はよく、荒井晴彦と組んだ神代はダメだ、みたいなことを言っているが、わたしは、そうはおもわない。
イングマール・ベルイマン『野いちご』(1957,スウェーデン)★★★★★
冒頭、死のメタファーとなる悪夢に、ジョルジュ・メリエスの月というか、死神(『第七の封印』)というか、とにかく不気味なイメージが登場する。『駅馬車』しかり『ローラ』しかり、わたしは、ロードムーヴィや、個々の人生が交錯しスパークする瞬間を描いた作品が好きなのかもしれない。老境にさしかかったときにまた観てみよう。これからも、二度、三度と観る機会があればいいな、とおもう。
*キャロル・リード『第三の男』(1949,米=英)★★★☆