『雨の日はソファで散歩』の文庫入り

 かつて朝日新聞の文化面に、「○○は終わらない」という記事が連載されていた。タイトルは、プリーモ・レーヴィの『アウシュヴィッツは終わらない』に由来するのか、都井邦彦の『遊びの時間は終らない』*1に由来するのか、はたまた別の何かに由来するのか知らないが、この“○○”には、記事ごとに違った著名人の名が入る。わたしの大好きな連載記事であったが、(タイトルは「終わらない」なのに!)残念なことに終了してから久しい(と、いうほどでもないか)。当該記事には、山田風太郎武智鉄二鴨居羊子開高健武田百合子今和次郎市川雷蔵桂枝雀フランソワ・トリュフォー杉山登志といった面々が登場したのをおぼえている。ラストは笠智衆で、同郷の人物で締めてくれたのはせめてもの救いだったが、消入るようにひっそりと終わってしまった*2
 さて、この「○○は終わらない」に、種村季弘が登場したことがある(2008.12.21付、ネット上でもまだ一部が読めるようだ*3)。
 種村季弘を知ったのは、澁澤龍彦の著作を通じてであった。しかし、種村氏が亡くなる前までは、およそ熱心な読者とはいえなかった。種村氏の生前、新本で読んだ著作は、『江戸東京《奇想》徘徊記』(朝日新聞社)、『偽書作家列伝』『澁澤さん家(ち)で午後五時にお茶を』(ともに学研M文庫)の三冊くらいではなかったか。
 だが、種村氏の歿後、特にここ三四年のことであるが、わりと熱心に種村氏の著作を読むようになった。具体的には、文庫が中心で、岩波現代文庫の復刊本三冊(『ぺてん師列伝』『山師カリオストロの大冒険』『詐欺師の楽園』)、河出文庫の『吸血鬼幻想』『怪物の解剖学』、ちくま文庫の復刊本三冊(『贋物漫遊記』『書物漫遊記』『食物漫遊記』)などを読み、単行本では、『器怪の祝祭日―種村季弘文芸評論集』(沖積舎1984)や『書国探検記』(筑摩書房1984)を読んだ。
 とりわけ『書国探検記』*4に収められた文章のうち、自らの読書遍歴を披露した「シークレット・ラビリンス」「借覧読書術」「浮浪児の本漁り」や、“読書論”とも言うべき「読まないことの擁護」は何度も読み返した。そのなかでも特に印象的なのは「浮浪児の本漁り」で、『大言海』を読むために闇市の本屋に毎日通ったことがあると書いてあり、ますます親しみをおぼえたものであったし、「読まないことの擁護」は、ずっと以前に岩波新書で読んだときにも*5、かなりの衝撃を受けた記憶がある。たとえば、「読書が読書以前に後にしてきた書物のない世界へ出てゆくためのイニシエーションであるとすれば、読む人は読まないでいる安定に達するためにはたえず読み進めなければならないという背理の虜にならざるを得ない」というくだりに。
 それから、さらに驚かされたのは、やはり種村氏のカバーする領域の広さである。松山巖氏は坪内祐三氏との対談で、「たとえば江戸についてのエッセイでこれを出せば普通だというところを、(略)さらにドイツの文献なんかを出してくるからびっくりするわけで」(「大隠は市に隠れる―種村さんが与えてくれたもの」『種村季弘―ぼくたちの伯父さん』河出書房新社KAWADE道の手帖2006所収, p.53)と語っており、わたしが同様のことで驚かされたのは、「捕物帖ぶらぶらあるき」(『書国探検記』)であった。この文章で種村氏は、『人形佐七捕物帖』の「三人色若衆」を「スタンダールのイタリア物を思わせる」(p.71)と書き、久生十蘭の『顎十郎捕物帖』を「心憎いほど洗練されたフランス・ブールヴァールのいきな味」(p.72)と評しており、特に前者のような批評は、今なお新鮮だとおもう。
 ちなみに捕物帖については、たとえば花田清輝が、『明治開化 安吾捕物帖』こそ芸術の大衆化に成功した作品であると書いており、『不連続殺人事件』や『白痴』よりもたかく評価している。そして、そのリアリズム重視の姿勢が、「日本の伝統との対決」になっていると説く(「捕物帳を愛するゆえん」『花田清輝著作集2 大衆のエネルギー・二つの世界』未来社1963所収,pp.135-39)。しかし種村氏は、花田の否定的な伝統的捕物帖にニヒリスティックな作風とペシミスティックな作風との二つの系譜があることを明らかにし、花田が積極的には評価しない捕物帖の現実逃避的な側面をむしろ大いに称揚している。
 種村氏の仕事で、もうひとつ忘れられてはならないのが、アンソロジストとしての顔である。ちくま文庫も、五年前に『東京百話(天の巻・地の巻・人の巻)』を復刊している*6し、河出文庫には、『日本怪談集(上・下)』『ドイツ怪談集』『ドラキュラ・ドラキュラ』などのアンソロジーが入っている。また、『泉鏡花集成』(これもちくま文庫)といったものや、幸田露伴の作品集なども手がけている。ちなみに齋藤靖朗氏は、『吸血鬼幻想』などのような著作も「吸血鬼をめぐるアンソロジーといってもいいかもしれない」(「種村季弘ブックガイド」『種村季弘―ぼくたちの伯父さん』所収,p.177)と評している*7
 そういえば、種村氏の『日本怪談集』によって知った一篇に、田中貢太郎の「竈の中の顔」というのがあり、これは文句なしに恐ろしい怪談である。とはいえ、怖い映画やドラマのせいで免疫がある我々現代人からすると、あまり怖くはないようにおもわれるかもしれない。だが、活字で読む怪談では、もっとも怖い話の部類に入ると考える。この「竈の中の顔」は、田中貢太郎『日本の怪談』(河出文庫,1985)という『日本怪談大全』の抜萃本にもちゃんと収録されており、東雅夫編『田中貢太郎 日本怪談事典』(学研M文庫,2003)の「囲碁」の項や、『種村季弘―ぼくたちの伯父さん』所収の「種村季弘フェイヴァリット・アンソロジー」等にも再録されているので、比較的入手しやすいのではないか(文庫本は現在すべて品切ではあるけれど)。
 ところで五年前に、種村氏の「エッセー・コレクション」(仮)の文庫版刊行を筑摩書房が予定している、という内容の記事を日本経済新聞で読んだのだが、未だに刊行されていない。しかしその後、上にも触れた「漫遊記」シリーズ三冊が文庫で復刊されたし、晩年の著作も少しずつ文庫化されている。そしてこのほど、『雨の日はソファで散歩』が文庫入りした。ただせっかくなので、欲をいえば、単行本時から入っている「種村季弘著作目録」(齋藤靖朗氏作成)くらいには手を加えてほしかった。2005年8月(単行本刊行時)以降、パルコ出版刊の『魔術的リアリズム―メランコリーの芸術』がちくま学芸文庫に入ったり、『徘徊老人の夏』がちくま文庫に入ったりしているのだから。
 このように、種村氏の著作はぼちぼち文庫に入っているが、澁澤龍彦の勢いにはまだまだかなわない。澁澤のほうは、歿後二十年以上経てからも、文庫オリジナル集成が河出文庫から続々刊行されている。来月は、『澁澤龍彦西欧作家論集成』が上下二冊で出る予定だという。
 岩波現代文庫河出文庫に入った著作も版元品切となった今日、『血と薔薇』を文庫化するような無茶をやってくれる河出文庫あたりに、初期の著作の復刊を期待したいのだが……。そして筑摩書房には、ぜひ『書国探検記』の文庫化を願いたいものだ*8

種村季弘 (KAWADE道の手帖)

種村季弘 (KAWADE道の手帖)

書国探検記 (1984年)

書国探検記 (1984年)

雨の日はソファで散歩 (ちくま文庫)

雨の日はソファで散歩 (ちくま文庫)

書物漫遊記 (ちくま文庫)

書物漫遊記 (ちくま文庫)

*1:1991年に映画化。監督は萩庭貞明本木雅弘主演。

*2:朝日新聞出版が、「人脈記」みたいに、文庫本オリジナルということでもいいから(そのほうがむしろ有難い)、一冊にまとめてくれないのだろうか。一冊の分量になるのかどうか分らないけれど、恐らくは見逃した記事もあるだろうし……。

*3:坪内祐三氏は紙上コメントで、「初期の種村さんには影法師、生身の自分を見せないというスタイルがあった。それが漫遊記で変わる」と述べ、『書物漫遊記』を傑作として挙げる。堀切直人氏も、作風の転換点を同じく「漫遊記」以降とみているのだが、そのときから「種村季弘の熱心な読者ではなくなってしまった」(「アングラ時代の種村季弘」『種村季弘―ぼくたちの伯父さん』所収p.83)と書き、初期の映画評論や『怪物のユートピア』など、むしろアングラ時代の仕事に強く惹きつけられていた、と告白する。

*4:書名は松田哲夫氏の発案にかかるものだという。

*5:もと岩波の「図書」に書かれたもので、のち「図書」編集部編『私の読書』(岩波新書,1983)に収録され、その翌年『書国探検記』に入った。

*6:池内紀との共編になる『温泉百話』は、今回のリクエスト復刊の候補リストに入っている。

*7:なお、種村氏のアンソロジーに対する考え方の一端は、池内紀氏との対談「書物の森の散歩術―あるいはアンソロジストの秘かなよろこび」(『種村季弘―ぼくたちの伯父さん』所収)からうかがい知ることができる。

*8:これを書いたのは、はや二年前。そしてなんと、『書国探検記』がちくま学芸文庫に入ることになったらしい(2012年12月刊行予定)! 筑摩書房に感謝。そして、拙文を読んで下さり、メールを下さったS様に多謝(2012年11月12日記ス)。