H.G.ウェルズの本

 今月、光文社古典新訳文庫に、H.G.ウェルズの短篇集『盗まれた細菌/初めての飛行機』(南條竹則訳)が入った。
 ウェルズというと、『タイムマシン』や『モロー博士の島』でよく知られている。また『宇宙戦争』は、オーソン・ウェルズによるラジオドラマの放送時(1938年)に、火星人襲来のくだりを信じこんだ人たちが多数いた、という事件でも有名だ。デマゴーグだの洗脳だのを扱った書物ではよく出てくる話で、つい最近も、竹下節子陰謀論にダマされるな!』(ベスト新書)に書いてあったのを読んだ。
 さて、このウェルズに、“A Short History of the world”(1922)という著作がある。これは、1920年に刊行された大著“The Outline of History”(『世界史大系』『歴史大系』『歴史の梗概』などと訳される)の縮約版(約五分の一)と位置づけられる著作ではあるものの、ウェルズ自身によれば、「『大系』の地圖や時代表を詳細に研究することは到底できないが、人類の偉大な冒險事業に關する自分の色あせたまたは斷片的な概念を新鮮にしまた修復したがつてゐる多忙な一般讀者の」ため(長谷部文雄訳)、「新たに」書きおろされたものだという。
 “A Short History of the world”は、後に述べるように何度か改訂されているが、日本でも複数回翻訳されており、その都度タイトルが変わっている。初訳が、おそらく長谷部文雄訳の岩波新書赤版『世界文化史概觀』(1939年刊,上下二冊)で、重版が戦後の1950年に出ている。この本は重版(1956年の第十二刷)しか所有していないが、附録年表も1933年で止まったままだし*1、組活字の状態からみても、改訳や新たに訳出された箇所はないようで、冒頭の「重版譯者のことば」が一ページ加えられただけのようだ。
 そして1966年に、岩波新書(青版)から、長谷部文雄・阿部知二(『冬の宿』の著者であるが、メルヴィル『白鯨』の翻訳者*2としても有名)の共訳で『世界史概観(上・下)』が出た。もとの長谷部訳を生かしつつ、のちに改訂された部分をあらたに訳出しているのだが、このことについては後に述べる。
 ここでウェルズの著作について簡単に説明しておくと、初版は先述のとおり1922年に出ているが、1946年、死の直前にあったウェルズ自身が手をくわえたものが出ており(第二版)、1965年には、息子のG.P.ウェルズと歴史家レイモンド・ポストゲートとによって大幅に書きあらためられている(第三版)。そのたびごとに、結末部にもおおきな変化が生じている。『世界史概観』の「訳者まえがき」(阿部知二)によると、「第一のものはいちじるしく楽観的であり、第二のものはいちじるしく悲観的であり、第三のものはそのどちらでもない」といい、特に第二版が「悲観的」な結末になっているのは、ウェルズが第一次・第二次世界大戦の惨禍を目のあたりに見たことによるといわれる*3
 『世界史概観』の話に戻るが、この本には、ポストゲートらによる追補部位も訳出されている(年表も1963年までになっている)。ただし、それらは巻末の参考資料という扱いになっており、上下二段組で掲載されている。同書の中心となっているのは、あくまでウェルズ自身が手を入れた第二版なのである。もっとも、当時の最新の学説によって第三版が書きあらためた箇所は、『世界史概観』にも反映されている。
 そしてもうひとつ、下田直春訳になるものがある。これは1971年に角川文庫から出たもので、タイトルは『世界文化小史』となっている。その「解説」には、「もともと一九四六年九月出版の改訂版を邦訳するつもりで仕事にとりかかり、既に一九六五年の八月には、すべての訳を完了していた。しかし出版界の事情から、それがそのままのかたちで出版できなくなり、やむなく初版本の訳に切りかえなければならなかった。そして今やっとこういうかたちで日の目を見ることになった」(p.479)、とある。
 「出版界の事情」というのは、その時期からして、岩波書店が第二版の翻訳権を獲得したことをさすと考えて間違いないだろう。当人にとっても遺憾なことだったにちがいないが、下田は「しかし」と言葉をついで、次のように書いている。

あまり急がずにすんだので、原書と訳文とを何回も比較検討することができたから、たとえば、ビザンティン帝国がサラセン帝国と覇を競うはめになったり、ヘブライ史におけるユダ王国(Judah)とユダヤ(Judea)とを混同したり、あるいはアブラハムの子孫たちがアラビア砂漠から東の方へとカナンの地に入り込んだりするような、大きな誤訳はしないですんだものと考えている。(p.479)

 ここでは、具体的な書名を挙げていないが(「解説」自体、岩波新書版のことには一切触れていない)、これは実は長谷部・阿部訳に対する「嫌み」になっている。
 というのは、第二、第三点で指摘している誤訳は、岩波新書における誤訳だからだ(第一点も長谷部訳の問題であること、森洋介さんに御教示頂きました。コメント欄参看)。
 具体的に見てみると、阿部訳というか長谷部訳が、

ユダヤ王ヨシアはネコ二世に抵抗したが、メギドで破れて殺された(紀元前六〇八年)。ユダヤはエジプトの属国となった。(略)アブラハムの子孫は、(略)いまや増加して十二部族の群となり、カナンの国土をアラビア砂漠から東方へと侵略した。(上巻pp.86-87,『世界文化史概觀』は上巻pp.127-129)

と解している箇所を、下田は、

ユダのヨシア王はネコ二世に抵抗したが、メギドで敗北を喫し殺害された(紀元前六〇八年)。ユダはエジプトの属国となった(略)アブラハムの子孫たちは、いまや十二部族という多数に成長して、東のアラビア砂漠からカナンの地に侵入した。(上巻pp.111-113)

と訳している。それにともなって、附図の「ヘブライ人の国土」も、「ユダヤ」から「ユダ」に訂正されている。
 また、タイトルについても下田は、「正しくは『世界小史』とすべきであろう」が、「わが国では、既にウェルズの『歴史の梗概』が『世界文化史大系』として広く知られていることから、あえて『世界文化小史』としたことをお許しいただきたい」(p.480)と書いている。一方、阿部知二は、『世界文化史大系』という邦題が当時の歴史観を反映しているという見解を示した上で、あえてタイトルから「文化」を取りさって、『世界史概観』と改めた。
 下田が邦題を『世界文化小史』としたのは、上のような事情のほかに、岩波新書版との差別化をはかるという目的もあったのではなかろうか。
(※藤本良造訳もあるそうだが、未見)

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 本題からは外れるが、『世界文化史概觀』の「譯者のことば」(長谷部文雄)に、「ウェルズの大著『歴史大系』は、すでに北川三郎氏により『世界文化史大系』として譯出され」(上巻p.1)と書かれ、『世界史概観』の「訳者まえがき」(阿部知二)にも、「日本でも当時『世界文化史大系』(昭和四年)*4として訳出された」(上巻p.3)、「日本訳は、北川三郎氏によって『世界文化史大系』の名で出された」(上巻pp.10-11)、と書かれているように、“The Outline of History”は北川三郎の翻訳ばかりが有名であるようだ。
 私も、北川の個人訳しか知らなかったのだが、小田光雄『古本探求2』(論創社,2009)によると、大正十年、佐野学・波多野鼎・新明正道・北川三郎の共訳になる『世界文化史大系』が既に出ていたという(「北川三郎とウェルズの『世界文化史大系』」pp.185-92)。

世界史概観(上) (岩波新書)

世界史概観(上) (岩波新書)

世界史概観 下 (岩波新書 青版 600)

世界史概観 下 (岩波新書 青版 600)

世界文化小史 (角川文庫)

世界文化小史 (角川文庫)

古本探究 2

古本探究 2

*1:1946年にウェルズ自身が改訂した際、年表も書き改められている(下田直春による)。

*2:「白鯨」という邦題は、阿部の創案にかかるという(『翻訳家列伝101』新書館)。

*3:阿部の「訳者まえがき」を参考にしつつ、松井孝典氏は、「彼(ウェルズ―引用者)は一九二二年には希望に満ちていたが、四六年には『人間の物語もくるところまできた』という終末観にとらわれ、絶望の淵に立っていたのだ」、と書いている(『宇宙誌』岩波現代文庫p.158)。

*4:北川三郎の個人訳を指すのであれば、昭和二年の誤りであろう。