三上読書

 春城市島謙吉に「読書八境」(『春城筆語』所収)という文章がある。『日本の名随筆36 読』(作品社)にも収められたそうだが、現在は青空文庫でも読める。そこで春城は、「境に依り書味の異なるもの」、つまり書を読むにふさわしく、なおかつ気味の異なる環境を八つ(八境)択んで記している。一に覊旅、二に酔後、三に喪中、……といった具合だ。
 この随筆は、種村季弘「『飲中』『林泉』の至福」(『雨の日はソファで散歩』ちくま文庫所収)で知った。種村氏によれば、春城には他に「読書の処則ち書斎」(『鯨肝録』所収)なる随筆があり、そちらでは、「どこであろうと読んでいる場所がすなわち書斎」だという趣旨のことを記しているという*1ここで読めた。p.156〜)。
 種村氏は春城の随筆を紹介したあとに、「それほど奇を衒わずとも」、欧陽脩のいう「三上」こそ、「ごく平凡でありながらよく考えると奇妙な書斎」ではないか、と評している。ただ種村氏、うっかりされたのか、「三上」を「馬上、船上、厠上」と書いている(p.115――これは、春城「読書の処則ち書斎」の誤りをそのまま引用したことに因るものとわかった。先に挙げたリンク先を参看のこと)。正しくは「鞍上(馬上)、枕上、厠上」である。
 ところで、寺田寅彦がこの「三上」について、おもしろいことを書いている。現代の一般人にはそのまま応用できそうにない、というのである。まず「枕上」は、「眠る事が第一義」だから、「碌な考は出ないのが普通である」、と身も蓋もない。次に「厠上」は、「人によると現在でも適用するかも知れない」が、「出勤時間に後れないやうに急いで用を足す習慣のものには、此れも亦瞑想に適した環境ではない」。最後の「鞍上」は、現代人にとっては「車上」である。それも電車の中、ことに「滿員電車の内は存外瞑想に適して居る」。しかし、――と、その次が面白い。「寧ろ刺戟があり過ぎるので、病弱なものや馴れないものには『車上』の效力を生じ得ない。此の刺戟に適當に麻痺したものが最もよく『車上』の能率を上げる事が出來る」*2(「路傍の草」『寺田寅彦隨筆集 第二卷』岩波文庫所収,pp.144-46)。
 さて、この「三上」は本来、詩文の妙案を得るのにふさわしい場所、あるいは思索をめぐらせるのにふさわしい場所を意味していたのだが、読書する環境に応用されることがしばしばある。さきに挙げた種村氏もそのように読み替えているし、たとえば柴田宵曲も、「読む場所」(森銑三柴田宵曲『書物』)という文章で、同様のことを説いている。
 宵曲も、寺田寅彦と同じく「馬上」を「車上」と解し、現代人にとって「最も一般的なのは電車内のそれであろう」、と書く。「衆人環視の裡の所行でもあり、絶えず震動する車内にあって、人に揉まれながら活字に眼をさらすのは、決して好適な条件とは思われぬが、真に書物の中に没入し得れば、他の一切を忘却することになるのかも知れない」。
 そして、「枕上読書」のほうはどうかというと、これは、「常習犯の形になっている」。だが、ときには睡眠導入剤としての効もある。「真に眠を誘う役に立つならば、それだけでも枕上読書の功徳は大きなものである」(岩波文庫版pp.243-47)。

雨の日はソファで散歩 (ちくま文庫)

雨の日はソファで散歩 (ちくま文庫)

書物 (岩波文庫)

書物 (岩波文庫)

*1:春城は「読書八境」の後半部でも、「或は厠で書物を読む慣習の人もあ」れば「浴槽に体を浸しつゝ読書する慣習もあ」り、「或は駱駝や牛馬に跨りながらの読書もあ」る、とさまざまな環境が書斎たりうることを書いている。

*2:後掲の「読む場所」で柴田宵曲は、「地方から来た人にいわせると、東京ほど車内読書家の多いところはないという」、と書いている。私も上京するたびに同じことを感じるのだが(偏見?)、寺田寅彦がもしこの話を聞きつけていたならば、自説の証左としたかも知れない。