渋谷大古本市

 某ワークショップ*1等に参加するため上京。ついでに、「東急東横店渋谷大古本市」にも行ってきた。大阪の古書会館で目録を貰っていたので、すこし気になっていた。
 初日、しかも開店と同時に入った。関西の古本市でも、開店時に入ったことはなかったので、そのような状況に不慣れなせいか、すさまじいまでの熱気と迫力とに圧倒されどおしだった。開店前には、準備万端ととのえて、今日こそはよい本を見つけるぞと息を弾ませていたのに、会場に入ってしばらくすると、すっかり元気をなくしてしまって、だらだらと棚を眺める作業を繰り返してばかりいた。 そして、杉浦明平が書いた随筆の、たとえば次のような一節をおもい出したりしていた。

そのころ(大学生のころ―引用者)青山会館で古書展が催されるようになって、古本マニアが激増したようだった。わたしは本郷に住んでいたから、青山まで出かけるのがおっくうで、アララギ発行所の帰りに一回のぞいたきりだった。あまりたくさん本が並んでいて、探す元気をなくして安い本を二、三冊買っただけである。この元気喪失は大阪の心斎橋の近くにあった天牛書店で、広い店いっぱいに積上げられた古本を見たときにも味わったものである。(杉浦明平「古本屋彷徨」『日本の名随筆 別巻12 古書』作品社,p.25)

 しかし、品数でいうと、いまやっている下鴨納涼古本まつりのほうが多いわけだし、元気を喪失した理由はそれだけではなさそうだ。どうやら、デパート古書展初日の熱気やすさまじさに「当てられた」らしいのだ。
 デパートの古本市といえば、唐沢俊一唐沢なをき『脳天気教養図鑑』(幻冬舎文庫,1998)のなかに、「古本市血笑旅」(p.153-)という「座頭市」シリーズのタイトルをもじったマンガエッセイが収めてある。
 会場ではまさに、これと同じような状況が展開されていたのだった。油断していると、横あいからすべりこまれる。足を踏みつけられる。押しのけられる……。ちょっとしたカルチャーショックであった。しかしさすがに、唐沢氏の書いているように怒号が飛び交うこと(いくらなんでもこれは誇張だろう)は、当然ながらまったくなかった。
 会場にはさまざまな人たちがいた。たとえば、ものすごい勢いでタイトルに目を通していく人、稀少本(というのが、素人の私にでもわかる。まさに「黒っぽい」本ばかりなのである)をどんどん釣りあげていく人、それから、物憂げな目でぼんやりと棚を眺めているかとおもったら、電光石火の早業で腕を伸ばし、目的の品をむんずとつかみ取って、中を見ることもなくいそいそと立去ってゆく人など、いろいろな人がいて、そういう様子をはたから観察していると*2、それだけでもなんだか面白くなってくる。だが、ボヤボヤしていると、邪魔だ邪魔だ、どけどけ! てな感じで殺気立った目をした人たちに押しのけられ、またまた隅に追いやられる。

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 終始圧倒された私だったが、個人的にうれしい収穫はあって、岡本綺堂『綺堂むかし語り』(旺文社文庫157、小島祐馬『社會思想史上における「孟子」』(カルピス文化叢書)200、永井龍男『三百六十五日』(潮文庫200、江湖山恒明『仮名づかいの焦点』(塙新書200、北見治一『回想の文学座』(中公新書200、小川国夫『靜かな林』(先駆文学館)500などを買うことができた。デパートの古本市は、なぜかいつも文庫や新書が中心になる。
 特に非売品の「カルピス文化叢書」はうれしい。たしかこのシリーズには、桑原隲蔵の講演録など五冊あって、草森紳一の蔵書中に何冊か紛れこんでいたと、円満字二郎さんが書いていた。また、『仮名づかいの焦点』は、福田恆存や渡部晋太郎氏の本を読んで、以前から気になっていた。いわゆる表音派による仮名づかい論である。『回想の文学座』は、上野古書のまちの店頭均一で見かけたが、書きこみがひどかったので見送っていた。時をおかずして入手できたので、これもうれしい。

*1:今回のワークショップは、いつにもまして触発されるところが多かった。感想は、その気になればアップしたいと考えている。

*2:そのような点において、まさに私も不審者に見えたのかもしれない!