『字考正誤』という本

 天保年間に出た鈴木牧之『北越雪譜』第二篇四之巻「蛾眉山下橋柱」に、「明人黄元立が字考正誤清人顧炎武が亭林遺書中に在る金石文字記あるひは碑文摘奇…」(岩波文庫版を参照)というくだりがみえるが、その「黄元立が『字考正誤』」という記述は正確ではないことが、ごく最近になってわかった。著者を黄元立とするならば、書名は『續訂字考』ないし『字考』とすべきところなのである。
 『字考正誤』は、寶永年間(十八世紀初)に長谷川良察という人物が、明代の『字考』を『説文解字』『正字通』『字彙』などに拠って*1欄外校訂した書である。その際に附された序文をもつものが、明治末年に森慶造校訂『字考正誤』(民友社)として刊行されている。この明治版は比較的入手しやすく、時には千円以下で出ることもある。私も今夏、約千円で入手したばかりである。
 一方の『字考』という本は、萬暦四十五年(1617)に黄元立が補訂したものである。引(黄氏)、跋(黄氏の門下・高揚振の手になる)によれば、黄元立の得た『字考』に黄氏自身が手を加えて個人的に蔵していたものを、世に公開せんがため、「何先生」(この人物が誰だか分からない)の教説などをもとに増補改訂したのが、『字考』だということになる。これも正しくは、『續訂字考』とでもよぶべきもので、げんに良察の序文ではこの名で紹介されている。
 では、黄氏の得た『字考』という本は何かというと、明代の夏宏が編んだものである。だが、黄元立らが『字考』として世に出す際に、後半部(下巻の内容)は削除してしまった。というのは、『四庫全書總目提要』の『字考』の項をみると、「上卷凡三類:曰《誤寫字》,曰《疑似字》,曰《誤讀字》。下卷凡二類:曰《通用古字》,曰《通用聯字》」となっているが、補訂版には上巻の三類しか収めないからだ。黄氏の引を読んでも、「冩・讀・疑似三考誤一帙」という表現が出てくるから、これは故意に省いたものと見える。したがって、夏宏による『字考』と、黄氏らの補訂版とは内容が大きく異なっていることに注意しておかなければならないだろう。
 なお、黄氏による補訂版には、慶安年間の和刻本がある。この影印は長澤規矩也編『和刻本辞書字典集成』(汲古書院)に収められており、またその一部は、杉本つとむ編『異体字研究資料集成[第一期]』(雄山閣出版)でも見ることができる。

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 そういえば渡部温(渡邊温とも)に、『康煕字典考異正誤』という労作があった。これは明治中期に和装で出ているが、昭和期には神田の井田書店(大学図書の前身)から洋装本で出た。

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以下、近況です。

▼今年は、何回も何回も東京へ足をはこんだ。全部あわせると、一か月以上も滞在していたことになる。年内の東京行きは、さすがにもうないだろう。

▼先月は、約三週間も東京に滞在した。その間ずっと緊張状態を強いられた。帰阪してからも、ほぼ徹夜で作業に没頭する日が二日間つづくなど、十月は、気の抜けない日の連続であった。

▼東京滞在中は、辛いことも多かったが、たいへん嬉しいことがいくつもあった。その全てをここに記すことはできないけれども、書けることをひとつだけ記しておくと(それでもぼかさざるをえないが)、「辞書は×××」の或る辞書が、私の名前を載せてくださったということがあった。自分の名前が活字になるというのは、いつもそうなのだが、やはりたいへん嬉しいものである。

▼上京中は、気の休まる日がほとんどなかったが、無事にその日の所用をすませたあと、古書展に立ち寄れたのが二回。「ぐろりや会」と「新宿古書展」とである。國語調査委員會編纂『口語法 全』(大日本出版)1,000円、小池直太郎『小谷口碑集』(炉辺叢書)500円、木下杢太郎『支那傳説集』(座右寶刊行會)500円、野村胡堂『惡魔の王城』(愛育社)500円、大久保忠利『一億人の国語国字問題』(三省堂新書)200円、などを買った。

*1:のちに述べる『四庫全書總目提要』にも、『説文解字』を用いての論難がみられる。またそこには、字音を反切ではなくほぼ直音方式で示したことに対する不満も述べられている。