由らしむべし知らしむべからず

 萩原健一『日本映画[監督・俳優]論―黒澤明神代辰巳、そして多くの名監督・名優たちの素顔』(ワニブックス【PLUS】新書)は、著者というかインタヴュイー自身もテレビで宣伝しており、裏話満載でおもしろく読めた。p.164に「ホーキンスなんかが言うんだけど」とあり、そりゃホーキングじゃないか、とおもったものだがそれはいいとして、個人的には「第二章 神代辰巳と共犯するということ」がよかった。神代が高見順『いやな感じ』を映像化しようとしていたとは。そして『もどり川』の凄絶さ。高校時代に地上波で観られたのは奇蹟としかいいようがない(CSでは時々かかる)。この作品が原作を超えようとしていた意図もわかった。
 また巻末に、インタヴュアー・すが秀実による論評みたいな文章が収めてあって、意識的に「障碍」なる表記を用いたであろう箇所を発見した(p.183)。小谷野敦現代文学論争』(筑摩選書)は、ちょうどすが氏、渡部直己氏に言及した流れで「言葉狩り」について述べ、いわゆる「看護師ファシズム」を糾弾しているが(p.169)、まさに同タイトルの文章(「『看護師』ファシズム」)が『能は死ぬほど退屈だ―演劇・文学論集』(論創社)に収めてある(pp.235-39)。この「『看護師』ファシズム」にも、「障がい」表記に言及したくだりがある(p.237)。

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 近年刊行された本には、「障害」はともかく「看護婦」を用いたものは少なく、覚えているかぎりでは、門田隆将『風にそよぐ墓標―父と息子の日航機墜落事故―』(集英社)が唯一の例外だった。テレビは軒並み「看護師」で、先日は、「武士の侍」式の「母は女性看護師でしたが」という発言を耳にして、ちょっとおかしかった。白川静先生が御講演で、「『婦』は本来、高貴な女性の義なのだから、堂々と使っていただきたい」と仰っていたことがおもい出される。
 また小谷野先生は、同じ文章で、「藝」についても書いている。これもやはり何度か述べておられることである。
 そのむかし某先生が、自著の序文で、「法」は「灋」の略字、「芸」は「藝」の略字なのに知識の深浅でそのようなことを議論されたら統一がとれずたまったものではない、と意地悪なことを書いておられたけれど、「芸」「藝」の場合、両者はもと別字なのだから問題はないとおもう(「法」は別字と衝突しない)。かつて駒田信二先生は、御自身は「欠」「缺」を区別すると書かれたが、それも「欠」を略字としては認めない、という立場からの発言である。「欠」が「缺」の略字としても機能した時代があったかどうかについては、はなから問題とされていない*1。とすると、後世分裂した「著」「着」や「吊」「弔」はどうなのか、ということになるけれど、これは立派なすみ分けが成立しているから、衝突は起こりえない(「著」「着」は単純にそう言いきれない部分もあるが)。
 そういえば、諧声符のかってな改変を問題にする人もある。諧声符というのは音符、声符ともいい、たとえば「軒」「干」「幹」などでは共通する「干」の部分がそれにあたる。中古音(6C〜8C)で「軒ケン」、「干カン」・「幹カン」は別韻に属するが(日本の漢字音もそれを反映している)、同じ諧声符をもつ以上、上古音(前7C〜後5C)は類似の声母(頭子音)、類似のひびきを有していたと目される。
 常用漢字では「仮(假)」「国(國)」などがよく議論の対象となる。「仮」については、高島俊男先生も『漢字と日本人』だったかで書かれていた。
 「庁(廳)」はうまい具合(?)に諧声符を残した例である。
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 池上彰「発展する国の見分け方」(池澤夏樹編『本は、これから』岩波新書)に、ラオス独裁政党の政策について、「由らしむべし知らしむべからずという方策をとっている」(p.13)と述べたくだりがある。ここで「由らしむべし知らしむべからず」は、「民は従わせるべきものであって、情報を与えるべきではない」という意味で用いられている。これに限らず、一般にはこちらの解釈のほうがよく知られているのかもしれない。
 だが、「由らしむべし知らしむべからず」の「べし」は可能を意味する助動詞であるから、封建的な思想を述べたものではけっしてない。
 これは『論語』に、「民可使由之、不可使知之」(泰伯第八)とあるのがもとになっている。この「可」を義務の意味にとってしまうのが誤用、というか俗解なのだが、鄭玄注にもすでに同様の解釈がみられる(吉川幸次郎訳など)。しかし、『論語』には「可」を義務の意味で用いたものがないから、本来は可能の意味でとるべきである(落合淳思『古代中国の虚像と実像』講談社現代新書p.117など)。だから、全体では、「民を従わせることはできるけれども、その意義を知らせることはできない」と解すべし、ということになる。つまり孔子の嘆きが描かれているのである。
 また、ものの本によれば、「可」を義務の意味でとるのは、権力側が都合のいいように曲解して昔から流布してきたものなどと書いてあるが、「昔」というのがいつのことなのか、ちゃんと調べたものを見ない。

*1:元代に「欠」は「缺」の略字、というか代用字として、すでに使われた形跡がある。