今年の収穫と久生十蘭

 諸事が一段落しつつあるので小休止。といっても、まだ、一月中旬までに済ませなければならない用事を幾つか抱えている。

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 さて今年の収穫本のうち、入手することができて嬉しかったもの十点を披露する(頂きものは除く)。蔵書自慢ならぬ「購書自慢」、というほどのものでは決してない。まことにささやかな収穫ばかりである。
 相場よりも安く手に入れられたものがほとんどだとおもうが、そうでないのもあるかもしれない。中公文庫は「キキメ」というか、見つけにくいのを色々買えた。特に『頼山陽〜』は、揃い定価二千円台で買える機会はほとんどないし、実際に読んでみて(まだ中巻の途中だが)、これは買っておいてよかった、とつくづくおもったものである。
 『明朝活字』はこれまた置き場所に困るような大型本だが、必要あってさがしていた折も折、ちょうどうまいぐあいに安いのが見つかり、やや大げさだが、「天恵」であるかのように感じた。
 またオリジナル和本の『磨光韻鏡』は、虫損などのダメージが比較的少ないもので、これを500円で落手できたことはやはり嬉しかった*1
 『本邦六大、中堅「漢和字典」をこきおろす』は書名を知ってからこれまで一度も見かけなかった本。非売品というが、どれくらい出回ったものなのか。この本のおかげで、重要な論文の存在に気づくことができた。

橘外男『ある小説家の思い出(上・下)』(中公文庫)600円
青江舜二郎『狩野亨吉の生涯』(中公文庫)400円
中村真一郎頼山陽とその時代(上・中・下)』(中公文庫)2,500円
小杉放庵『唐詩唐詩人(上・下)』(角川文庫)1,050円
矢作勝美『明朝活字―その歴史と現状』(平凡社)1,200円
文雄『磨光韻鏡(上・下)』天明七年再刻本(上冊は題簽はがれ,修復済)500円
喜多川歌麿『繪本 笑上戸』(和綴・縮刷影印,刊行年不詳)100円
小原三次編著『本邦六大、中堅「漢和字典」をこきおろす』(モノグラム社)1,250円
獅子文六獅子文六作品集(全五巻)』(文藝春秋)1,800円
内田庶*2・文『首のない幽霊』(中学生ワールド文庫)400円

 ブックオフにも足しげく通ったが、三浦梧楼『観樹将軍回顧録』(中公文庫)350円、穂積陳重『忌み名の研究』(講談社学術文庫*3400円、内田魯庵『くれの廿八日 他一篇』(岩波文庫)250円、夏目伸六『猫の墓 父・夏目漱石の思い出』(河出文庫)105円、内田百輭漱石先生雑記帖』(河出文庫)105円など、あまり見かけない文庫を買うことができた。

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 このところ、ひまさえあれば久生十蘭の時代ものの短篇群を読んでいる。あるものは再読、またあるものは初読。読んでいておもうのは、ごくありきたりな感想だが、十蘭がおそるべき日本語のつかい手であったということだ。
 最近刊行された文庫――たとえば『久生十蘭ジュラネスク―珠玉傑作集』(河出文庫)の帯の惹句には「完璧に彫琢された文体魔術」とあり、また川崎賢子編『久生十蘭短篇選』(岩波文庫)の内容紹介には「巧緻な構成と密度の高さが鮮烈な印象を残す」とあり、『湖畔/ハムレット久生十蘭作品集』(講談社文芸文庫)の内容紹介には「凝りに凝った小説技巧、変幻自在なストーリーテリング」とあるように(最後は澁澤龍彦の評に基づくものであろう)、十蘭の魅力はまずその文体、小説技巧にあるといえる。漢語の多用は、ともすれば文章の品を損ねるというか、格を下げることにもなりかねないが、十蘭の場合は、それがまったくうるさくない。漢語が自然なかたちで収まっている。力みがない。これこそ、素養の違いというものであろう。
 おもえば十蘭の作品をはじめて手にとったのは、大学学部生の頃であったが、向井敏『贅沢な読書―何を選ぶか』*4講談社現代新書)を読んだことが、ひとつのきっかけとなっている。この本には、ちょっと身びいきがすぎるのではないか、と感じた点がないでもなかったが、ある時期のわたしにとっては、小説・随筆選びの frame of reference であった。繰り返し読んだ大切な一冊なのだ。だから、印象に残っている箇所もたくさんある。
 たとえば序章、パスカル(人間の生きるべき指針は「まじめ」か「ひまつぶし」か――という二元論を前提に、「ひまつぶし」を糾弾する)の対極に位置する論者としてサマセット・モーム(文学=「ひまつぶし」派)を持ち出し、しかしモームの考えを受けいれるためには条件があるのだといって、チェスタトンの探偵小説論を援用する。すなわち、どの分野にも読むに値するものと反古にひとしいものとがあって、そのことを踏まえなくてはモームの警句も生かせない、というのである。当たり前といえば当たり前なのだが、いまだにパスカル的二元論の呪縛から解き放たれずにいる「読書論」もあまたある。そもそも、モームの意見でさえ、「ひまつぶし」を文学に特化するという点において、二元論から自由になっていない。
 そこで、モームの「文学」=「ひまつぶし」論を採用するうえで、この二元論をいったん解体させるための条件づけ(つまり、あらゆるジャンルの書物を同列に置くこと)を行うわけである。実に巧妙なのだ。
 この本の各章にはその考えかたが一貫していて、第二章では久生十蘭の作品群を「通俗文学」「純文学」という二元論的枠組でとらえることの無効を説いている。

もし、「純」と「俗」の二分法にこだわっていたりしたら、たとえば、久生十蘭の絶品というしかないみごとな短篇群を賞味する機会をむざむざ逸してしまうことにもなりかねない。(略)言葉はよく選ばれ、構成は緻密、印象は鮮烈、非の打ちどころのない逸品ぞろいで、これらにくらべれば、同じく時代ものの短篇を数多く書いた森鷗外芥川龍之介も物の数ではないと思われるほどなのに、当時も、そして今でも、「純」文学としては遇されず、『日本近代文学大事典』あたりでも、「大衆文学のまれに見る高水準の作品」と評するにとどまっている。(略)その作品を賞味したうえで、こうした位置づけの仕方を見れば、「純」文学と「通俗」文学に文学を二分する通念の愚かしさが知れるというものであろう。(pp.48-49)

 この後に、向井氏は十蘭の「玉取物語」を紹介しているのだが(前掲の講談社文芸文庫で手軽によめる)、その紹介のしかたもまたうまいので、私のような未熟な読者は知らず識らずの間に乗せられてしまう。そして、おもわず手に取ったのが、『日本探偵小説全集(8) 久生十蘭集』(創元推理文庫)であった。まずはこわごわと超短篇「水草」「骨仏」からとりかかり、一読、その得体の知れない恐ろしさにゾッとしたのをおぼえている。顎十郎捕物帳はいまだに全篇を読み通していないが、「湖畔」「ハムレット」なども好みにあう作品だったので、今度は全集等で「無月物語」「無惨やな」「姦」など、それからそれへと読んでいった。
 そして約七年たった現在。国書刊行会の定本全集(刊行中)にはとても手をだせないが、このところ短篇集がぼちぼち刊行されているので、まことにありがたい。欲をいえば、現代教養文庫版のような手軽な傑作選の再登場を願いたいところである。

久生十蘭短篇選 (岩波文庫)

久生十蘭短篇選 (岩波文庫)

久生十蘭ジュラネスク---珠玉傑作集 (河出文庫)

久生十蘭ジュラネスク---珠玉傑作集 (河出文庫)

湖畔・ハムレット 久生十蘭作品集 (講談社文芸文庫)

湖畔・ハムレット 久生十蘭作品集 (講談社文芸文庫)

贅沢な読書―何を選ぶか (講談社現代新書 (689))

贅沢な読書―何を選ぶか (講談社現代新書 (689))

*1:韻鏡関連書といえば、このあいだ馬場信武『韻鏡諸鈔大成』(宝永二年刊)を見ていたところ、第一冊(一ノ本)33ウ「内八轉」の果摂が「歌麻」となっている(「歌戈」とあるべきところ)ことに気づいた。しかし、そんなことは、福永靜哉『近世韻鏡研究史』(風間書房)p.696がとっくに指摘しているのだった。

*2:宮田昇

*3:口語訳。

*4:福田和也氏が同タイトルの本を出していた。