『論語』ブーム(番外篇)

 異常に世間を騒がせた(というか、マスコミが煽り立てた)例の問題について、つまるところはモラル向上が抑止力となるのだといった言説を聞いたりすると、その当否は別として、「子曰道之以政齊之以刑民免而無恥道之以徳齊之以禮有恥且格(子曰く、之を道くに政を以てし之を斉ふるに刑を以てすれば民免れて恥無し。之を道くに徳を以てし之を斉ふるに礼を以てすれば恥有りて且つ格し*1)」という一文をおもい出す。なぜか『SP』のドラマスペシャルでも岡田准一がその一部を諳んじたりしていた*2
 これは、『論語』爲政第二の一節で、その冒頭の「子曰爲政以徳譬如北辰居其所而衆星共之(子曰く、政を為すに徳を以てせば、譬へば北辰の其所に居て衆星の之に共ふが如し)」を受けたものである。ここでいう「北辰」は、日本の註釈書ではふつう「北極星」と解される。代表的な訳文、たとえば宮崎市定訳も金谷治訳も貝塚茂樹訳も吉川幸次郎訳も、みな同じである*3
 だが、これを「北極」の義に解する説があって、中国ではこちらの解釈のほうが主流だ(というか、「北極星」説を見たことがない)。上に述べたものではわずかに吉川訳のみこのことに触れているけれども、「北辰というのは、北極星ではなく、北極星にごく近い一点、つまり現在の天文学でいう北極であり、天空の旋回の軸となる部分、そうしてそこには、星があるわけではない部分だ、という説は、こまか過ぎて、比喩の美しさを破壊するであろう」(『論語 上』朝日文庫版p.48)と一蹴し、「星たちが北極星の方に向かっておじぎをし、挨拶をしている、と説く鄭玄(じょうげん)の説を、私はとりたい」(同)、と書いている。
 しかし、である。阮元『經籍籑詁(けいせきせんこ)』巻第十一を見てみると、何晏『論語集解(しっかい)』引くところの鄭注(ていちゅう*4)は「北極謂之北辰」となっていて、「北辰」=「北極星」とは解していない。これは吉川訳だけの問題ではなくて、鄭注を紹介した金谷訳、貝塚訳も同断である。さらにいえば、朱熹のいわゆる新注(『論語集注しっちゅう』。これも「北辰」=「北極」説を採る)にほとんど依拠したはずの宇野哲人訳も「北極星」と解している。
 もっとも、「北辰」が「北極星」を意味する場合も確かにある。『經籍籑詁』によると、『楚辭』「遠遊」に「綴鬼谷於北辰」という句があり、それに対する注文は「北辰北極星也」となっているという(が、これも後代のものだから、事実としては怪しい??)。
 ちなみに、『爾雅』巻第六「釋天八」にも「北極謂之北辰」というくだりがあって、『爾雅注疏』の「疏」(邢昺による)は『論語』を引用、「北辰」の語義解釈には四時をつかさどる「北極斗杓」、つまり北斗七星こそ問題としているが、「北極星」には言及しない。
 実は、「北辰」=「北極」説のほうが正しいことは証明されている。
 それは地球の歳差運動を考慮に入れるによって明らかになるというのである。
 詳しいことは、福島久雄『孔子の見た星空―古典詩文の星を読む―』(大修館書店)の冒頭に書いてあるのだが、コマを傾けたまま回転させたときに心棒を傾けたまま首を振るのと同様に、地球の自転軸の方向が約二万六千年の周期で変わってゆくのを歳差運動という。地球は赤道部が膨らんだ回転楕円なので、太陽や月、惑星が重力によって生じさせる潮汐力のため赤道部の膨らみを黄道部(太陽の見かけ上の通り道)に一致させようとする方向にねじりモーメントを受け、その結果として歳差運動が起こる。具体的には、春分点秋分点が角度にして三十‐三十七秒/一年というスピードで西方に移動する(※この箇所、他の本も参照しながら私にまとめたのであまり鵜呑みにしないでください)。
 それで、孔子の生きた時代の北天を再現すると、「北極点に星はないばかりか、その周辺を見てもおよそ顕著な星はない。今の北極星こぐま座のαは、遥か彼方である」という状況になるのだそうだ。これでは、「北辰居其所而衆星共之」という箇所を、「多くの星が北極星に共(むか)う」(上の訓読ではこれに随った)とか「多くの星が北極星に共(=拱、お辞儀。日本でいうお辞儀とはちょっと異なる)する」とか「多くの星が北極星を共(めぐ)る」(武内義雄訳や貝塚訳はこれを採る)とか解釈するのは、いずれも適当ではないということになってしまう。
 さてこの福島著が刊行された後、日本ではすぐさま反論がなされたようだ。水上静夫『漢字を語る』(大修館書店あじあブックス)は福島著を紹介するくだりで、争点の審判者は学者や論説などではなくて科学なのだからそのような反論自体がナンセンスだと述べ、「ここに日本の漢学界の体質が深く根ざしている」(p.94)と苦言を呈している。
 その後、「北辰」=「北極星」説を訂した訳書は出たのだろうか。すべてに目を通しているわけではないのでわからないが、つい最近出た加藤徹『本当は危ない『論語』』(NHK出版新書)も、やはり「北極星」説を採っている(pp.197-98)。
 なお、この『本当は危ない『論語』』、いきなり「音義説」になったりしてちょっと「危うい」ところもあるが(第三章)、総じて面白く読んだ。『論語』受容史も書かれていて学ぶところも多かった。日本での受容についてだったら、加地伸行編『論語の世界』(中公文庫)所収の「空海と『論語』」(中垣内清貴)、「江戸時代の『論語』〔一〕〔二〕」(鬼頭有一、菅谷佳子)、「近代における『論語』」(渡辺陽子)あたりと併せて読むと楽しいかもしれない。
【補足】
 この記事を書いてから10年後、竹迫さんという方に、「北辰=天の北極」説は誤謬であることをご指教いただきました。「北辰」は素直に「北極星」と解してよいとのことです。コメント欄をご参看ください(記事はそのまま残しておきます)。

*1:新注は「格」を「至る」の義とする。

*2:「これをみちびくにまつりごとをもってし、これをととのうるにけいをもってすれば、たみまぬかれてはずることなし」、と訓じた。

*3:宮崎訳を参照したとおぼしい呉智英訳も同様。

*4:鄭玄の註。ただし鄭玄著は散佚したので、「集解」などからの間接引用に依るほかない。私の場合、「集解」は持たないから、『經籍籑詁』という清代の工具書を参照することになる。