『基本古語辞典』のことから

 先月新装版として復刊*1された小西甚一『基本古語辞典』(大修館書店)は、1966年に初版が出ているが、1983年の三訂大型版*2に至って、これは私の「著作」である、という独自性が明確に打ち出されたようである。

この辞典は、わたくし自身が書いたものであり、解釈も、用例も、他の辞典から借用したのは、ひとつもない。(略)改訂も、すべてわたくしの執筆による。(小西甚一『基本古語辞典』三訂大型版「はじめに」)

 同様に長澤規矩也も、自分の編んだ漢和辞典について、これらは自分の「著作」である、と強調していたことがあった。

わたくしの辞書づくりは、五年や六年の体験ではないのである。約五十年の歴史を持つ。校正とて、五十年の経験を持ち、今度の辞書でも、みずからも印刷所に出張して、直接に工員と接して、校正をしたのである。この点では、他の名儀ばかり貸される諸先生とは全く違うと自負している。(長澤規矩也「祖父に教えられた書物の世界」 山田忠雄『三代の辞書―国語辞書百年小史』三省堂1967:5)

 私が辞書のいわゆる「名義貸し」を意識するようになったのは、次の文章を読んでからのこと。

 辞書の編者名の表示についてはいろいろな考え方があろう。実際には手を下さないのに名義だけ貸すということがよくおこなわれたようだが(略)『明解国語辞典』の場合、編集方針を決めたのも、実際の作業に従事したのも、見坊豪紀一人であった(限られた範囲での協力者は存在したにせよ)、とはっきり言っていいのである。
武藤康史「解説」*3 金田一京助編『明解國語辭典[復刻版]』三省堂1997:1)

 京助歿後のことだが、彼の「名義貸し」に苦言を呈したのが、故・谷沢永一先生の「紙つぶて」。

昭和四十六年十一月六日、八十九歳で世を去った国語学者金田一京助は、まれに見る天真爛漫な欲のない学者子供だった。(略)しかし生前の京助が生活苦の弟子たちに見境なく名前を貸し、金田一博士監修と銘打った粗悪な辞書がおびただしく氾濫した醜態には問題が残る。(谷沢永一著作家の社会的責任」1972.3.9 谷沢永一『紙つぶて 自作自注最終版』文藝春秋2005:276←『紙つぶて(全)』文春文庫1986:156)

 しかもこの「紙つぶて」、さきに述べた小西甚一『基本古語辞典』にも言及している。

(『辞典の辞典』では―引用者)漢和辞典は『角川漢和中辞典』がクローズアップされて長沢規矩也はすべて黙殺、小西甚一が心をこめて書き下ろした『基本古語辞典』の見当らぬのも残念。内藤湖南が『国書解題』を批判した要項を想起しつつ増補訂正の工夫を進めて欲しい。(1976.1.12初出:谷沢同前p.409)

 それにしても、辞書の「編集者」や「監修者」はどうせ内容にタッチしていない、という次のような冷めた(醒めた)見方は、いつごろから(識者の間で)確立されるようになったのだろうか?

露伴にはまた、これは彼自身が直接手を下したものではなく、名前だけを貸したものだと思われるが、『掌中漢和新辞典』(昭和元年)というポケット版の漢和辞典があって、(略)(河盛好蔵「楽しみ辞典」 柳瀬尚紀編『日本の名随筆 別巻74 辞書』作品社1997所収)

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 ちなみに『紙つぶて』といえば、谷沢氏の白川静先生に対する評価の転換はよく知られているところである(小谷野敦白川静は本当に偉いのか」『大航海』No.63,2007;pp.132-38*4。例の「藤堂―白川論争」(?)への言及もある)。
 小谷野先生も書いておられるとおり、白川文字学は、小篆によって文字を説解した『説文解字』の記述を疑うところから出発しているのであるが*5、なぜか、『説文』を論拠としたと勘違いされることが多い(『説文新義』という書名がそうおもわせるのか)。そして谷沢氏の記述もその弊からまぬかれていない。
 私もかつて中国文学に在籍していた身として、「白川文字学」への絶讃、罵詈雑言、いろいろお聞きしてきたが、さる先生が仰っていたのは、白川静先生最大の不幸は、「文字学者」として世に引っぱり出されてしまったことで、ために、詩経・楚辞研究や暦の研究があまり顧みられなくなってしまっている、ということ(どうでもよいが、白川文字学を批判(非難?)した加藤常賢は、かつて『甲骨学』誌上で白川先生と「共闘」していたことがあるのだった)。

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 つけたり。いくら『紙つぶて』といえども、ケアレスミスも幾つかあって、今憶えているのは、「宮崎市定が『論語の新研究』(昭和49年、のち岩波同時代ライブラリー『論語の新しい読み方』)で武内(義雄―引用者)学説を木端微塵に粉砕すると」(p.575)というくだり(2005年の自注)。『論語の新しい読み方』は同時代ライブラリー(のち岩波現代文庫として再刊)のオリジナル編集(礪波護編)であって、『論語の新研究』の全体ないし一部を文庫化したものではない。『新研究』巻末(p.388)に示された「著者による關係論文一覽」で紹介されている論文やその後の談話などをまとめた本なのである。
 「正確でない情報は、情報杜絶より悪質で、まことに迷惑も甚だしいであろう」(『日本書誌学細見』和泉書院2003:10)と書いておられる谷沢氏にしては、珍しいことである。

紙つぶて―自作自注最終版

紙つぶて―自作自注最終版

日本近代書誌学細見

日本近代書誌学細見

基本古語辞典 新装版

基本古語辞典 新装版

*1:確か三月頃、「復刊ドットコム」のメールで復刊されることを知った。先月15日付「読売新聞」などのサンヤツに広告が掲載された。

*2:初版は1966年刊。濱口博章氏はこの辞書について「類書と一線を画する」古語辞典であり、「内容を見て、まさに『著』に価する辞書だと感心した」(「辞書にまつわる思い出」 吉田金彦編『ことばから人間を』昭和堂1998:337)、と評している。

*3:この解説は、のち武藤康史『国語辞典の名語釈』(三省堂2002)に「『明解国語辞典』復刻版に寄せて」として収録(2008年に筑摩書房が「ちくま学芸文庫」として文庫化)。なお、『明解国語辞典』の成立事情については、柴田武[監修]武藤康史[編]『明解物語』(三省堂2001)所収の「『明解国語辞典』の誕生」(見坊豪紀へのインタヴュー)などが参考になる。

*4:のち『能は死ぬほど退屈だ―演劇・文学論集』(論創社2010)に収められた(pp.139-50,追記あり)。

*5:ついでに述べておくと、ハルペン・ジャックの『漢字の再発見』(祥伝社ノン・ブック1987)は「単語家族」を基にした字原説を展開していて、推薦文を藤堂明保が書いているのだが、その字原説は藤堂説と完全に一致するわけではない。たとえば「王」字。ハルペン・ジャックは『説文』の記述(「天地人説」)を踏襲するのだが、藤堂明保は会意形声字として解釈している。すなわち――「*ĥïuaŋ→ĥïuaŋ(于陽 合3)……古くは「大+͝ 印」の会意文字であって,夸の字が,「大+于声」であるのと,その造字法は酷似している。いずれも迂曲して,遠く大きい意を含む。支配者を王と称するのは,「大きい」という意味からの派生義」である(藤堂明保『漢字語源辞典』學燈社1965:415)。