昔の角川文庫

 どの文庫でもそうだが、ある著者の文庫化作品をすべて集めたつもりでも、旧版と改版との間でちょっと困ったことが起きてしまう。
 たとえば以前、拙ブログでも、堀辰雄の角川文庫作品について書いたが、通し番号「442」(著者別番号75-1)のついた文庫には、『聖家族・美しい村』『聖家族・燃ゆる頬』の二冊が存在して、収録作品に多少の出入りがあるので、これらは別の文庫と見なさねばならない。お気に入りの作家の文庫をコンプリートした積りでも、こういうことがあるから困る。
 わが敬愛する獅子文六の『信子』『おばあさん』だってそうで、これらはかつて別々に文庫化されたのだが、1969年3月に角川文庫の合冊版が出た。題して『信子・おばあさん』。この年の4月から始まったNHKの「連続テレビ小説」が、『信子とおばあちゃん』*1で、それがこの二作を原作としていた(内容はまったく異なっていると聞くが)から、その影響もあるのだろう。事実、『信子』や『おばあさん』が連載されていた「主婦の友」の〈主婦の友社〉も、同時期(1969年3月)に、『信子 おばあさん』を刊行している。ちなみに、この単行本の冒頭には、獅子文六へのインタヴューが、著者近影やドラマのスチルとともに掲載されているのだが、この年末に獅子文六は亡くなった。『信子とおばあちゃん』は一年間放送されていたので、原作者はドラマの完結を待たずして亡くなったわけである。
 話を戻すが、中島敦の文庫化作品にも同様のものがあった。はじめ『李陵・弟子・名人傳』というタイトル*2で1952年に出た角川文庫があって、この当時角川文庫は著者別ではなくて、通し番号の「294」で分類していたが、やがて著者別の「現代日本文学(緑帯)」で分類するようになり、「緑103-2」という著者別番号がついた。ところが、1968年の改版時に『李陵・弟子・名人伝―他三篇』*3が出て、これはのち現行の「角川文庫クラシックス」(タイトルは『李陵・山月記―弟子・名人伝』)に編入されたので、話がややこしくなる。いずれにせよ、「李陵」「弟子」「名人伝」を収録した角川文庫には二種類ある、と言えそうである。
 話が角川文庫のことばかりになってしまったが、この角川文庫というのは、今ではエンタテインメント系の文庫を多く出しているというので有名かもしれない。しかし、かつては違ったのである。ある人(先輩)は「黄帯時代の角川文庫が一番いい」と言っていたし、またある人(等輩)は「『わが闘争』を文庫化してくれただけで俺は角川文庫を愛する」、と言った(『わが闘争』は今もまだ出ている。ただしその等輩は右翼ではない)。
 かつての角川文庫の紫帯・黄帯に関しては、「角川文庫の紫帯とか黄帯とか読め。」というサイトがあるし、また赤帯などの翻訳文学に関しては、「角川文庫万華鏡」という労作があって、愛好者は少なくない。
 角川文庫には、比較的近年(といっても昭和時代)のものでも、ジェイムズ・ヒルトン『失われた地平線』(352-01、安達昭雄訳)やイエールジ・コジンスキー『異端の鳥』(433-01、青木日出夫訳)など、声価のみ高くて入手のむつかしい作品は多々あるから*4、平成初年度の「リバイバルコレクション」と似たような限定復刊をぜひやって頂きたい。

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 「ことば会議室」のこちらにも、角川文庫の残部僅少本について書かれてある。やはり、黄帯の『宇津保物語(全三巻)』への言及がある。この本は知る人ぞ知る伝説的な稀覯書で、数ある角川文庫の中でも最も入手困難な本である、といっていい。もちろん現物を見たことはない。

*1:NHKには完全な映像が残されていないので、幻のドラマともいわれる。

*2:谷沢永一氏は、「この作品(中島敦「弟子」のこと―引用者)はもちろん文庫本に収められているが、その書名は『山月記・李陵他九篇』(岩波文庫)などの調子であって、「弟子」が主に立てられた例を知らない」(『紙つぶて 自作自注最終版』(文藝春秋:893)と書いているが、もちろんそんなことはなくて、角川文庫がその好例であるし、ほかに「旺文社文庫」も「弟子」をタイトルに立てていたと記憶する。因みに私は、「李陵」「弟子」「名人伝」のなかでは「名人伝」が最も好きである。このほど完結した文庫版「ちくま文学の森」の最終巻(『とっておきの話』)にも「名人伝」は収録されている。なおこの短篇の主人公紀昌のエピソードには、『列子』の「湯問第五」に見える紀昌の話だけではなく、「黄帝第二」の列禦寇の話もうまく利用されている。

*3:「他三篇」というのは、「山月記」「悟浄出世」「悟浄歎異」の三篇。

*4:そういえば、事件の当事者が書いた志麻永幸『愛犬家連続殺人事件』にも、いつのまにか高値がついて驚いたことがある。これはせいぜい十年ほど前に出版されたばかりのものだ。のちにこの作品のゴーストライター(!)だった蓮見圭一が、同書を加筆訂正の上、『悪魔を憐れむ歌』(幻冬舎)として出版したが、こちらのほうが入手は容易だったりする。