田岡嶺雲の文庫版選集

 こないだ素見のつもりでUさんとワゴンセールに行ったら、西田勝編『田岡嶺雲選集』(青木文庫1956,以下『選集』)が出ていたので買ってきた。千円也。嶺雲の著作で文庫化されているのは、これと『明治叛臣傳』(こちらも青木文庫)くらいではないかしら。せめて岩波文庫には入ってほしいものだが。
 かれの名には「忘れられた思想家」という文句が冠されることも多く、家永三郎『数奇(さっき)なる思想家の生涯―田岡嶺雲の人と思想』(岩波新書1955)がようやく嶺雲再評価の機運となった、と言われたりする*1。しかし家永の見解は一面的にすぎるとして、しばしば批判の対象となる。たとえば、このたび購った『選集』の「解説」(西田勝)も、「(家永―引用者)氏は限られた資料で婦人論を除く嶺雲の社會思想の研究を大體『天鼓』時代で打ち切ってしまって」おり、「晩年のスタイルの檢討がかけているため大きな誤解をしているように思う」(p.250)と述べているし、森銑三は「田岡嶺雲の本領」(『明治人物閑話』中公文庫1988所収)で、「家永さんは必ずしもそうではないが」とことわりつつも、嶺雲を「社会主義者」の一言で片づけようとする風潮に異を唱えている(pp.156-69)。もっとも西田氏は、森のこの見解に反論していて*2、森は「田岡嶺雲逸文」でやんわりと再反論している(森同前,pp.169-78)から、話がややこしい。
 最近では、田岡嶺雲の名は、ひところよりも知られるようになってきているかもしれない(私でさえ聞いたことがあるのだから)。
 たとえば、山口昌男『「敗者」の精神史(下)』(岩波現代文庫2005)の十一章「小杉放庵のスポーツ・ネットワーク」には、キーパーソンのひとりとして何度も言及されている。山口氏は、森の「田岡嶺雲の本領」を紹介しつつ、横山健堂による嶺雲追悼文に触れ、さらに沼波瓊音の回想文「我が知れる嶺雲子」を間接に引用している。ちなみに山口氏によると、健堂という人物は「新聞記者と人物評論家、伝記作家、スポーツ史家、大学教授を兼ね、あまりにも多才であったため、後世の評価をゆがめて忘却の彼方に押しやられてしまった」(p.219)という。
 ついでながら山口氏の印象的な評言を引いておけば――、「沼波瓊音田岡嶺雲をつなぐ線として、未醒(小杉放庵―引用者)の『漫画一年』があったことは既に指摘した通りである。そしてまた未醒、瓊音の背後にある独歩の世界を射程に入れないで嶺雲を論じることは、今後難かしくなるに違いない」(p.218)。
 そのほか黒岩比佐子『パンとペン―社会主義者堺利彦と「売文社」の闘い』(講談社2010)にも、嶺雲の名がちらほら見える。特に印象に残っているのが、『日本国語大辞典【第二版】』(小学館)にない「売文」の夙い使用例(日国が採録している徳冨蘆花『思出の記』の用例より古いもの)を、嶺雲の「筆を焚(や)くの記」(『嶺雲揺曳』1899)から引いていることである(p.220)。
 『嶺雲揺曳』は嶺雲の第一評論集であるが、『選集』には残念ながら「筆を焚くの記」が入っていない。しかし、当該書からは「日本文學に於ける新光彩」「一葉女史の『にごり江』」「江見水蔭の『女房殺し』」などが、また第七評論集『霹靂鞭』(1907刊)からは「近松物に現はれたる心中」「作家ならざる二小説家(夏目漱石と木下尚江)」など興味ふかい文章がとられている。そして何より『選集』のありがたいところは、かなり詳細な「田岡嶺雲略年譜」「著書目録」を載せてくれている点である。で、この「著書目録」にざっと目を通していると、最後のほうに『和譯漢文叢書』全十二冊(玄黄社,1910-12)というのが出て来た。ラインナップは、『老子荘子』『韓非子』『戦国策』『荀子』『史記列伝(二冊)』『七書』『淮南子』『墨子列子』『東莱博議』『春秋左伝(二冊)』、となっている。ただし「序文は嶺雲が書いたが、かれが純粹に譯したのは『老子莊子』『荀子』『墨子列子』の三册に過ぎぬ。他は田中貢太郎・公田蓮太郎、鶴田久作らが譯しそれに委せた」(p.240)という注が附されている。
 ここに見える田中貢太郎には、『貢太郎見聞録』(中公文庫1982,もと大阪毎日新聞社東京日日新聞社1926刊)なる著作あり、デビュー作「逝ける先輩の印象」(「田岡嶺雲幸徳秋水・奥宮健之追懐録」を改題)が冒頭に収めてある(pp.9-44)。そこには嶺雲との出会い(明治四十年夏)からその死(大正十五年九月)までが描かれており、人間嶺雲を知る上ではこれも必読の文献と云えよう。
 ちょっと話が逸れた。『和譯漢文叢書』であるが、私は未見である。しかし、この叢書は谷沢永一『紙つぶて―自作自注最終版』(文藝春秋2005)が、その自注で何度か触れている。それはまず「学者の事大主義」(1970.8.14)に対する自注、「西田勝は「田岡嶺雲」を担当し、評論家としての嶺雲を叙述するあたりは無難であったが、嶺雲の代表作『和訳漢文叢書』全十二篇の内容を知らずに支那文学思想の近代的研究と出任せを言う。ただしこの叢書にも代作が多かったという」(p.163)。それから、「読めるが正式に書けない字は多いほど結構」(1983.8.25)に対する自注、「田岡嶺雲の『和訳漢文叢書』全十二冊(明治43年以降)をはじめとして、明治以降、漢文の注釈叢書は数多い。それぞれの時代に効果を発揮しながら今日に至る。願わくば(ママ)近代における漢籍読解の歴史を、おおよそでいいから眺め渡していただきたい」(p.937)。
 谷沢氏は、同著の自注でもう一箇所、嶺雲にふれているというか、宮武外骨『スコブル』(大正五年十月創刊)が嶺雲に言及した部分を引用している。孫引きすると、「大町桂月の著書は大概田中貢太郎が代作する。田中は曾て田岡嶺雲の『明治叛臣伝』(全集2)を代作した文筆の雄で、筆致の軽妙、スコブル大町に似た所がある」(p.485)。そう云えば『貢太郎見聞録』には、「桂月先生終焉記」(pp.411-18)なる文章も収めてある。
 のちに(約二十五年後)田中貢太郎は、「漢籍を語る叢書」の第二巻(第一回配本)の『論語・大學・中庸』(大東出版社,昭和十年1935刊)を担当している。『和譯漢文叢書』には五経は左伝のみ、四書はまったく無いのに七書を採っているところが面白いが、四書のうちの三つを、田中が別の叢書で担当していることは注目してよいかもしれない。
 ついでに。阿部眞之助いわく、「貢太郎は、道徳談義はしない。しかしお談義は師匠(大町桂月―引用者)讓りで、山川草木から森羅萬象におよんでゐる。たとへば彼が料理について談ずるときは、忽ち日本一の食通をもつて任じ、斷じて他人の説を容れようとはしないのだ」(「當世畸人列傳」『新世と新人』三省堂1940:251)。また阿部は、貢太郎を「尻の抜けた強がり」(同前p.247)だとも評している。

田岡嶺雲選集 (1956年)

田岡嶺雲選集 (1956年)

明治人物閑話 (中公文庫)

明治人物閑話 (中公文庫)

「敗者」の精神史 (下) (岩波現代文庫―学術)

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パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い

パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い

貢太郎見聞録 (中公文庫 M 180)

貢太郎見聞録 (中公文庫 M 180)

紙つぶて―自作自注最終版

紙つぶて―自作自注最終版

*1:もうひとりの忘れられた思想家、安藤昌益を見いだしたノーマンの『忘れられた思想家―安藤昌益のこと(上)(下)』も、やはり同じ岩波新書青帯に入っている(1950年刊)。

*2:西田氏は、嶺雲を真正の社会主義者と見なす立場をとる。