「けいずかい」

 「けいずかい」、ということばがある。わたしがこのことばを知ったのは、中学二年生のころ、松本清張『書道教授』によってであった。当時、この語は漢字でどう書くのだろう、とおもって、辞書をひいた記憶がある。
 とりあえず、『鷗外の婢』(新潮文庫1974,1978年8刷)所収の同作品から当該箇所を引く(現在同文庫は絶版*1)。

「千葉の質屋の調べから、東京に大じかけの盗品買いの組織があったんですって。盗品を専門に買うのをケイズ買いというんですってね。(略)」(p.147)

 この「けいずかい」、長らく戦後に生まれた俗語だと考えていたのだが、だいぶ後になって『日本国語大辞典【第二版】』(小学館2001,以下『日国』)をひいてみて、それなりに来歴のある語と知った。当該項目の一部も引いておこう。

けいず‐かい【窩主買】《名》盗品と知りながら、それを売買すること。また、その商人。買主(かいす)。故買。窩主屋(けいずや)。系図買い。*歌舞伎・霜夜鐘十字辻筮(1880)二幕「けひづ買も多くあるが〈略〉不正な品をしゃアしゃアと店へ釣して高く売り」*内地雑居未来之夢(1886)〈坪内逍遥〉一一「イイヤ不正品買(ケイズカヒ)へ叩き売らうか」*社会百方面(1897)〈松原岩五郎〉晩商「又賍品買(ケイヅカイ)は本業なれども是れに名義上の稼業なかるべからず」

 語釈にみえる「系図買い」という表記は、『日国』によれば、同音の別語と混同したことに因るものだという。
 しかし、松本清張『神々の乱心』(未完)には、「系図買い」が「ケイズ買い」の由来となっている、というふうなことが書いてある。

 ケイズ買いは「故買者」と書く。持ちこまれた品物が盗品と知ったうえで、値を叩いて買う商売だ。
 ケイズ買いの語源は、むかし身分なき者が出世すると自己の出自を飾るべく他者の系図を買ってニセ系図を作ったことから発した。
松本清張『神々の乱心〔上〕』文春文庫2000:437)

 ところで、「こばい(故買)」という熟字は『日国』に別立てで見え、718年の「律」から用例を引いている。しかしその後の用例が、いきなり明治四十(1907)年の「刑法」に飛ぶというのは奇妙である。
 なお、「けいずかい」に「故買」をあてた例は、邦訳のC.ディケンズ『荒涼館2』(ちくま文庫1989←1975)で見つけたことがある。

密輸業者なのか、故買(けいずかい)なのか、それとも無免許の質屋か、金貸しか(青木雄造訳「第十二章 新しい下宿人」p.113)

 最近、辰野隆『醉眠巣雜記』(生活社1947)を読んでいたら、ひさしぶりで、その「けいずかい」と再会した。

 贓品と知りながら買ふことを故買とか、けいずかひとかいふが(「けいずかひ」に傍点―引用者)、昔、法科で宮崎道三郎先生の日本法制史の講義を聽いたところ、ある日、先生が故買に關する足利時代だか徳川時代だかの禁令を讀みあげて説明されたことがあつた。(p.149)

 これは、「言葉のあやまり」というエセーの一節である。「故買」という語そのものが、「足利時代だか徳川時代だかの禁令」に見えるのであれば、ここはぜひとも、専門家にお訊きしてみたいところではある。
 ついでに紹介しておくと、このエセーの冒頭には次のようにある。

 數年前、語學者の座談會で、放送局の專門的放送係の日本語が問題となつたことがあつた。その席上で、早稻田大學の五十嵐繁授が『氣象通報で、しば\/、天氣は晴れがちだとか晴天がちだとかいふがあれは可笑しい。曇りがちといふ成語はあるが、晴れがち、晴天がちといふ言葉はない』といはれた。全く繁授の言の通りである。(p.148)

 早稲田の五十嵐教授、といえば、五十嵐力のことだろう。
 餘談だが、五十嵐には『国語の愛護』という著作があり、講談社学術文庫に入っている(1981年刊)*2。五十嵐はこのなかで、「とても」(芥川による「『とても』考」が有名だ)、「たち(達)」等の「誤用」について言及している。
 ただ書名の「愛護」という表現がややファナティックな印象を与えるせいか*3、文庫版校訂者の川本茂雄が「解説」で、「決して狭い国粋的なものでなかったことは、注意しておきたい」(p.191)、と書いている。
 さて、「晴れがち」という言いまわしの問題については、坂口安吾も「敬語論」で言及している。

 十年ぐらい前から、ラジオや新聞の天気予報に、明日は晴レガチのお天気です、とやるようになったが、大体古来の慣用から言えば、何々シガチというのは、悪い方向に傾いて行くときをいうのであって、病気シガチとか、貧乏シガチとかと言う。決して丈夫になりガチだの、金を儲けガチだのとは言わないものだ。天気の場合はクモリガチとは言ったものだが、晴れガチなんて慣用はなかったはずだ。
 けれどもこうしてラジオや新聞に報じられているうちには、それが現行のものとなり、実在してしまうから仕方がない。言葉の場合などは慣用が絶対だという法則はないのであるから、いずれは文法に、ガチの慣用のうちで晴レガチだけが不規則、というようなことになって、言葉の方に文法を動かして行く力がある。言葉とは元々そういうもので、文法があって言葉ができたワケではなく、言葉があって、文法ができたのである。
 それは文法にあわない、とか何とか学者先生が叫んでみたって、文法の空文とちがって言葉にこもるイノチというものは死んだ法則の制しうべからざるものなのだ。(「敬語論」『私の探偵小説』角川文庫1983:123)

 「敬語論」の初出は1948年7月号の『文藝春秋』だというから、「晴れがち」の様な表現が目立ち始めたのは、昭和十年代あたり、ということになろうか。

*1:ただし『書道教授』は、宮部みゆき編『松本清張傑作短篇コレクション〈中〉』(文春文庫)等にも収められている。

*2:元版には、1928年刊『国語の愛護』早稲田大学出版部、1933年刊『国語の愛護・部分品』早稲田大学出版部〔非売品〕、1938年刊『国語の愛護』白水社、の三種がある。それぞれ出入りがあり、講談社学術文庫は新字新かなであるが、その全てが読めるようになっている。

*3:紀田順一郎「書鬼」(『古本屋探偵登場』文春文庫1985所収←1982年刊行『幻書辞典』三一書房)に出て来る架空の書、北見義秀『国民学校錬成、読方指導形態』(皇学館)も、「国語愛護」という章を設けているほどだ(p.197)。ちなみに『古本屋探偵登場』は、三上延ビブリア古書堂の事件手帖』シリーズの影響もあって、最近やっと2刷が出た。1刷には誤脱があったが、直っているだろうか。