松竹『思い出のアルバム』及び新村出編『言苑』のこと

 本年もよろしくお願い申し上げます。

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 「読み初め」本は、小倉金之助『數學の窓から―科學と人間性―』(角川文庫1953)。当世流にいうと「文庫オリジナル」で、数学関係以外の文章も多数収めている。『別冊文藝春秋』昭和二十二年(1947)十月号初出の「黒板は何處から來たのか」も入っている。この文章が元日に「青空文庫」で公開されたことは、tougyouさんに教えられた
 『數學の窓から』は、その他に「ある古書の話」「荷風文學と私」「門外書評」「讀書雜感」「讀書について」「辭書と百科辭典」「何を讀むべきか」「讀書の思ひ出―特に青年・壮年時代を中心として―」などを収めている。
 「ある古書の話」は、フランスのジラール・デザルグ『透視畫法』(1648刊、オランダ訳1664刊)をめぐる話。新村出『南蠻廣記』所収の「和蘭傳來の洋畫」では、その著者名が「ガスパール・デザルグ」として紹介されている。そのことに小倉は不審の念を抱き、「ガスパール」などというのは「全くありもせぬ架空の人間」と断ずる。
 しかし、ここからは後日譚になるのだが、国立国会図書館の坂田精一に、ラルースの百科辞典では「ガスパール・デザルグ」として紹介されていることを教えられる。坂田はその件をフランス国立図書館に問い合わせて調べてもらったが、「かういふ不精密」がなぜ起きたのかは結局判らずじまい。まるでリドル・ストーリーのような随筆だが、この問題はその後解決したのであろうか。

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 昨年末、池田浩郎編集『思い出のアルバム』(1950松竹)を観た。
 衛星劇場の「追悼企画 女優・山田五十鈴淡島千景」でかかっていた作品で、淡島千景田中絹代とともにゲスト出演している。それから、辯士の松井翠声、静田錦波、生駒雷遊が進行役として登場、美声を披露している。
 この作品は、松竹設立三十年を記念して製作されたもので、往年の名作を「二十数篇」紹介するという内容である。はじめこそ翠声や雷遊の解説が入るが、後のほうになると、名場面をつなぎあわせただけのスタイルになっている。
 それに、映画のタイトルがすべて表示されるわけではないので、わかりにくいところが少なからずある。衛星劇場の内容紹介欄には、「代表的な松竹映画二十数篇を選び」とあるのだが、いくら数えてみても、「二十」ちょうどにしかならなくて、それもあっているのかどうかわからない。作品リストを示したサイト等がないので、とりあえず、映像に出て来る役者とともに作品名をあわせて掲げておく。
 誤っている箇所に気づいたら、随時訂正する所存である。


五所平之助伊豆の踊子』(1933)
 田中絹代、大日方傳。辯士は錦波。
斎藤寅次郎『珍説 高田の馬場』(1927)
 森野五郎。ほか不明。辯士は雷遊。
※「珍説」を関するタイトルは、「日本映画データベース」等に無し。あるいは「雷遊版」の、ということか。ちなみに雷遊は、徳川夢声『いろは交友録』(鱒書房1953→ネット武蔵野2004)の「ら」の項に出て来る。
島津保次郎君恋し』(1929)
 八雲恵美子。
野村芳亭『金色夜叉』(1932)
 田中絹代長谷川一夫林長二郎)。辯士は錦波。
五所平之助『マダムと女房』(1931)
 田中絹代、伊達里子、渡辺篤。以降は全てトーキーである。
※劇中、田中絹代のセリフに「それに近ごろのエロでしょ。エロ100パーセントでしょ!」というのがあるが、新村出編『言苑〔戦後第三版〕』(博友社1951)には、「エロひゃくパーセント」が立項されている。語釈は「色氣たっぷり」。ついでながら、この『言苑』の成立について、以前ものした文章があるので、その一部を一番下に引いておく。
島津保次郎『家族會議』(1936)
 佐分利信、桑野通子。
佐々木啓祐『荒城の月』(1937)
 佐野周二佐分利信
佐々木康『純情二重奏』(1939)
 高峰三枝子、坂本武(?)
※坂本武らしき人物がちらと映るが、一瞬のことであるし、そもそもこの映画じたい未見なので、ちょっとあやしい。
野村浩将『愛染かつら(前篇・後篇)』(1938)→前後篇あわせた「総集篇」は1939年に公開。
 上原謙田中絹代斎藤達雄
吉村公三郎『暖流』(1939)
 佐分利信高峰三枝子水戸光子
木下惠介『わが恋せし乙女』(1946)
 井川邦子、原保美。
※惠介の弟・木下忠司の映画音楽デビュー作品である。
渋谷実『情炎』(1947)
 佐野周二水戸光子
※これも、作品名があっているかどうか、ちょっとあやしい。未見である。
吉村公三郎『わが生涯のかゞやける日』(1948)
 森雅之山口淑子
木下惠介『お嬢さん乾杯!』(1949)
 原節子佐野周二佐田啓二、村瀬幸子、坂本武。
原研吉『恋の十三夜』(1949)
 池部良、折原啓子。
渋谷実『花の素顔』(1949)
 木暮實千代、若原雅夫、折原啓子(ベッドに横たわっているだけ)。
小津安二郎『晩春』(1949)
 原節子笠智衆杉村春子
黒澤明醜聞(スキャンダル)』(1950)
 三船敏郎志村喬山口淑子桂木洋子
木下惠介『女』(1949)
 小澤榮太郎(小澤榮)、水戸光子
吉村公三郎安城家の舞踏會』(1947)
 原節子、滝澤修、殿山泰司森雅之、空あけみ。

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 というわけで、新村出編『言苑』の成立に関する文章を載せておきます。

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 新村出編『増補 言苑』(博友社)はB6判、本文は四段組で1326頁(ここでは便宜的に、「地名欄」pp.1119-1266,「人名欄」pp.1267-1326 も含めて「本文」とよんでいるが、本書はこれらを「附録」として扱っているので、以下、「人名欄」「地名欄」を除いたものを「本文」とよぶことにする)、附録に相当するもの(「当用漢字音訓索引」pp.1327-37 ,「現代かなづかい要領」pp.1338-39 ,「動詞活用表」pp.1340-41)、さらに、序文(4p)、凡例(3p)、略語表(1p)、跋その他(5p)より成る、1354頁の国語辞書である。
 同書は、『辞苑』(後述)を「更に簡易・輕便にして効果的なる」国語辞書として新たに編纂し、さらに「『辭苑』より比較的實用に縁遠い語彙を削除し、専ら繁科學習上必須なる語彙と時勢の變化・進運に伴なって激増する新造語とを挿入」したもので、「凡そ十萬」の語を収めている(以上「跋」による)。また奥付によれば、昭和十三(1938)年二月十九日、「第一版」が「博文館」から出ており、昭和十七(1942)年四月二十日の「第二百版」まで版を重ねたことになっている。それから空白期間を経て、「戦後第一版」が昭和二十四(1949)年四月十日に出た。その際、博友社による次の様な文章が「跋」後に附された。

本書は戰時中に、用紙・印刷等の関係で出版が中絶され、かつ終戰後は博文館が諸般の都合で出版事業を中止したためこの発行を見ることができなかった。
今回小社において本書出版権の譲渡を受けたので、ここに戰後第一版を発行する運びとなった。読者諸氏の好伴侶たらんことを切望する次第である。
昭和二十四年三月               株式会社 博友社

 博文館は明治期に隆盛を極めた大出版社であるが、終戦後の昭和二十三(1948)年に解散、文友館・好文館・博友社の三社に分裂した(この時点では、後述する『辞苑』は好文館が出版権を引き継いでいた)。しかし翌二十四年、三社は「博友社」として経営統合され、さらに翌二十五年、別に「博文館新社」が設立された(博文館の出版権は現在では博文館新社保有)。すなわち『言苑』の「戦後第一版」が発行されたのは、「博文館新社」設立以前のことであって、「博友社」が博文館から「出版権の譲渡を受けた」時期に当ろう。なお、所有する『言苑』は「戦後第三版」(昭和二十六年八月三十日発行)である。
 この『言苑』は、固有名詞(地名・人名のみ。その他の固有名詞は本文に採録)を独立させ、「地名欄」「人名欄」を附しているが、それらだけでも小辞典の様相を呈する。
 岡茂雄『本屋風情』(平凡社1974,のち中公文庫)の「『広辞苑』の生まれるまで」は『言苑』誕生の経緯に言及しており、「地名欄」「人名欄」を分立した理由も窺い知れる。
 話はまず、岡書院の岡茂雄が、「中高生・また家庭向きの国語辞典」を編んでほしいと新村出に打診をするところから始まる(岡書院は大正十四年に新村出の『典籍叢談』を刊行している)。これは岡書院から博文館に移譲され(百科方式を採用し、岡の手に負えなくなったせいもある)、『辞苑』(収録語数約十六万,『広辞苑』の前身)として日の目をみる。この『辞苑』の売れ行きがよかったため、さらに内容の充実をはかるべく、岡は同書の改訂作業を速やかに行うよう新村に求め、その許諾を新村から得る。以下はそれに続く部分である。

 その直後博文館から、小型の国語辞書編著の申し込みを受けた。これもまた新村先生の御気分が進まないであろうことは分かっていたが、出版社の気持ちも私にはよく分かるので、とにかく学士会館の先生のお部屋で、溝江(八男太―引用者註)先生と三人でお話し合いをした。溝江先生は、削除タームの選別、説明の簡約化など、大変なばかりでなく、『辞苑』の改訂作業も始まることなので、時間的に不可能であると反対意見を述べられた。私は、百科的内容をもつ『辞苑』を、それと同じ方針で二分の一に圧縮するのでは、辞典としての価値は、二分の一では止まらずにひどく下がって、用をなさないものになろう。百科的部分は、原則として思い切り割愛削除し、純国語の語彙だけをそのまま残し、それに博文館の意見を容れて、地名、人名だけを巻末に付録として収めるようにすれば、さほど期間は要すまいと思われる。殊に『辞苑』改訂の準備作業に半年ないし一年はかかろうから、その間に総掛かりで取り組めば、なんとかなろうと思われると提言した。先生はうなずきながら聞いておられた。が、結局その方針で引き受けることとなった。それが『言苑』である。
 しかし出来上がった『言苑』を見ると、多少百科的タームも残り、説明の簡約化されたところも多く、なおかつ、すでに目についていた『辞苑』の誤りの箇所の訂正まで行われていた。その上予想外に早く、昭和十二年には完成したのである。驚くとともに、溝江先生はじめ助手のかたがたの大変な御努力に、ただただ頭の下がる思いであった。しかも『辞苑』改訂作業にも、さほどの影響を来たさずにすんだのである。(岡前掲:143-44,下線は引用者。以下同じ)

 『辞苑』が百科項目も盛り込んだことについては、倉島長正氏が次のように述べる。

これら専門用語のほか固有名詞を含めた、いわゆる百科語が『辞苑』の大きな特色となっている。(中略)「会津」「間の山」とか「アイスランド」とかの地名・国名などが国語辞典で用が足りるようになったのも、人名も大方はそこでわかるという便利を与えたのも、『辞苑』が先駆的役割を果たしたと評価すべきであろう。「会沢(あいざわ)正志(せいし)斎(さい)」「会津小鉄」や「アウグスティヌス」が一冊の辞書で引けるありがたさは読者にとっては魅力であったにちがいない。当時生存していた「アインシュタイン」さえ五行にわたって解説されている。「アーサー王伝説」に八行を割(さ)き、ユーゴーの「噫(ああ)無情」に六行を与えている第一ページは、強烈に読者の目を引いたものと思われる。
倉島長正『日本語一〇〇年の鼓動―日本人なら知っておきたい国語辞典誕生のいきさつ』小学館2003:160-61)

 但し倉島氏は、『辞苑』採録語彙のうち、「古語」と分類された語については、「収録語二〇万の『大日本国語辞典』に負うところが大きかったことはまちがいない」と指摘する。
 また武藤康史氏は、さらに直截に、以下のごとく述べている。

 一方、明治四十年に三省堂から出た『辞林』、それから増訂した大正十四年の『広辞林』は一冊本としては当時最も普及した、重要な国語辞典であった。百科辞典に載るようなことばもかなり拾いつつ、しかし固有名詞は切り捨てたことによって、手ごろな辞書として成立しえたのである。
 ところがやがて、固有名詞も載っていたほうが便利だと考える読者が増える(中等学校への進学率の上昇などとも関係があるだろう)。そこに出たのが昭和十年の『辞苑』であった。これは明らかに『広辞林』を土台に作られており、「『広辞林』に固有名詞や新語を足しただけ」と言えなくもないような中身なのだ。そういう土台があったからこそ安心して固有名詞を混ぜることができたのだろう。
 こうして『辞苑』は『広辞林』の地位を奪った。「最も普及した一冊本の国語辞典」の座を奪った。
武藤康史『国語辞典の名語釈』三省堂2002,書下しの「『大辞典』の笑い声」:30-31)

 武藤氏が、「『広辞林』に固有名詞や新語を足しただけ」とまで言い切ってしまうのは、判官贔屓の要素もありそうだからそのまま「鵜呑み」にするわけにもいかない*1。しかし武藤氏は、『辞苑』が「表音的かなづかい」を採用したことに対しては、たかい評価を与える。
 以上に示したとおり、『辞苑』は(他の辞書も多かれ少なかれそうであるように)先行辞書がなければ存立しえない辞書ではあった。それでも、百科項目が充実していたということは、やはり大きなインパクトを与えたに違いない。
 この劃期的な特徴も手伝ったのか、『辞苑』は辞書のトップランナーであった『広辞林』をその座から引きずり下したわけで、それは先引の記述からも知られる。武藤氏いうところのこの「『辞苑』ショック」については、柴田武監修・武藤康史編『明解物語』(三省堂2001:15-16)でもくわしく述べられるが、今はそのことを確認するだけに止めておく。
 こうして、「中高生・また家庭向きの」小型国語辞典として編まれる筈だった『辞苑』は「中型国語辞典」として完成したが、岡の意向を反映するものとして成った辞書が、すなわち『言苑』にほかならない(倉島氏は前掲書で、「大辞典から中小辞典へ」という理想を掲げた新村が、中小辞典の量産に係らざるを得なかったのを「新村の悲劇」と評する)。

*1:柴田武監修・武藤康史編『明解物語』(三省堂2001)の「「明解」系国語辞書六十年小史」によれば、「『辞苑』は六、七割が」『広辞林』の語釈を口語訳したもの(p.19)だそうである。石山茂利夫氏は、武藤氏のこの記述を引用しつつ、次の如く述べる。「それでも、「六、七割が口語訳」というのは大げさすぎはしないかと「都会病」を掲載しているページの見出し語の語釈を急いで見比べてみたりしたのだから、われながら往生際が悪い。案の定、武藤さんの指摘はそれほど大げさなものではなかった」(『国語辞書事件簿』草思社2004:152)。そして石山氏は、摸倣辞書を『広辞林』『大日本国語辞典』の二種のみに比定せず『言泉』を挙げ、『広辞林』と『言泉』の語釈を組み合わせたものが『辞苑』にみえることを明らかにした。