「天」の字形/(承前)「必」の筆順

 まず、楷書で「天」字を「上長」(一画めが二画めよりも長い)で書くか、「下長」(二画めが一画めよりも長い)で書くか、という問題について。
 小学校の書写教科書は、明治初年から昭和中期まで「下長」を採用していた。しかるに、昭和の半ば以降、「上長」のほうが楷書の規範的なかたち*1となってしまった。わたしも小学低学年の時分(1988〜89年頃)、「空を見なさい。空のほうが地上よりも広がっているでしょう。だから上を長く、『天』のように書くのです」と教わった記憶がある。テストで下長の「天」を書くと、×か△かになった。
 江守賢治『雪冤の記―楷書を活字どおりに書くようになってしまった経緯』(江守賢治国語国字研究所1993)には、この問題に関する重要な証言が記してある。

昭和30年代のことだったと思う。東京都で小学生の書き初め作品の募集があって、その募集規定に注意として、天の字の2画めの長いのは審査から外すというのがあって、たいへん驚いた記憶がある。(p.27)

 そして江守氏は、明治四(1871)年から昭和十六(1941)年までの書写教科書にみえる「天」の字を挙げ、いずれも「下長」になっていることに言及している(pp.30-31)。また江守氏はそれ以前の著作『漢字字体の解明』(日本習字普及協会1965)で、「当用漢字」欄の「普通の形」に「上長」を掲げた上で「下長」を「許容の形」として挙げている(p.219)。
 「許容の形」というのは、「一段弱い立場においたいい方」(『雪冤の記』p.21)だから、ここははっきり、「楷書の習慣に従った」(同前)形、といってもよかったかもしれない。それとも、江守氏のお考えが徐々に変わって行った、ということなのだろうか。
 ちなみに、のちの江守賢治『解説 字体辞典【普及版】』(三省堂1998*2では、「天の字はもともとa(下長―引用者)であったのに、なぜ、字体表(「当用漢字字体表」―引用者)はbの形(上長)にしたのか、理解に苦しむところである」(p.485)、とはっきり書いている。

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 前掲『雪冤の記』は、非売品で無料配布されたものだが、巻頭に成立事情が書いてある。それによると以下のようである。「最近、私は、Nという人から、漢字の字体・字形と筆順についての質問を内容とした手紙をいただ」いたが、「質問の内容は、過去の事実を正しく把握していない、全く逆と考えられる理解から出ているものなので、大きなショックを受け」た。そこで、「N氏には資料を添えて返事を出し」たが、N氏の二通めの手紙のなかに「「月刊・K」という教育雑誌に連載中のものの資料にするという意味のことが書いてあり」、そこで「あえて、関係の方々にも、改めて当時の事情を正しく理解していただきた」かったので「小冊子をつくった」、と。また書名の由来は、『江守賢治国語国字研究所 研究紀要 第2輯―ホントの楷書を』(字と美出版社1998)の編輯後記に書いてあり、それによれば、貫名菘翁(ぬきなすうおう)撰文・謹書「山田公雪冤碑」の「内容と雪冤の語をもじった」ものである(p.257)、という。
 N氏というのは野崎邦臣氏、「月刊・K」というのは小学館の「教育技術」である。そのことは、『江守賢治国語国字研究所 研究紀要 第1輯―似而非楷書(似て非なる楷書)』(字と美出版社1997,2刷)のなかで明らかにされている(p.22,p.159)。なお同p.20に「平成6年のはじめ、Nという人から質問の手紙をいただき」とあるのは、「平成4年」の誤りであろう。
 同書pp.157-59には、野崎氏の二通めの手紙が掲載されており、江守氏はそこで再反論されている。

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 最近、野崎邦臣『漢字字形の問題点―併『平22、常用漢字表』追加字批判』(天来書院2013)という労作が出た。 
 「天」字に関する記述はpp.69-74に見え、野崎氏は次のように述べている。

 戦後、昭24告示の『当用漢字字体表』の天(略)は活字体の標準として上長の形で示されたが、教体はそれにこだわらず、戦前の形を引きついで、昭35までは(略)下長の形であった。
 それが昭36の教体改訂で、(略)全社そろって上長の形に改変されてしまったのである。
 これは昭36の教体改訂時、文部省初中局長名による教科書会社への通達で、[別紙]記載以外の字は昭24の『字体表』に示す形による、とした。[別紙]中に天(下長―引用者)はないから、昭36以降の教体は『字体表』通りの上長の天となったのである。
 昭和(ママ)36年の教体改訂時の代表者は、当時の文部省教科書調査官であった江守賢治氏である。氏に対しては心苦しいが、避けて通れない歴史的事実として記述させていただく。(pp.71-72)

 しかしこれに関しては、前掲『似而非楷書』で江守氏が、「江守個人は、時期的にも、職務上も、そんなこと(書写の教科書に、「天・絵・無」字などを筆写体の標準形で採用すること。「天」字の場合であれば「下長」のほうをとること―引用者)ができるはずがないことは、本文を読めばわかっていただける」(p.159)と書いている。
 また、江守氏は『雪冤の記』巻末に、「小学校で活字と同じ形で教えるのは、効率を考えた教育上の方便であり、一方、楷書を書く時には楷書の習慣に従って書くのは、小さいことではあるが、それは文化そのものである。方便で本来のものを変えてしまうのは本末転倒である」と記している。これに対して野崎氏は、『漢字字形の問題点』で、

「楷書は楷書の習慣(下長)に従って書くのは、文化そのものである。」には同感する。が、「現在の小学校では、(教科書体)活字がそうなっているという理由で、上長の天を書かせているのは効率を考えた教育上の方便であり、」それは「本末転倒である。」と、うけとられる部分については、私は賛成できない。(p.73)

と述べている。一方、江守氏は『似而非楷書』で、上の「方便で本来のものを変えてしまうのは本末転倒である」という文章について、「現在の小学校教育はそうであっても、一般の書道までそうなってはいけないと、私は言っているのである」(p.157)と辯明(辨明)しており、「小学校教育」のありかたに関して意見を異にしていることがわかる(「本末転倒」がさす内容も食い違っている)。

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 『雪冤の記』には、ほかにも興味ふかい事実が記されている。
 わたしは昨年の記事『筆順のはなし』で、

「必」の書き順のひとつ「心+ノ」(「心」を先に書き、最後にタスキをかけるようにする筆順)を歴史性や字体認識から認めない立場と、これを認める立場(原田種成氏、小林一仁氏など)とがある。

と書いたが、『雪冤の記』を読むと、江守氏はそれを「認めない立場」であることがわかる。
 しかも、たいへん興味ふかい証言が出て来る。そのまま引用しよう。

・私が教科書調査官になったのは昭和32年。それまでは、文部大臣が所有する著作権の管理という仕事をしていた。したがって、出版権設定の手続きをとるために、省内の刊行物の原稿はすべて私のところに集まってきた。
・そんなわけで、私のところに回って来た「漢字筆順指導の手びき」の原稿を見たが、その内容はずいぶん新しいものであった。小学校の先生方が主になってつくると往々にして新しいものが出来るものである。
・そこで私は、私的な立場で上野芳太郎初等教育課長に、次のa・bの字およびこれに類する字の筆順について、c・dにされてはと再検討方を申し入れた。
・その結果、aはcに変更されたが、bはそのまま変更されなかった。
・さらに「ついでながら解説の部分も書き直してほしい」との要望があって、あの大原則と原則によって説明をした部分は私が書いた。(p.7、太字は引用者)

 上の第四項、「aはcに変更された」というもののなかに、なんと、「必」字の筆順が入っているのである! それによると、もとの案は「心→必」(心にタスキをかける)だったが、現行の「ソ→必」に変更がなされたという。なお、「右」字も同様に、「一→右」から「ノ→右」に変更されている。ついでながら、「変更されなかった」もののなかには、「|→上」などが含まれている。この「上」字の筆順がきまるゆくたてについては、さきの記事で述べたとおりだ。
 また、江守賢治編ならびに著『楷書の基本100パターン』(日本習字普及協会1987)の「パターン49」にも、「必の字の形を教える時、心にたすきとか、心にくぎをうつとかいうのは、誤った筆順を教えることになる」(p.76)、と述べてある。

漢字字形の問題点ー併『平22、常用漢字表』追字批判ー

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解説 字体辞典

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楷書の基本100パターン

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漢字字体の解明 (1966年)

漢字字体の解明 (1966年)

*1:「標準字形」などと言うべきだろう。後述する江守著『雪冤の記』のp.21など。

*2:初版は1986年刊。