熊楠『南方閑話』のことなど

 六月のある雨の日、Sで南方熊楠『南方閑話』(坂本書店1926)函1,500円を購った。本山桂川の編纂にかかる「閑話叢書」というシリーズの第一巻だが、実は曰くつきの書である。
 どういう意味において「曰くつき」なのか、というと――、
 長くなるが、岡茂雄『本屋風情』(中公文庫1983)から引く。

 翁(南方熊楠―引用者)の私へのお手紙には、しばしばこれこれの原稿の出版を認めるからいくら支払え、この原稿を渡すからいくらだれに送れ、この原稿が着いたら何々を買って送れという御指示があった。原稿売り渡しというやり方である。私は印税方式になさる方がよいと、事をわけて再三進言したのだが、いっこうお聞き入れがなかった。翁は金銭にかけて小敏いかたではないどころか、きわめて執着のないかたのはずなのにと、どうしても解せなかった。私はしようがないので、ともかくもお指図に従ってはいたが、南方家の将来のためにもと、やはり印税方式を採ることとし、御指示のつど、印税の内金として記帳していた。私は性分として、原稿を買い取るという心根を、厭わしく思っていたのである。
 戦後南方ソサエティが、岡田桑三さんの肝煎りで、渋沢敬三さんを中心として生まれ、全集編集の打ち合わせ会が、渋沢仮邸で催されたとき、私が腑に落ちなかったことの一つとして、翁御生前の稿料問題について話し、当時翁に間違った入れ知恵をしたものがいたに違いない、今でも残念に思っているといったところが、同席された有力な委員の上松蓊さんが「まったく面目ないが、それはぼくだ」といわれて、面くらったことがある。上松さんのお話によると、大正十五年の春『南方随筆』上梓の少し前、S書店から『南方閑話』が出版されているが、その世話をしたM氏が、翁に届けられたものはその何冊かと金三十円だけで、もう何冊送ってくれといったら、それでは自分の手許が困ることになるといってきた。そういう事情があったあとなので、ついあのような提言をしてしまった」という意味の説明をしておられた。
 そういえば、私のところへも大正十五年五月七日のお手紙に「……最初僅カニ二部送リ来リ小生彼是申シ立テ後チ僅カニ十部送ラレ非常ニM氏ノ損分ニナルヨウナ事ヲ申来候付小生ハ此人トハ絶縁致候」とあったし、また昭和二年六月のお手紙でも「南方閑話ハ売レ行キ宜シク三十部シカ残ラヌト前々月聞及ヒ候」と、何部のうちの三十部かわからぬが、「……出板元ハ大ニ満足小生ニ多少送金セント申シ出ラレシガ、是レハMガ既ニ板元ヨリ金ヲトリアル事故一切無用ト申シヲリ候」といってきておられる。
 羹にお懲りになったとはいっても、私の進言をかたくなにお聞き入れがなく、翁にふさわしくない、常人でも憚るような、金銭上の才覚をなさるように側近者として仕向けられたことは残念であった。(「南方熊楠翁の自叙伝」pp.59-61)

 上の文章中にみえるS書店は坂本書店、M氏とあるのは本山桂川
 つまり、『南方閑話』は、熊楠と桂川とが袂をわかつ原因となった書、なのである。
(以上については、小田光雄氏が「はてブ」ですでに書かれていたことを後になって知りましたが、せっかく長々と引用したので、このままにしておきます。)

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 熊楠は結局、『南方随筆』の原稿を、「五百五十円」で売ったという(『竹馬の友へ―南方熊楠 小笠原誉至夫宛書簡』八坂書房1993.p.5,1926.3.27書簡。以下『竹馬』)。
 岡の『本屋風情』には、他にも、南方やその著作に関する記述が多々ある。
 たとえば次のような箇所。

 『南方随筆』初版の巻末に、中山太郎さんの「私の知つてゐる南方熊楠氏」という文章を収めておいたのであったが、その中に、柳田(國男―引用者)先生の語られたこととして、引き合いに出されたくだりがある。その部分の誤りを指摘して、私に寄せられた柳田先生の御書状がそれであるが、(以下略)(「南方熊楠柳田国男」p.19)

 中山と熊楠とのふたりの問題で収まるはずが、柳田へ、いわば飛び火したわけである。岡著にはこの後、問題となった中山の記述と柳田の書状での反論とが引かれている。話がこみいるので、具体的な記述はここには引かないが、柳田は岡宛て書状の冒頭で、「中山君の小生が言といふもの僅々十行内外の中に左の諸点は事実に反し居り候」(同上p.20)と書いたうえで、四点を指摘している(「僅々十行内外」、という箇所にかなりの嫌みを感じる)。
 この「事件」については、南方自身も小笠原誉至夫宛て書簡で言及している。

 此の随筆(『南方随筆』―引用者)の半ば末に、中山太郎氏が小生の伝如きものを書き添えあり。最初板本よりは小生に自己の履歴を書くべしとすゝめられ候へども、小生は人間の伝など申すものは本人が自ら書くべきものにあらずとてことはり申候。因て板本より中山氏をして東京にある小生の旧知諸人を歴訪せしめ、色々聞き取りしことをかきつゞりしなり。然るに中山といふ人無類の鉄砲の名人にて、種々虚構のこと多く、丸で根のなきことを作り出し、これは誰々が言たなどと書き立てあり。為に迷惑する人多き内に、前貴族院書記官長柳田国男亦引き会ひに出され、頗る当惑するとて小生へ警告し来り候。因て早速一部とりよせ見しに、小生大正五年肺炎を煩ひし以来酒をのまぬに、只今病人が家にある為め小生大にやせ居ると たる次(ママ)に、今日も毎日日本酒二升ビール四本のみて平気なりなどかきあり。是等は甚だ小生の面目を損することなりとて、二三の人より板元(ママ)へ抗議出たるも、小生は凡そどんな虚言にも多少基づく所ろあるものにて、小生以前酒を好みし報ひにて今もかゝることをいはるゝは、多少尤もな理屈もあり、(略)されば過去が今に報ひ来つたと思ふて小生だけ辛抱すればすむこと、それを一一改竄刪除しては板本の大損となるべければ、出板したものは出板したまゝに売らせ、第二板に至らば中山氏の文は全然取除くべしと云ふことにてけりを付け申候。(『竹馬』pp.13-14,1926.6.9書簡)

 またその11日前の書簡には、次のようにある。

 拙著南方随筆は去廿五日東京にて出板、然るにもと博文館の家庭雑誌の主筆中山太郎氏(石川角次郎氏と同じく足利の人也)が之を編纂したるにて、編纂だけに止めたらよかつた処ろ、氏が処方より聞き集めし小生の伝記の如きものを巻末に掲げたる由にて、その内に此事は誰より聞く、其事は誰が言たと、氏名を挙て書きあり、其人々の二三の輩が左様の事を言ふた覚えなしと板元(麹町区上六番町岡書院)えやりこんでゆき、板元大に閉口し、所々え正誤をすりこまんといふ騒ぎ起り、小生えも陳謝し来り候。然し既に銭を出して出板もすみ装釘も成りたるに、纔かに小生の伝記に多少の間違ひある位いのことで配本がおくるゝもへんなものにて、板元の大損失となるから、そんなことは後日何とも正誤の仕様あるべし、たゞたゞ売り出せと申しやりおき候。(『竹馬』pp.10-11)

 しかし、岡が書き遺した熊楠の姿は、それとはかなり印象が異なっている。

 (『南方随筆』―引用者)巻末に、編集者の後期というような形で、翁の概貌を中山さんに書いていただいたのだが、これが翁の激怒を買い、繰り返しお叱りをいただくことになった。鋒先は中山さんにではあったが、その流れが私に向かっていたことは、いうまでもない。(「南方翁との初対面」p.29)

 それで『南方随筆』を見てくれる人のために、人となり、閲歴、専門学等、翁の概貌を後記という形で中山太郎さんに書いていただいたのだが、それが翁の逆鱗にふれて、増刷のときに削除してしまった。(略)前述の通り中山さんの一文は、翁のきついお指図で削ることにしたのであったが、(以下略)(「南方熊楠翁の自叙伝」p.55)

 熊楠自身の「(中山の記述には)多少尤もな理屈もあり」「凡そどんな虚言にも多少基づく所ろあるものにて」「小生だけ辛抱すればすむこと」などといった書簡での書きぶりからすると、鷹揚に構えているように感じられるが、岡が上引のように強調することからすれば、相当な怒りようだったらしい。ただ、岡に直接きつく当たることはしなかったとおぼしい(そのことについては、「南方翁との初対面」全文を読まれたい)。

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 頃合いよく、中山太郎の『売笑三千年史』が先月、ちくま学芸文庫に入った。文庫版解説「中山太郎の『売笑三千年史』と歴史民俗学」を川村邦光先生が担当されていて、中山の学問的方法論が「学術的でない、ジャーナリスティックだと嫌悪され忌避された」(p.691)結果、かれが柳田門下から排除されるに至ったということが書いてあるが、その少し以前に、柳田と上のような行き違いがあったという事実は、なかなかに興味深い。

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 『南方閑話』には、以前から気になっていた「大岡越前守子裁判の話」が入っていた(pp.167-83)。そこに、「米國雜誌に此譚の事を書いた人が有る由は前記宮武氏の譯文を見て始めて知つた。然るに予は明治四十四年と六月發行の東京人類學雜誌へ、件の米人よりは多く此譚の類話を掲げ置いた」(p.173)、とある。文中の宮武氏は「宮武省三」であるが、ここには引用元が記されていない。これは佐々木喜善「大岡裁判の話」に見える、「宮武省三氏が「土の鈴」第十八輯に話された大岡越前守の裁判の話」(『佐々木喜善の昔話』宝文館出版1974:145)をさすとみて間違いないだろう。つづけて喜善は、「古く南方熊楠先生が人類学雑誌(三百号明治四十四年三月)に「西暦九世紀の支那書に載せたるシンダラ物語」と題されて、広く世界各国の類似古語の比較研究を御発表なされたことを記憶している」(同)、と書いている。この「人類学雑誌」上の文章の増補版が、「大岡越前守子裁判の話」である。
 なおこの『佐々木喜善の昔話』は、編者の山田野理夫によると、「佐々木喜善の死後本山桂川氏に拠って編集された「農民俚譚」(昭和九年刊)に単行本未収録の子供遊戯に関わる単行本未収録の(ママ)エッセイ、遠野地方の風習行事を併せて新たに編集し成った」もの(p.316)、という。
 桂川の名がここにも出て来る。ちなみに、喜善の『東奥異聞』や、中山太郎の『土俗私考』は、『南方閑話』とともに閑話叢書に入っている。

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 熊楠といえば、誰それ宛て書簡集というのが多数出ているが、実家には、『南方熊楠 平沼大三郎 往復書簡[大正十五年]』も置いてある。ちょうど1926年である。こんなとき、気になっても直ぐに参照できないのがもどかしい。

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 岡の『本屋風情』は、まず単行本(平凡社刊)から購った。五年くらい前かとおもったが、七年以上前のことであった。
 中公文庫版は、その後均一棚で拾った。

南方熊楠全集 第2巻 南方閑話・南方随筆他

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本屋風情 (1983年) (中公文庫)

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竹馬の友へ―小笠原誉至夫宛書簡 自由民権・御進講孫文関係新資料

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佐々木喜善の昔話 (1974年)

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