先日、森銑三『讀書日記』(出版科學總合研究所1981)を1,500円で入手した。谷沢永一氏はかつて、「森銑三は、知る人ぞ知る奥行のはかり知れぬ碩学」(『紙つぶて 自作自注最終版』文藝春秋2005:84,1969年10月4日付)と評したことがあるが、その「奥行」の形成過程の一斑を知ることができる。
たとえば次のようなくだりに、不審紙を貼りながら読んでいる。
十二日(昭和八年九月―引用者) 從夫(それから)以來記は萬象亭の黄表紙中或は最もよきものなり。稀書複製會本にて讀むに、幼兒が「かゝさんや、とん\/とうがらしをかつてくんねへ、おかアさん」といふところあり。江戸の子供が「おかアさん」といふこと訝かしく、夜圖書館にて原本を借りて見しに、やはり「おかアさん」とあり、ふしぎなり。圖書館本は南畝の舊藏本なり。但し識語はなし。(p.41)
森は後年、別のところでこの十八世紀末の黄表紙をふたたび目にすることとなる。
四日(昭和十三年四月―引用者) 某氏を訪ひて黄表氏(ママ)二百餘部を見る。(略)なほ萬象亭の從夫以來記あり。この作先年稀書複製會本にて讀みし時、「かゝさんや、とん\/とうがらしをかつてくんねへ、おかアさん」とある。その「おかアさん」を疑問としたりしが、今原本を見るに、またその如くにして、刻の誤にはあらず。江戸の下町にて「おかアさん」などいふ子のありしにや。(p.290)
この用例は、『日本国語大辞典【第二版】』(小学館)も拾っている。
ちなみに最近公刊された、NHK時代考証の虎の巻・大森洋平『考証要集―秘伝! MHK時代考証資料』*1(文春文庫2013)は、「おとうさん・おかあさん」の項を収め、「江戸時代に江戸京都大坂の中流以上の商家で使われたが、武家には『品がない』と見られていた」(p.62)云々と、大野敏明『知って合点 江戸ことば』などを引きつつ書いている。以前、渡辺邦男『蛇姫様』(1959)を観ていると、市川雷蔵が「お父さん」を連呼する場面があって若干違和感をおぼえたが、あり得ない話ではなさそうだ。
また『讀書日記』には、こんな記述も見える。
三十日(昭和八年十一月―引用者) 遊子方言を讀む。「ぐいづくり、はやく出し」「飲みかけ山」などいふ語すでに見えたり。東洲にトウジウと振假名あり。蘭洲、橘洲なども洲は濁りて讀みし如し。(p.57)
そのほかに、こういう記述も。
一日(昭和九年六月―引用者) 年號の讀み方にはなほ明ならざるが多し。山田孝雄博士、假名にて年號を書きたる資料を努めて搜索せらるゝよし、嘗て直接聞きしことあり。今日小野直方の略日記を見るに、その寛延四年十一月三日の條に、「年號改元寶暦今朝總出仕有之、改元被仰出、於席之老中申渡之。明日布衣以上恐悦出仕。京都は先月廿八日に改元被仰出之」とありて、暦字に特にリヤクと振假名せり。こゝに寶暦をホウリヤクと讀ませし一證左を得たり。元暦のゲンリヤクは明かなれど、明暦はメイレキなりしが如し。建武はケンブともまたケンムとも兩樣に書きしものあるよし、山田博士の話なりき。(p.110)
山田は、昭和二十五年に『年號讀方考證稿』(寶文館出版)を刊行することとなる。
しかし、山田と森とが直接会ったのは、たった一度きりのことであったらしい。後年の森の回想には以下のようにある。
その年(判然しないが、昭和四年頃のことかとおもわれる―引用者)の夏の炎暑の日だつたと思ふ。翁(濱野知三郎―引用者)は古くからの友人だつた山田孝雄博士を、(静嘉堂―引用者)文庫へ同道して来られ、博士も一日中あれこれと調べ物をせられたのだつたが、この本は一目見れば済むのだから、書庫の中で、ちよつとだけ見せて貰ひたい、との希望で、庫員の飯田良平さんの案内で、書庫を一巡せられた。それに私も附いて行つて、初めて同文庫の書庫を見た。
書庫の中で博士は、古版本の『宝物集』の題簽に『ほうぶつ集』とあるのを見て、私の考へてゐた通りだつた。これはホウブツ集と読むのが正しい、といはれた。それから持参せられた『和漢朗詠集』と、文庫本の古写本のそれとを、ただ一二箇所だけつき合せられた。その時持つて来られた『朗詠集』といふのが、木版の大字の版本を一行ごとに切つて、行間を明けて、白紙の冊子に貼り直されたもので、書入れが十分に出来るやうにしてあつた。私はそれを余所ながら見て、博士の研究のいかに綿密な調査の上に打立てられてゐるかを知つて、畏敬の思を深くした。
その日の帰り、私は文庫から玉川電車の停留所へ出る、用水に沿うた、やや長い一筋道を、博士からいろいろ話を聴きながら帰つた。人の名前を音読するのは、寧ろ敬意を表することになるので、定家をテイカと音読するのはいい。定家自身は、私はサダイヘです、といふのが当然で、私はテイカですとはいはない。博士はそんな話をせられた。それから、「光」の字を、名乗ではミツと読ませる。光は天地の間にミツルからだ*2。名乗の場合の読ませ方にも、それぞれに意味がある。博士はさうしたこともいはれた。さやうな話を聴きながら歩いた二三十分間が、私には楽しい思出となつてゐる。山田博士に私のお目にかかつたのは、それが最初の最後であつた。(『思ひ出すことども』中央公論社1975:127-28)
従って、前掲の日記に「假名にて年號を書きたる資料を努めて搜索せらるゝよし、嘗て直接聞きし」云々とあるのは、まさにこのときの出来事ということになる。
さて森の『讀書日記』は、もともと「日本及日本人」や「日本古書通信」に連載されていたものであるが、中央公論社刊の『森銑三著作集』(正篇)には収められなかったので、単行本はその補遺として刊行された。しかし、平成四年十月から刊行された続篇(全十六巻。別巻一。中央公論社)には収められた。
同書について、山野博史氏は以下の如く述べている。
「読書日記」(昭56・2、出版科学総合研究所。続編第十四巻所収)をひもとけば一目瞭然、森銑三にも、内に激することがあって、その鬱屈をこらえきれぬ時期があったようだ(「森銑三がかえってきた」『本は異なもの味なもの』潮出版社1996:初出「月刊Asahi」1993.1.1)
【補】(12/9)
森銑三は『明治東京逸聞史』に次のように記しているという。(田中章夫『日本語雑記帳』岩波新書2012、49ペから孫引きしておく。)
文部省でオトウサン、オカアサンと呼ばせるようにしたのは、明治三十七年からのことだったと思うが、このオトウサン、オカアサンには、私などは、なじまれなかった。
【さらに補】(12/13)
川瀬一馬「麒麟森さん―森銑三兄追憶」(『随筆 蝸牛』中公文庫1991所収)に、以下の如くあった。
森さんが古書通信に「読書日記」を連載していたので、私も張り合って「書誌学」誌に書けと言われて「読書観籍目録」を昭和八年から四年間程執筆したことがある。後になって見ると、年少気鋭、最も勢力旺盛に研究活動をしていた最中の有様を記録に証(あか)しした結果になって、これも書き残しておいてよかったと感じている。森さんのお蔭というものであろう。(p.326)
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