沼本克明『濁点の源流を探る』

 最近おもしろく読んだ本のうちの一冊が、沼本克明『歴史の彼方に隠された 濁点の源流を探る―附・半濁点の源流―』(汲古書院2013)。タイトルの「歴史の彼方に隠された」だとか、「はじめに」の「日本人の脳の形質の柔軟性」(p.4)だとか、なんとなく「と」の匂いを嗅ぎ取ってしまう向きもあるかもしれないが、実は高度な入門書であり、たいへんスリリングな読みものに仕上がっている。しかし、内容が専門的だということもあり、おそらく一般紙誌の書評などでは紹介される機会が少ないかとおもわれるので、ここに紹介しておきたい。
 沼本先生の御著書としては、『日本漢字音の歴史』(東京堂出版)や「日本語の語源と呉音・漢音」(吉田金彦編『日本語の語源を学ぶ人のために』世界思想社)につづく一般向けの論考であり、「安田女子大学大学院の日本語学講義資料として作成したものを基礎にしてなったもの」(「あとがき」p.279)というから、話の流れも分りやすい。
 まずは円仁の悉曇学から説き起こされ、【補説】のなかでも、「平安初期の学習が始まった時点で既に潜在的五十音図は成立していた」(p.73)*1、「外来語としての中国語、梵語の仮名表記は、その重点が梵語によりかかって試行錯誤が行われて来た」が、「梵語音では合拗音は出現しない」ために「(合拗音の―引用者)仮名表記の工夫が遅れたのだという解釈が成り立つ」(p.76)*2などといった知見が披露されるので、うっかり読み飛ばせない。
 最終的には、訓点資料の濁声点*3から濁点への転換過程を、「1濁音卓立、2声調標示弛緩、3声調標示放棄、4右側移行、5仮名右肩定着」(pp.201-02)の五段階*4に分けて論じられている。また全体を貫くのは、梵語資料(天台、真言密教が中心)を対音資料として活用しようとする態度で、濁点の成立は悉曇学の影響によるものであった、と明快に結論している。なお、濁点の位置が右肩に定着したことに関しては、小松英雄先生の所論*5に対して、「梵語・漢語の加点資料」を精査された上で(1)漢語アクセントの和語アクセント化*6、(2)謡曲譜本が声明資料の記譜法の影響を受けたこと*7、という二つの側面からの説明を試みておられる。
 ところで、本書の「はしがき」で沼本先生は、「本書の記述には専門用語が説明無しに多数使用されている。広く教養的・入門的な書物を意図したものとしては矛盾しているが、今日インターネットの検索エンジンの利用によって随時基礎的な用語の理解が誰にでも可能である状況を前提として、紙面の縮小を優先したものと理解されたい」(ii)と書かれている。望蜀の嘆なのかもしれないが、それでもなお、もう少し噛み砕いた説明が欲しいと、門外漢として感じた点が無くはなかった。「節博士」について述べられたくだりもそうであるし、淳祐内供(890-952)音注(仮名音注)『悉曇十二章』(石山寺蔵、脚注参照)が、梵語caを「左」、saを「沙」という漢字で表記して破擦音c-系・摩擦音s-系を区別していることから、「この時期の日本語のサ行子音が破擦音〔tʃ-〕であった可能性を示唆」している(p.71)と述べられた箇所もそうだ。サ行子音の音価は諸説紛紛としているはず*8で、沼本先生が口蓋性子音を採られた理由が判然しない。
 それから、附章「半濁点はどのようにして出来たか」では、文化年間の式亭三馬浮世風呂』において「か」「き」「く」などの右肩に「○○」が附されているのを、坂梨隆三「三馬の白圏(しろきにごり)について」に従い、「通説の「g-」ではなく、「ŋ-」という鼻にかかった音を示したものである」(p.225)と述べておられるのだが、これもおやと思ったのは、鈴木功眞「表記史」(木田章義編『国語史を学ぶ人のために』世界思想社2013)が、沼本克明(1997)『日本漢字音の歴史的研究』を参照しつつ「式亭三馬は一八〇九年刊『浮世風呂』で田舎ことばの[ga]行音を「しろきにごり」と称」する(p.52)と書いていたからだ。沼本(1997)の当該箇所は未読なのだが、その後見解を変えられたということなのであろうか*9。これについての説明も欲しい所である。

    • -

 か行鼻濁音を圏点「○」によって示した辞書としては、『明解国語辞典【改訂版】』がある。小学生の時分、見慣れない表記に困惑したことをおもい出す。
 編者(著者といってもよい)の見坊豪紀は『辞書と日本語』(玉川選書1977)で、「見出しについてはが行鼻音(いわゆる鼻濁音)を示すために(略)濁点の代わりに半濁点をつけることを考えた」(p.74)と、恰も初版からそうであったかのように述べているのだけれども、上述の如く改訂版からで、これについて武藤康史先生は「記憶違いであろう」(「『明解』系国語辞書六十年小史」、柴田武監修/武藤康史編『明解物語』三省堂2001:40)と述べておられる。

    • -

 見坊豪紀ほか編『三省堂国語辞典【第七版】』(三省堂)が出た。これが年末に出るということは、編集に携わった飯間浩明先生が、『辞書を編む』(光文社新書2013)の中で予告されていた(p.22)。いま、第七版を入手して、気のおもむくままに読んでいる。最後の項目の表記を「んーん」(以前は「んんん」であった)と改めたのも、今回の改訂版からとのこと(飯間前掲p.131)。

歴史の彼方に隠された濁点の源流を探る―附・半濁点の源流

歴史の彼方に隠された濁点の源流を探る―附・半濁点の源流

国語史を学ぶ人のために

国語史を学ぶ人のために

明解物語

明解物語

辞書を編む (光文社新書)

辞書を編む (光文社新書)

三省堂国語辞典 第七版

三省堂国語辞典 第七版

*1:(東寺蔵『悉曇章』が祖本かと思しい)淳祐内供(890-952)音注(仮名音注)『悉曇十二章』(石山寺蔵)中の「摩多」「体文」の順序に従って、日本語の音韻体系の側から重複のないようにその仮名群を排列してゆくと、(「ズ」の仮名が欠けている、濁音「デ」が「泥」という濁音仮名で宛てられるという点を除けば)現在の五十音図が出来上がるということである。詳細は本書参照。

*2:合拗音の仮名表記(ex.「クワ」「クヰ」など)の成立が開拗音のそれ(ex.「シヤ」「シユ」など)に比してかなり遅れた、という事実について述べられたくだり。

*3:濁音であることと声調とを一元的に示す加点。

*4:この流れのなかに、漢音直読資料の東寺金剛蔵蔵本『佛母大孔雀明王經』(室町期1500加点)を置いてみると、巧く解釈できる(pp.198-99)のがまた面白い。

*5:小松先生は「和訓資料」をもとにして、日本語は高低の相対アクセントだから、上声点(高平調、文字の左肩に差される)・平声点(低平調、文字の左下に差される)のみの表示で事足りると述べ、従って右肩(去声点の位置)が「すきま」となっており、濁点の位置が右肩に落ち着いたと説いた。このことは、沼本著で参照される「声点の分布とその機能」(『日本声調史論考』所収論文)のほか、後の『日本語の音韻』でも説かれていたと記憶する。

*6:漢語アクセントの「去声+去声」(去声=上昇調)は、(日本語に取り入れた際に四音節で実現されるものを例にとれば)「○●○●」(○=低、●=高)、「上声+去声」は「●●○●」となるはずだが、この型のものは当時の畿内アクセントに存在しなかったために避けられた。次いで、尾高型のものが頭高型に変化するなどした。後者の現象を、伝統的には「出合(いであい)」という。これは、和語アクセントの体系的変化が漢語アクセントを巻き込んだ現象とも解釈出来る。詳しくは本書参看。なお、以上に挙げた中古音声調の調値は、金田一春彦(1951)「日本四声古義」の推定によった。これは著作集第九巻(玉川大学出版部2005)に収めるほか、『日本語音韻音調史』(吉川弘文館2001)でも読める。この説は、高山倫明(1981)「原音声調から観た日本書紀音仮名表記試論」(『日本語音韻史の研究』ひつじ書房2012では概説的に説かれている)などによって裏付けられたにも拘らず、何故か、漢語音韻学の方面で必ずしも参照される訣ではない。

*7:世阿弥謡曲譜本は「節博士」加点(旋律の型を示す加点)資料であり、その節博士が声調標示となるため、濁点が必ずしも声点を兼ねる必要がない、という事情があった。

*8:たとえば有坂秀世(1936)「上代に於けるサ行の子音」(『國語音韻史の研究 増補新版』三省堂1957所収)は、「サ」の子音について「梵語には c 即ち〔tʃ〕の音は有つても〔ts〕の音は無いのであるから、假に往時サの頭音が〔ts〕であつたとしても、サは五十音圖では當然梵音 ca 相當の位置に配せられるより外には道が無い」(p.151)と述べ、日本語・中国語の方音を参照しつつ非口蓋性の〔ts〕に比定した。さらに、上代の「シ」「セ」の子音については(破擦音ではなく)摩擦音と推定し、口蓋性子音を有する可能性もあった、とする。また木田章義「音韻史」(木田章義編『国語史を学ぶ人のために』世界思想社2013)によれば、「サ」「ス」「ソ」の子音を〔ts〕、「シ」「セ」の子音を〔tʃ〕と推定する説もあるというし、「語頭では破擦音、語中・語尾では摩擦音」とする小倉肇説などもある由(p.115)。

*9:ちなみに、「せ」の右肩に圏点「○」を附したものの音価に関しては、坂梨隆三「「せ」について」https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/nichibun42-02.pdfがあり、坂梨説〔tse〕:沼本説〔tʃe〕の如く、お二方は見解を異にしている。また、「か」に圏点を附したものがいわゆる鼻濁音を表す(かも知れない?)ことについては、三馬が「自分で発明した」(山口謠司『てんてん』角川選書2012:171など)と書くものもある。また沼本著も述べるとおり、安政六年〜万延二年の『獄中記』には、「○」一個を用いた鼻濁音表示が見られるという(川本栄一郎先生の論考による報告)。さらに「ガ行鼻濁音」は、明治以降にしばしば「半濁音」と呼ばれたようであり、それに関しては(江戸期にそれらを「半濁」と呼んだ資料がなぜ見出しにくいか、という理由についても、疑母の音韻変化を挙げて解釈されている)、岡島昭浩先生の「半濁音名義考」http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/PDF/han2.pdfを参照のこと。(※この注釈は、岡田一祐氏の指摘によって書き改めました。「「○」で鼻濁音を示した実例の最も古いものは(略)『獄中記』であろう」という沼本先生の記述に引きずられ、『浮世風呂』よりも『獄中記』の成立年次のほうが古いというような書きかたになっておりました。12月14日記)