『三酔人経綸問答』のスタイル

 桑原武夫・島田虔次訳・校注『中江兆民 三酔人経綸問答』(岩波文庫)の現代語訳に、「ところが明白な手本があったのに、よう手本とせず、前の車がひっくり返っているのに、後の車がなんの反省もなく進みました」(p.18。原文はp.125「唯其れ烱然たる鑒戒有りて、猶ほ鑒戒することを知らず、前車覆へりて、後車進めり」)という箇所がある。「よう…しない」という表現については、かつてこのエントリで触れたことがある。ここもやはり、桑原が訳出した部分なのであろう。
 さて、上に引用した発言は「洋学紳士」によるものである。『三酔人経綸問答』には、そのほかに「南海先生」と「豪傑君」とが登場する。同書は、その三人が行った国家の経綸問答を第四の人物が本にまとめたもの、という設定になっている。南海先生は兆民自身、洋学紳士は馬場辰猪あるいは幸徳秋水、豪傑君は宮崎滔天北一輝に比定されるが、定説はないようである。三者とも兆民の思想の一部を体現しているという説もある。
 この問答形式は、「解説」(桑原)によると、司馬相如『子虚賦』『上林賦』や班固『両都賦』、弘法大師三教指帰』に触発されたものであろう(p.261)、ということになる。
 また、小島憲之『漢語逍遥』(岩波書店1998)の第1部第4章「中江兆民の漢語」第二節「『除非』のあととさきと」(pp.106-37)は、問答形式の典型を必ずしも『文選』「両都賦」や『三教指帰』に限定せずともよかろう、と述べたうえで、『弘明集』の「牟子理惑」「釈駁論」、『広弘明集』の「通極論」「二教論」などを挙げている(もっとも小島先生の興味は、『三酔人経綸問答』の手法云々ということよりも、兆民の使用した「除非」という語の淵源を索めることにある)。
 しかし鶴見太郎氏によれば、『三酔人経綸問答』は、密教系の仏教法論から幕末維新期の啓蒙思想家へと至る「問答体」とは次の点で異なっているという。すなわち、(1)「一人の台詞が長いばかりでなく、相手の問いに対して簡潔に答えるという問答の形式をはなれ、答えの中に自身の政治観、外交的ヴィジョンを含ませる発言を行」っていることと、(2)「相手の発言を受けて持論を展開する時、そこに相手の意見に対する感化の跡があるという形跡は少な」く、「登場人物のいずれかの論が最終的に優勢となり完結する、という終わり方ではない」こととである。鶴見氏は、むしろそこに「座談」の性格を見て取る(『座談の思想』新潮選書2013:32-33)。
 さらに斬新な説を提示しているのが、鹿島茂『ドーダの近代史』(朝日新聞社2007)である。鹿島氏は、『三酔人経綸問答』のスタイルは「中江兆民がフランスでバカロレアの予備校に通ううちに仕込まれた思考形式そのもの」=「ディセルタシオン(課題論文)」(p.315)だと述べている。つまり、「ウイで答えるにしろ、ノンで答えるにしろ、まず両者の立場を検討し、互いに批判させてから、しかる後に、両者がともに同じ前提に立っているがゆえに等価であり、同じ穴のムジナだと切り捨てて、両者を根底から止揚するような第三の観点を提起するのがベストとされる」(pp.314-15)という様な思考形式のことである(なお鹿島氏は、内容面においても、豪傑君の主張する対外膨脹論にマキャヴェリ思想の影響を見いだすなどしている)。

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 兆民といえば、清張好きの私としては、『火の虚舟』を想起する。ついこの間まで「ちくま文庫」版が出ていたが、すでに品切れ重版未定だそうである。

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 兆民の壮絶な最期(食道癌で死去。享年五十五)については、立川昭二『明治医事往来』(講談社学術文庫2013)pp.305-08 を参照のこと。
【補】(3/13記す)
 『三酔人経綸問答』が、なんと鶴ヶ谷真一氏の訳文で出た(光文社古典新訳文庫)。原文や解説(山田博雄氏)も収める。「訳者あとがき」には、「たとえば洋学紳士が自説への反論として展開した一節(本文五九ページ以下を参照)にじっと耳をすましているうちに、かつてよく耳にしたしたたかな老人の口調が重なってきて、原文をやや逸脱したことをお許し願いたい」(p.312)とある。鶴ヶ谷氏のあらたな訳文で読み直すのが楽しみだ。
 また最近、大井正/寺沢恒信『世界十五大哲学』(原本は富士書店1962刊)が、「復刊に寄せて」(佐藤優氏)を附して刊行された(PHP文庫)。この「十五大」のなかに、わが国からは唯一、中江兆民が選ばれていることを附記しておく。

三酔人経綸問答 (岩波文庫)

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漢語逍遥

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座談の思想 (新潮選書)

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ドーダの近代史

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火の虚舟 (ちくま文庫)

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